![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1f/5b/ccba896ab016874c93c030bbdf00a484.jpg)
「墨堤通り」(旧「掃部堤」跡)を渡ると、この付近が「千住掃部(かもん)宿」。左手に小公園があり、りっぱな解説板。
千住掃部宿
千住町が日光道中初の宿場と定められたのは寛永2年(1625)将軍徳川家光のときです。水戸佐倉道へ分岐する初宿であり、日光東照宮への将軍参詣や諸大名の参勤交代を中継する重要な宿場でもあります。現在の千住1丁目から5丁目までが最初の千住宿の地にあたります。その後、千住大橋を越えた小塚原、中村町(現・荒川区)辺りまで編入され、4キロメートル余りの街並みが続く千住宿となりました。
掃部宿(現千住仲町・河原町・橋戸町)は初宿指定の後、万治元年(1658)千住の堤外川原にある日光道中沿いに家並みができ、千住宿に加宿されました。
名前の由来は慶長3年(1598)村を拓き、元和2年(1616)掃部堤を築造した石出掃部介吉胤にちなみます。
掃部宿は千住宿の中でも有力商人が集まり、繁栄した町です。豊かさを基に江戸時代から続いた俳諧文化、江戸絵画、漢学、医学など良質な文化遺産を産み出したことでも知られています。明治時代になると千住中組となり、昭和6年(1931)に千住仲町となりました。江戸時代から明治・大正・昭和と千住仲町の商店街は千住仲町實業会と称し、足立区随一の繁華街でした。
昭和20年4月13日の夜間空襲の際、千住仲町の日光道中沿いの商家は一軒も残らず焼失してしまいました。その後、戦後の復興を遂げ、現在に至ります。
平成27年3月 千住仲町まちづくり協議会・うるおいのあるまちづくり部会
「旧日光街道」(この道路愛称名は公募によって選ばれました・足立区)。
看板には「かもん宿診療所」。
なお、この「旧日光街道」は、いったん荒川によって遮られますが、その先もほぼ直線で、延々と足立区と草加市の境まで続きます。道中歩きには大助かりです。
ここで「千住宿」の紹介(以下、「Wikipedia」参照)
千住宿
日光街道(日光道中)および奥州街道(奥州道中)の日本橋から1番目の宿場町。千住宿は、武蔵国足立郡・豊島郡の荒川(現隅田川)曲流部に設置された宿場町。東海道の品川宿、中山道の板橋宿、甲州街道の内藤新宿と並んで江戸四宿と呼ばれた。
水戸街道はここから分岐していた。荒川・綾瀬川が付近で交差しており運輸・交通の便に有効な場所であったことから、千住大橋沿いには橋戸河岸が置かれ、 千住河原町に設置されていた千住青物市場(やっちゃ場)は御用市場となった。 千住は江戸に物資を運び込むための中継地点としても発展した。
千住宿は岡場所としても発展した。また、千住宿の南の町小塚原町には江戸北の刑場として、小塚原刑場が置かれている。
当時の千住宿は、現在の足立区千住一~五丁目、千住仲町、千住橋戸町、そして荒川区南千住町名に相当する。
文禄3年(1594年)荒川(現隅田川)に千住大橋が架けられると、この地域は急速に発展した。
『日光道中宿村大概帳』によると、天保14年(1843年)千住宿には本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠55軒が設けられていた。宿内の家数は2,370軒、人口は9,456人であった。その他、掃部宿には「一里塚」、「高札場」、千住一丁目に「問屋場 貫目改所」が設置された。
千住宿の賑わいは、『新編武蔵風土記稿』によると「駅の広さ東西14.5町、南北35町ありて、宿並間数1,256間、その左右に旅亭商家軒をならべて、旅人絶ゆることなく、もっとも賑はへり」とある。江戸市街の喉もとで奥州街道、水戸街道の始点として、日光・東北方面への旅人で賑わったという。 幕末期には家は2,400軒近く、人口も約1万人に達する江戸四宿最大の宿場町になった。 文政4年(1821年)の調べによると,江戸参勤の大名は,日光街道4、奥州街道37,水戸街道23,計64の大名が千住の宿を往来している。
江戸時代、千住宿に岡場所があった。岡場所は、唯一の幕府公認の遊郭である吉原に対して、それ以外の非公認の遊郭の総称である。江戸市中に私娼を置くことは御法度であったが、実際には千住宿・品川宿・板橋宿・内藤新宿といった江戸四宿には、準公認の飯盛女(飯売女・飯売)が置かれていた。
明治時代になると、岡場所は遊郭となった。1883年(明治16年)の千住宿の売娼妓数374、買客数43,000、1888年(明治21年)にはそれぞれ466、65,000との記録がある。いずれも四宿においては内藤新宿、板橋宿を上回っていた。
慶安4年(1651年)千住宿小塚原町(現荒川区南千住)には、「小塚原刑場」が位置づけら、小塚原の仕置場では磔刑・火刑・梟首(獄門)が行われ、合計で20万人以上の罪人がここで刑を執行されたという。
葛飾北斎『冨嶽三十六景 武州千住』
農夫と馬の向こうには、大きな堰枠(せきわく)がみえます。これは元宿圦(もとじゅくいり)に設けられた元宿堰とよばれる堰枠が見られることから、現在の住所では、千住桜木1丁目と2丁目の境、帝京科学大学入口交差点付近の景色という。
『冨嶽三十六景 隅田川関屋の里 』
現在の千住仲町から千住関屋町付近に相当し、人馬が走る道は、石出掃部介の新田開発によって元和2(1616)年に築かれた掃部堤(かもんづつみ)、現在では墨堤通りとよばれている道となり、中央には千住仲町の氷川神社が描かれているという。
「千住宿」は松尾芭蕉の『奥の細道』を抜きにしては語れません。
『奥の細道』
・・・弥生も末の七日、あけぼのの空朧々として、月はありあけにて光おさまれるものから、富士の嶺かすかに見えて、上野・谷中の花の梢、またいつかはと心ぼそし。
むつましきかぎりは宵よりつどひて、舟に乗りて送る。
千じゆといふ所にて舟をあがれば、前途三千里の思い胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそそぐ。
行(ゆ)く春や 鳥啼(なき)魚(うお)の 目は泪(なみだ)
これを矢立の初めとして、行く道なを進まず。
人々は途中に立ちならびて、後ろかげの見ゆるまではと見送るなるべし。
時にどこで舟を上がったのか、が話題になります。「(千住)大橋」の南岸か、北岸か? 南岸は荒川区、北岸は足立区。どちらも譲らないようですが。
もう一人、小林一茶も忘れてはならないでしょう。直接、日光道中・千住宿には関わりませんが、足立区六月にある炎天寺には小林一茶の句にゆかりあるものが伝えられています。
「やせ蛙まけるな一茶是にあり」(文化13年4月)
「蝉なくや六月村の炎天寺」(文化13年9月)
さて、もう少し北に向かうと、賑やかな商店街になります。その手前、広い通りをはさんで「高札場跡」「一里塚跡」(日本橋から2里目)、さらに「問屋場跡」「貫目改所跡」碑がそれぞれあります。
「高札場」跡。
「一里塚」跡。
「問屋場・貫目改所」跡。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5a/74/edae68f0c49d1d65aad472674b85c5ad.jpg)
千住宿問屋場・貫目改所
旧日光街道の西側にあたるこの場所には、江戸時代に千住宿の問屋場と貫目改所が置かれていました。
宿場は、幕府の許可を得た旅行者に対して、人足と馬を提供することを義務づけられていました。千住宿は50人、50疋です。この問屋場で、人馬の手配をしました。街道の向かい側には馬寄場がありました。問屋場は元禄8年(1695)に設けられました。また、寛保3年(1743)に貫目改所が設けられ、荷物の重量検査のための秤が備えられました。馬に積める荷物には制限があり、40貫目(150㎏)を積むと本馬、20貫目あるいは人が乗って5貫目の手荷物を積んだものを軽尻と呼び、次の草加宿までの運賃が定められていました。貫目改所は、ここを出ると宇都宮宿までありませんので、重い荷物を制限内と認めてもらえるよう、賄賂が飛び交ったとの話もあります。
江戸幕府は、江戸から全国各地への交通網を整備しました。なかでも五街道は重要で、道中奉行が直接管理しました。江戸日本橋を出て最初の宿場である、東海道品川宿、甲州道中内藤新宿、中山道板橋宿、日光・奥州道中千住宿は、江戸四宿と呼ばれています。地方と江戸の、文化や産品の結節点であると同時に、江戸人の遊興の地でもありました。旅に出る人を見送るのも四宿までです。千住宿は日本橋から2里8丁(8.7㎞)ですから、江戸時代の人にとっては気楽に出かけられる距離だったのでしょう。
この場所は、問屋場・貫目改所跡として知られていましたが、平成12年(2000)、足立区教育委員会が発掘調査をしたところ、現在より1m程低い江戸時代の遺構面から、等間隔で並ぶ杭穴と礎石が見つかりました。分析の結果、この遺構は2棟の建物からなり、それぞれ問屋場跡と貫目改所跡であると推定されました。また、南東の小石を厚く敷いた部分は、荷さばき場跡と考えられます。
この場所が、千住宿の重要な施設であったことを示すため、発掘調査で見つかった杭穴と礎石の位置、さらに推定される問屋場・貫目改所・荷さばき場の範囲を表示しています。
平成18年3月 足立区教育委員会
北千住駅前の通りを横切り、繁華街に入っていきます。左手に「千住宿本陣跡」碑。
その付近からの街並み。![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/20/58/242870a7c1ac0e21ba033bed970b4a3f.jpg)
通りの一画にある「千住ほんちょう公園」。![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/60/f1/29392a905d37b7aa30a57171f95ca019.jpg)
案内図。以前来た時よりもきれいに。
「千住宿高札場 由来」解説板。![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3e/0f/1c1e7516e1fe1fa5b0953c72f08312f1.jpg)
・・・このような高札場は、明治の初期まで幕府の掟(きまり)などを掲示して、人々に周知してもらうため、千住宿の入口・出口のところに設置されていました。
これからも私たちの街の歴史・伝統・文化を、そして貴重な史跡・街並み景観を大切にしてゆきたいと思います。
昭和63年11月吉日 千住の街並み景観を考える会
お店のシャッターには日光道中の宿場にちなんだ絵柄が描かれています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/31/3f/7b4ab1dd9a9dbcf9cf3895010ca4207b.jpg)
なかなか「千住宿」から出立できません。
千住掃部宿
千住町が日光道中初の宿場と定められたのは寛永2年(1625)将軍徳川家光のときです。水戸佐倉道へ分岐する初宿であり、日光東照宮への将軍参詣や諸大名の参勤交代を中継する重要な宿場でもあります。現在の千住1丁目から5丁目までが最初の千住宿の地にあたります。その後、千住大橋を越えた小塚原、中村町(現・荒川区)辺りまで編入され、4キロメートル余りの街並みが続く千住宿となりました。
掃部宿(現千住仲町・河原町・橋戸町)は初宿指定の後、万治元年(1658)千住の堤外川原にある日光道中沿いに家並みができ、千住宿に加宿されました。
名前の由来は慶長3年(1598)村を拓き、元和2年(1616)掃部堤を築造した石出掃部介吉胤にちなみます。
掃部宿は千住宿の中でも有力商人が集まり、繁栄した町です。豊かさを基に江戸時代から続いた俳諧文化、江戸絵画、漢学、医学など良質な文化遺産を産み出したことでも知られています。明治時代になると千住中組となり、昭和6年(1931)に千住仲町となりました。江戸時代から明治・大正・昭和と千住仲町の商店街は千住仲町實業会と称し、足立区随一の繁華街でした。
昭和20年4月13日の夜間空襲の際、千住仲町の日光道中沿いの商家は一軒も残らず焼失してしまいました。その後、戦後の復興を遂げ、現在に至ります。
平成27年3月 千住仲町まちづくり協議会・うるおいのあるまちづくり部会
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/32/14/d805248ad251dcd809bd2bf82490ca60.jpg)
看板には「かもん宿診療所」。
なお、この「旧日光街道」は、いったん荒川によって遮られますが、その先もほぼ直線で、延々と足立区と草加市の境まで続きます。道中歩きには大助かりです。
ここで「千住宿」の紹介(以下、「Wikipedia」参照)
千住宿
日光街道(日光道中)および奥州街道(奥州道中)の日本橋から1番目の宿場町。千住宿は、武蔵国足立郡・豊島郡の荒川(現隅田川)曲流部に設置された宿場町。東海道の品川宿、中山道の板橋宿、甲州街道の内藤新宿と並んで江戸四宿と呼ばれた。
水戸街道はここから分岐していた。荒川・綾瀬川が付近で交差しており運輸・交通の便に有効な場所であったことから、千住大橋沿いには橋戸河岸が置かれ、 千住河原町に設置されていた千住青物市場(やっちゃ場)は御用市場となった。 千住は江戸に物資を運び込むための中継地点としても発展した。
千住宿は岡場所としても発展した。また、千住宿の南の町小塚原町には江戸北の刑場として、小塚原刑場が置かれている。
当時の千住宿は、現在の足立区千住一~五丁目、千住仲町、千住橋戸町、そして荒川区南千住町名に相当する。
文禄3年(1594年)荒川(現隅田川)に千住大橋が架けられると、この地域は急速に発展した。
『日光道中宿村大概帳』によると、天保14年(1843年)千住宿には本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠55軒が設けられていた。宿内の家数は2,370軒、人口は9,456人であった。その他、掃部宿には「一里塚」、「高札場」、千住一丁目に「問屋場 貫目改所」が設置された。
千住宿の賑わいは、『新編武蔵風土記稿』によると「駅の広さ東西14.5町、南北35町ありて、宿並間数1,256間、その左右に旅亭商家軒をならべて、旅人絶ゆることなく、もっとも賑はへり」とある。江戸市街の喉もとで奥州街道、水戸街道の始点として、日光・東北方面への旅人で賑わったという。 幕末期には家は2,400軒近く、人口も約1万人に達する江戸四宿最大の宿場町になった。 文政4年(1821年)の調べによると,江戸参勤の大名は,日光街道4、奥州街道37,水戸街道23,計64の大名が千住の宿を往来している。
江戸時代、千住宿に岡場所があった。岡場所は、唯一の幕府公認の遊郭である吉原に対して、それ以外の非公認の遊郭の総称である。江戸市中に私娼を置くことは御法度であったが、実際には千住宿・品川宿・板橋宿・内藤新宿といった江戸四宿には、準公認の飯盛女(飯売女・飯売)が置かれていた。
明治時代になると、岡場所は遊郭となった。1883年(明治16年)の千住宿の売娼妓数374、買客数43,000、1888年(明治21年)にはそれぞれ466、65,000との記録がある。いずれも四宿においては内藤新宿、板橋宿を上回っていた。
慶安4年(1651年)千住宿小塚原町(現荒川区南千住)には、「小塚原刑場」が位置づけら、小塚原の仕置場では磔刑・火刑・梟首(獄門)が行われ、合計で20万人以上の罪人がここで刑を執行されたという。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/69/70/78e3e4206aa7548642a2283a7c6053e3.jpg)
農夫と馬の向こうには、大きな堰枠(せきわく)がみえます。これは元宿圦(もとじゅくいり)に設けられた元宿堰とよばれる堰枠が見られることから、現在の住所では、千住桜木1丁目と2丁目の境、帝京科学大学入口交差点付近の景色という。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3b/1b/b055c4065d7e2d4b7ddd0966b7685da8.jpg)
現在の千住仲町から千住関屋町付近に相当し、人馬が走る道は、石出掃部介の新田開発によって元和2(1616)年に築かれた掃部堤(かもんづつみ)、現在では墨堤通りとよばれている道となり、中央には千住仲町の氷川神社が描かれているという。
「千住宿」は松尾芭蕉の『奥の細道』を抜きにしては語れません。
『奥の細道』
・・・弥生も末の七日、あけぼのの空朧々として、月はありあけにて光おさまれるものから、富士の嶺かすかに見えて、上野・谷中の花の梢、またいつかはと心ぼそし。
むつましきかぎりは宵よりつどひて、舟に乗りて送る。
千じゆといふ所にて舟をあがれば、前途三千里の思い胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそそぐ。
行(ゆ)く春や 鳥啼(なき)魚(うお)の 目は泪(なみだ)
これを矢立の初めとして、行く道なを進まず。
人々は途中に立ちならびて、後ろかげの見ゆるまではと見送るなるべし。
時にどこで舟を上がったのか、が話題になります。「(千住)大橋」の南岸か、北岸か? 南岸は荒川区、北岸は足立区。どちらも譲らないようですが。
もう一人、小林一茶も忘れてはならないでしょう。直接、日光道中・千住宿には関わりませんが、足立区六月にある炎天寺には小林一茶の句にゆかりあるものが伝えられています。
「やせ蛙まけるな一茶是にあり」(文化13年4月)
「蝉なくや六月村の炎天寺」(文化13年9月)
さて、もう少し北に向かうと、賑やかな商店街になります。その手前、広い通りをはさんで「高札場跡」「一里塚跡」(日本橋から2里目)、さらに「問屋場跡」「貫目改所跡」碑がそれぞれあります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/50/8f/760983c7829f33a33abe34554f40d4c5.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5e/e2/1bc5417d3a3cb77738c0c590d8fc7964.jpg)
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![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5a/74/edae68f0c49d1d65aad472674b85c5ad.jpg)
千住宿問屋場・貫目改所
旧日光街道の西側にあたるこの場所には、江戸時代に千住宿の問屋場と貫目改所が置かれていました。
宿場は、幕府の許可を得た旅行者に対して、人足と馬を提供することを義務づけられていました。千住宿は50人、50疋です。この問屋場で、人馬の手配をしました。街道の向かい側には馬寄場がありました。問屋場は元禄8年(1695)に設けられました。また、寛保3年(1743)に貫目改所が設けられ、荷物の重量検査のための秤が備えられました。馬に積める荷物には制限があり、40貫目(150㎏)を積むと本馬、20貫目あるいは人が乗って5貫目の手荷物を積んだものを軽尻と呼び、次の草加宿までの運賃が定められていました。貫目改所は、ここを出ると宇都宮宿までありませんので、重い荷物を制限内と認めてもらえるよう、賄賂が飛び交ったとの話もあります。
江戸幕府は、江戸から全国各地への交通網を整備しました。なかでも五街道は重要で、道中奉行が直接管理しました。江戸日本橋を出て最初の宿場である、東海道品川宿、甲州道中内藤新宿、中山道板橋宿、日光・奥州道中千住宿は、江戸四宿と呼ばれています。地方と江戸の、文化や産品の結節点であると同時に、江戸人の遊興の地でもありました。旅に出る人を見送るのも四宿までです。千住宿は日本橋から2里8丁(8.7㎞)ですから、江戸時代の人にとっては気楽に出かけられる距離だったのでしょう。
この場所は、問屋場・貫目改所跡として知られていましたが、平成12年(2000)、足立区教育委員会が発掘調査をしたところ、現在より1m程低い江戸時代の遺構面から、等間隔で並ぶ杭穴と礎石が見つかりました。分析の結果、この遺構は2棟の建物からなり、それぞれ問屋場跡と貫目改所跡であると推定されました。また、南東の小石を厚く敷いた部分は、荷さばき場跡と考えられます。
この場所が、千住宿の重要な施設であったことを示すため、発掘調査で見つかった杭穴と礎石の位置、さらに推定される問屋場・貫目改所・荷さばき場の範囲を表示しています。
平成18年3月 足立区教育委員会
北千住駅前の通りを横切り、繁華街に入っていきます。左手に「千住宿本陣跡」碑。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3d/49/2a3076c1b348ee72cba99756299c0dfb.jpg)
その付近からの街並み。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/20/58/242870a7c1ac0e21ba033bed970b4a3f.jpg)
通りの一画にある「千住ほんちょう公園」。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/60/f1/29392a905d37b7aa30a57171f95ca019.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5a/07/62cb459088fd0659c86cfef476e1967b.jpg)
「千住宿高札場 由来」解説板。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3e/0f/1c1e7516e1fe1fa5b0953c72f08312f1.jpg)
・・・このような高札場は、明治の初期まで幕府の掟(きまり)などを掲示して、人々に周知してもらうため、千住宿の入口・出口のところに設置されていました。
これからも私たちの街の歴史・伝統・文化を、そして貴重な史跡・街並み景観を大切にしてゆきたいと思います。
昭和63年11月吉日 千住の街並み景観を考える会
お店のシャッターには日光道中の宿場にちなんだ絵柄が描かれています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/29/01/b0befd5391bd9bb2ef01946a364549ef.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/31/3f/7b4ab1dd9a9dbcf9cf3895010ca4207b.jpg)
なかなか「千住宿」から出立できません。
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