さてまず「寺台」宿に向かい、さらに「大栄」に向かいます。「創業元禄2年 不動」のお店を左折します(10:15)。
鍋屋源五右衛門の暖簾が。
鍋店(なべだな)の由来
当社の商号であるなべだなは古く江戸時代に遡り、金座や銀座、または釜座などのいわゆる『座』の一つである『鍋座』に由来します。
当時鉄類は有事の際には武器製造の重要な材料であった為、幕府はこの鉄類の製造権利を信用ある地方の素封家に与えていましたが、当社の祖先はその『鍋座』を幕府より預かり管理しておりました。
一方、元禄2年(1689年)に佐倉藩より現在の製造免許にあたる酒造株(1,050株)を戴き、成田山門前にて醸造を開始しました。
当時老舗のことをお店(おたな)と呼んでいましたが、鍋座の『鍋』とおたなの『店』が結びついて『鍋店』(なべだな)と呼ぶようになったと言い伝えられています。
元禄2年(1689年)鍋店は成田山新勝寺の門前に蔵を構え、酒造りを始めましたが、現在は田園の広がる香取郡神崎町(こうざきまち)に 酒蔵を移し「仁勇・不動」を醸造しています。酒造りは、昔から新潟杜氏や南部杜氏に代表される杜氏さん達にお願いしてきましたが、『自分たちの力で個性のある酒』を造りたくて、平成9年より全て自社スタッフによる酒造りを開始しました。
蒸米・麹・もろみに至る酒造りという『生まれ』から、おり下げ・濾過・火入れ・貯蔵、そして瓶詰めに至る『育ち』まで、全ての工程を自社スタッフで行い、各工程での酒の品質状況を常に把握することにより、多くのお客様から『おいしい!』と感じて頂ける製品を出荷することを第一に考えています。
人と人の間に酒があり、心と心の間に酒がある。そんな心に響く酒を造ることが私の使命です。
(この項、「」HPより)
お酒の他にも酒粕を使用した酒まんじゅうなども販売しているそうです。
成田山方向を振り返る。
「成田公民館」のところに「竹久夢二 叙情詩『宵待草』のヒロイン長谷川カタの居住跡地」という解説板。
「まてど暮せど来ぬひとを 宵待草のやるせなさ こよひは月も出ぬさうな」、竹久夢二が恋するカタへの断ちがたい思いを込めた「宵待草」のヒロインとなった長谷川カタは、成田高等女学校に勤務していた姉シマの関係で一家が田町に住んでいました。夢二とカタとの出会いは、夢二が明治43年(1910)の夏を銚子の海鹿島で過ごした時で、同じく避暑に来ていた円らな瞳の美しいカタに恋心を抱くようになり、この時、離婚していた夢二とたびたびデートをかさねていたようです。夏の終わりに、夢二に手渡した宵待草にはカタの深い意味が隠されていたように思えます。その後、カタが夢二に宛てた書簡には、二人で過ごした熱い思いが溢れています。夢二が幾度か成田を訪れたことは彼の日記に記されています。翌年の夏に夢二が再び銚子を訪れた時には、既にカタは作曲家の須川政太郎に嫁いで鹿児島へ去っており、カタとの恋は儚いひと夏の夢となってしまいました。この想いを込めて綴られた詩が「宵待草」です。田町は、叙情詩「宵待草」のバックグランドであり、ヒロインのカタが移住していた地で、「宵待草」発祥の地ともいえます。
宵待草 よいまちぐさ
日本の歌曲/恋多き竹久夢二が少女に寄せた儚き思い
「待てど暮らせど来ぬ人を」の歌い出しで愛唱される『宵待草 よいまちぐさ』は、大正浪漫を代表する画家・詩人の竹久 夢二(たけひさ ゆめじ/1884-1934)による詩歌を原詩とする抒情歌。
千葉県銚子市での儚いひと夏の恋を歌った夢二の詩は、1912年に雑誌「少女」で発表された後、バイオリニストの多 忠亮(おおの ただすけ)により曲がつけられ、抒情歌『宵待草』として愛唱されることとなった。
『宵待草』のモチーフとなった「マツヨイグサ(待宵草)」は、夕暮れ時に黄色い花を開き、夜に咲き続けて朝にはしぼんでしまう。黄色以外は特に月見草とも呼ばれる。一夜だけ咲くマツヨイグサ(待宵草)の儚さが、夢二自身の儚いひと夏の恋と重ねられたのだろうか。
・・・
原詩を元にメロディがつけられ、以下の歌詞で抒情歌『宵待草』として人気の曲となり、今日に至っている。
待てど暮らせど来ぬ人を
宵待草のやるせなさ
今宵は月も出ぬそうな
(この項、「」HPより)
「宵待草」は「月見草」とも呼ばれ、太宰治の『富岳百景』には、
「三七七八米の富士の山と、立派に相対峙し、みじんもゆるがず、なんと言うのか、金剛力草とでも言いたいくらい、けなげにすくっと立っていたあの月見草はよかった。富士には、月見草がよく似合う」
という有名な一節があります。
竹久夢二の「宵待草」、太宰治の「月見草」は、どちらも「オオマツヨイグサ」を指しているようです。
竹久夢二の絵。「黒船屋」。(「Wikipedia」より)
かつてこの通りは、「東参道」として、けっこう賑わっていたようですが、現在は静かな家並みになっています。
成田山から寺台にかけての今昔。
1880年代のようす。成田山の門前町・参道の賑わいが知れます。
2010年代のようす。中央が「成田高校」。右手に「根木名川」。
(10:24)「名取亭」。ここから先が「寺台宿」。
「東参道」という標識。人通りはありません。
炎天下、静かな街並みを振り返る。
(10:34)「吾妻橋」からの「根木名川」。
寺台は、根木名川に寺台河岸(黒川・山小・山六の三河岸総称)を設け、銚子・江戸方面との舟運で発展しました。また、成田山へ舟で参詣する人たちはここで舟を下り、新勝寺に向かいました。水戸街道・我孫子宿から利根川沿いに進み、根木名川から成田山へ向かうコースか?
「寺台」交差点で、国道51号線と合流。広い国道。
(10:43)左手にしゃれた、おそば屋さん。
この真っ赤な花は?
ブラシノキ
オーストラリア原産で、観賞用に栽培される。5-6月頃に開花し、花弁は緑で小さくて目立たないが、赤(ときに白)の長い花糸が目立つ。穂状花序をなし、花序全体がブラシのように見える。花序の先から枝が伸びるという珍しい特徴を持つ。
果実は朔果で、見た目には枝全体を取り巻く昆虫の卵のように見える。
花言葉「恋の炎」または「はかない恋」だとか。
鍋屋源五右衛門の暖簾が。
鍋店(なべだな)の由来
当社の商号であるなべだなは古く江戸時代に遡り、金座や銀座、または釜座などのいわゆる『座』の一つである『鍋座』に由来します。
当時鉄類は有事の際には武器製造の重要な材料であった為、幕府はこの鉄類の製造権利を信用ある地方の素封家に与えていましたが、当社の祖先はその『鍋座』を幕府より預かり管理しておりました。
一方、元禄2年(1689年)に佐倉藩より現在の製造免許にあたる酒造株(1,050株)を戴き、成田山門前にて醸造を開始しました。
当時老舗のことをお店(おたな)と呼んでいましたが、鍋座の『鍋』とおたなの『店』が結びついて『鍋店』(なべだな)と呼ぶようになったと言い伝えられています。
元禄2年(1689年)鍋店は成田山新勝寺の門前に蔵を構え、酒造りを始めましたが、現在は田園の広がる香取郡神崎町(こうざきまち)に 酒蔵を移し「仁勇・不動」を醸造しています。酒造りは、昔から新潟杜氏や南部杜氏に代表される杜氏さん達にお願いしてきましたが、『自分たちの力で個性のある酒』を造りたくて、平成9年より全て自社スタッフによる酒造りを開始しました。
蒸米・麹・もろみに至る酒造りという『生まれ』から、おり下げ・濾過・火入れ・貯蔵、そして瓶詰めに至る『育ち』まで、全ての工程を自社スタッフで行い、各工程での酒の品質状況を常に把握することにより、多くのお客様から『おいしい!』と感じて頂ける製品を出荷することを第一に考えています。
人と人の間に酒があり、心と心の間に酒がある。そんな心に響く酒を造ることが私の使命です。
(この項、「」HPより)
お酒の他にも酒粕を使用した酒まんじゅうなども販売しているそうです。
成田山方向を振り返る。
「成田公民館」のところに「竹久夢二 叙情詩『宵待草』のヒロイン長谷川カタの居住跡地」という解説板。
「まてど暮せど来ぬひとを 宵待草のやるせなさ こよひは月も出ぬさうな」、竹久夢二が恋するカタへの断ちがたい思いを込めた「宵待草」のヒロインとなった長谷川カタは、成田高等女学校に勤務していた姉シマの関係で一家が田町に住んでいました。夢二とカタとの出会いは、夢二が明治43年(1910)の夏を銚子の海鹿島で過ごした時で、同じく避暑に来ていた円らな瞳の美しいカタに恋心を抱くようになり、この時、離婚していた夢二とたびたびデートをかさねていたようです。夏の終わりに、夢二に手渡した宵待草にはカタの深い意味が隠されていたように思えます。その後、カタが夢二に宛てた書簡には、二人で過ごした熱い思いが溢れています。夢二が幾度か成田を訪れたことは彼の日記に記されています。翌年の夏に夢二が再び銚子を訪れた時には、既にカタは作曲家の須川政太郎に嫁いで鹿児島へ去っており、カタとの恋は儚いひと夏の夢となってしまいました。この想いを込めて綴られた詩が「宵待草」です。田町は、叙情詩「宵待草」のバックグランドであり、ヒロインのカタが移住していた地で、「宵待草」発祥の地ともいえます。
宵待草 よいまちぐさ
日本の歌曲/恋多き竹久夢二が少女に寄せた儚き思い
「待てど暮らせど来ぬ人を」の歌い出しで愛唱される『宵待草 よいまちぐさ』は、大正浪漫を代表する画家・詩人の竹久 夢二(たけひさ ゆめじ/1884-1934)による詩歌を原詩とする抒情歌。
千葉県銚子市での儚いひと夏の恋を歌った夢二の詩は、1912年に雑誌「少女」で発表された後、バイオリニストの多 忠亮(おおの ただすけ)により曲がつけられ、抒情歌『宵待草』として愛唱されることとなった。
『宵待草』のモチーフとなった「マツヨイグサ(待宵草)」は、夕暮れ時に黄色い花を開き、夜に咲き続けて朝にはしぼんでしまう。黄色以外は特に月見草とも呼ばれる。一夜だけ咲くマツヨイグサ(待宵草)の儚さが、夢二自身の儚いひと夏の恋と重ねられたのだろうか。
・・・
原詩を元にメロディがつけられ、以下の歌詞で抒情歌『宵待草』として人気の曲となり、今日に至っている。
待てど暮らせど来ぬ人を
宵待草のやるせなさ
今宵は月も出ぬそうな
(この項、「」HPより)
「宵待草」は「月見草」とも呼ばれ、太宰治の『富岳百景』には、
「三七七八米の富士の山と、立派に相対峙し、みじんもゆるがず、なんと言うのか、金剛力草とでも言いたいくらい、けなげにすくっと立っていたあの月見草はよかった。富士には、月見草がよく似合う」
という有名な一節があります。
竹久夢二の「宵待草」、太宰治の「月見草」は、どちらも「オオマツヨイグサ」を指しているようです。
竹久夢二の絵。「黒船屋」。(「Wikipedia」より)
かつてこの通りは、「東参道」として、けっこう賑わっていたようですが、現在は静かな家並みになっています。
成田山から寺台にかけての今昔。
1880年代のようす。成田山の門前町・参道の賑わいが知れます。
2010年代のようす。中央が「成田高校」。右手に「根木名川」。
(10:24)「名取亭」。ここから先が「寺台宿」。
「東参道」という標識。人通りはありません。
炎天下、静かな街並みを振り返る。
(10:34)「吾妻橋」からの「根木名川」。
寺台は、根木名川に寺台河岸(黒川・山小・山六の三河岸総称)を設け、銚子・江戸方面との舟運で発展しました。また、成田山へ舟で参詣する人たちはここで舟を下り、新勝寺に向かいました。水戸街道・我孫子宿から利根川沿いに進み、根木名川から成田山へ向かうコースか?
「寺台」交差点で、国道51号線と合流。広い国道。
(10:43)左手にしゃれた、おそば屋さん。
この真っ赤な花は?
ブラシノキ
オーストラリア原産で、観賞用に栽培される。5-6月頃に開花し、花弁は緑で小さくて目立たないが、赤(ときに白)の長い花糸が目立つ。穂状花序をなし、花序全体がブラシのように見える。花序の先から枝が伸びるという珍しい特徴を持つ。
果実は朔果で、見た目には枝全体を取り巻く昆虫の卵のように見える。
花言葉「恋の炎」または「はかない恋」だとか。
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