6月24日(水)午後。ちょっと出かけた帰りに、大江戸線「麻布十番」駅で途中下車して、さっそく坂道探索と。「永坂」から少し西へ入って、それから南に下って、と時間もないが、ぐるりと回ってみようという魂胆。
が、「元麻布3丁目」にある「中国大使館」付近はものものしい警戒。またしても四方八方「見附」。その周囲には坂もありますが、交通規制が始まるやら、道路には機動隊が昔懐かしい(?)ジュラルミンの盾を脇に置いての警戒・誘導。手持ちの地図を見ながらうろうろしましたが、結局、その付近には行けませんでした。
だから、きわめて中途半端な「坂」探索。
「麻布十番」駅の長い階段を上がって地上に。「外苑東通り」(「青山一丁目」付近で分岐)を西に向かうと、「鳥居坂下」の交差点(「外苑東通り」は二本あるのか? )。この坂を上ることから開始。
坂下の標識。
鳥居坂
江戸時代なかばまで坂の東側に大名鳥居家の屋敷があった。元禄年間(1688~1703)ごろ開かれた道である。
坂の途中から坂下を望む。
港区指定文化財 名勝 旧岩崎庭園
現在の国際文化会館の庭園の前身は、昭和4年(1929)に三菱の四代目当主岩崎小彌太(1879‐1945)が建設した岩崎家鳥居坂本邸の庭園で、京都の造園家「植治〈うえじ〉」の小川治兵衛の作庭によるものでした。「植治」の歴代当主小川治兵衛は数多くの庭園を作庭しており、近代日本庭園作庭の先駆者として著名です。
本庭園は、崖に面した南側と鳥居坂に面した東側に植栽が施され、その内側に池を設けた池泉回遊式の日本庭園であり、入り口部の岩組なども優れています。また、昭和5年(1930)の「東京市麻布区鳥居坂町 岩崎邸実測平面図」と比較しても、作庭当初の姿を大筋において残していることがわかります。
岩崎邸は昭和20年5月の空襲で焼失し、その後、昭和30年には国際文化会館が建設されました。この建物は前川國男・吉村順三・坂倉準三の共同設計による戦後日本の優れた建築の一つですが、旧岩崎邸の庭園との調和を最大限に考慮する姿勢が認められますす。
本庭園は、近代日本庭園として優れたものであるとともに、国際文化会館と調和した景観を創り出している点からも高く評価されます。
平成17年10月25日 港区教育委員会
(写真は、HPより)
1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)
江戸時代のこの地には多度津藩京極家(1万石)の屋敷がありましたが、明治時代に入り、井上馨の屋敷となりました。上の『五千分ノ一東京図』に見える「井上(馨)邸」がのちの旧岩崎邸で、現「国際文化会館」の敷地。
坂の途中の左の屋敷跡には、赤レンガの塀が現存しています。 その向かい側が現「東洋英和女学院」の敷地。南北に延びる坂道は、左が「鳥居坂」、右が「永坂」。その間にある「潮見坂」「於多福坂」なども確認できます。
遠方に「六本木ヒルズ」。
なお、「鳥居坂」については、
《鳥居坂ものがたり - 港区「www.city.minato.tokyo.jp/azabuchikusei/mirai/.../01_roppongi02.pdf」》に過去の歴史や写真と現在のようすが詳細に記されています。
坂を下り、途中から東(左)に入ります。
この先のカギ型に下りる坂が「潮見坂」のようですが、沿道の工事中でトラックで道路が占拠されているので、その間を下って行きます(写真は撮れず)。その先が「於多福坂」。
於多福坂
坂の傾斜が途中でいったんゆるやかになってまた下ったので、顔のまん中の低いお多福面のようだと名づけられた。
坂下から。 坂上から。
坂上にある標識。正面左手が「フィリピン大使館」。
突き当たりを左に折れて、再び「鳥居坂」へ。下校中の制服姿の女子小学生達(低学年)の間を縫いながら、そのまま南に下って「外苑東通り」を越えます。「外苑東通り」の北側が「麻布台」、通りの南側は「元麻布」付近の坂道となります。
大通りを越すと、正面の上り坂が「暗闇坂」。
暗闇坂
樹木が暗いほどおい茂った坂であったという。以前の宮村(町)を通るため宮村坂ともいった。
今でも右側は高い崖で、木が覆い被さるように茂っているところがあります。南へ曲がりながら上る急な坂道で、上る車の通りもけっこうある道です。途中、左手に「オーストリア大使館」があります。坂上で、「大黒坂」、「一本松坂」と交わります。
坂の途中から坂下を望む。 坂上の標識。
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