おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

佃公園。さし石。もんじゃ。佃煮。・・・(震災復興52小公園。番外編。その11。)

2014-01-13 22:36:43 | 震災復興小公園
 佃島(石川島)の西側地域。
住吉小橋から東を望む。右手が旧佃島。左手が石川島。中央奥が新佃島。
堀割を囲むように広がる「佃公園」。
隅田川との水門を望む。水門手前に架かる橋が「住吉小橋」。
お神楽を奏する舞台を模したような四阿。
漁船が停泊している。中央奥が住吉神社。
佃小橋。欄干が朱塗りなのは住吉神社との関連。
中央奥は超高層マンション群。
《佃川支川(佃堀)》
佃川は佃と月島の間を流れていた川。佃大橋が完成すると埋め立てられたが、その北側にあって、旧佃島を囲むように流れていた運河は、現在もL字型の堀割として残っている。
 隅田川への入口には氏神として知られる住吉神社の名に因んだ住吉水門が建てられ、また住吉小橋、佃小橋が架けられている。
 佃小橋のたもとは、住吉神社の3年に一度の例祭時に建てられる大幟の竿や台座となる抱木(だき)と呼ばれる巨大な木材を埋設する場所となっている。
立て札。
 この木材は3年に1度の例祭毎に、現在の佃1丁目(旧佃島)の男子のみで構成される佃住吉講の人々によって、掘り起こされる、とか。
中央、佃島渡船場を望む。この一角が旧佃島。
「さし石」の一つ。運河沿いの小さな鳥居の脇に3個。長径50cm前後の楕円形の石で、どれにも「さし石」の刻銘がある。
 佃島では漁業に従事する若い衆などが、力競べとして石を持ち上げることが盛んに行われた。石の1つに「佃大市」「佃辰」「佃清」「吉松」など佃ゆかりの力持ちの名も刻まれ、力競べの習慣を今日に伝えている。一般的には、「力石」と名付けられている。無銘なものがほとんどの中で、ここは珍しい。

 ※ 同じような石が「足立区郷土博物館」で展示されている。
「力石」。無銘の石。左奥にいくつも置かれている。

 (以下、「wikipedia」による)
 力石(ちからいし)は、力試しに用いられる大きな石。江戸時代から明治時代まで力石を用いた力試しが盛んに行われた。伝説的な人物が投げたと言い伝えられる力石も各地にある。
 力石の存在が確証されるのは、16世紀に作られた「上杉本洛中洛外図屏風」で、弁慶石の銘を持つ力石が描かれている。また、1603年の日葡辞書に力石の項があり、「力試しをする石」とされている。江戸時代の連歌に「文治二年の力石もつ」という句があり、おそらく文治二年(1186年)の銘か言い伝えがある力石があったのであろう。現存する力石に刻まれた年としては、寛永9年(1632年)が知られているかぎりもっとも古い。
 江戸時代から明治時代にかけては力石を用いた力試しが日本全国の村や町でごく普通に行われていた。個人が体を鍛えるために行ったり、集団で互いの力を競いあったりした。神社の祭りで出し物の一つとして力試しがなされることもあった。
 20世紀後半に力試しの習俗は廃れ、かつてあった力石のほとんどは行方不明になった。一部では住民が喪失を惜しんで力石を神社に奉納、境内に安置した。また後には自治体の民俗文化資料館に置かれたり、看板を立てて所在と由来を示したりして残された。21世紀初めまでに高島愼助が調査して報告した数は約14000、市町村が有形文化財とした力石は約350個、無形文化財に指定された力持ち(力試し)は1ある。また、18の力持ちの大会が神社の祭りや非宗教的大会として開催されている。
 石の形は表面が滑らかな楕円形が多い。滑らかな石は持ち上げにくいが、体に傷をつけずにすむ。ほとんどの力石は60キログラムより重い。米俵より軽くてはわざわざ石を用意する意味がないという事であるらしい。上限は様々で、中には300キロに達するものもある。あまりに重い石は一人で持ち上げることは不可能だが、それはそれで別の挑戦方法がある。
 人々は、山や川原で手ごろな大きさの石を見つけて村に持ち帰り、力石とした。重さが異なる石を複数用意することが多かった。置き場所は神社や寺社、空き地、道端、民家の庭など様々であったが、若者が集まるのに都合が良い場所であった。
 石に文字を刻むことも盛んに行われた。力石という普通名詞としての名のほか、石に与えられた固有名を刻んだものがある。また、持ち上げた人の名と年月日を記念に刻んだものもある。しかし大半は無銘で、慣習と記憶が薄れるとただの大きな石と区別がつかなくなる。
 力石を持ち上げることを、力持ち、力試し、石抱え、担ぎ上げ、盤持ち(ばんもち)などという。典型的には石を抱えて持ち上げる。持ち上げ方は、胸まで、肩まで、頭上まで、体に付けずに、など様々である。また持ち上げてから担いで歩いたり、体の周りを回したりすることもある。石に縄をかけて持ちやすくしたり、非常に重いものでは石が地面を離れればよしとしたり、倒れている石を引き起こせば良いとするなど、石の重さと個人の体力に応じて様々な条件と目標があった。
 力試しに挑戦するのは、村の若い男であった。娯楽が少なく力仕事が多い時代には、力持ちは若者のスポーツの一種であった。通過儀礼的に、力石を持ち上げられると一人前とみなされた村もある。しかし過去に一、二の人しか持ち上げられなかったという石もあり、力試しの位置づけもまた多様である。
 伝説上の人物が持ち上げたり放り投げたりしたと伝えられる力石が、やはり全国各地にある。たいていは一人では持ち上げられそうにない巨石である。

佃公園の南側。隅田川からの入り江(運河)は、ここまで。
奥に見えるのが「佃小橋」。

「佃島漁業協同組合」と記された漁船。

 超高層マンション群と漁村の雰囲気を残す一角と。味わい深い街並みです。

    
                     西仲商店街。平日はさすがに人出も少ない。

日曜の午後は人出も多く、賑わいを見せている。

1番街~4番街まである。
長い直線の道路両側にお店が並んでいる。商店街だけで約40軒、路地も含めると70軒以上のもんじゃ屋があるらしい。

 ただし、歴史のある店は数店であり、他の店は昭和50年代後半の「もんじゃブーム」で他の商店からもんじゃ屋にくら替えしたケースが多いらしい。もんじゃ焼きの店でも、お好み焼きも供するのが一般的である。
 月島最古の店は、昭和25年創業の「近どう本店」とか。
もんじゃ。
 「もんじゃ(焼き)」は、お好み焼きの原型となった料理。小麦粉を溶かす水の量が多く、またソースなどの調味料を一緒に混ぜ込んでしまうのが特徴。鉄板にコテ(ハガシ)で押さえつけて焼きながら食べるので、鉄板に接する表面部分はパリッとし、押さえつけが足りない部分はトロッとしている。それぞれの好みが出る。
 もんじゃ屋さんは、東京では下町地区に多く、隅田川以東の墨田区・江東区・台東区・荒川区など。

こちらは、佃煮の老舗が並ぶ。旧佃島の一角。佃大橋の東のたもと。


《佃煮の由来》

 江戸時代、徳川家康は名主・森孫右衛門に摂津国の佃村(現在の大阪市西淀川区佃)の腕の立つ漁師を江戸に呼び寄せるよう言い、隅田川河口・石川島南側の干潟を埋め立てて住まわせた(東京都中央区佃島)。佃島の漁民は悪天候時の食料や出漁時の船内食とするため自家用として小魚や貝類を塩や醤油で煮詰めて常備菜・保存食としていた。雑魚がたくさん獲れると、佃煮を大量に作り多く売り出すようになったといわれ、保存性の高さと価格の安さから江戸庶民に普及し、さらには参勤交代の武士が江戸の名物・土産物として各地に持ち帰ったため全国に広まったとされる。
 なお、以上の説に対しては異説もある。
・1858年(安政5年)に青柳才助が創始したとする説。
・1862年(文久2年)に鮒屋佐吉が創始したとする説。
・日本橋の伊勢屋太兵衛が創始したとする説。
・大阪・住吉明神を江戸・佃島に住吉神社として分霊したが、その祭礼では雑魚を煮詰めたものを供えていた(醬油煮説と塩煮説がある)。このことから、住吉神社に雑魚を煮詰めたものを「佃煮」として供えたことに由来するという説。

 1877年(明治10年)の西南戦争の時には、政府軍から軍用食として多量の佃煮製造が命じられた。1894年(明治27年)の日清戦争でも、多量の佃煮製造が命じられ、多量生産が行われるようになった。戦後、帰宅した兵士は戦場で食べた江戸前佃煮になじんでおり、これは一般家庭の副食となり日常食となっていった。
 現代では、佃煮の素材や味付けの種類が増えると共に、包装の工夫により販売や保存が楽になったことから、消費は益々ふえていった。
 今では全国各地に佃煮の産地がある。小豆島は、醤油の産地でもあり佃煮が多く作られている。特に昆布の佃煮が全国一となるなど佃煮産業が盛んである。広島市でも佃煮製造が行われており、1904年(明治37年)から1905年(明治38年)の日露戦争で広島が陸軍の橋頭堡となった事から軍需に支えられていたという背景があり、1898年(明治31年)に楠原政之助が広島市中区にて漬物佃煮の缶詰を製造し販売された[9][10]。焼津市は鰹の佃煮生産高が高く、地域によっては特徴のある製品が製造販売されている。
 本来の江戸前佃煮とは、常温で夏でもおにぎりや弁当に入れても傷まない辛口のものが安心で重宝された。現在も3軒だが、職人の技により手造りの旧来の味付けの佃煮も受け継がれている。
 丸久    1丁目2番 03-3531-4823
 天安本店  1丁目3番 03-3531-3457
 佃源田中屋 1丁目3番 03-3531-2649

(以上、「Wikipedia」参照)

去年の暮れ、佃島に住んでいる方から、地元のお店の佃煮セットをたまたま頂いたので。小瓶に分けておき、けっこう食べてしまいました。昆布、小女子、おかか、アミなど。甘辛くておいしい。

《佃の由来》
 佃島は元は江戸湊の沖の寄州に過ぎなかった。寄州とは川口付近にできる堆積地。本能寺の変のとき摂津国西成郡田蓑村の見一孫右衛門が、同国神崎川の急な出水で渡るに難渋している徳川家康の一行を助けたことで信任を得て、森の姓と佃の村名を賜った。
 のち家康が江戸に領地を与えられると、そのことが縁で江戸の漁業資源開発を懇請される。そこで孫右衛門は幾度か江戸に参府し家康から江戸湊内の漁業権を完全保障されたので漁師33人を引き連れて江戸に下り、安藤対馬守重信の敷地内(小網町)に仮寓しながら小網(百間張り出しの地引網)漁で漁業を始めるとともに、正保元年(1644)までに当時は「向島」と呼んでいた沖の寄州を填埋して陸地を造成し家宅を建て、故郷田蓑村に頂戴した佃を冠して「佃島」と命名した。
 因みに佃は「田を作る、また作った田圃」のこと。孫右衛門はそこまで見届けると弟の忠兵衛を名主として島に住まわせ、自らは本国摂津に帰り年々出府して目を届かせた。忠兵衛は六代までは佃姓を名乗ったが七代からは森姓に戻し幸右衛門を代々名乗りとした。
 佃島は俗に〝漁師町〟と呼ばれ、白魚献上の御用を承りつつ魚河岸を差配した。毎年11月から翌年3月まで佃沖で篝火(かがりび)を焚いて行う白魚漁は錦絵にも描かれた江戸風物詩の一つだった。
 
(以上、「東京の地名の由来 東京23区辞典」参照)

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