上がって右に折れ、突き当たりを右折すると、「歌坂」。
歌坂(うたさか)
雅楽(うた)坂ともいう。一説には「善告鳥(うとう)(海鳥の一種)」の口ばしに似た地形であることからともいう。「うとう」が「うた」になり、歌坂に転じたものであろう。
この付近、坂下の外濠沿いを船河原といった・・・。その岸に望む坂であった。王子のウトウ坂(大坂)が、坂下を岸町と呼ぶのと同じ地形的状況からこの歌坂も古くはアイヌ語のウタ(ウトウと同義で、突端とか出崎という意味)から着ているという説が信憑性をもってくる。・・・古い坂名と思われる。(石川悌二「江戸東京坂道事典」より)
西南に下る坂道。法政大学の校舎が左手に。
「歌坂」を上って、道なりに左折、突き当たりを右に進みます。左手に瀟洒な和風の建物。
「朝霞荘」。建築家・故黒川紀章さんの作品。
閑静な住宅街の一画にあり、周囲の環境に調和するように設計され、「損保ジャパン」の厚生施設となっています。
右手に下る坂が、「逢坂」。
逢坂(おうさか)
昔、小野美作吾という人が武蔵守となり、この地に来た時、美しい娘と恋仲になり、のち都に帰って没したが、娘の夢によりこの坂で再び逢ったという伝説に因み、逢坂とよばれるようになった。
これも石川悌二さんの前掲書によって詳述します。
『紫の一本』はこの坂にまつわる次のような古い伝説をのせている。むかし、奈良朝のころに小野美佐吾という人が武蔵守となって都からこの地に赴任し、「さねかづら」という美女に逢って相愛の仲となったが、やがて都から帰還の命令がきたために心を残して戻っていった。けれども男の「さねかづら」への思慕はつのるばかりで、やがて病没した。
そして男の魂は女の夢枕に立って、彼女をこの坂上によび寄せて再開したのだという。植物のサネカズラは、モクレン科の常緑蔓性灌木で、一名ビナンカズラともよばれるので、「美男坂」という坂名はこのサネカズラから転じたものであろう。
ここでは、奈良時代となっていますので、万葉集の時代。こうした逸話はもちろん、小野美佐吾の歌はありませんが。
玉くしげみむろの山のさな葛
さ寝ずはつひにありかつましじ
藤原 卿
《万葉集巻二―94》
万葉集にはサネカズラを詠んだ歌が10首ある。この鎌足の歌もその1つである。「玉くしげ」はみむろの山(今の三輪山)の枕詞。「さな葛」はサネカズラのことで、「さ寝ずは」のさ寝をおこす序となっている。「ありかつましじ」のありは今の状態でいること、ましじは「ないであろう」の意である。
歌は「三輪山のサネカズラのように、あなたと一緒に寝ないでは今のように生き続けることはできないであろう」という意味である。鏡王女が鎌足に贈った歌にたいする鎌足の返歌である。
サネカズラは図鑑などでは関東以南に多い常緑蔓性の木本植物とされているが、実際には福島県浜通りの海岸沿いを点々と北上し、仙台市まで分布する。枝はいくつにも分かれてもつれあう。その様を男女がむつみあっているようにみて「サネカズラのように」と詠んだのである。ストレートでしかも露骨な表現で好きになれないが、万葉研究者たちは「開放的で率直な表現である」などとほめている。また、サネカズラの枝は2つに分かれた後、先の方でまた2本が絡み合うことから、「後でまた逢う」の意にも用いられている。次の人麻呂の歌はその例である。
さね葛のちも逢はむと夢のみに
うけひわたりて年は経につつ
柿本人麻呂
《万葉集巻十一―2479》
「あなたに後でまた出合おうと夢みつつ、年だけがたっていく」という意である。鎌足の歌に比べずっと品の良い歌と思う。
本種の分布からいえば福島県は北限に近いが、松川浦の砂洲のクロマツ林床には多産する。夏に葉腋に一個の淡黄白色花をつけ、秋に赤熱する。
別名ビナンカズラは枝皮の粘液を水に溶かし頭髪を整えたことからきている。美男になったかどうかは定かでない。
(「ふくしまの植物たち 福島県文化振興財団」「www.culture.fks.ed.jp/b_fk/shokubutsu/syokubutu.../setumei_p011.htm」HPより)
よく知られている「さねかずら」は、百人一首の歌でしょう。
名にし負はば逢坂山のさねかずら 人に知られで来るよしもがな 三条右大臣
歌意
逢坂山のさねかづらではないが、そのさねかづらをたぐり寄せるように、人に知られずにこっそりとあなたと逢う方法があればいいのだが・・・。
「逢(坂山)」と「逢う」、「さねかづら」と「小寝(さね)」、「来る」と「繰る」(たぐり寄せる)という掛詞や縁語が巧みに用いられています。
(「Wikipedia」より)
そのまま下って行くと「外堀通り」に出ます。その途中にあるのが、「築土神社」。「掘兼(ほりかね)の井」の説明板。
史跡 掘兼の井(ほりかねのい) 新宿区市谷船河原町9番地
掘兼の井とは「掘りかねる」の意からきており、掘っても掘ってもなかなか水が出ないため、皆が苦労してやっと掘った井戸という意味である。堀兼の井戸の名は、ほかの土地にもあるが、市谷船河原町の堀兼の井には次のような伝説がある。
昔、妻に先立たれた男が息子と二人で暮らしていた。男が後妻を迎えると、後妻は息子をひどくいじめた。ところが、しだいにこの男も後妻と一緒に息子をいじめるようになり、いたずらをしないように言って庭先に井戸を掘らせた。息子は朝から晩まで素手で井戸を掘ったが水は出ず、とうとう精魂つきて死んでしまったという。
平成3年11月 新宿区教育委員会
なかなかすさまじい「いじめ」の話を載せてあります。「掘兼の井」は、全国にあるようですが、一般的には「まいまいず井戸」と称されているらしい。
「まいまいず井戸」とはかつて武蔵野台地で数多く掘られた井戸の一種で、地表面をすり鉢状に掘り下げ、すり鉢の底の部分から更に垂直の井戸を掘った構造である。すり鉢の内壁に当たる部分には螺旋状の小径が設けられており、利用者はここを通って地表面から底部の垂直の井戸に向かう。
「まいまい」はカタツムリの事で、井戸の形がその殻に似ている事から「まいまいず井戸」と呼ばれる。「まいまいず井戸」は既に古代から存在し、武蔵野の歌枕として知られる「ほりかねの井」(堀兼之井、堀難井之井)がこれを指すものと見られる。
いかでかと思ふ心は堀かねの井よりも猶ぞ深さまされる(伊勢)
はるばると思ひこそやれ武蔵野の ほりかねの井に野草あるてふ(紀貫之)
武蔵野の堀兼の井もあるものを うれしや水の近づきにけり(藤原俊成)
汲みてしる人もありけんおのずから 堀兼の井のそこのこころを(西行)
井はほりかねの井。玉ノ井。走井は逢坂なるがをかしきなり。(『枕草子』 清少納言)
など、和歌や文学作品に多数登場する。埼玉県狭山市堀兼に「堀兼之井」の旧跡が現存するが、「ほりかねの井」という言葉が、特定の井戸を指すものかどうかについては不詳である。「まいまいず井戸」全般を指す一般名詞とも考えられ、「まいまいず井戸」は武蔵野を象徴するものとして平安時代の都人にまで知られていたようである。江戸時代には「まいまいず井戸」に関する考証が盛んに行われたが、江戸時代後期に編纂された『新編武蔵風土記稿』には「『ほりかねの井』と称する井戸跡は各地にあり、特定の井戸のことと定めるのは難しい」との記述がある。
こうした独特の構造の井戸が掘られた背景には、武蔵野台地特有の地質学的背景がある。武蔵野台地は多摩川によって形成された扇状地であり、武蔵野台地には脆い砂礫層の上に更に火山灰の層があるため、特に国分寺崖線から上は地表面から地下水脈までの距離が長い。従って武蔵野台地では他の地域よりも深い井戸を掘らなければ地下水脈に達しないにも拘らず、地層が脆いために地下水脈まで垂直な井戸を掘ることが出来ない時代が長かったのである。そこで、一旦地表面からすり鉢状に地面を掘り下げて砂礫層の下の粘土層を露出させ、そこから改めて垂直の井戸を掘って地下水脈に至るという手段が採用された。一般の井戸に比べてこのような「掘り難い」方法によって掘られた井戸が「まいまいず井戸」である。
(以上、「Wikipedia」参照)
かつて行ったことがある「まいまいず井戸」=「掘兼の井」。JR羽村駅北口にありました。
二回りして井戸に着く、そのくるくる回る道をかたつむりになぞらえたという説明文がありました。
かなり困難な井戸掘り作業であったことが分かります。
町名に注目! 「船河原町(町会)」とあります。
地形的に(外堀があるので)こういう町名になったと思いましたが、実は、
船河原町はもともと江戸城内の平河村付近(現 ・千代田区大手町周辺)にあったが、1589年江戸城拡張の際、氏神の築土神社と共に牛込見附(現JR飯田橋駅)付近へ移転。さらに1616年築土神社が筑土八幡町に移転後、同町も筑土八幡町近くの現在地へ移転した(平凡社 『郷土歴史大事典』参照)。ところが戦後、築土神社は千代田区九段に移転。他方で船河原町は現在地に留まったことから、地理的に神社から最も遠い氏子となってしまった。そこでここに飛地社を建て、築土神社の氏子であることを冠したものと思われる。
(この項「」HPより)
いずれにしてもこの辺りの地名や史跡、坂名には一筋縄ではいかない、いわく・因縁があるようです。
坂の途中から見上げる。
坂下にある標識。
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