おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

富士山初冠雪。そして、「土山宿」あれこれ。・・・(「道の駅土山」から「三雲駅」まで。その1。)

2015-10-14 23:09:48 | 旧東海道
 
                 新幹線車窓からの富士山。

 富士山に初冠雪が観測された翌12日(月)。「東海道」の旅に出ました。

 6時30分東京発「のぞみ」で「京都」。そして「草津」を経て草津線「貴生川」駅。10:05発の「あいくるばす」で「田村神社前」=「道の駅・あいの土山」に着いたのが10時35分過ぎ。
 ここが、前回の最終地点。「あいくるばす」にこれでつごう二度お世話になりました。料金250円は安く、ありがたい!
食堂で腹ごしらえをし、10時50分過ぎ、さて出発。

 「土山宿」の中心に入っていきます。「田村神社」のところの解説文では「海道橋(田村川橋)」が出来る前は、現在の「国道1号線」の南側を徒渉していた、とのこと。この道がかつての道筋につながる?

 

このように道路は赤茶色に塗られています。

                    案内図と「土山宿」の石碑。

    

さすが発祥の地。これから先は、「飛び出し」坊やと共に。

それぞれの家にはかつての屋号が。「たば古屋」。

「お六櫛商・三日月屋」。

 これから先「三日月屋」の屋号が目立ちます。その「お六櫛」。

お六櫛(おろくぐし) 

 長野県木曽郡木祖村薮原で生産される長野県知事指定の伝統工芸品。梳き櫛。(整髪具の櫛には、髪を梳かす梳き櫛と、髪に飾る挿し櫛などがある。)
 その名は、大きさが六寸だったからという説など諸説あるが、最も有名なものは、お六説。
 元禄年間(1688年 - 1704年)、持病の頭痛に悩んでいた村娘お六が、治癒を祈って御嶽山に願いをかけたところ、ミネバリで櫛を作り、髪をとかしなさいというお告げを受けた。お告げのとおりに櫛を作り髪を梳いたところ、これが治った。ミネバリの櫛の名は広まり、作り続けられることになった。

 (「Wikipedia」参照)

 お六櫛の材料になるミネバリの木は、カバノキ科の落葉高木で成長がとても遅く1ミリ太るのに3年かかると言われています。 それだけに目の詰まった木質となり、斧が折れるほど堅いことからオノオレ(斧折れ)カンバの名を持ちます。
その堅さゆえ、印材やソロバン玉、ピアノの鍵盤などに使われてきました。堅さのほかに独特のネバリが特長で、精緻な梳き櫛の材料として、他のどんな木材よりも優れていいるといわれています。

       (HPより)

        「お六櫛」
 (HPより)

 それにしても、生産地の木曽・薮原から「土山宿」まで直線距離にして約175㎞。木曾街道(中山道)、飛騨街道を南下し、尾張から伊勢街道(東海道)を経て土山に。現在、車を使っても約230㎞で4時間半はゆうにかかるほどの距離。
 当時の物流、交易の、思ったよりも広いことを感じます。

     (図は「木曽のお六櫛公式サイト」HPより)

左手にそれに因んだ句碑。

 上島鬼貫は、大阪の伊丹で生まれた俳人で、東の芭蕉、西の鬼貫とも言われ、独自の俳諧の境地を拓いた人である。この俳句は、上島鬼貫が、貞享3年(1686)の秋に、東海道の旅の途中、土山に寄り、お六櫛を買い求め、鈴鹿の山へ向かう時に詠んだ句である。

 土山の町並みを愛する会

            吹けばふけ 櫛を買いたり 秋乃風 

 「扇屋伝承文化館」。「本家櫛所」の看板も。

 江戸時代、宿場町として栄えた土山宿で扇や櫛を販売していた商家「扇屋」を地域の住民が購入し、平成21年に開館したものです。
 地域の良さ、古き文化の伝承と旧東海道を散策する人の憩いの場となることを願っております。

 扇屋社中一同

振り返って宿内を望む。

しばらく進むと右手に「東海道一里塚跡」碑。
                                    日本橋から110里目の「土山一里塚」。

東海道一里塚跡
 旅行者の便をはかって街道の一里毎にその目印として設置されたのが一里塚である。
 この制度が整ったのは慶長8年(1603年)徳川家康が日本橋を架設し、翌九年この橋を起点として東海、東北、北陸の諸街道を修理し、そのおり一里三十六町毎に道の左右に相対して一里塚を築き、塚の上には榎などを植えて遠くからでも望見できるよう旅行者の便をはかったことにはじまっている。甲賀市土山町内設置場所は山中地先、土山地先、大野市場地先であったが、現在その跡はほとんど残っていない。土山のこの地名を一里山と呼称しているのもこの一里塚に起因している。
 塚の規模は、およそ高さ2.4米、円周12米の大きさであったらしい。この近くで塚の形をほぼ残しているのは亀山市の野村一里塚で、塚の上には椋が植えられている。

 土山の町並みを愛する会 甲賀市教育委員会


    まだ宿場は続きます。

 「道の駅・あいの土山」には大勢の人がいましたが、宿内には人通りはなし。時折、車が通ります。新しいバージョンの「飛び出し」坊やがお出迎え。

 

「油屋権右衛門」。

    
 「来見(くるみ)川」。「お茶を摘めつめ しっかり摘みやれ 唄いすぎては 手がお留守(土山茶もみ唄)」。

                

「土山宿旅篭六屋跡」。

 道の両側には次々と「旅籠跡」の石碑が登場します。

        

 左手に「井筒屋」、右手には「平野屋」。どちらも森鴎外ゆかりの旅籠です。
 
    

森白仙終焉の地(井筒屋跡)
 文豪森鴎外の祖父、白仙は、文久元年(1861年)11月7日、ここ旅籠井筒屋で病死した。森家は岩見国津和野藩亀井家の典医として代々仕える家柄であり、白仙もまた江戸、長崎で漢学、蘭医学を修めた医師であった。
 万延元年(1860年)藩主の参勤交代に従い江戸へ出向し、翌5月に藩主は在府の任が解かれて帰国することとなったが、白仙は病のため随従することが出来なかった。やむなく江戸で養生した後、10月になり二人の従者を伴って帰国の途についたが、長旅の疲れもあり、11月6日投宿した井筒屋で発病し、翌7日急死した。遺骸はこの近くの河原の墓地に埋葬された。
 明治33年3月2日、陸軍小倉師団の軍医部長であった鴎外は東京への出張の途次にこの地を訪れ、荒れ果てていた白仙の墓を見かねて、南土山の常明寺に改葬を依頼した。後に白仙の妻清子、娘のミネ(鴎外の母)の遺骨も常明寺に葬られたが、3人の墓碑は昭和28年に鴎外の眠る津和野永明寺に移葬された。

 平成27年1月 甲賀市教育委員会 土山の町並みを愛する会


森鴎外の泊まった平野屋
 平野屋は、鴎外が祖父白仙の墓参のために土山を訪れ、明治33年3月2日に一泊した旅籠である。
 「墓より寺に還りてこれを境内に移さんことを議す。固道(当時の常明寺住職)許諾す。」乃ち金を借りて明日来り観んことを約して去る。寺を出つるころおほひ天全く晴る。平野屋藤右衛門の家に投宿す。宿舎井筒屋といふもの存ぜりやと問ふに、既に絶えたり。」 小倉日記

 平成17年12月 土山の町並みを愛する会

宿内を振り返って望む。

 地元の意欲的な取り組みに感心します。

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