御殿。
(11:58)「千葉から33㎞」ポスト。ダンプや物流関係の大型車が轟音を立てて通ります。
人影はまったくなし。
農作業用の車も行き来。この付近は、田園地帯。「新鮮野菜直売所とよみ」。
栗園。
(12:15)「東小学校」交差点の電柱のところに道標。「西 野毛平成田道 東 長田堀之内道」「北・・・佐原道」。
来た道を振り返る。
この先、「十余三トンネル」で成田空港(滑走路)をくぐりますが、その手前、左手に展望広場「十余三東雲の丘」があり、飛行機の離着陸が眺められます。
十余三東雲の丘
この名称は広く地域の皆さまからも親しんでもらえる施設にしたいとの想いを込めて、成田市立東小学校の子どもたちが考えてくれました。自分の学び舎である東小学校の「東」にちなんで「東雲の丘」と名付けられました。
(12:20)休憩を兼ねて上がってみます。眼下遙か遠くまで成田空港が。
見物客もいて、撮影もしています。
目の前に着陸する飛行機がひっきりなしに。
成田空港を離発着する航空機一覧。
「成田国際空港」には反対運動が激烈に行われました。さまざまな思い、歴史があります。このかんの経過をまとめた記事を紹介。
(「教科書に載っていない成田空港の歴史 | 羽田空港サーバー
https://www.haneda-airport-server.com/entry/20160824082852」HPより)
成田空港ができるまで教科書に載っていない成田空港の歴史
その歴史は今から50年ほど前になります。
当時の羽田空港の拡張工事だけでは今後の発着能力が不足することから新空港の計画がスタートします。
(注:「羽田空港の拡張工事」が出来ない理由の一つに、「アメリカ空軍管制区域(横田飛行場上空の「横田ラプコン」)などとの兼ね合いから、航空機の離着陸経路の設定が著しい制約を受ける」というのもあった。)
新空港の候補地
・千葉県東葛飾郡浦安町(現・浦安市)沖の埋め立て地
・印旛郡富里村(現・富里市)
・茨城県霞ヶ浦
・神奈川県横浜市金沢区の金沢八景沖の埋め立て地
さまざまな候補地から最終的に成田市三里塚に決定しました。
住民には事前説明すら無し
当時、政府は合意を得るどころか事前説明もなく強制的な姿勢をとります。
まぁこれがすべての始まりかも知れません。当然ながら住民の猛烈な反対運動が起こります。
反対運動の拡大
この反対運動は、次第に様々な団体などが関与して次第に革命運動レベルになります。政府の強制的な権力には力で対抗するという暴力革命により機動隊と反対派の激しい衝突にまで発展します。
東峰十字路事件
2回の行政執行の結果、警察官3名が殉職する事件が発生します。この司法解剖の内容はあまりに残酷な内容なので記載は控えます。
興味がある方は調べてみてください。
東山事件
航空妨害を目的とした鉄塔を建てて対抗して、政府は当初の「1972年開港」の断念を余儀なくされました。鉄塔の撤去に抗議する反対派と機動隊が衝突し、反対派支援者1名が死亡しました。
成田空港管制塔占拠事件
開港直前になってゲリラが新東京国際空港の管制塔に進入し、管制塔内の機器を破壊しました。これらの様々な混乱により開港がさらに延期になりました。
開港後
京成電鉄のスカイライナー車両を放火し、4両を全半焼させるというテロ事件・京成スカイライナー放火事件が起きました。また、京成本線5ヶ所で同時多発列車妨害事件も発生しました。
開港後も航行妨害が続いたため、警察は厳重な警備を敷くことになります。また空港の安全確保のため、千葉県警察警備部に専従の機動隊「新東京国際空港警備隊」(現・千葉県警察成田国際空港警備隊)が発足しました。
反対運動の影響
ドイツのミュンヘン国際空港はこのような紛争を避けるため、成田空港の事例について徹底した研究分析を重ね、これを元に反対派を十分に説得した上で建設されている(着工後5年で完成)。
日本でも、成田での経験を元に大規模空港は騒音問題等が発生しにくい海上に造られるようになった。それでも関西国際空港の工事中には、成田空港反対派系の団体が空港建設の見学船を放火するテロ事件を起こしています。
東峰神社
成田空港の滑走路のすぐ脇にあるこの神社は、一見すると飛行機マニアにはたまらないスポットですが実際は人感センサーがあちこに設置されており警察官も常にパトロールしてるために職務質問を受けることもあります。
何故かと言うと東峰地区は、激しい成田空港建設反対運動の中でも特にB滑走路延伸計画等に伴い最近に至るまで反対運動が活発に行われている地区です。
東峰神社はこの地区における反対運動を行う人々にとって運動の象徴ともされており、一部過激派等による空港施設や敷地への破壊工作や不審者接近を防ぐため、非常に多数の制服、私服警官が常時付近を巡回しています。
昨年まで開港から37年間もの間、成田空港には検問所がありました。
これは上記に書いた同空港の反対派運動対策で実施されていたものです。この37年間の長期間検問が実施されていた国際空港は他に前例はなく、異例な対応です。
検問は、成田空港駅、空港第2ビル駅の自動改札を出た先や成田空港第2ターミナル前の東成田付近の道路など計6ケ所で実施されていました。
今後は、顔認証機能を持つカメラなどを導入して対応する予定です。
(注:2015年3月に検問は全面廃止になった。)
まとめ
このように教科書には載っていない成田空港の歴史を紹介しました。
たまに特番で一部成田空港の話が出る程度でかと思います。
また当時の反対運動に関わっていた方も50年という時間によって、当時を知る方も少なくなっているのも事実です。
成田空港を利用される際には、このような歴史を知った上で利用してみてはいかがでしょうか。
空港問題とは
1960年代はじめ、羽田空港が10年後には過密状態になるのとの予測が出され、1961年に新たな国際空港の建設計画が浮上した。建設地をめぐって複数案が出され、候補地となった現在の千葉県富里市や八街市などでは、住民の反対運動が繰り返された。1966年新たな案として成田市の三里塚が浮上した。この案は7月4日、突如閣議決定された。
以来、その大地で生き続けてきた用地内住民、周辺住民と、建設を推進する国家的プロジェクトとの間に厳しい対立を生み、さらに支援者をまきこんで激しい闘争の歴史を刻んできた。この地に空港を建設するということは、土とともに生産活動を展開してきた農民の魂を激しく揺さぶり、空港建設を至上命令として取り組む建設側との間にのっぴきならない摩擦や亀裂を生んだ。砦や要塞、鉄塔、団結小屋などを建設し、さまざまな手段で空港建設を阻もうとする農民と支援者、土地収用法など強制力を行使するために機動隊を動員した建設側、両者の間には、しばしば力対力の構図が生じ、その激突の中で双方に多くの犠牲者が出た。
こうした状況の中で、1978年に空港は1本の滑走路で開港したが、両者の溝は埋まらないまま、こう着状態が続いた。それを打開するために、反対同盟と運輸省(当時)は話し合いの場を模索し、曲折を経て、両者の間に立つ隅谷三喜男を団長とする調査団が発足した。「成田空港問題シンポジウム」は、1991年から93年にわたって15回開かれ、抜きさしがたい対立を生んだその原因を検証した。結論は、空港の位置決定について地元との十分なコンセンサスがないまま、国や公団が空港建設を強行したことにあるとし、国は収用申請を取り下げ、二期工事を白紙とした。
その後、シンポジウムの合意に基づき、地元や空港の在り方を今後どうするかについて、地元住民も参加する対等な立場での話し合い「円卓会議」(93年~94年まで12回開催)が行われた。位置決定から28年の歳月を経て、地域と空港の共生をめざす「成田空港地域共生委員会」が発足し、住民の立場から空港の運用と建設をチェックする第三者機関として活動を開始した。そのなかで、この間の歴史を正確に伝えていくことを目指す歴史伝承部会も誕生した(1997年)。この部会が、歴史館につながっていくことになる。
成田空港 空と大地の歴史館 名誉館長 新井 勝紘
「B滑走路」下のトンネルを通過し、東側に出ます(12:38)。
ちなみに「B滑走路」の南端すれすれに上述の「東峰神社」があります。
↑付近をトンネルで通過?
(11:58)「千葉から33㎞」ポスト。ダンプや物流関係の大型車が轟音を立てて通ります。
人影はまったくなし。
農作業用の車も行き来。この付近は、田園地帯。「新鮮野菜直売所とよみ」。
栗園。
(12:15)「東小学校」交差点の電柱のところに道標。「西 野毛平成田道 東 長田堀之内道」「北・・・佐原道」。
来た道を振り返る。
この先、「十余三トンネル」で成田空港(滑走路)をくぐりますが、その手前、左手に展望広場「十余三東雲の丘」があり、飛行機の離着陸が眺められます。
十余三東雲の丘
この名称は広く地域の皆さまからも親しんでもらえる施設にしたいとの想いを込めて、成田市立東小学校の子どもたちが考えてくれました。自分の学び舎である東小学校の「東」にちなんで「東雲の丘」と名付けられました。
(12:20)休憩を兼ねて上がってみます。眼下遙か遠くまで成田空港が。
見物客もいて、撮影もしています。
目の前に着陸する飛行機がひっきりなしに。
成田空港を離発着する航空機一覧。
「成田国際空港」には反対運動が激烈に行われました。さまざまな思い、歴史があります。このかんの経過をまとめた記事を紹介。
(「教科書に載っていない成田空港の歴史 | 羽田空港サーバー
https://www.haneda-airport-server.com/entry/20160824082852」HPより)
成田空港ができるまで教科書に載っていない成田空港の歴史
その歴史は今から50年ほど前になります。
当時の羽田空港の拡張工事だけでは今後の発着能力が不足することから新空港の計画がスタートします。
(注:「羽田空港の拡張工事」が出来ない理由の一つに、「アメリカ空軍管制区域(横田飛行場上空の「横田ラプコン」)などとの兼ね合いから、航空機の離着陸経路の設定が著しい制約を受ける」というのもあった。)
新空港の候補地
・千葉県東葛飾郡浦安町(現・浦安市)沖の埋め立て地
・印旛郡富里村(現・富里市)
・茨城県霞ヶ浦
・神奈川県横浜市金沢区の金沢八景沖の埋め立て地
さまざまな候補地から最終的に成田市三里塚に決定しました。
住民には事前説明すら無し
当時、政府は合意を得るどころか事前説明もなく強制的な姿勢をとります。
まぁこれがすべての始まりかも知れません。当然ながら住民の猛烈な反対運動が起こります。
反対運動の拡大
この反対運動は、次第に様々な団体などが関与して次第に革命運動レベルになります。政府の強制的な権力には力で対抗するという暴力革命により機動隊と反対派の激しい衝突にまで発展します。
東峰十字路事件
2回の行政執行の結果、警察官3名が殉職する事件が発生します。この司法解剖の内容はあまりに残酷な内容なので記載は控えます。
興味がある方は調べてみてください。
東山事件
航空妨害を目的とした鉄塔を建てて対抗して、政府は当初の「1972年開港」の断念を余儀なくされました。鉄塔の撤去に抗議する反対派と機動隊が衝突し、反対派支援者1名が死亡しました。
成田空港管制塔占拠事件
開港直前になってゲリラが新東京国際空港の管制塔に進入し、管制塔内の機器を破壊しました。これらの様々な混乱により開港がさらに延期になりました。
開港後
京成電鉄のスカイライナー車両を放火し、4両を全半焼させるというテロ事件・京成スカイライナー放火事件が起きました。また、京成本線5ヶ所で同時多発列車妨害事件も発生しました。
開港後も航行妨害が続いたため、警察は厳重な警備を敷くことになります。また空港の安全確保のため、千葉県警察警備部に専従の機動隊「新東京国際空港警備隊」(現・千葉県警察成田国際空港警備隊)が発足しました。
反対運動の影響
ドイツのミュンヘン国際空港はこのような紛争を避けるため、成田空港の事例について徹底した研究分析を重ね、これを元に反対派を十分に説得した上で建設されている(着工後5年で完成)。
日本でも、成田での経験を元に大規模空港は騒音問題等が発生しにくい海上に造られるようになった。それでも関西国際空港の工事中には、成田空港反対派系の団体が空港建設の見学船を放火するテロ事件を起こしています。
東峰神社
成田空港の滑走路のすぐ脇にあるこの神社は、一見すると飛行機マニアにはたまらないスポットですが実際は人感センサーがあちこに設置されており警察官も常にパトロールしてるために職務質問を受けることもあります。
何故かと言うと東峰地区は、激しい成田空港建設反対運動の中でも特にB滑走路延伸計画等に伴い最近に至るまで反対運動が活発に行われている地区です。
東峰神社はこの地区における反対運動を行う人々にとって運動の象徴ともされており、一部過激派等による空港施設や敷地への破壊工作や不審者接近を防ぐため、非常に多数の制服、私服警官が常時付近を巡回しています。
昨年まで開港から37年間もの間、成田空港には検問所がありました。
これは上記に書いた同空港の反対派運動対策で実施されていたものです。この37年間の長期間検問が実施されていた国際空港は他に前例はなく、異例な対応です。
検問は、成田空港駅、空港第2ビル駅の自動改札を出た先や成田空港第2ターミナル前の東成田付近の道路など計6ケ所で実施されていました。
今後は、顔認証機能を持つカメラなどを導入して対応する予定です。
(注:2015年3月に検問は全面廃止になった。)
まとめ
このように教科書には載っていない成田空港の歴史を紹介しました。
たまに特番で一部成田空港の話が出る程度でかと思います。
また当時の反対運動に関わっていた方も50年という時間によって、当時を知る方も少なくなっているのも事実です。
成田空港を利用される際には、このような歴史を知った上で利用してみてはいかがでしょうか。
空港問題とは
1960年代はじめ、羽田空港が10年後には過密状態になるのとの予測が出され、1961年に新たな国際空港の建設計画が浮上した。建設地をめぐって複数案が出され、候補地となった現在の千葉県富里市や八街市などでは、住民の反対運動が繰り返された。1966年新たな案として成田市の三里塚が浮上した。この案は7月4日、突如閣議決定された。
以来、その大地で生き続けてきた用地内住民、周辺住民と、建設を推進する国家的プロジェクトとの間に厳しい対立を生み、さらに支援者をまきこんで激しい闘争の歴史を刻んできた。この地に空港を建設するということは、土とともに生産活動を展開してきた農民の魂を激しく揺さぶり、空港建設を至上命令として取り組む建設側との間にのっぴきならない摩擦や亀裂を生んだ。砦や要塞、鉄塔、団結小屋などを建設し、さまざまな手段で空港建設を阻もうとする農民と支援者、土地収用法など強制力を行使するために機動隊を動員した建設側、両者の間には、しばしば力対力の構図が生じ、その激突の中で双方に多くの犠牲者が出た。
こうした状況の中で、1978年に空港は1本の滑走路で開港したが、両者の溝は埋まらないまま、こう着状態が続いた。それを打開するために、反対同盟と運輸省(当時)は話し合いの場を模索し、曲折を経て、両者の間に立つ隅谷三喜男を団長とする調査団が発足した。「成田空港問題シンポジウム」は、1991年から93年にわたって15回開かれ、抜きさしがたい対立を生んだその原因を検証した。結論は、空港の位置決定について地元との十分なコンセンサスがないまま、国や公団が空港建設を強行したことにあるとし、国は収用申請を取り下げ、二期工事を白紙とした。
その後、シンポジウムの合意に基づき、地元や空港の在り方を今後どうするかについて、地元住民も参加する対等な立場での話し合い「円卓会議」(93年~94年まで12回開催)が行われた。位置決定から28年の歳月を経て、地域と空港の共生をめざす「成田空港地域共生委員会」が発足し、住民の立場から空港の運用と建設をチェックする第三者機関として活動を開始した。そのなかで、この間の歴史を正確に伝えていくことを目指す歴史伝承部会も誕生した(1997年)。この部会が、歴史館につながっていくことになる。
成田空港 空と大地の歴史館 名誉館長 新井 勝紘
「B滑走路」下のトンネルを通過し、東側に出ます(12:38)。
ちなみに「B滑走路」の南端すれすれに上述の「東峰神社」があります。
↑付近をトンネルで通過?
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます