おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

まさに「踏んだり蹴ったり」にならぬよう、ご用心。

2013-07-16 00:26:31 | 格言・ことわざ
鈴木元文科副大臣殴られる=参院選演説中、女逮捕―東京【13参院選】(時事通信) - goo ニュース
 
 ※「踏んだり蹴ったり」=踏まれた上に蹴られることから、災難が続いて散々な目にあうこと。

 意味の上からは、「踏んだり蹴ったり」された側の立場なのに、「踏まれたり蹴られたり」とはいいません。
 では、「踏んだり蹴ったり」というのか? 「踏んだり蹴ったり」された当人が踏まれたり蹴られたりするからではなく、踏んだり蹴ったりした当人の立場で、嫌なものを「踏んだり蹴ったりして」しまった、ということからだといわれるようです。それがいつしか被害者の立場に変わった!
 
 この女性、嫌なものを踏んだり蹴ったりしたんで、憂さを晴すことができましたが、やれた当人はたまったものではありません。鈴木さん、今や当落線上で危ない! これで落ちたら「本当に」踏んだり蹴ったりです。

 ただし、状況からは、「冷や水をかけられた」という感じですか。せっかくの街頭演説が水泡に帰さないように。

 「冷や水をかける」=意気込んでいる人に、勢いを失わせるような言動をすること。

 ※「水泡に帰す」=せっかくの努力が、その甲斐もなく無駄に終わること。
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読書「ぼくらの文章教室」(高橋源一郎)朝日新聞出版

2013-07-15 16:20:41 | 読書無限
 猛暑の時は、出歩くことも控えて、読書でも。先週から熱中症で倒れる人も大勢。その危険をかえりみず、炎天下で働く人たちには申し訳ないかぎり。それでも、暑い、暑い。昨日は、突然の雷雨におののきつつ、帰宅。
 さて、高橋さん。貪欲、目配り、嗅覚、全方位・・・、みずからの依って立つ足場に揺るぎがありそうで、なさそうな。 単行本だけでなく、新聞・雑誌に掲載された、さまざまな文章に目を通している方。そうして、そうした視野の広がりの中と「視点」の確かさで、自らの小説・評論などの創作活動の糧とする中で、発言もぐんぐんと成長をし続ける、とみた。以前とは違って、まったく足腰がふらつかない。
 物書き、としてのどしんとしたポリシーに、ますます磨きがかかってきつつある、還暦を過ぎた、物書き「おじさん」。
 このところの「朝日」の論壇批評。その絶妙なバランス感覚、鋭い視点、的確な問題意識・・・、採りあげる評論・文章の多彩ぶりにいつも脱帽。つい読んでみたくなるものばかりで。もちろん、快刀乱麻の切れ味はさすがです。
 もっとも、内田樹さんに言わせると、二人に共通する友人追悼のための座談会での話を通して、「(彼の)教化されやすい体質が結果的に恐るべき読書量を誇る『作家・高橋源一郎』を生み出したんじゃないかな。・・・書棚に置かれる本というのは、『そうか、読まなきゃ』という切迫感をもたらすことによって教化的に機能するのです。・・・」と(『街場のメディア論』より)。
 今回の書で採りあげた素材(作品)もどっきとするものが。
・木村センさんの遺書(朝倉喬司さん「老人の美しい死について」)
・小島信夫さんの「残光」
・多田富雄さんの文章
・池袋・母子 餓死日記 覚え書き
・スティーブ・ジョブズのスピーチ
・ランベルト君の徒弟日記(荒川洋治さん「日記をつける」)
・・・

・鶴見俊輔の文章

 こうしてたくさんの刺激的な文章を素材にしながら、最後に川上弘美さんの小学生のころの作文をもとに、

 世界を見つめ、世界に耳を澄ませること。そして、ぼくたちは「文章」を書くのである。この世界のことを、もっと知ろうとして。

といったん閉じる。そして、

 文章は誰のものか? それはぼくたちのものだ・・・

と「書くこと」の原点に立ち戻る。

 連載中に起こった東日本大震災「3・11」以降、ことばはどう変わったのか? 自問自答(それでいて先生だから)読書に訴えかける「非常時のことば」が姉妹篇で出版されています。
 「3・11」への辺見庸さんの並々ならぬこだわりのありようも心を揺さぶられるが、高橋源一郎センセイの軽妙な文体に込められた自身のことばへのこだわりは、すごい。
 ということで、小島信夫さんの「残光」。読み始めようかと・・・。 
 


 
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「帰去来の辞」 陶淵明

2013-07-14 16:50:43 | つぶやき
 小沢さんにちなんで、もう少し。むろん政治家小沢にとって身を退くということばはないようです。政治家としての人生を全うせんがための、今の生き様。
 しかし、陶淵明の「帰去来の辞」。小沢さんにとって本当はこれが一番ふさわしい、と思う。ぼろぼろになる前に、と。
 陶淵明41歳の作。
 
帰去来辞  陶淵明
 
  歸去來兮       歸去來兮(かへりなん いざ)
  田園將蕪胡不歸  田園 將に蕪(あ)れなんとす 胡(なん)ぞ歸らざる
  既自以心爲形役  既に自ら心を以て形の役と爲す
  奚惆悵而獨悲    奚(なん)ぞ惆悵して獨り悲しむ
  悟已往之不諫    已往の諫めざるを悟り
  知來者之可追   來者の追ふ可きを知る
  實迷途其未遠   實に途に迷ふこと 其れ未だ遠からずして
  覺今是而昨非   今は是にして 昨は非なるを覺る
  舟遙遙以輕    舟は遙遙として 以て輕く
  風飄飄而吹衣   風は飄飄として 衣を吹く
  問征夫以前路   征夫に問ふに 前路を以ってし
  恨晨光之熹微   晨光の熹微なるを恨む

  乃瞻衡宇      乃ち 衡宇を瞻(あふぎ)み
  載欣載奔      載ち欣び 載ち奔る
  僮僕歡迎      僮僕 歡び迎へ
  稚子候門      稚子 門に候(ま)つ
  三逕就荒      三逕は荒に就(つ)けども
  松菊猶存      松菊は猶ほ存す
  攜幼入室      幼を攜へ 室に入れば
  有酒盈樽      酒有り 樽に盈つ
  引壺觴以自酌   壺觴を引きて 以て自ら酌し
  眄庭柯以怡顏   庭柯を眄(なが)めて 以て顏を怡(よろこば)す
  倚南窗以寄傲   南窗に倚りて 以て傲を寄せ
  審容膝之易安   膝を容るるの安んじ易きを審らかにす
  園日渉以成趣   園は日に渉って 以て趣を成し
  門雖設而常關   門は設くと雖も 常に關(とざ)す
  策扶老以流憩   策(つゑつ)き労を扶け 以て流憩し
  時矯首而游觀   時に首を矯げて 游觀す
  雲無心以出岫   雲 無心にして 以て岫を出で
  鳥倦飛而知還   鳥 飛ぶに倦みて 還るを知る
  景翳翳以將入   景 翳翳として 以て將に入らんとし 
  撫孤松而盤桓   孤松を撫でて 盤桓す

  歸去來兮       歸去來兮(かへりなんいざ)
  請息交以絶遊   交りを息(や)め 以て遊びを絶たんことを請ふ
  世與我以相遺   世と我と 以て相ひ遺(わす)れ
  復駕言兮焉求   復た言(ここ)に駕して 焉(いづく)にか求めん
  親戚之情話   親戚の情話をび
  樂琴書以消憂   琴書を樂しみ  以て憂ひを消す
  農人告余以春及  農人 余に告ぐるに春の及べるを以てす
  將有事於西疇   將に西疇に於いて 事有らんとす
  或命巾車     或は巾車に命じ
  或棹孤舟     或は孤舟に棹さす
  既窈窕以尋壑   既に窈窕として 以て壑(たに)を尋ね
  亦崎嶇而經丘   亦た崎嶇として 丘を經(ふ)
  木欣欣以向榮   木は欣欣として 以て榮に向かひ
  泉涓涓而始流   泉は涓涓として 始めて流る
  羨萬物之得時   萬物の 時を得たるを羨み
  感吾生之行休   吾が生の 行くゆく休するを感ず

  已矣乎        已矣乎(やんぬるかな)
  寓形宇内復幾時  形を宇内に寓すること復た幾時ぞ
  曷不委心任去留  曷ぞ心を委ねて去留を任ぜざる
  胡爲遑遑欲何之  胡爲れぞ遑遑として 何にか之かんと欲す
  富貴非吾願    富貴は吾が願ひに非ず
  帝不可期    帝は期す可からず
  懷良辰以孤往   良辰を懷ひて 以て孤り往き,
  或植杖而耘子    或は杖を植(た)てて耘子す
  登東皋以舒嘯   東皋に登り 以て舒(おもむろ)に嘯き
  臨流而賦詩   流に臨みて 詩を賦す
  聊乘化以歸盡   聊(ねが)はくは化に乘じて 以て盡くるに歸し
  樂夫天命復奚疑  夫の天命を樂しめば 復た奚をか 疑はん

 東日本大震災、さらに福島第一原発事故で人間も自然も地域も荒廃しきってしまった東北。復興の道もまだまだ険しい。その故郷へ。もちろん陶淵明のように「田園生活」「田園詩人」になることはありえないが、毀誉褒貶激しい政界を退き、引退生活を送るのもまたよしではないか、と。

 田園將蕪胡不歸  田園 將に蕪(あ)れなんとす 胡(なん)ぞ歸らざる
 ・・・
 感吾生之行休   吾が生の 行くゆく休するを感ず
 樂夫天命復奚疑  夫の天命を樂しめば 復た奚をか 疑はん

 その立ち戻るところもなくなっていたとしたら、・・・。
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あんたもしっかり仕事しろよ

2013-07-13 00:16:10 | 格言・ことわざ
橋下氏「メールで公務やっている」 選挙活動で支障ないとの認識(産経新聞) - goo ニュース
 平日は、皆さん、必死に、炎天下の中、仕事している。少しは、地元市民のために仕事してください。メールでできるとは、市長の仕事はその程度のものなのですね。そう言おうものなら、それが不満なら私を次の選挙で落とせばいい、という居直る(減らず口をたたく)に違いない。
 
「去年も平日はそんなに多くなかった。みなさん仕事をしている。」

 何をかいわんや。こういう能(脳)天気・男を上にいただく大阪市民も気の毒。
 数多の他の市長さん。市長職は、メールでやれる程度の仕事内容なのかと・・・多額の税金泥棒と言われかねない。同志のイシハラさんも、この前の当選後はほとんど都庁に来なかったからその二番煎じでもあるか。

能天気(脳天気とも)=呑気で軽薄なことや安直なこと。またはそのような人をさす。

二番煎じ=1 一度煎じたものをもう一度煎じること。また、そのもの。2 前にあったことの模倣で新味のないもの。

 といっても、TVドラマなどでは第一作が受けると、二番煎じ、三番煎じ・・・、と次々と模倣作品が生まれる。けっこうそっちが受ける場合もあるから、不思議。本来の意味・用法とは、少しニュアンスが違ってきているかもしれない。
 橋下さんも、イシハラさんを模倣しつつ、その上を行く。イシハラさんはメールで公務はやっていなかった、と。イノセさんは分からないが。

 そのイシハラさん。街頭演説で、被害者の横田めぐみさんについて「非常に日本的な美人だから何になっているか分からない。強引に結婚させられて子どもも産まされた。偉い人のおめかけさんになっているに違いない」と述べた、とか。
 たしか、かつての都知事青島さんが、「日本はアメリカの妾か!」と国会で発言して話題になった(と思った)。
 それにしても北朝鮮批判が高じて被害者まで興味本位的に大衆の前で語る、・・・。二人(そして、支え、取り巻く超右翼老人たち)の政治家としての資質を疑うばかりだ。
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The Impossible Dream

2013-07-12 00:39:31 | 素晴らしき映画
(党首がゆく)生活・小沢代表 再び政権交代へ果てぬ夢(朝日新聞) - goo ニュース
 ミュージカル「Man of La Mancha」の中で使われた曲。とても素敵な曲です。ラストシーンが圧巻。日本では1969年より松本幸四郎が主役を務める公演が人気が高く、ロングラン・ミュージカルの一つ。
 小沢さん、政界のドンキホーテとして、老いてますます意気軒昂。これもまたよし! 
 おそらくはもう「不可能な夢」と化しても、まだ「見果てぬ夢」を追い続ける、この姿勢。周囲の思いは捨て置いて、悲壮感すら前向き思考に変える稀代の政治家ではある。
 すでに過去の人になりつつあるのにもかかわらずにも、だ。

To dream the impossibe dream, To fight the unbeatable foe,
To bear with unbearable sorrow, To run where the brave dare not go,
To right the unrightable wrong, To be better far than you are,
To try when your arms are too weary, To reach the unreachable star!
This is my quest to follow that star!
No matter how hopeless no matter how far
To be willing to give, when there’s no more to give
To be willing to die so that honor and justice may live

And I know. If I’ll only be true to this glorious quest
That my heart will lie peaceful and calm
when I’m laid to my rest
And the world will be better for this
That one man scorned and covered with scars
Still strove with his last ounce of courage
To reach the unreachable stars!


・・・
なおも最後の勇気を振り絞って挑むのだ
届かぬ星に届けようと!

1972年製作「ラ・マンチャの男」ピーター・オトゥール、ソフィア・ローレン出演。
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これで決まり!とどめを刺す

2013-07-11 18:45:56 | 格言・ことわざ
解消なるか?政治停滞起こす「ねじれ国会」(読売新聞) - goo ニュース
 自公支持の立場も、こう露骨に! 
 日本の新聞・マスコミは「(政治的には)中立」などという「建前」のもとで、政治的課題を扱ってきました。アメリカなどでは支持政党、候補者を明確にする立場のマスコミが多い。
 今回、「讀賣」「産経」は選挙戦のさなか、「自公で多数派を」という主張を明確に。朝日も毎日もそのほかのTVを含むマスコミも横並びの主張になりつつあります。
 それは「政治の停滞を避けるために自公に(とくに自民党に)安定多数を」。これで、公明党・共産党以外はぼろ負けの結果が見えてきました(ここの支持者たちはこうしたマスコミにまったく左右されない信念厚き方々)。
 かつての「朝日」を筆頭にした「政権交代」願望の記事から、わずか4年。こうしてマスコミ主導の(ネットも加わっての)暑い夏の選挙の結果は決まった! むしろ願望を越えて、予想以上の結果が起こりそうです。
 弱者切り捨て、憲法改「悪」に向かって、ひた走りへ。
とどめを刺す
1 殺したあと生き返らないように完全に息の根を止める。
2 再び立ち上がれないように決定的な一撃を加える。
3 物事の急所を押さえて、あとで問題が生じないようにする。
4 それに限る。それがいちばんすぐれている。
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日曹橋。松尾工場前踏切。新砂踏切。・・・(越中島支線をたどる。その3。)

2013-07-09 19:50:47 | 歴史・痕跡
 猛暑が続く東京地方。午後の炎天下を歩いたり、自転車に乗ったりするのは生命の危機。それでもとディーゼル機関車の通過を見届けようとでかけたものの、あえなく挫折。「越中島13:42発 新小岩13:55着」。タイミングがよくありませんでした。次回に期待。(ただし、「越中島」は、「旧小名木川駅」の時間。待機時間もあるので、要注意。)
「幹線3号踏切」。「永代通り」にある「踏切」。すぐ東側に「明治通り」があり、直進、右左折の車とかなりの交通量。交差点の直前に踏切があるため渋滞がち。
踏切のすぐ南にある長い鉄橋。線路外の水路は、定かならず。もともとは「洲崎川(運河)」に架かっていた鉄橋。同じく「洲崎川」に架かっていた「日曹橋」は、「永代通り」と「明治通り」の交差点の名として残っているが、橋そのものは、現存しない。昭和30年頃には明治通りの交差点から少し南に日曹橋がかかっていた。
「洲崎川」が流れていたころ。次第に南側に土地が広がり、運河のようになっていた。(今昔マップ」より。60年代後半)
長さもあってしっかりした鉄橋。
 かつては、T字路(永代通りの終点)であったが、「清砂大橋」が架かり、葛西へと永代通りが延伸され、交差点になった。
(同。70年代後半)
亀戸方向を望む。
「松尾工場前踏切」。
かつて右手に「松尾橋梁」という会社があったようで、現在は、ゴルフ練習場になっている。
かなり大きなゴルフ練習場。
ここから線路は少し右にカーブして越中島貨物駅へと進む。
線路沿いの駐車場から越中島貨物駅方向を望む。
亀戸方向を望む。
「越中島貨物駅」に入溝する直前の踏切(正面奥)。
「新砂踏切」。その名の通り、「越中島」という地域はもう少し西南のところ。
亀戸方向を望む。
「東京メトロ」の車両基地へ続く線路。

 今日はここまで。暑さは、まだまだ続く。
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南砂鉄道公園。城東電車跡。汽車製造会社跡。(越中島支線をたどる。その2。)

2013-07-08 19:29:07 | 鉄道遺跡
 まだ現役の「越中島支線」。単線のまま南に進んでいきます。
「南砂鉄道公園」。複線だったJRの線路部分を緑道公園に整備してあります。フェンス越しに目の前を通過する貨物列車が見られる絶好の場所。ただし、1日に2便(往復)なのでタイミングが肝心。
線路に並行しています。隣にある現役の線路と高さも幅も同じで、一直線なところがいい。
「清洲橋通り」を越える。この道路はかつての「境川」跡。
歩道橋の名称に「さかいがわ・・・」とある。
かつてのようす。「境川」の流れが赤い線。(「今昔マップ」より)
その後、道路となり、荒川を「葛西橋」で渡っていた。(同)
現在のようす。その先の「葛西橋」(赤い線)は廃止され、葛西橋通りが「葛西橋」を越えるようになった。(同)
「幹線27号踏切」。「葛西橋通り」を平面で通過する踏切。東側には「明治通り」があるなど交通量は多い。
亀戸方向を望む。
仙台堀川(緑道公園)を渡る鉄橋。
横十間川親水公園から続く自然豊かな親水公園。水面ギリギリの複線のままの鉄橋。

「締川踏切」。いわれは? 
亀戸方向を望む。
越中島方向を望む。

「城東電車」を鉄橋で越える。
現在は、城東電車は廃止され、緑道公園になっているが、ガード下の標識にはいまだに「城東電車」と記されている。
 この南側に広大な敷地を擁した「汽車製造会社東京製作所」が存在していた。東京製作所で製造した車両は小名木川駅から「越中島支線」をD51形牽引で発送されていた。
モニュメント。
線路跡は緑豊かな遊歩道になっている。モニュメントのある場所から西を望む。かつての城東電車(のちの市電・都電)は広大な「汽車製造」の敷地をぐるっと回って東陽町(須崎)の方に向かっていた。


汽車製造
1896年(明治29年):設立。
1899年(明治32年):大阪市西区島屋新田(現此花区島屋・安治川口駅前)に工場を開設(2013年現在は新大阪郵便局、佐川急便大阪店が建っている。)。
1901年(明治34年):客車・貨車製造の大手であった平岡工場(南葛飾郡本所、後 東京市城東区砂町)の創業者であり、社長の平岡凞を、副社長に迎える形で両社は合併、社名を大阪汽車製造合資会社に改称。それぞれの工場を大阪本店、東京支店とした。合併前同様、大阪本店は機関車、東京支店は客車・電車・貨車を主に製造した。
同年、製造番号1番が完成。台湾総督府鉄道部向けE30形という車軸配置2-4-2(1B1)形(先輪1軸+動輪2軸+従輪1軸の意味)タンク機関車であったが、輸送中の海難事故により水没している。 1936年(昭和11年):東京・丸の内に本社を移転、大阪本店を大阪支店に改称(東京支店は変更なし)。
1941年(昭和16年)に完成したC59 1で、製造番号2000番を達成した。
1944年(昭和19年):二箇所の支店(工場)をそれぞれ大阪製作所、東京製作所に改称。
1948年(昭和23年):戦後、日本国有鉄道(国鉄)としては最初で最後となった新製蒸気機関車のE10形5両を製造した。
1954年(昭和29年):帝都高速度交通営団(営団)丸ノ内線向けに300形の製造開始
1963年(昭和38年):東武鉄道向け車両としては最後の8000系電車2編成(8104・8105F)が完成。8000系としては最初で最後の製造となった。
1964年(昭和39年):東海道新幹線0系電車の製造開始。営団東西線5000系の製造開始。
1968年(昭和43年):宇都宮工場(栃木県河内郡河内町、現:宇都宮市)を開設する。同工場では貨車の製作を担当した。
1970年(昭和45年)12月:営団千代田線・6000系第12・13編成が完成。営団向けの車輌としては最後であった。
1972年(昭和47年):神戸市に本社のある川崎重工業と合併。同社を存続会社とし汽車製造株式会社を解散する吸収合併で、会社設立76年目で終結。以後、当時製造中の103系電車や新幹線0系電車なども製造権は川重へ移転することとなる。
最終製造は3月27日に出場した国鉄DE10 1171(製造番号3572)。私鉄最後の製造車両は京成3300形電車3353 - 3356号であった。なお、この間に製造された機関車は3,651両、電車は1,854両、客車は2,414両である。

跡地には、都営住宅や公立学校などが建てられている。

工場時代。赤い線が都電。黄色い○が汽車製造東京製作所。(「今昔マップ」より)
現況。(同)


2010年代のようす。緑道公園が都電跡。

補足(2009年に投稿の「おやじのつぶやき」ブログより)
 汽車製造「平岡工場」の成立

 先月末、両国駅にほど近い、墨田区立緑図書館で興味深い資料展示があった。墨田区の交通機関の変遷のうち、機関車、電車(市電)の製造会社であった「汽車会社平岡工場」に関する展示であった。その一部を資料等で紹介する。
 なお、汽車製造株式会社は、川崎重工業への吸収合併によって、今は存在していない。
 日本の鉄道車両は、1872(明治5)年、新橋・横浜間の鉄道の開業以来、一貫して輸入で賄われてきた。客車・貨車はその後国内製造が開始されたが、当時は民間の重工業が未熟であったため、これら客貨車の製造は各鉄道事業者が自営工場で行っていた。
 工部省鉄道局新橋工場の技師であった平岡凞は、そのような状況を打開して車両のさらなる国産化を推進するには民間に鉄道車両工業を興すべきと考え、1890(明治23)年、鉄道局を辞して、東京市小石川区の陸軍東京砲兵工廠の敷地・設備を借用し、渋沢栄一や益田孝らと匿名組合平岡工場を設立した。これが、民間客貨車工場の最初であった(ただし、個人経営の会社)。
 平岡は1871(明治4)年に渡米、ボストンやフィラデルフィアの鉄道車両工場で当時最新の鉄道車両技術を学んで帰国後、伊藤博文の紹介で鉄道局新橋工場に奉職していた。
 1895(明治28)年には京都電気鉄道へ28人乗り路面電車車両の車体を納入した。これは日本初の営業運転に供された電車であり、後に京都電気鉄道が市営化されて京都市電になった後「N電」と呼ばれた、狭軌線用車両群の第1陣に当たるものであった。
 その後、1896(明治29)年、「汽車製造合資会社」を創立して、それまでの砲兵工廠の借地を返納し、翌4月より本所区の総武鉄道本所駅(現・JR総武本線錦糸町駅)の隣接地に「平岡工場」を建設した。1901(明治34)年、第1号の機関車完成。さらに、電車の製作も開始する(大阪市電)。
 この頃、錦糸町駅南口には牧場があり、その経営者でアララギ派の歌人、伊藤左千夫がその牛乳を平岡工場に配達していたという。

年表 (「汽車会社70年の歩み」による)
1890年(明治23年)3月28日 - 東京市小石川区に匿名組合平岡工場が開業。
1894年(明治27年)10月31日 - 匿名組合解散。以後、平岡凞の個人経営に移行。
1896年(明治29年)3月31日 - 小石川の工場を陸軍省に返納。
1896年(明治29年)4月1日 - 東京市本所区に平岡凞の自有工場を開設、操業開始。
1901年(明治34年)7月 - 汽車製造合資会社(汽車会社)、平岡凞より平岡工場を譲受。汽車製造東京支店となる。
1928年(昭和3年)- 南砂町に工場を建設開始。
1931年(昭和6年) - 汽車会社東京支店は東京府南葛飾郡砂町に移転。旧平岡工場をすべて南砂町に移転完了し、工場は閉鎖。
 
 閉鎖後は、「江東楽天地」がその跡地を買収し、江東劇場、本所映画館を開場。現在は、「東京楽天地」と改称し、「LIVIN」や映画館、天然温泉、フットサルコートなどのある娯楽施設になっている。
現在のようす。
駅前の一等地にある広い敷地。
当時の工場の敷地。上が現・総武線。左側が錦糸町駅方向。右に見える川は、横十間川。「汽車会社の鉄道車両製作の回顧(汽車製造株式会社大阪工場 市山一二 鉄道ピクトリアル No262,264 1972/3-4)」より拝借しました。

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ディーゼル機関車。小名木川橋梁。小名木川駅。(越中島支線をたどる。その1。)

2013-07-07 21:12:33 | 歴史・痕跡
越中島支線(えっちゅうじましせん)
 小岩駅と越中島貨物駅を結ぶ東日本旅客鉄道(JR東日本)総武本線の鉄道路線(貨物支線)。
 1929年(昭和4年)に小名木川の水運との物流連絡のため、亀戸駅から小名木川駅まで開業し、その後越中島駅(現越中島貨物駅)まで延伸された。
 また、1989年までは東京都港湾局所有の専用線により豊洲や晴海までつながっていたが、鉄道による貨物需要が低下したため廃線になった。
 1972年(昭和47年)まで沿線(江東区南砂)に汽車製造東京製作所が存在し、製造された車両は専用線を経由して小名木川駅より各社へ向けて輸送されていた。
 小名木川駅は2000年に廃止され、跡地は再開発によりマンションとショッピングモール「アリオ北砂」となった。
 現在は、全線単線で非電化。かつては複線だった区間もあり、その敷地は、そのまま残っていたり、駐車場や緑道になっている。
 
 かつての小名木川駅発着列車では、D51形蒸気機関車やDD51形ディーゼル機関車が使用されたほか、後年にはコンテナ輸送も行われていた。現在は、越中島貨物駅にある東京レールセンターから発送される鉄道用レールの輸送(工事臨時列車)に使われるのみとなっている。
 この工事臨時列車は、宇都宮運転所所属のDE10形ディーゼル機関車による牽引で、日曜日を除き2往復のダイヤが設定されている。

※時刻表
 列車番号  新小岩  越中島貨  備考
 9295   12:10     12:22     レール
 9294   13:55     13:42


京葉道路高架線を通過するディーゼル機関車(午後2時40分頃。「歩道橋」から)。
「越中島貨物駅」方向へ向かう、思ったよりも長い貨物列車。(同)。

LRT構想

 江東区では亀戸駅 - 新木場駅間にLRTを走らせる構想がある。亀戸駅前 - 南砂付近までを高架化または既存路線を活用し、以南は明治通り沿いの都有地に線路を敷設する案が出されている。
 沿線住民の約8割が南北を結ぶLRTの実現を望むなど実現への期待が高いが、公的支援なき収支の均衡が見込めないほか、新木場駅付近での国道357号との平面交差などの問題が指摘されている。
 また、関連する路線としてゆりかもめを豊洲駅から亀戸駅まで延伸する要望や提案が江東区議会で行われている。

歴史

1929年(昭和4年) 亀戸駅 - 小名木川駅間開業
1950年代前半(昭和20年代後半) 東京都港湾局が専用線を豊洲、晴海まで敷設
1958年(昭和33年)小名木川駅 - 越中島駅(現在の越中島貨物駅)間開業
1971年(昭和46年)起点を新小岩操駅に変更
1986年(昭和61年)新小岩操駅廃止のため、起点を小岩駅に変更
1987年(昭和62年)国鉄分割民営化により、東日本旅客鉄道に承継。
1989年(平成元年)東京都港湾局専用線全廃。
1990年(平成2年)京葉線越中島駅との区別のため、越中島駅を越中島貨物駅に改称
1997年(平成9年)小岩駅 - 越中島貨物駅間の定期貨物列車廃止
2000年(平成12年)小名木川駅廃止。
(以上、写真以外は、「Wikipedia」参照)
 
 というわけで、亀戸駅から越中島貨物駅までたどります。梅雨明けの炎天下、さすがに暑かった!

左が総武線亀戸駅方向。しばらくは高架線が続きます。これは「京葉道路」を越える高架橋。
「小名木川」に架かる鉄橋。
機関車が通る線路だけ下を覆い、もう一つの線路は撤去したまま。
年季の入った石とコンクリート造りの橋脚。
ツインタワー。かつては、この二棟の高層マンションが飛行機の上からもよく見えて、目印になった。今では、スカイツリーが目印の独り占め。
「小名木川」。

小名木川

 1590年頃、江戸城を居城に定めた徳川家康は、兵糧としての塩の確保のため行徳塩田(現在の千葉県行徳))に目を付けた。しかし江戸湊(当時は日比谷入江付近)までの東京湾北部は砂州や浅瀬が広がり船がしばしば座礁するため、大きく沖合を迂回するしかなかった。そこで小名木四郎兵衛に命じて、行徳までの運河を開削させたのが始まりである。運河の開削によって経路が大幅に短縮された。そこから、「小名木川」を別名「塩の道」とも称した。
 その後、塩以外の運搬や、成田参詣客なども運ぶようになって物量が増大した。1629年小名木川は江戸物流の重要河川と認識され、利根川東遷事業と併せて拡幅、小名木川と旧中川、新川の合流地点には「中川船番所」が置かれた。新川、江戸川、利根川を経由する航路が整備されると、近郊の農村で採れた野菜、東北地方の年貢米などが行き交う大航路となった。
 開削とほぼ同時期に、川の北側を深川八郎右衛門が開拓し深川村が、慶長年間に川の南側は、埋め立てられ海辺新田となり、以降、江戸時代を通じて埋め立てが進んだ。やがて小名木川を中心に竪川や大横川、横十間川、仙台堀川などの整備が進み、重要な運河の一つとして機能した。利根川~江戸川~中川~小名木川~隅田川というルート。
 明治時代に入ると、水運を利用した諸工業が盛んになり一帯は工業地帯となった。1930年には荒川放水路が完成したが、これに伴い荒川や旧中川、新川の合流地点には「小名木川閘門」(「小名木川」と「旧中川」を結ぶ)「小松川閘門」(「旧中川」と「荒川」を結ぶ)「船堀閘門」(「荒川」と「中川」を結ぶ)が設置されていた。
 昭和50年代には地盤沈下などによりそれぞれ閉鎖されたが、2005年に「荒川ロックゲート」が完成し、旧中川を経由して荒川への通行が可能になった。
 名称の由来は、この川を開削した「小名木四郎兵衛」の名からとったもの。

鉄橋の脇の公園にあった「釜屋の渡し跡」の説明版。「小名木川」を南北で船で渡った。

 釜屋とは鋳造業のことで、太田六右衛門と田中七右衛門の2人は、近江国栗本郡辻村の出身で、代々鋳物を業としていた。寛永七年(1640)に江戸へ出て、芝の海岸で鋳造業を始めたが、増上寺境内拡張のため大島村に移り、幕府の用品を初めとして市民の需要に応えて鍋、釜、梵鐘、仏像、天水桶などを作った。原材料や製品の輸送に使った両家の前の堀は「釜屋堀」と呼ばれた。(「東京の地名の由来辞典」より)

小名木川貨物駅

 総武本線貨物支線の貨物駅として1929年(昭和4年)に開業し、付近を流れる小名木川との水陸の物流連絡として機能した。最盛期には5面のコンテナホーム、6本のコンテナ荷役線、4面の有蓋車用貨物ホーム、6本の貨物荷役線を有していた東京都東部の鉄道貨物輸送の拠点であった。
 しかし、貨物輸送形態の変化による取り扱い量減少によって2000年(平成12年)に廃止され、業務は隅田川駅に移管された。
 総武本線越中島支線の貨車牽引は、古くは新小岩機関区のD51形などの蒸気機関車、末期は佐倉機関区(後の千葉機関区)DD51形などが担当した。また、当駅の貨車入れ換えや越中島貨物駅への貨車牽引は京葉臨海鉄道へ委託していた時期があり、同社の機関車の姿が見られた。
 かつては、貨物輸送の他、都営地下鉄大江戸線の12-000形を木場車庫へ搬入する際に当駅まで甲種車両輸送された。また、かつて付近に存在していた汽車製造東京製作所へ続く専用線もあり、甲種車両輸送列車の始発駅となっていた時期もあった。現在の川崎重工業へ合併される1972年まで存在していて、都内では唯一の車両製造メーカー工場としても注目されていた。151系、181系、153系、157系、165系、101系、103系、113系、115系、455系の他0系新幹線、私鉄・地下鉄公共電車もここから輸送された。
 現在は、再開発により構内の線路・施設がすべて撤去され、高層マンションやショッピングセンター「アリオ北砂」となっている。
昭和初期の頃のようす。上方の赤い線が「小名木川」。紫で囲った大きな円が「小名木川駅」。さらに城東電車の「いなりまへ」駅、汽車製造会社。「明治通り」もまだ全線開通していない。(「今昔マップ」より)
最盛期の小名木川貨物駅。すぐ右にある南北に通じる道路は「明治通り」。

現在の様子。かつての貨物駅の面影はどこにも見当たらない。
右が今も使われている貨物線(単線)。左が「アリオ北砂」。
小名木川貨物駅への引き込み線の跡にある「公園」内に設置された車輪の「モニュメント」。
公園の中にある。脇には説明板。
「小名木川駅の歴史」。
跡地にできた大規模なマンション棟。
さっきの航空写真と重ねると、上の部分が「アリオ北砂」、下の部分がマンション群。赤丸がモニュメントのある公園。
 
コメント (2)
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結論はみえていた、ことが恐ろしい。

2013-07-06 00:18:25 | 世間世界
TBSの謝罪と受け止め、安倍首相も番組出演へ(読売新聞) - goo ニュース
 為政者(政権担当政党)の「取材拒否」戦術にTBSが謝罪した、と自民党が方針変更。
 例によって、「ツイッター」では、「偏向報道」としてTBSへ執拗な非難・批判が繰り広げられ、さらには抗議の声も上がった、とも。
 いよいよ危うい「日本」になりつつある。無言(を頼りにした)の圧力が作り出す世界。
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読書「名指導書で読む 筑摩書房 なつかしの高校国語」ちくま学芸文庫

2013-07-05 22:16:24 | 読書無限
 「現代文」(現国)で扱っていた教材とその注釈や解説文を網羅したユニークな仕立ての書。世間の人はもちろん、この教科書で学んだ(学ばされた)生徒だった人たちにもあまり目に触れない、それでいて為になる内容が盛りだくさん。
 『現代国語Ⅰ』(1963~81年使用)、『現代国語2』(1964~83年使用)、『現代国語3』(1965~84年使用)に掲載された本文とその指導書を収録してある。 

全編を読み、さて、最後の解説「魅力的な『暴挙』」(安藤宏)に目を通したあげく、実は言いたいことは、そこにすべて尽きてしまったのです。まさにここに書かれてある通りではないか。・・・ムムム。
 現代国語の「定番教材」。今でも「1年で『羅生門』、2年で『山月記』(注:『こころ』の方が定番と思うのだが)3年で『舞姫』」という具合な内容もその通り、とうなずくばかり。
 たしかに筑摩の教科書は教えにくいという現場からの声が多かった。それは扱っている教材よりも「指導書」(教師用の虎の巻)があまりグレードが高すぎて実際の授業の時に役立てにくい、参考にしにくい・・・。
 「尚学図書」や「東京書籍」のものとに比べるとうも、と理由にもならないような理由で、現場では採用されにくかった教科書。
 たしかに授業時の一問一答形式の懇切丁寧な「発問集」とかはないし、テスト問題もついてないし、絵や写真も少ないし、難しいところは省略するなど、切り貼り自由な教材にはなっていない、・・・実に昔ながらのオーソドックスなスタイルを堅持していた。「三省堂」は教材はユニークなのが多くて新鮮で面白かったが、大学受験向きではなかった・・・。
 そういうさまざまな特徴(短所、長所)がある教科書。やはり定番教材は芥川龍之介の「羅生門」、中島敦の「山月記」(あるいは、夏目漱石の「こころ」)、森鴎外の「舞姫」。どこの教科書でも扱っていることには変わりない。
 他の3人に比べ、中島敦は「山月記」が教科書に載っていなければ、埋もれたままになっていたかもしれない。この教材を発掘した編集者に感謝しなければ、と。当時の高校生にとっては印象深い作品ではあると思うが、はたして内容理解のほどは?

採りあげていた作品と解説者の紹介(一部)
(小説編)
・羅生門(芥川龍之介) 平岡敏夫
・夢十夜(夏目漱石) 猪野謙二
・山月記(中島敦) 分銅惇作
・富岳百景(太宰治)  〃
・こころ(夏目漱石) 秋山 虔
・藤野先生(魯迅) 大室幹雄

(随想編)
・清光館哀史(柳田国男) 増田勝実

(評論編)
・失われた両腕(清岡卓行) 鈴木醇爾
・無常ということ(小林秀雄) 分銅惇作

(詩歌編)
・「ネロ」について(谷川俊太郎) 谷川俊太郎
・I was born(吉野弘) 吉野弘
・・・
 今や大学入試で小説教材を出題することが少なくなり(センターだけは大問4つのうちの1つで50点分あり)、評論もそのセンターで小林秀雄を出して平均点が下がったと批判(?)されるご時世。
 こうした硬派の作品を掲載して、なおかつそうそうたるメンバー(ご本人にも)で解説をしていた「筑摩版現代文」は、もう過去のものになってしまったのか。
 安藤さんがもっとも感銘を受けた「清光館哀史」(柳田国男)的世界が広がっているのかもしれない。まさに「暴挙」というべき「奇書」の類ではなかろうか。
 これは文庫版だが、どれほどの読者がいたのだろうか。受験生、まさか! 現役国語教師、少しは! 一般人(元高校生)手には取って? 元国語教師、今更、・・・けっこう奇特な連中かもしれん。
 携帯で撮った写真もなんだかぼんやり写っている。その後、国語・現代文の教科書には採用されることもなくなり、幻のように過ぎ去ってしまった作品も、中には含まれている。
 
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「よしもと的世界=世間」と思っては困る。いや、同じかもしれない。・・・

2013-07-04 00:16:42 | つぶやき
面倒くさいから出ない…勝谷氏、知事選出馬断念(読売新聞) - goo ニュース
 「コラムニスト」という商売がどういうことで成り立っているか定かではないが、「面倒くさいから」が理由なら何でもOKとは、お気楽商売でいいけど、世間はそうはいかない。
 一応「オピニオン」リーダー的な番組もやっているはずの男。所詮「オニオン」程度の発言だったのか。
 憲法とか増税とか外交とか争点になっていかなければならない参院選。どこもかしこも「面倒くさいから」争点を隠して。ねじれ国会なんて「面倒くさいから」自民に過半数を。・・・
 そう考えると、「面倒くさいから」選挙にも行かない・・・。候補者を巡ってのドタバタ劇。大阪も東京も四方八方、「面倒くさい」ことばかり。
 「面倒くさいから」が今年の流行語大賞の候補になりそう。と考えると、先見の明がある方かも知れない。
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一本負け。勝負あった!

2013-07-03 00:27:42 | 格言・ことわざ
民主執行部、東京で一本化打診=大河原氏は拒否【13参院選】(時事通信) - goo ニュース
 こうして、まさに「一本(化)負け」。共倒れ。
 戦わずして結果が分かるというのもどうしたものか! 「人間関係のしがらみ」がありすぎ、とみんな・渡辺氏から揶揄される始末。
 かつての自民党以上に「古い」体質、すでに国民から見放されても気づかぬ。サルは木から落ちてもサルだが、議員は落ちたら、ただの人以下。でも、そうとわかっちゃいるけど、やめられない!
 仮に降ろされた方は無所属で立候補。あるいは、非協力で。・・・執行部も何も言えない。
 いずれにせよ、都議選の複数候補が全滅したという教訓が生かされない組織、あまりにも非政治的・素人すぎる。
 それでいて、「・・・民主党、市民社会を強くしなければこの国は生き返らない」などと主義・主張だけは立派なご託宣を述べる。
 主義・主張はどうでもいい(いったん置いて)、とひたすら集票のみで動く、学会組織、業界団体などにかなうはずがない。
 起死回生の妙案はあるのか、お二人に。2-1=1 or2-1=0
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耕道踏切。東京街道。立石大通。・・・(「新金貨物線」踏切をたどる。その4。)

2013-07-02 20:48:29 | 歴史・痕跡
 「富士見橋」をくぐると、「新中川」沿いに進みます。「新中川」と線路の間や東側にはかつては畑・耕作地が続いていましたが、現在は、ぐっと少なくなって、マンションや住宅地に変わりつつあります。それでも、周りが農村地帯だった名残りが踏切の名にも残っています。
富士見橋下を通る貨物列車。(午前6時25分頃)。
かなり長い。(同)。
遠ざかる貨物列車。(同)。

紫蘇がたくさん。
「新金貨物線」を進む機関車(ほぼ同じ場所で今年春頃の撮影)。(午後1時30分頃)。
「耕道第二踏切」。「新中川」の堤防道に抜ける踏切。「新中川」が開削される以前からの農耕地があった名残りでしょう。
明治10年頃のようす。田んぼが広がっている。一番右の水路は「東用水」。右端中央の水路は「中井堀」とそこから分岐する「西井堀」。中川の氾濫原流域が東に大きく湾曲している。現在、その中央を「環七」が通っている。地図上で下方、東西を貫き、少し湾曲した道が「古代東海道」に擬せられている道。(「歴史的農業環境閲覧システム」より)
「富士見橋」方向を望む。
幅1㍍。車・オートバイなどは当然通れません。耕運機ははたして?
表示。
踏切を通過する貨物列車。間に合わず最後尾近くでなんだかよくわからん写真ですが。(午前10時45分頃)。
「耕道第二踏切」近くの中川土手から遠くにスカイツリー。左に流れていく川が「新中川」。
「耕道踏切」。ここも同様。背後には、ささやかな畑地。
「東京街道踏切」。「小松川街道」の続きか? 旧水路(中井堀・仲井堀)は、「新中川」に向かって川の中に消えていく。「西井堀」との分岐点も川の中に水没。
赤い線が「新金線」青色部分が「新中川」、が「東京街道踏切」。
踏切脇の「中井堀」水路跡。左方向が「新中川」。しっかりした鉄橋(いつまで残すことやら)。
雑草を刈った後のようす。
「新中川」土手から踏切を望む。道(水路跡)が新中川によって途切れている。
新小岩から金町に向かう電気機関車。(「東京街道踏切」から)
鉄橋を通過する。(同)
「細田踏切」。
その付近を通過する貨物列車。かなり長い。午後4時前。
「立石大通踏切」。「古代東海道」にある踏切。
西側「三和橋」(「新中川」に架かる橋)方向を望む。広く整備されいます。通過する車両数は、「水戸街道」の踏切「新宿新道」に次いで多い。
が踏切のところ。
 室町時代以降、中川の流路変更や新田開発などによって、このあたりは大きく変貌します。「奥戸の渡し」の位置に大きな変化がなかったとすれば、現在の「奥戸橋」付近にあたります。さらに、中川を越したあたりも古代道を正確には分かりません。しばらく進むと、環七を越え、区立奥戸小あたりから、はっきりとした直線道路が「京成小岩駅」踏切以東にまで延びています。明治以前には一部、南に迂回する道筋の方が顕著でしたが、それも本来の直線道に改修されています。
 現在、この道路は、柴又街道付近まで道路の拡幅整備工事が盛んに行われ、用地買収も進んでいます。かつて古代人の東西往復道としてにぎわったであろう「官道」が、今また便利な葛飾区南部の東西を貫く幹線道路として蘇ってきています。実に歴史のおもしろさを感じます。
 「古代東海道」は、柴又街道を過ぎると、「上小岩遺跡通り」と名付けられた直線道としてそのまま京成線の踏切を越え、「岩槻街道」と交差、しばらく行くと、江戸川堤防手前の寺院のところで突き当たりになります。
「区立奥戸小」前に設置されている「案内板」。ただし、便宜上、南北がほぼ反対になっていて、上が南方向。さらに、「新金線」は表示されていない。

このあたりで、「新中川」開削のために線路が少し東にカーブすることになりました。線路の向こう側が「新中川」方向。
中川放水路の開削工事では多くの家屋が立ち退きに。JR新金線も同様に、まっすぐに進んでいた線路は東側にカーブすることになりました。ここがもともとの線路だったところの分岐点(線路の西側地点)。金町方向を望む。
赤い線が旧線路。
線路跡は舗装道路になっています。右が旧線路。左が現在の線路。
新中川土手から見たところ。直線道路が旧線路。
「金町」方向を望む。
最後の踏切、「奥中区道踏切」。ここから「新小岩」へは高架となって「新中川」を越えていき、本線に合流する。
「奥中区道踏切」から「新小岩」方向を望む。線路の右手に見えるのは、「葛飾区立奥戸中学校」。「新中川」開削の際、旧線路と新線路の間に建てられた学校。
最初の高架橋。完成が、「1957・10」とある。 に注目。
 
「新中川」
 1938年7月に東京東部で起こった浸水戸数6万戸に及ぶ被害に対する反省から、翌年(1939年)4月、中川開削・改修を目的に東京府中川改修事務所が設置された。しかし戦争激化のため1945年4月には計画は一旦中止、事務所も廃止となる。
 1947年9月、カスリーン台風によって東京東部が再度浸水したことにより、改めて中川改修が検討された。1949年11月 中川改修事務所は再開され、中川放水路(新中川)の開削が本格化した。
 葛飾区、江戸川区などでは多くの家屋等の立退きを余儀なくされるなどの大工事の末、1963年3月に中川放水路は完成した。

 1965年3月、一級河川に指定され、河川名を「新中川」に改称された。

 「1957(昭和32)年10月完成」ということは、本格的な開削工事が始まり、線路の移設が完成したことでもあるでしょう。

現在のようす。(「今昔マップ」より)

 「新金貨物線」と同じように興味深いのは、「越中島支線」。非電化の単線貨物線。ここは、一日2、3本貨物列車が通る。機会があれば、この支線を探索します。
「越中島支線」。新小岩~(亀戸)~(小名木川)~越中島。

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旧佐倉街道。小松川街道。富士見橋。・・・(「新金貨物線」踏切をたどる。その3。)

2013-07-01 22:13:15 | 歴史・痕跡
 水戸街道(国道6号線)を通過した「新金貨物線」は、南に進んでいきます。このあたりからもかつての農業用水と交差する箇所がいくつかあります。
その一つ。斜めに横切っています。
東側から。線路内以外は用水路跡は定かではありません。
「新堀踏切」。広い道路との交差点ですが、かつては北側に「用水路」がありました。
「にいぼり」という名称。東西に延びていた用水路。北側(金町)を望む。

そのまま西にたどっていくと、「中川」近くの用水路跡の緑道(新宿方向から)と合流しています。中川寄りにかなり大きな「新宿ポンプ場」があるので、その施設との関連はありそう。
線路内の空き地を利用して、近所の方の「家庭菜園」が続いている。ナスやミニトマトなど通過する列車が少ないからできること。無断で使用しているという感じ。でも、高いフェンスのどこから出入りしているのでしょうか?
「高砂踏切」。「新宿」で「水戸街道」と分岐して市川に向かう(「小岩の渡し」)「佐倉道(街道)」上の踏切。

 このあたりは、昔は「曲金(まがりかね)村」。「高砂」は後から付けた名。昭和7年葛飾区高砂町(曲金村にあった字の名からとった)。同40年新住居表示により諏訪町の全部に高砂町・本田立石町・奥戸新町・細田町・鎌倉町・新宿町3丁目の各一部をあわせた町域を現行の「高砂」とした。
 
   高砂や この浦舟に帆を上げて この浦舟に帆を上げて
   月もろともに出汐の 波の淡路の島影や 遠く鳴尾の沖過ぎて
   早、住之江に着きにけり 早、住之江に着きにけり
 
 から、「高砂」というおめでたい名を地元の方が字とした、という。
 「曲金」は、中川がかなり蛇行している流域で「曲尺」(かねじゃく)から来ているように思われます(墨田区内の隅田川沿いにある「鐘ヶ淵」の「鐘(かね)」も同じではないか)。
「曲尺」。

東側・踏切沿いにあった家。朽ちたようだが住居表示があったので民家?
「東用水」跡を渡る鉄橋。ここも道路・水道工事中。いずれ道路として整備されるはず。
踏切の北西側。かなり広く深い流れの跡。「佐倉道」と交差している付近。
水戸街道に向かう道路(「東用水」跡)。広くて直線の道。旧「佐倉道」はその西側にある、細く曲がりくねった道。 

        
        
1880年代のようす。                    2010年代のようす。二本の用水は道路となっている。右端に京成「高砂駅」。
かぎ型に曲がる道(↑)が「佐倉道」。上下の流れが「東用水(上下之割用水)」。


線路を越えたところ。道路、緑道として整備が進んでいる。
「小松川街道踏切」。
 この踏切は、旧「佐倉道」から分かれて南下する道にある踏切。「東用水」からこの先で分岐した「中井堀」沿いに進む道で、「東京街道踏切」にもつながっていく道のようです。
「小松川街道」から踏切の西側を望む。
以前、この踏切で撮影した貨物列車。
前掲の地図上で、赤い線が「小松川街道」らしい道。
明治10年代の古地図では、「中井堀」沿いに進み、途中で「西井堀」沿い、途中から分かれてさらに「小松川境川」沿いに進んで、小松川方向に向かったようすが読み取れます。

「中川」に架かる「高砂橋」の手前にある「富士見橋」からの新金貨物線。金町方向を望む。

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