「土山宿」のほぼ中央に位置する「うかい屋」。築180年の旧家を改造した民芸・茶房のおうち。なかなか趣のある店構え。時間があれば立ち寄りたいところですが。
「二階屋本陣跡」。
その先、右手の広場の奥には「東海道・伝馬館」。
大きな案内図。要所要所にあってとても親切。
「伝馬館」の入口には土山宿の「問屋場・成道学校跡」碑。
問屋場跡
問屋場は公用通行の客や荷物の人馬継立、宿泊施設の世話、助郷役の手配など宿にかかわる業務を行う場所で、宿の管理をつかさどる問屋とそれを補佐する年寄、業務の記録を行う帳付、人馬に人や荷物を振り分ける馬指・人足指らの役人が詰めていた。
土山宿の問屋場は、中町と吉田町にあったとされるが、問屋宅に設けられていたこともあり、時代とと共にその場所は移り変わってきた。明治時代の宿駅制度の廃止にともない問屋場も廃止されたが、その施設は成道学校として利用された。
その前のおうちが「八百屋」、現在も同じ商売を。
その先の右手には「問屋宅」跡。
土山宿問屋宅跡
近世の宿場で、人馬の継立や公用旅行者の休泊施設の差配などの宿駅業務を行うのが宿役人である。問屋はその管理運営を取りしきった宿役人の責任者のことで、宿に1名から数名程度おり庄屋などを兼務するものもあった。宿役人には、問屋のほかに年寄・帳付・馬指・人足指などがあり問屋場で業務を行っていた。
土山宿は、東海道をはさんで北土山村、南土山村の二村が並立する二つの行政組織が存在した。土山宿の問屋は、この両村をまとめて宿駅業務を運営していく重要な役割を果たした。
その隣には本陣跡があります。
土山宿本陣跡
土山宿は、東海道の起点である江戸日本橋より約110里、終点の京三条大橋まで約15里の位置にある。
土山宿本陣は、寛永11年(1634年)、徳川三代将軍家光が上洛の際に設けられた。現存する土山氏文書の「本陣職之事」によれば、土山家の初代は甲賀武士土山鹿之助であり、三代目喜左衛門の時に初めて本陣職を務めた。
本陣は当時の大名、旗本、幕府役人、勅使、公家等が休泊した所で、当家には当時使用されていた道具や宿帳など貴重なものが今も数多く保存され、特に宿帳は江戸時代前期から連綿と書き記されており重要な資料である。
幕末から明治初期にかけては、宮家が東西の往路の途次、土山宿に休泊されることもあり、なかでも明治元年9月の明治天皇行幸の際には、この本陣で満16歳の誕生日を迎えられ、近代日本としては初めて天長節が祝われた。この時には土山宿の住民に神酒と鯣(するめ)が下賜され、今なお土山の誇りとして語りつがれている。
幕末期に参勤交代がなくなり、さらに明治3年(1870)には本陣制度が廃止されたため、土山家本陣は十代目喜左衛門の時にその役目を終えた。
平成26年2月25日 土山の町並みを愛する会 甲賀市教育委員会
本陣の隣には石碑が二つ。明治天皇聖蹟の碑と井上圓了が詠んだ漢詩碑。
漢詩の読み
鈴鹿山の西に、古よりの駅亭あり。
秋風の一夜、鳳輿(ほうよ)停る。
維新の正に是、天長節なり。
恩賜の酒肴を今賀(いわい)に当てる。
土山駅先帝行在所即吟 井上圓了道人
解 説
この漢詩は、大正3年、佛教哲学者で有名なる井上圓了博士がたまたま、土山本陣跡に来られた時、第十代の本陣職であった土山盛美氏が、この本陣について説明された中に、この本陣に明治天皇が明治元年9月22日の夜に一泊なされ、その日が偶然にも天皇即位最初の誕生日に当たり、次の日この本陣で祝賀式が挙行され、祝として土山の住民全戸へ酒・肴を御下賜あった事を述べると、井上博士は非常に感激して、即座にこの漢詩を書置かれたものである。
明治期の天長節。当初、上のように旧暦9月22日でしたが、明治6年の改暦以降は新暦に換算した11月3日となりました。現在は、「文化の日」。こうして現在も「明治天皇」の誕生日が「祝日」になっています。
井上 圓(円)了(いのうえ えんりょう)
後の「東洋大学」となる「哲学館」を設立し、また、迷信を打破する立場から妖怪を研究し『妖怪学講義』などを著し、「お化け博士」、「妖怪博士」などと呼ばれました。
左手、「中央公民館」には林羅山の漢詩碑
林羅山の漢詩の解読と解説
(解読)
行李(あんり) 東西 久しく旅居す
風光 日夜 郷閭(きょうりょ)を憶(おも)ふ
梅花に馬を繋ぐ 土山の上
知んぬ是崔嵬(さいかい)か 知んぬ是岨(しょ)か
(意味)
東から西、西から東へと長く旅していると、途中のいろんな景色を目にする度に、故郷のことを想い起こす。
さて、今、梅花に馬を繋ぎとめているのは土山というところである。いったい、土山は、土の山に石がごろごろしているのだろうか、石の山に土がかぶさっているのだろうか。
(解説)
作者、林羅山は、徳川幕府に仕えた江戸前期の儒学者。
号を道春という。
家康没後の元和2年(1616年)、羅山34歳のとき、江戸を出発し、東海道を経て故郷の京都へ向かう。
この詩は、途中の土山で詠んだもので、この間の紀行記『丙辰紀行』に掲載されており、その前文に「『釋詁毛傳』などに石山を土の山とよみ、土山を石の山とよむことを思いて」この詩を詠んだとある。
その先の交差点を過ぎると右手に句碑。
高桑闌更「土山や 唄にもうたふ はつしぐれ」。
2本並んで「本陣」と「問屋場」の跡。
少し離れて「高札場」の跡。
大黒屋本陣
土山宿の本陣は、土山氏文書の「本陣職之事」によって、甲賀武士土山鹿之助の末裔土山氏と土山宿の豪商大黒屋立岡氏の両氏が勤めていたことがわかる。
土山本陣は寛永11年(1634年)、三代将軍家光が上洛の際設けたのがそのはじまりであるが、参勤交代制の施行以来諸大名の休泊者が増加し、土山本陣のみでは収容しきれなくなり、土山宿の豪商大黒屋立岡氏に控本陣が指定された。
大黒屋本陣の設立年代のついては、はっきりと判らないが、江戸中期以降、旅籠屋として繁盛した大黒屋が土山本陣の補佐宿となっている。古地図によると、当本陣の規模は、土山本陣のように、門玄関・大広間・上段間をはじめ多数の間を具備し、宿場に壮観を与えるほどの広大な建築であったことが想像される。
「大黒橋」。「鈴鹿馬子唄」。
いよいよ「土山宿」ともお別れです。
振り返って望む。
「国道1号線」南土山交差点へ。
その合流付近には「土山宿」の解説板。
東海道土山宿
土山町は、平安時代に伊勢参宮道が鈴鹿峠をこえる旧東海道筋を通るようになって以来、難所を控える宿駅として発達してきた。
源頼朝が幕府を鎌倉に開くと従来の京都中心の交通路は、京都と鎌倉とを結ぶ東西交通路線が一層重要視されるようになり、武士の往来のみならず商人、庶民の通行も以前に増して盛んになった。とくに江戸幕府は、伝馬制度を整備し、宿駅を全国的規模で設け、土山宿は、東海道五十三次の第四十九番目の宿駅に指定されてから、宿場町として真に隆盛しはじめた。
宿場の主体をなしたのは御役町で、そこには公用人馬の継立てなどをつかさどる問屋場、公用者の宿泊などのための本陣、脇本陣やそのほか公用にあたるものが住み、幕府は御役町の保護のために、地子の免除その他の特権を与えていた。この御役町を中心に一般の旅人のための旅籠や店、茶屋などがあり、全体が街道のわきに細長く宿場町を形成していた。
平成7年3月 土山町教育委員会 (注:現在「土山町」は、甲賀市に編入されている。)
「二階屋本陣跡」。
その先、右手の広場の奥には「東海道・伝馬館」。
大きな案内図。要所要所にあってとても親切。
「伝馬館」の入口には土山宿の「問屋場・成道学校跡」碑。
問屋場跡
問屋場は公用通行の客や荷物の人馬継立、宿泊施設の世話、助郷役の手配など宿にかかわる業務を行う場所で、宿の管理をつかさどる問屋とそれを補佐する年寄、業務の記録を行う帳付、人馬に人や荷物を振り分ける馬指・人足指らの役人が詰めていた。
土山宿の問屋場は、中町と吉田町にあったとされるが、問屋宅に設けられていたこともあり、時代とと共にその場所は移り変わってきた。明治時代の宿駅制度の廃止にともない問屋場も廃止されたが、その施設は成道学校として利用された。
その前のおうちが「八百屋」、現在も同じ商売を。
その先の右手には「問屋宅」跡。
土山宿問屋宅跡
近世の宿場で、人馬の継立や公用旅行者の休泊施設の差配などの宿駅業務を行うのが宿役人である。問屋はその管理運営を取りしきった宿役人の責任者のことで、宿に1名から数名程度おり庄屋などを兼務するものもあった。宿役人には、問屋のほかに年寄・帳付・馬指・人足指などがあり問屋場で業務を行っていた。
土山宿は、東海道をはさんで北土山村、南土山村の二村が並立する二つの行政組織が存在した。土山宿の問屋は、この両村をまとめて宿駅業務を運営していく重要な役割を果たした。
その隣には本陣跡があります。
土山宿本陣跡
土山宿は、東海道の起点である江戸日本橋より約110里、終点の京三条大橋まで約15里の位置にある。
土山宿本陣は、寛永11年(1634年)、徳川三代将軍家光が上洛の際に設けられた。現存する土山氏文書の「本陣職之事」によれば、土山家の初代は甲賀武士土山鹿之助であり、三代目喜左衛門の時に初めて本陣職を務めた。
本陣は当時の大名、旗本、幕府役人、勅使、公家等が休泊した所で、当家には当時使用されていた道具や宿帳など貴重なものが今も数多く保存され、特に宿帳は江戸時代前期から連綿と書き記されており重要な資料である。
幕末から明治初期にかけては、宮家が東西の往路の途次、土山宿に休泊されることもあり、なかでも明治元年9月の明治天皇行幸の際には、この本陣で満16歳の誕生日を迎えられ、近代日本としては初めて天長節が祝われた。この時には土山宿の住民に神酒と鯣(するめ)が下賜され、今なお土山の誇りとして語りつがれている。
幕末期に参勤交代がなくなり、さらに明治3年(1870)には本陣制度が廃止されたため、土山家本陣は十代目喜左衛門の時にその役目を終えた。
平成26年2月25日 土山の町並みを愛する会 甲賀市教育委員会
本陣の隣には石碑が二つ。明治天皇聖蹟の碑と井上圓了が詠んだ漢詩碑。
漢詩の読み
鈴鹿山の西に、古よりの駅亭あり。
秋風の一夜、鳳輿(ほうよ)停る。
維新の正に是、天長節なり。
恩賜の酒肴を今賀(いわい)に当てる。
土山駅先帝行在所即吟 井上圓了道人
解 説
この漢詩は、大正3年、佛教哲学者で有名なる井上圓了博士がたまたま、土山本陣跡に来られた時、第十代の本陣職であった土山盛美氏が、この本陣について説明された中に、この本陣に明治天皇が明治元年9月22日の夜に一泊なされ、その日が偶然にも天皇即位最初の誕生日に当たり、次の日この本陣で祝賀式が挙行され、祝として土山の住民全戸へ酒・肴を御下賜あった事を述べると、井上博士は非常に感激して、即座にこの漢詩を書置かれたものである。
明治期の天長節。当初、上のように旧暦9月22日でしたが、明治6年の改暦以降は新暦に換算した11月3日となりました。現在は、「文化の日」。こうして現在も「明治天皇」の誕生日が「祝日」になっています。
井上 圓(円)了(いのうえ えんりょう)
後の「東洋大学」となる「哲学館」を設立し、また、迷信を打破する立場から妖怪を研究し『妖怪学講義』などを著し、「お化け博士」、「妖怪博士」などと呼ばれました。
左手、「中央公民館」には林羅山の漢詩碑
林羅山の漢詩の解読と解説
(解読)
行李(あんり) 東西 久しく旅居す
風光 日夜 郷閭(きょうりょ)を憶(おも)ふ
梅花に馬を繋ぐ 土山の上
知んぬ是崔嵬(さいかい)か 知んぬ是岨(しょ)か
(意味)
東から西、西から東へと長く旅していると、途中のいろんな景色を目にする度に、故郷のことを想い起こす。
さて、今、梅花に馬を繋ぎとめているのは土山というところである。いったい、土山は、土の山に石がごろごろしているのだろうか、石の山に土がかぶさっているのだろうか。
(解説)
作者、林羅山は、徳川幕府に仕えた江戸前期の儒学者。
号を道春という。
家康没後の元和2年(1616年)、羅山34歳のとき、江戸を出発し、東海道を経て故郷の京都へ向かう。
この詩は、途中の土山で詠んだもので、この間の紀行記『丙辰紀行』に掲載されており、その前文に「『釋詁毛傳』などに石山を土の山とよみ、土山を石の山とよむことを思いて」この詩を詠んだとある。
その先の交差点を過ぎると右手に句碑。
高桑闌更「土山や 唄にもうたふ はつしぐれ」。
2本並んで「本陣」と「問屋場」の跡。
少し離れて「高札場」の跡。
大黒屋本陣
土山宿の本陣は、土山氏文書の「本陣職之事」によって、甲賀武士土山鹿之助の末裔土山氏と土山宿の豪商大黒屋立岡氏の両氏が勤めていたことがわかる。
土山本陣は寛永11年(1634年)、三代将軍家光が上洛の際設けたのがそのはじまりであるが、参勤交代制の施行以来諸大名の休泊者が増加し、土山本陣のみでは収容しきれなくなり、土山宿の豪商大黒屋立岡氏に控本陣が指定された。
大黒屋本陣の設立年代のついては、はっきりと判らないが、江戸中期以降、旅籠屋として繁盛した大黒屋が土山本陣の補佐宿となっている。古地図によると、当本陣の規模は、土山本陣のように、門玄関・大広間・上段間をはじめ多数の間を具備し、宿場に壮観を与えるほどの広大な建築であったことが想像される。
「大黒橋」。「鈴鹿馬子唄」。
いよいよ「土山宿」ともお別れです。
振り返って望む。
「国道1号線」南土山交差点へ。
その合流付近には「土山宿」の解説板。
東海道土山宿
土山町は、平安時代に伊勢参宮道が鈴鹿峠をこえる旧東海道筋を通るようになって以来、難所を控える宿駅として発達してきた。
源頼朝が幕府を鎌倉に開くと従来の京都中心の交通路は、京都と鎌倉とを結ぶ東西交通路線が一層重要視されるようになり、武士の往来のみならず商人、庶民の通行も以前に増して盛んになった。とくに江戸幕府は、伝馬制度を整備し、宿駅を全国的規模で設け、土山宿は、東海道五十三次の第四十九番目の宿駅に指定されてから、宿場町として真に隆盛しはじめた。
宿場の主体をなしたのは御役町で、そこには公用人馬の継立てなどをつかさどる問屋場、公用者の宿泊などのための本陣、脇本陣やそのほか公用にあたるものが住み、幕府は御役町の保護のために、地子の免除その他の特権を与えていた。この御役町を中心に一般の旅人のための旅籠や店、茶屋などがあり、全体が街道のわきに細長く宿場町を形成していた。
平成7年3月 土山町教育委員会 (注:現在「土山町」は、甲賀市に編入されている。)
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