2カ所の病院への「労災」の手続きも終わり、あとはリハビリに専念するのみ、と。
さて、
「洗足池」。初めて訪れました。
思ったよりも、けっこう大きな池。
東京都大田区南千束の洗足池公園内にある池である。東京都指定名勝。
園内にはホタルの自生化に取り組む水生植物園、厳島神社が鎮座する弁天島、池月橋など見どころも多い。サクラ(桜)が群生する「桜広場」「桜川」も人気が高い。
湧水池であり、流れ込む川はないが、付近一帯には農家が作物の洗い場として利用していた大小の湧水が多くあり、用水路を通して池に流れ込んでいた。洗足池の主要水源となる湧水は4か所あったとされ、現在は清水窪弁財天(大田区北千束1-26。東京の名湧水57選の一つ)の湧水が残っている。今も水量が豊富で、浸透管を用いて洗足池に流れている。
この地域の古い地名は「千束」(せんぞく)であって、その名は平安時代末期の文献にも見られる。由来としては仏教用語の千僧供料(せんそうくりょう)の寺領の免田であって、千束の稲が貢租(税)から免除されていたとする説や、「大池」(洗足池の別称)を水源として灌漑に利用されたので稲千束分の税が免ぜられていたとする説などがある。
のちに、身延山久遠寺から常陸へ湯治に向かう途中の日蓮上人が、池のほとりで休息し足を洗ったという言い伝えが生まれ、千束の一部が「洗足」となった。
(歌川広重「名所江戸百景」より)
かつては、池のほとりに勝海舟晩年の邸宅「洗足軒」があったが戦災で焼失。現在は勝夫妻の墓が残り、大田区の文化財に指定されている。
幕末、勝は江戸総攻撃中止と江戸城無血開城を西郷隆盛に直談判するため、官軍の薩摩勢が本陣をおいた池上本門寺へ向かう途中、洗足池のほとりで休息した。明治維新後、池の風光明媚を愛した勝が移住し、西郷もここを訪ねて勝と歓談したと言う。勝夫妻の墓の隣に「西郷隆盛留魂碑」が建つ。これは、西郷が西南役に倒れた後、当時の東京府南葛飾郡の浄光院境内に勝が自費で建てたもの。1913年(大正2年)に荒川放水路開鑿に伴い、当地に移建された。
2019年(令和元年)9月7日、洗足軒隣接地に勝海舟記念館が開館した。
(この項、「Wikipedia」参照)
(現在)周囲は、すっかり高級住宅街になっている。
(1880年代)「洗足池」の脇を中原街道が続く。
「御松庵」と記されている。
現在は、右手の「大森六中」敷地内になっている。
その手前に、
「日蓮上人袈裟掛けの松 由来」案内板。
弘安5年(1282)日蓮聖人が身延山から常陸国(茨城県)に湯治に向かう途中、日蓮に帰依していた池上宗仲の館(池上本門寺)を訪れる前、千束池の畔で休息し傍らの松に袈裟をかけ池の水で足を洗ったと伝えられる。この言い伝えから、この松を袈裟掛けの松と称することとなり、また千束池を洗足池とも称せられるようになったといわれる。天保期(1830~1843)の「嘉陵紀行」によれば、初代の袈裟掛けの松は「枝四面におおい長さ幹囲み三合がかり、高さ五丈あり」程であったと記されている。なお、現在ある松は3代目であると伝えられる。
「妙福寺」山門。
当寺院は、もともとは洗足池の池畔にあった鎌倉時代に創建された「御松庵」という庵に由来する。
「御松庵」。
洗足池の 畔に昔から松が植わっていたことは確かなようで、江戸時代の浮世絵師、初代歌川広重の『名所江戸百景』のなかでは「千束の池袈裟懸松」、江戸近郊の地誌である『江戸名所図会』には「千束池袈裟掛松」として描かれました。現在でも妙福寺には、その風景を想像させる松が植わっており、名勝としての歴史的な景観を構成しています。
静寂な雰囲気の境内。
洗足池。
境内から。
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