JR横浜駅の西口を出て、少し西に向かうと「上台橋」。ここが「神奈川宿」探索の出発点。いざ京急・神奈川新町駅まで、というわけです。
明治後期の頃のようす(「今昔マップ」より)。Aが「上台橋」付近、Bが「青木橋」付近、Cが「滝の橋」付近。この3地点を通る道が「東海道」。
2000年代初期のころのようす(「同」より)。A,B,Cは、前の図と対応している。
「上台橋」は、1930(「昭和5)年、横浜駅方面からの切り通しの道路ができたために、その上に架けられたもの。
『神奈川駅中図会』。
「神奈川宿歴史の道」は、この上台橋より始まります。
かつてこのあたりは、潮騒の聞こえる海辺の道でした。この場所から見えた朝日は、ひときわ美しかったのでしょうか。『神奈川駅中図会』にも、その姿が描かれています。
この地に橋ができたのは、昭和五年(1930)。開発がすすみ、切り通しの道路ができるとともに、その上に橋が架けられたのです。
この橋を渡り東へ坂道を上りきると、そこに関門跡の石碑が立っています。
(HPより)
上台橋。
横浜駅西口方向を望む。「青海波」という文様。このデザインは、「神奈川宿 歴史の道」としての道づくりに際して採用され、行く先々で目にする。
「青海波」
(「www.ikiya.jp/crest/download.html」より引用)
橋のたもとにある案内板。
その地点から、旧東海道・西(保土ケ谷)の方向を望む。順路はこれから東(仲木戸・神奈川新町)方向に向かう。
緩やかな上り坂。
振り返って「上台橋」方向を望む。
東側(横浜駅西口方向・かつての海)を見下ろすと、かなりの急坂。高「台」という地名にふさわしい地形。この辺り、標高20メートル以上で崖下は4メートル以下(「今昔マップ」参照)。
「東海道」はこの高台の縁に沿ってつくられ、茶屋が軒を連ねていた。「神奈川湊」を見下ろす風光明媚なところだったことがよく分かる。
「神奈川台関所跡・袖ケ浦見晴所」碑。
「神奈川台の関門跡」
ここよりやや西寄りに神奈川台の関門があった。開港後、外国人が何人も殺傷され、イギリス総領事オールコックを始めとする各国の領事は幕府を激しく非難した。幕府は、安政6年(1859)横浜周辺の主要地点に関門や板書を設け、警備体制を強化した。この時、神奈川宿の東西にも関門が作られた。そのうちの西側の関門が神奈川台の関門である。明治4年(1871)に他の関門・番所とともに廃止された。
脇に烏丸光広の歌碑「思ひきや 袖ヶ浦波立ちかへり ここに旅寝を重ぬべしとは」がある。
碑の裏面。
裏手の高台。「見晴所」らしい雰囲気。
右手に見える高台。残念ながら上ってみることはできなかった。さぞかし眺望はいいはずだが。
この先、青木橋に向かっては少し下り坂になる。
明治後期の頃のようす(「今昔マップ」より)。Aが「上台橋」付近、Bが「青木橋」付近、Cが「滝の橋」付近。この3地点を通る道が「東海道」。
2000年代初期のころのようす(「同」より)。A,B,Cは、前の図と対応している。
「上台橋」は、1930(「昭和5)年、横浜駅方面からの切り通しの道路ができたために、その上に架けられたもの。
『神奈川駅中図会』。
「神奈川宿歴史の道」は、この上台橋より始まります。
かつてこのあたりは、潮騒の聞こえる海辺の道でした。この場所から見えた朝日は、ひときわ美しかったのでしょうか。『神奈川駅中図会』にも、その姿が描かれています。
この地に橋ができたのは、昭和五年(1930)。開発がすすみ、切り通しの道路ができるとともに、その上に橋が架けられたのです。
この橋を渡り東へ坂道を上りきると、そこに関門跡の石碑が立っています。
(HPより)
上台橋。
横浜駅西口方向を望む。「青海波」という文様。このデザインは、「神奈川宿 歴史の道」としての道づくりに際して採用され、行く先々で目にする。
「青海波」
(「www.ikiya.jp/crest/download.html」より引用)
橋のたもとにある案内板。
その地点から、旧東海道・西(保土ケ谷)の方向を望む。順路はこれから東(仲木戸・神奈川新町)方向に向かう。
緩やかな上り坂。
振り返って「上台橋」方向を望む。
東側(横浜駅西口方向・かつての海)を見下ろすと、かなりの急坂。高「台」という地名にふさわしい地形。この辺り、標高20メートル以上で崖下は4メートル以下(「今昔マップ」参照)。
「東海道」はこの高台の縁に沿ってつくられ、茶屋が軒を連ねていた。「神奈川湊」を見下ろす風光明媚なところだったことがよく分かる。
「神奈川台関所跡・袖ケ浦見晴所」碑。
「神奈川台の関門跡」
ここよりやや西寄りに神奈川台の関門があった。開港後、外国人が何人も殺傷され、イギリス総領事オールコックを始めとする各国の領事は幕府を激しく非難した。幕府は、安政6年(1859)横浜周辺の主要地点に関門や板書を設け、警備体制を強化した。この時、神奈川宿の東西にも関門が作られた。そのうちの西側の関門が神奈川台の関門である。明治4年(1871)に他の関門・番所とともに廃止された。
脇に烏丸光広の歌碑「思ひきや 袖ヶ浦波立ちかへり ここに旅寝を重ぬべしとは」がある。
碑の裏面。
裏手の高台。「見晴所」らしい雰囲気。
右手に見える高台。残念ながら上ってみることはできなかった。さぞかし眺望はいいはずだが。
この先、青木橋に向かっては少し下り坂になる。
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