おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

大坂松並木。お軽勘平道行の場。原宿一里塚跡。・・・(戸塚宿。その5。)

2014-09-08 19:09:52 | 旧東海道

明治末頃のようす(「今昔マップ」より)。まだ戸塚市街地を迂回する「バイパス」(新道)は出来ていない。松並木が続く坂道であったことがわかる。

昭和40年代。バイパス(赤い線)が完成。

現在。上のから下のまでの区間に上下線分離の新道が完成している。↓が「大坂松並木」付近。

 ※お正月恒例の「箱根駅伝」戸塚中継所(往路)は、新道の「戸塚警察署」の南付近になる(↓の先端の左下付近)。復路はそれよりもう少し南の地点。

 「大坂」。坂下付近(上方辺り)の標高が約15メートル、坂上が約70メートルとけっこうだらだらと長く上る坂。坂の途中、「大坂台信号」手前の右側に古碑群がある。

「大坂の古碑群」

来た道を振り返る。

 二又に分かれた道の左側の道を登り切ると、国道1号線「バイパス」と合流し、そこからは、中央分離帯をはさんで車の往来の激しい、上下線分離の「国道1号線(東海道)」となる。

「大坂松並木」。

旧東海道【大坂松並木】
 大坂では天気の良い日に松並木から素晴しい富士山が眺められることから、多くの浮世絵の画題となりました。昭和7(1932)年に坂の改修工事が始まり、頂上を削り、下の方は10mほど土盛りをしてなだらかな長い坂にしました。現在の大坂になるまでは数回の改修がおこなわれたそうです。
    戸塚区役所

中央分離帯の松並木。他の木も混じっているが。

東側の眺望。西側(富士・箱根側)は見通しは悪いが、東は開けて、眼下に街並み、山並みがが見下ろせる。

 
                                  「お軽勘平戸塚山中道行の場」碑。
「碑石の由緒」。

♪落人も見るかや野辺に若草の・・・
 は、清元の名曲道行旅路の花聟の語り出しとして江戸以来人口に膾炙されている(の)が、お軽・勘平の道行の場

♪こゝは戸塚の石高道・・・ の旧跡という
 この曲は天保四年三月、江戸河原崎座の初演以来百四十数星霜を経てなお上演を重ね、戸塚の名は墨絵の夜の富士とともに

♪ほんの旅寝の仮枕嬉しい・・・
 舞台の華やかな思い出を多くの人の脳裡に深くきざみこんでいるお軽・勘平の道行は戯曲上の設定であれ史実にまごうほど戸塚の地名とは離れぬ仲

♪かわいかわいの夫婦づれ・・・
 のゆかりはつきぬ道行の名勝に建碑の由緒を記す
     昭和四十六年七月 文学博士 松本亀松 撰

 この「碑文」、文章としてはよく練られていない気もするが、『仮名手本忠臣蔵』のお軽勘平の道行の場にちなんで建てられたもの。当時のこの付近の風情は、「落人」にふさわしい道筋ではあった。

「道行旅路の花婿」 

 腰元お軽と逢引していて殿中で刃傷沙汰を起こした主君の大事に居合わせることができなかった早野勘平が、お軽の実家のある山崎へと、お軽とともに落ちのびてゆくところに、鷺坂伴内が手下を連れやってきて両人にからむという筋立て。

 歌舞伎所作事の代表的な演目として知られ、現在『仮名手本忠臣蔵』が通しで上演される際には、四段目のあとに上演される
 「落人も、見るかや野辺に若草の、すすき尾花はなけれども…」という清元の語り出しで始まる。
 本舞台で浅葱幕を切って落とすと一面の菜の花の春景色となり、遠くに富士が見えるのを背景に、お軽と勘平が立っている。お軽は矢絣に縦やの字帯の御殿女中のこしらえ、勘平は黒の紋付の着流しに東からげで、場所は戸塚山中という設定。
 「落人も…」の浄瑠璃でよろしく振りあって、勘平はしばしここで旅の疲れを休めようとお軽に言い、やがて二人は将来のことを語りあう。勘平が武士としての不心得、主君塩冶判官へ申しわけなさのあまり、ここで切腹すべく刀を抜こうとすると、お軽は刀を取り上げ、「それその時のうろたえ者には誰がした」と自分にも責めはある、短気をおこさずともかくも自分の在所にまでいっしょに落ちのびてくれ、あなたを亭主として充分暮しのたつようにしてみせるとかき口説く。この口説きがひとつの見せどころ、聞きどころである。
 このまま腹を切ればわたしも生きておれぬ、それでは人は勘平は不義の心中をしたと言うだろうというお軽の言葉に、生きていればお詫びのかなう日もきっとこようと勘平も気をとりなおし、道を急ぐことにする。折からそこへ高師直の家臣でかねてよりお軽に横恋慕する鷺坂伴内が、襦袢ひとつに襷がけ、鉢巻の格好で手勢(花四天)を引きつれ登場し、お軽をさらってゆこうとする。だが勘平の武勇にはかなうべくもなく、伴内たちは散々にやっつけられる。「所作ダテ」と呼ばれるはなやかな場面である。
 「塒(ねぐら)を離れ鳴く烏、可愛い可愛いの夫婦(めおと)づれ、先は急げど心はあとへ、お家の安否如何ぞと、案じゆくこそ道理なれ」の浄瑠璃で勘平はお軽を連れ、花道にかかる。そこへ両人をなおも追おうとする伴内が、花道ツケ際で引かれてくる幕に阻まれ、そのまま上手側に押されて引っ込む。この演目に限り幕が舞台下手から上手に向かって引かれ(通常は逆)、いつの間にか伴内は客席側へ出た幕引きになってしまうというめずらしい演出で、そのあと幕外で勘平がお軽を連れてよろしく向う揚幕へと入る。
(以上、「Wikipedia」参照)

 このあと、五段目「山崎街道鉄砲渡しの場(二つ玉の場)」六段目「与一兵衛内勘平腹切の場」と勘平にかかわる演目が続く。このへんは、『仮名手本忠臣蔵』の中でも面白いお話(演目)です。
 かつて、改築前の「歌舞伎座」で「通し狂言」として観た記憶があります。

「日本橋から46㎞」という標識。国道1号線「現東海道」での距離ですが。

街道沿いの古木。

「原宿一里塚跡」。

旧東海道【原宿一里塚跡】
 江戸より十一番目の一里塚で、吹上の一里塚とも言われています。当時は松の木が植えられていました。明治9(1876)年に里程標の杭をたてるとき、一里塚は不要となったので取り払われました。

崖の上にある「原宿一里塚跡」説明板。かなり古く、見上げるような位置。

 一里塚は、慶長9年(1604)二月、江戸幕府が大久保石見守長安を総奉行に任命し、東海道の整備にあたらせたとき構築したもので、一里(4キロ)ごとに街道の両側に円形の塚を築き、距離をしめした。 また、塚の上には榎を植えて木陰をつくり、旅人の休憩にも便宜をあたえた。
 原宿の一里塚は、起点の江戸日本橋から測って11里目にあたっている。塚の付近に茶店などがあったので、原宿と呼ばれるようになったという。
 戸塚区内には、品濃、吉田、原宿の三か所にあったが、品濃町のものは道を隔てて二基、ほぼ原型のまま当時のすがたを残しているもので、神奈川県の史跡に指定されている。当地原宿にあったものは、明治9年(1876)10月、里程標の杭をたてるとき一里塚は事実上不要となったので取り払われてしまい、現存していないが、一里山の名を残してその位置を示しているのが現在地である。
     昭和48年11月 戸塚区役所・戸塚観光協会

日本橋から11番目の「一里塚」ということになります。約44㎞。ここまでの現・東海道の距離とさほど変わらないようです。

崖の上には、民家があり、こんもりした所は私有地。

道路の前方には「藤沢」の街並みが見えてくる。

「浅間神社」。道路の右手にある。境内からは富士山や箱根連山が見えるそうだ。

 今回は、ここまで。

 と、「保土ケ谷宿一里塚」(8番目)から「原宿一里塚」(11番目)までたどったように再構成したが、実際はまるで違っていました。事前調査もせず、地図で確認もせず、行き当たりばったりで出かけたので、行ったり来たり。

 そこで、当日の実際の行動

 京急横浜→JR横浜=(東海道線)=戸塚駅(横須賀線に乗ることなど頭になく、熱海行きの電車に乗ったので、「保土ケ谷」駅で下車できず)―(徒歩)―「原宿一里塚跡」=(バス)=戸塚消防署前・「澤邊本陣跡」―(徒歩)―「吉田大橋」・「江戸方見附跡」=(バス)=横浜(「権太坂」を下って行こうとして「横浜」行きに乗った! このバス、「山谷」で「国道1号線」から右折し、「県立こども医療センター」、「井土ヶ谷」などを通るバスで、途中下車出来ず。横浜の港近辺の繁華街をぐるり回ってやっと終着「横浜駅」へ!)。

 もう帰ろうかと思ったが、気を取り直して、横浜=(横須賀線)=東戸塚駅―(徒歩。これもあちこち探し回って)―「境木」―(徒歩)―「品濃一里塚」―(徒歩)―「権太坂」(「境木中」の前の道を左折せず直進したため、今の東海道に出て、「新権太坂」を下るはめに)―(徒歩)―「保土ケ谷二丁目」バス停(当初の徒歩での出発予定地。「保土ケ谷宿一里塚」近く)。

 そこで、再びもう帰ろうかと思ったが、再び気を取り直して、国道1号線との分岐点にある「案内板」にしたがって旧道を歩き、旧「権太坂」へ。
 「保土ケ谷二丁目」―(徒歩)―「権太坂」(結局、「権太坂」を上ることに。もうすでに夕方少し前)―(徒歩)―「境木中」=(バス)=東戸塚駅=(横須賀線)=JR横浜→京急横浜。



※当初の予定(家を出たときの)
 横浜=保土ケ谷→(バス)→「保土ケ谷2丁目」―(徒歩)―「原宿一里塚跡」→(バス)→戸塚=横浜

 つごう、横浜滞在約7時間の周遊でした。知らないということは、恐ろしいことでした。疲れた! 
 やれやれ。ということで、「品濃一里塚」から「江戸方見附跡」間は、省略。

 それでも、「品川」―「川崎」―「神奈川」―「程(保土)ケ谷」―「戸塚」と、都内を含め、現在残っている「旧東海道」をほぼたどってきた、かな。

  

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