おやじのつぶやき

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蛎殻町公園。有馬小。(震災復興52小公園。その21。)

2013-12-17 23:00:03 | 震災復興小公園

⑤蛎殻町公園(有馬小)
「由来碑」。左が「切絵図」(幕末・1850年頃のようす)。

蛎殻町公園の由来
 この蛎殻町辺は、江戸時代の切絵図によると周囲を堀割で囲まれた武家地で、大名の下屋敷が建ち並ぶ静かな落ち着いた町並みであったと思われます。
 蛎殻町公園のあるこの場所も、江戸時代、松平三河守(津山藩主)の下屋敷があったところで、その後京都出身の豪商杉村甚兵衛氏の屋敷となり、現在公園内にある大イチョウも、当時、かなりの大木として育っていました。
 大正12年の関東大震災の時には、近所の人達がその広い庭園内に難を逃れて助かった話も伝わっています。その後、震災復興御計画により、蛎殻町公園として整備され、昭和6年4月に開園しました。
 このたび、有馬小学校と蛎殻町公園を改修整備するにあたりこの地域の歴史を思い起こさせる江戸情緒のある築地塀と門構えを造って町並み景観に特色をもたせ、往時をしのぼうとするものです。
平成元年4月   中央区土木部公園緑地課

隅田川最下流付近にあたり、古くから市街地を形成していた。地形的には、流入する土砂の集積で、この辺りの標高は、海抜2㍍。(「今昔マップ」より)


1880年代のようす。(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。中央に「有馬小」の名。現在地よりも北にあったようだ。「松平邸」跡が現在の「有馬小」の位置と思われる。
 右の堀割は「浜町川」か? 「久松小」の西側にあった流れの下流にあたり、隅田川に注いでいた。


2010年代のようす。(「同」より)。

現在の公園正面。問門構えと築地塀に特色が。
奥が「有馬小」。
校庭の北側と西側を囲むように公園がある。
設立当初とは学校のと公園の位置は異なるが、一体型というコンセプトは引き継がれている。

 この公園は「有馬小学校校庭」と「蛎殻町公園」とを一体的に整備してつくられたものです。利用に当たっては有馬小・幼稚園の児童・幼児等が使用する時間帯と一般の皆さんが利用できる時間帯が区分されています。・・・
土曜日のせいか、校庭も開放されていた。公園と校庭が一体のため、学校長名でこんな掲示がある。一般の校庭や公園ではありえない。
校舎側から西を臨む。奥に古い色づいたイチョウの木がある。
左が校舎。
藤棚。
遊具施設があるコーナー。
落ち着いた雰囲気の公園。

道路をはさんだ西側の一角も公園の一部となっている。お尻を見せるサンタ。西側は「ロイヤルパークホテル」。
喧噪の中での憩いの場所に。
見上げると、首都高(箱崎インター付近)。

1965~68年のようす(「今昔マップ」より)。上から「久松小」「有馬小」「箱崎小」。堀割(浜町川)がまだあります。「有馬小」と「箱崎小」の間にある堀割は現在埋め立てられ、首都高の橋脚部分になっている。堀割の南を通るのが、「箱崎湊橋通り」。左上から下に流れるのが、「日本橋川」。上は、現在ほとんど首都高。

・有馬小

 校名は旧久留米藩主有馬頼咸の寄付を受けて創立されたことに由来する。
 1873年に「幼童学所」として創立。翌年、第一大学区第一中学区第六番公立有馬小学校となる。
 1945年には「付属幼稚園の形で有馬幼稚園」が開園。(戦前からの長い歴史を持つ幼稚園)
 今年で、創立140周年を迎えた伝統校。

1927(昭和2)年完成の校舎(鉄筋コンクリート造り)。1987(昭和62)年に現在の校舎が完成するまで使われていた。(「有馬小」HPより)「戦災復興校舎」の一つ。
 「有馬小学校は今年度学校創立140周年・有馬幼稚園は開園68周年の節目の年を迎えました。今年度在籍している子ども達が、将来に夢と希望を抱けるように様々な取り組みを計画しています。」(「同」HPより)
校舎校庭側のベランダには「祝 開校140周年 開園68周年」の文字が。

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