おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

阿衡坂。奴坂。薬園坂。釣堀坂。絶江坂。・・・(南麻布の坂。その2。)

2015-09-05 20:16:18 | 都内の坂めぐり

 新坂を上りきると、坂上は十字路。そこを右に折れると、ゆるやかな下り坂となり、「本村小学校」前へ。その坂が、「阿衡坂」。この坂には標識が見当たりませんが、横関英一著「江戸の坂 東京の坂」(ちくま学芸文庫)に詳細に記されています。

 ・・・この辺は、昔の(麻布)白金御殿の一部であって、かつての保科肥後守の下屋敷があったところである。・・・阿衡とは、天子の補佐たる摂政または宰相の異称である。ここではもちろん、徳川将軍の補佐役という意味であろう。そして、ここの保科肥後守が、その阿衡なのである。保科肥後守は、もちろん保科肥後守正之のことである。・・・二代将軍秀忠の実子で、三代家光につかえ、四代家綱の摂政の仕事をつとめた。・・・(子の)正容は五代綱吉に信頼され、六代家宣、七代家継につかえたのである。保科肥後守は、父子共に侍従となり、将軍のおそば近くにあって、まことにりっぱな阿衡であったというべきである。・・・「アコウサカ」は、保科肥後守の下屋敷脇の坂なので、その名を、阿衡坂と呼んだのであろう。

(「同書」P319)

「阿衡坂」。西を望む。

 なお、「本村小学校」の東奥には、「衆楽園」という釣り堀があるそうです。後に出てくる「釣堀坂」とは少し位置がずれていますが。

 さて、「阿衡坂」を進むと、道は急な下りになり、今度は急な坂を上って行きます。この坂は「奴坂」と呼ばれているようです。

 以前は以下のような標識があったらしいですが、見当たりませんでした。

奴坂
 竹が谷の小坂で谷小坂、薬王坂のなまりでやつこう坂、奴が付近に多く住んでいた坂の三説がある。(「東京23区の坂道」HPより)

「奴坂」。坂上より望む。

両側の住宅を縫うようにして進む。右手は「本村公園」。

 「奴坂」を上り、突き当たりを右折します。「ドムス南麻布」のところで道は二手に分かれますが、右に行くと、「薬園坂」、左に行くと「絶江坂」へ。まず、右手に進みます。

    
                           薬園坂
 江戸時代前期、坂上の西側に幕府の御薬園(薬草栽培所、小石川植物園の前身)があった。なまって役人坂、役員坂と呼ぶ。

 「小石川植物園」とこことはそうとう場所が離れていますが、そのいきさつは

・・・貞享元年(1684)廃園となって、小石川御殿(白山御殿)の地に新設された小石川御薬園に移されることになった。その後、一部残された御花畑に白金御殿が建てられたのだ。小石川御薬園は享保6年(1721)、薬種に関心のあった八代将軍吉宗によって約4万4800坪の広大な園地に拡大された。現在、そこは小石川植物園、東京大学大学院理学系研究科附属植物園になっている。

(山野勝「江戸と東京の坂」P27)

    坂下から上を望む。

 「薬園坂」の途中、西に下る坂があります。「釣堀坂」。明治以降の坂ですがなかなか雰囲気のある小道です。戦前、釣り堀があったので付けられた名とか。坂の西側は上り坂になります。

    
  「薬園坂」から望む。                       西側の坂。私有地のようです。

緑に囲まれた坂道。

「明治通り」を左折し、「明称寺」の先を左折すると、「絶江坂」。
 
   絶江坂
 承応2年(1654)坂の東側へ赤坂から曹渓寺が移転してきた。初代和尚絶江が名僧で付近の地名となり坂名に変った。

坂の途中から「明治通り」方向を望む。

      周囲は寺町。曲がり角から。




 (「歴史的農業環境閲覧システム」より)↓が「絶江坂」と思われる。上に「仙台坂」の名が見える。


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