
今日、7月7日は二十四節気のうち、「小暑」。小暑の頃は、暑さが次第に強まっていく時期にあたります。
この時期は、梅雨の末期で、集中豪雨、最近はゲリラ豪雨と呼ばれる激しい雨が梅雨前線の停滞によって局地的な激しい雨に襲われます。熱海の土石流では多くの死者、行方不明者が出てしまいました。今日も鳥取や島根では猛烈な豪雨に見舞われています。一方で、東京などは曇り空で、かなり蒸し暑くなっています。ちょっと歩くだけで汗が噴き出るありさま。
この「小暑」を5日ごとに区分すると(「七十二候」)、
・温風至(あつかぜいたる):あたたかい風が吹いてくる
・蓮始開(はすはじめてひらく):蓮の花が開き始める
・鷹乃学習(たかすなわちわざをならう):鷹の幼鳥が飛びことを覚える
となります。
「温風至」。まさにそんな感じ。早朝から24度、湿度は、80%。
「蓮始開」。数年前に「千葉公園」に「大賀ハス」を見に行ったことがあります。千葉市で発見された世界最古の花として、千葉県の天然記念物および、千葉市の市花に制定されています。
「鷹乃学習」。さすがに都会では鷹を目撃することはありませんが、我が家辺りでも小鳥の鳴き声がしきりに聞こえます。巣立ちする雛もいるのでしょう。近所の工場の屋根にはツバメが巣を作っています。
「父子鷹」(「親子鷹」)ということばがあります。子母澤寛の小説『父子鷹』に由来するようです。この小説は、勝海舟の父・小吉を主人公に子である(のちの)勝海舟の活躍を描いた作品。そこから、親子で活躍する人を「親子鷹」と言うようになりました。
そして、七夕。
天の川を挟んで向かい合うベガ(織女星)とアルタイル(牽牛星)
(「wikipedia」より)
中国では、7月7日、牽牛と織姫が会合する夜であると明記され、さらに夜に婦人たちが7本の針の穴に美しい彩りの糸を通し、捧げ物を庭に並べて針仕事の上達を祈った。7月7日に行われた乞巧奠(きこうでん・乞巧とは牽牛・織女の2星に裁縫技芸の上達を祈り、奠とは物を供える祭の意。)と織女・牽牛伝説が関連づけられている。「天の河の東に織女有り、天帝の女なり。年々に機を動かす労役につき、雲錦の天衣を織り、容貌を整える暇なし。天帝その独居を憐れみて、河西の牽牛郎に嫁すことを許す。嫁してのち機織りを廃すれば、天帝怒りて、河東に帰る命をくだし、一年一度会うことを許す」と。
日本の「たなばた」は、元来、中国での行事であった七夕が奈良時代に伝わり、元からあった日本の棚機津女(たなばたつめ)の伝説と合わさって生まれた。
「たなばた」の語源は『古事記』で「淤登多那婆多」(弟棚機)又は『日本書紀』にある「乙登多奈婆多」から。また、『萬葉集』には、「たなばたの今夜あひなばつねのごと明日をへだてて年は長けむ」 など七夕に纏わる歌が存在する。
そのほか、牽牛織女の二星がそれぞれ耕作および蚕織をつかさどるため、それらにちなんだ種物(たなつもの)・機物(はたつもの)という語が「たなばた」の由来とする説もある。
日本では、7月7日が節日と定められ、相撲御覧(相撲節会)、七夕の詩賦、乞巧奠などが奈良時代以来行われていた。その後、826年(天長3年)相撲御覧が別の日に移され、行事は分化して星合と乞巧奠が盛んになった。宮中では、庭に敷いたむしろの上に机を4脚並べて果物などを供え、ヒサギの葉1枚に金銀の針をそれぞれ7本刺して、五色の糸をより合わせたもので針のあなを貫いた。一晩中香をたき灯明を捧げて、天皇は庭の倚子に出御して牽牛と織女が合うことを祈った。また『平家物語』によれば、貴族の邸では願い事をカジの葉に書いた。二星会合(織女と牽牛が合うこと)や詩歌・裁縫・染織などの技芸上達が願われた。江戸時代には手習い事の願掛けとして一般庶民にも広がった。
(この項、「Wikipedia」参照)
ところで、七夕飾り。笹竹に、
折鶴(千羽鶴)、吹き流し、網飾り、神衣・紙衣(かみこ)、短冊等を提げ、五色の短冊には、願い事を書いて飾ります。
五色の短冊の意味
五色は、「青・赤・黄・ 白・黒(紫)」のことを指し、古代中国の陰陽五行説に基づいた色です。陰陽五行説とは、すべてのものは「陰・陽」の相反する2つの側面を持ち、「木・火・土・金・水」の5つの要素を根源とする説です。「木は青・火は赤・ 土は黄・金は白・水は黒(紫)」を表しています。この五色を短冊や吹き流しに使用することにより、魔除けの意味を持たせたと言われています。江戸時代の短冊には、主に文芸の上達に関する願い事が書かれました。また、願い事の他に「天の川」など七夕にちなんだ言葉や絵を書くこともありました。
(この項、「」HPより)
「下町七夕まつり」。
さて、五月雨(梅雨)というと、源氏物語「帚木」の巻・「雨の夜の品定め」が思い浮かびます。
五月雨の夜、17歳になった光源氏のもとに、義兄の頭中将(とうのちゅうじょう)が訪ねてきます。さらに左馬頭(さまのかみ)と藤式部丞(とうしきぶのじょう)も交えて、4人で女性談義をすることになる。この場面は慣例的に『雨夜の品定め』(あまよのしなさだめ)と呼ばれます。この中で、「七夕」にかこつけた話題が出てきます。
「・・・はかなきあだ事をもまことの大事をも、 言ひあはせたるにかひなからず、龍田姫と言はむにもつきなからず、 織女の手にも劣るまじくその方も具して、うるさくなむはべりし」
とて、(左馬頭は)いとあはれと思ひ出でたり。(頭)中将、
「その織女の裁ち縫ふ方をのどめて、長き契りにぞあえまし。げに、その龍田姫の錦には、またしくものあらじ。はかなき花紅葉といふも、をりふしの色あひつきなく、はかばかしからぬは、露のはえなく消えぬるわざなり。さあるにより、難き世とは定めかねたるぞや」
と、言ひはやしたまふ。
「・・・風流なことでも実生活のことでも、話し合うかいがあり、龍田姫といってもいいほど染色の技能もあり、織姫にも劣らないほど、裁縫の腕も兼ね備え、たいした女であった」と言って、左馬頭は(あっという間に亡くなった)その女をしみじみと思い出している。頭中将は、「その織女のような裁縫の腕はさし置いても、(せめて七夕の)長い契りにあやかりたいものだ。本当に、その龍田姫の錦(染め)以上のものはいないでしょう。それほどでもない花紅葉にしても、折々の季節の色合いとが悪く、はかばかしくないのは、まったく露のごとくあっという間に消えるようなつまらないものだ。そう思うと、良き妻を選ぶのは難しく、決めかねるものだね」と言いはやす。
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