おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

「 MONAMOUR 」(Tinto Brass)(古きよき映画シリーズ。その43。)

2013-10-12 21:27:53 | Tinto Brass
 またまたTinto Brass監督の作品。2005年製作。

邦題:「ティント・ブラスの白日夢」

《キャスト》
Anna Jimskaia (Marta)
Riccardo Marino (Leon)
Max Parodi (Dario)
Nela Lucic (Sylvia)


《ストーリー》
 新婚の若妻マルチナは、巨乳と豊満な美尻の持ち主。性に淡泊な夫ダリオに満たされないまま、マルチナは日記をつける。

ベッドに潜り込んだマルチナは妄想する。

 夫が読んでいた官能小説を読みながら、自然と彼女の手は胸をまさぐり、絶頂に達する直前、夫が戻って来てしまう。

 再びみだらな妄想に。

 フラスコ画の掲げられた美術館。デジカメで執拗に自分を撮影するレオンに強引に迫られる。

 マルチナはパーティーで再会し、二人は暗がりで激しく求め合ったが、そこを旧友のシルビアに見つけられてしまう。シルビアは、マルチナにもっと夫を挑発するようアドバイス。

 帰宅後に夫からパーティーの件を問い詰められるが、マルチナは挑発する。夫も嫉妬心からマルチナに迫るが、途中で冷めてしまう。
 バルコニーに出た彼女は、自分の体を慰めていると、向かいの部屋から双眼鏡で覗く中年男。途中でレオンに変貌、熱い視線を感じる。

 入浴しながら再び妄想の世界へ。



 しばらくして、マルチナにレオンからメッセージが届き、さっそく、男の部屋を訪れる。男二人との淫靡な交わり。


 こうした自由奔放な妻に、怒りをついに爆発させた夫。そして、はじめて快感を得ることが出来たマルチナ。
 めでたし、めでたし!


 レオンは、さっさともう他の女性とデートに。


 いつものように、ブラスの音色に合わせて軽やかに進む。大きな鏡の部屋。幾何学模様のセット。陰影に富んだ映像。そして、美乳に美尻・・・。老いてますます盛んなTinto Brass様でした。
いつもお決まりになっているご本人登場。

 邦題の「白日夢」に当てはまるシーンは、二カ所(だと思う)。いや、すべてが夢の世界?
 谷崎潤一郎の「鍵」を翻案して映画化した監督。こうして谷崎潤一郎の「白日夢」になぞらえているのもおもしろい。

 邦画では1981年公開の、武智鉄二監督・佐藤慶、藍染恭子出演の「白日夢」。大島渚の「愛のコリーダ」と並ぶ「本番」映画らしい。二人の延々と続くセックスシーンがあるそうですが。

 もともとの谷崎の作品は、歯医者さんで歯の治療を受ける時、口を大きく開けて口の中をまさぐられ、独特の器具の音とからみあっての妄想がテーマだった、と。
 うろ覚えなので、念のため、「Wikipedia」で内容を確認しました。

 流行歌手・千枝子と青年画家・倉橋は歯科の診療室で治療を受けていたが、倉橋は麻酔を打たれ夢心地になる。次第に医師と看護婦の様子が変り、千枝子は医師に犯されてしまった。ナイトクラブに千枝子を訪ねた倉橋は千枝子に迫る医師の姿を見て、千枝子を救おうと決心。医師と千枝子がホテルへ向かうと倉橋は後を追った。千枝子が医師からの様々な拷問を甘受する姿がそこにあり、倉橋は何とも言えない気持ちで眺めていたが、逃げ出した千枝子の後を追った。しかし、倉橋がいくら千枝子を追いかけても、千枝子は遠くへと行ってしまう。あるデパートの屋上で倉橋は千枝子と偶然再会。ここでも医師が突然姿を現し再び千枝子を奪った。これは夢なのか、現実なのか。(「Wikipedia」より)

武智監督のものは果たしてどういうストーリーだったのか?
(「Amazon.co.jp」より)

注 「映像」は、すべて「You Tube」による。 
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読書「東京の空間人類学」(陣内秀信)ちくま学芸文庫

2013-10-11 22:10:20 | 読書無限
 今回、「震災復興52小公園」に興味を持ったのは、この書のp284「社会センターとしての小公園」という項目でした。 関東大震災後の「帝都復興」という大構想の中で取り上げられ、実現された、とのこと。小学校と隣接し、一体として計画された、この公園は、非常時の一時避難場所、そして、校庭の狭い小学校にとっての運動場の延長。平日は学校の校庭の一部として、休日や夕方からは地域住民の憩いの場としての機能を併せ持つ、という考え方でした。
 その後、昭和20年3月10日、下町一帯を焼き尽くした「東京大空襲」をはじめ、米軍の激しい空襲によって、都内では校舎も周囲の建物も軒並み焼失させられ、多くの住民が逃げ惑いつつ死んでしまうという、もともとの目論見をはるかに越える被害を受けました。そのため、ほとんどの公園が、戦後に再興されていく、その過程で、建設当時の学校・公園の姿は現在ほとんどなくなってしまっています。学校と公園の位置は、何カ所か消滅したところを除けば、ほとんどそのままですが、小学校と公園の関係・関連が地元でも薄れてきています。
 けれども、そうした地域における「社会センター」としての公園の役割を先験的に示したものとして高く評価されるべきではないか。そういう視点で取り上げています。
 実は、関東大震災が発生する以前から、小学校と公園を一体として扱うという考え方は、アメリカ・シカゴに先駆的な実践例があった、と。当時のシカゴでも、学校は市の教育課、公園は公園課という担当部局が異なっていましたが、具体的に取り組み、実現することで縦割り行政による弊害を乗り越えていった、こうしたことがすでに日本にも紹介されていたわけです。
 そのために、関東大震災の復興という大事業の中で、いち早く取り入れられ、実行に移された。しかし、震災後の都市計画、区画整理とともに進められたこの計画は、地元住民から大きな反発もあったようで、結局、計画の半分位にとどまってしまったようです。
 公園のレイアウトは、「自由広場」をメインにするという画期的な発想。公衆便所の設置、藤棚のあるパーゴラ(園亭)、コンパクトにまとめられた児童遊戯場などをつくる・・・。
 こうした発想が「52小公園」の今に残っているかどうか、そうした興味がふつふつとわきました。何十年もそのそばを通っていた公園が、その一つであったことも、はじめて気づかされました。

 現在、学校環境をめぐる様々な問題は、児童の生命の安全、安心という視点でとらえられるようになっています。そうした面では、いっときの「開放」というよりも「閉鎖」せざるをえないという面も重要でしょう。一方で、近所の児童公園では、小学生などの学齢期の子ども姿が少なくなっているようにも思えます。地域にねざした児童生徒の自然環境つくりなど、課題は、ますます多岐になっています。 
 この書は、こうした実態を踏まえ、江戸から東京へ、過去から現在へ、そして未来の(東京)都市空間づくりをどう想定すべきかなど、多岐に亘って読み解く内容になっています。
 こだわりは、「水の都・東京」。実際に堀割に小船を進め、見上げる都市空間。最近ではそうした計画・観光もあるようですが、この方のようには、なかなか・・・。

 執筆当時からもますます大変化を遂げている大都市・東京。特に東日本大震災の大きな被害を受けて、防災都市つくりという大改造が計画され、着々と進められています。まして、7年後のオリンピックを控え、そういう大工事に拍車をかけるに違いない、今後。
 オリンピック施設優先、安全、快適という大改造優先の経済・思想の中に、本来の文化都市としての、都会に生活する多くの市民の心に真に通う「都市づくり」にしていけるかどうか。
 一時期、大きな公園が大工場の敷地跡につくられ、現在も地域住民の憩いの場になっています。そうした開発も、都内では一段落。今は防災に強い街造り、ということで大規模開発が進められています。
 そういう地域では、ごみごみした、低層木造住宅が取り壊され、次々と大型の高層マンションへと変貌、道路も広く立派になっています。が、公園・緑地はまったくといっていいいほど(一カ所も)つくられていません(例えば、墨田区向島・曳舟地域)。安心、安全、防災の名の下で、地元住民はお互いに孤立し、防壁づくりのマンションの一室に追いやられていく、そんな感じすらあります。せっかく、白鬚地区の先駆的で大胆な取り組みがあるにもかかわらず。

 まさに「防災都市」というスローガンのもとで、地域の本来の心身ともに豊かな生活を失ってしまう。そういう今こそ、改めてこの書、「空間人類学」への評価が高まっていくのではないでしょうか。とりわけ「人類」というもの言いに。
 
 
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江東区立川南(せんなん)公園。(震災復興52小公園。その3。)

2013-10-10 20:45:37 | 震災復興小公園
 川南小と川南公園は地域・児童にとって緊密な関係にあるようです。訪ねた日曜日には、学校の校庭と公園広場とで地域の町会・子供会(?)の催し物「川南まつり」をやっていました。
説明板。

川南公園の歴史
 川南公園は、大正12年の関東大震災からの復興計画でできた公園で、開園は昭和6年です。震災復興計画公園は、江東区内では川南公園のほかに6つあります。
 公園内の西側にあるすべり台はおそらく開園当時につくられたものと思われます。
 川南の名称はもとのこの地の地名で水運の動脈であった小名木川の南に位置していたことからつけられたそうです。

 この解説文では、開園当時の「学校(と一体になった)公園」つくりという重要な視点が記されていません。 

校庭と公園の出入口。
公園側から校舎を望む。この辺りは東京大空襲で周囲は壊滅状態。鉄筋コンクリートの校舎の外壁は残りましたが、内部は消失。
 大正期の関東大震災、さらに昭和の大空襲で二度大きな被害に遭っているわけです。戦後、復興した校舎の位置は、戦前とほとんど変わりません。公園は、学校側にプールができ、手狭な印象。

 このように、各小学校にプールを設置することになり、敷地の狭い学校では隣接していた公園の一部をプール建設地にあてるという事態に、その結果、公園が狭隘な空間になってしまうケースも出てきました。

公園入口から中央付近。

説明板にあった二連式滑り台。
正面に子どもを描いたレリーフがあります。
レリーフが古風な印象。

公園の西側から東を望む。
お祭りの片付けなど子ども達も大勢いました。
残念ながら「パーゴラ(藤棚)」はありせん。
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墨田区立業平公園。江東区立元加賀公園。(震災復興52小公園。その2。)

2013-10-09 23:35:46 | 震災復興小公園
 52ヶ所あった公園のほとんどが、開園当時の原型をとどめていない、とのこと。特に本所・深川地域は昭和20年(1945年)3月10日の大空襲で壊滅的状態になったために、多くの公園は、かつてのような公園のかたちに戻すことなく、新たな公園づくりとなったようです。
 隣接する小学校。東京大空襲では、鉄筋コンクリートづくりのため、校舎の外形はそのままでした(これは当初の意図通りに耐火建築物として周囲の木造低層住宅が跡形もなく壊滅状態になっても残りました。もちろん、校舎内部はほぼ焼き尽くされ、外壁もそのまま使用できるものではありませんでした)が、新校舎建設のために改修され、さらに、近年の教育環境の大変化や建築基準法の見直し等でそれらの要求に呼応して大幅に改築、当時の原型をとどめていません。

 墨田区立業平公園と区立業平小学校もその一つ。
 スカイツリー・「浅草通り」を南に越えたところにあります。
「業平公園」。
かつての面影はまったくない。ただ、樹木を一列に配置した、中央の大きな広場の存在が当時のコンセプトの一端を残している。
西側を望む。道路をはさんだ向かい側が「業平小学校」。
道路をはさんでいるため、学校+公園というかたちではなく、それぞれ独立したものになっている(校庭側フェンスに一カ所、小さな出入口はあるが)。
「Geidai Taito Sumida Sightseeing Art Project」による作品が公園の片隅に。
二連式の滑り台はありました。

 続いて、江東区立元加賀公園。「三ッ目通り」。「東京都現代美術館」のすぐ北東に位置する。ここは、北隣の学校との関係もまだありそうで、開園当時の施設も残っています。
門柱。
「開園 昭和二年八月三一日」。開園は早い方。ということは、すでに86年経過。周りが高層住宅など建て込んでいる一角。先見の明があったというべきでしょう。
壁泉付露床。「元町公園」にあったものと同じような工夫がされている。広場の西隅の中央にあり、大きくてけっこう目立つ。公園の他の工作物・施設の中でもちょっと異質な雰囲気の工作物。
鎖で囲ってあるが、自転車の壊れた車軸が投げ込まれたままになっていた。説明板もないのが残念。
その付近から東側を望む。大きな広場がメインの公園。その東側に藤棚と滑り台などがある。

学校の校庭との通用口が二カ所。それぞれ立派な門扉で、簡単に出入りできるようにはつくられていない。
校庭との間にはフェンスと植え込みがあり、それぞれの独立性が高いものになっている。

藤棚(古木)。これは、開園当時の「パーゴラ(つる棚)」をそのまま、今に生かしたもののようだが・・・。憩いのスペースに。
けっこう幅も長さもある「パーゴラ」仕立て。公園の南外側から望む。
藤棚から西の広場を望む(樹木は植えていないので、近所の幼稚園、子供会などの運動会・催し物には最適)。中央が「壁泉付き露床」。
数人の子どもが野球をしていた。広いスペースを自分たちだけで独り占め。

東側部分の遊具スペース。
二連式の滑り台。「元町公園」のようなコンクリート製で左右対称の滑り台ではなかったが、開園当時のイメージを残した? 
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文京区立元町公園。(震災復興52小公園。その1。)

2013-10-08 20:17:12 | 震災復興小公園
 大正12年(1923年)の関東大震災による被害状況を受けて、帝都復興院総裁となった後藤新平(内務大臣を兼務)を中心とする震災復興再開発事業は、東京市の防災都市化にその主眼を置いた。
 特に地震によって発生した火災による被害は甚大であり、延焼を食い止める防火帯の設置が重要な課題となった。昭和通りなどの幅員の広い幹線道路の建設と並んで、公園の確保に重点が置かれ、東京に三大公園(隅田公園、浜町公園、錦糸公園)が設置された。三大公園には含まないが、昭和5年(1930年)に完成した横網町公園には、関東大震災の身元不明遺骨を納める震災記念堂と復興事業に関する資料を保存・展示する復興記念館が建設された。
 また、井下清率いる東京市公園課は、小学校を不燃化、耐震化された鉄筋コンクリートの校舎にして、小公園を併設させることにより防火帯と避難施設の役割を持たせようとした。これにより、小学校とセットになった小公園が東京市内52箇所に設置され、小公園は、隣接する小学校の校庭を兼ねるとともに、地域コミュニティの中心的存在となっていく。
 これが「震災復興52小公園」といわれる公園群。
 当初は、焼失区域のすべての小学校区に公園を隣接させようとしたが、半数に届かない52箇所に止まった。小公園の建設・設計理念は以下のようなものであった。

・小公園の配置は、児童数・校庭の広狭・既設公園の配置などを勘案し、都市計画的に決定される。
・耐震強度を高めた小学校に隣接し、教材園及び運動場補助等の目的を有するとともに、地域の防災拠点とする。
・広場を中心に敷地の40%を植栽地とし、道路に沿う外周部分には低い鉄柵を施し、容易に出入り可能なものとする。
・植栽には防火・防音・防塵効果に優れた常緑樹を採用し、学校教材のために多種類の樹木と潅木を使用する。
・震災復興の名の下に公園を近代文化の普及・啓発のための展示場として演出する。

 震災後、欧米を視察した井下清は、近代的・合理的な態度で設計に臨み、小公園のあるべき姿を新しい様式として示した。
 しかし、戦後、大空襲による壊滅的な打撃に対する修復・復興などで大きく変わり(特に隅田川以東地域)、さらに、その後の世相の変化とともに相次いで改修が行われた。
 多くの小公園が児童公園という位置づけとなって、隣接の小学校と隔たった独立の存在となり、当初の学校公園の考え方は忘れ去られてしまった。

 《52小公園の現存状況》

 かなりの数の公園が消滅や縮小になって、公園の名称のみで完成当時の姿を完全に残すものはひとつもない。京橋公園(千代田区、昭和4年開園)のコンクリート製滑り台や元加賀公園(江東区、昭和2年開園)の壁泉付露床など一部の造形物が残るのみ。
 そうした中で、文京区本郷にある「元町公園」(昭和5年開園)は、昭和57年(1982年)に伊藤邦衛によって原型に忠実な改修が行われ、当時の設計思想を現在に伝える唯一の小公園となっている。復元されたモダンなデザインの擁壁や壁泉、太い円柱が印象的なパーゴラ(つる棚)、左右対称の2連式滑り台などは、いずれも小公園の特徴的な様式である。
 しかし、北側に隣接する元町小学校は、平成10年(1998年)の本郷小学校との統合により廃校となり、 校舎の解体に伴って元町公園も取り壊し、総合体育館を建設する計画が文京区によって進められている。
(以上、「Wikipedia」参照。)

 今回、ほぼ当時の原型を伝える「元町公園」の他、墨田区の「業平公園」、江東区の「元加賀公園」「川南公園」を訪ねました。

「文京区立元町公園」正面入口。
 「元町公園」は、JR水道橋駅東口を出て、水道橋を渡って、右。緩やかな上り坂。都立工芸高校、昭和第一高を過ぎた左手。台地上という敷地を巧みに利用した公園になっています。

「開園年月日 昭和五年一月二五日」。
壁泉。
高低差を生かしたつくりになっている。
通りから見上げると、柱のてっぺんに何やら鳥の置物が。
三層になった配置。テラスへの階段。
太い円柱が印象的なパーゴラ(つる棚)。
一段、高くなったスペース。ここは、催し物などのステージにもなる、という計画だった。
藤棚。
樹木が植えられた広場。近所の青年達がバレーボールを楽しんでいた。
二連式滑り台。砂場とセットで公園の隅に設置されていた。


 ベンチで休むサラリーマン、弁当を広げる大学生。女性達。高層ビル、コンクリートに囲まれた中で、思ったよりも緑が多い空間。近所の人々にとっては、貴重な公園・憩いの場になっているようす。現在、ここを取り壊す計画がどの程度まで本格化しているのでしょうか? 何とかこのスペースを保存できないものか、と。

「元町小学校(復興小学校)」(廃校)との間のフェンス。かつては、自由に行き来が出来たようだ。
元町小正面。校章が外された跡が痛々しい。現在は、「順天堂病後児ルームみつばち」など、一部使用されている。


坂の上から外堀を望む。左手が公園、右手が「昭和第一高」。
公園の東側。
張り出したテラス状になっていて、眺望もよい。
木々などの緑を豊かに、というコンセプトがうかがわれる。
公園の東南の隅にあった造作物。壊れていて?
そこから公園の西方向を望む。


《公園の内訳》
 公園名   開園年  隣接の小学校

《千代田区》

1上六公園 昭4(1929)年 上六小学校
2西小川公園 昭5(1930)年 西神田小学校
3錦華公園 昭4(1929)年 錦華小学校
4淡路公園 昭5(1930)年 淡路小学校
5神田公園 昭6(1931)年 神田小学校
6練成公園 昭6(1931)年 練成小学校
7芳林公園 昭5(1930)年 芳林小学校

《中央区》

8常磐公園 昭6(1931)年 常磐小学校
9久松公園 昭5(1930)年 久松小学校
10十思公園 昭5(1930)年 十思小学校
11箱崎公園 昭4(1929)年 箱崎小学校
12蛎殻町公園 昭6(1931)年 有馬小学校
13鉄砲洲公園 昭5(1930)年 鉄砲洲小学校
14京橋公園 昭5(1930)年 京橋小学校
15築地公園 昭5(1930)年 築地小学校 現存せず
16越前堀公園 昭5(1930)年 明正小学校
17月島第一公園 昭2(1927)年 月島小学校
18月島第二公園 大15(1926)年 月島第二小学校

《港区》

19桜田公園 昭6(1931)年 桜田小学校
20南桜公園 昭4(1929)年 南桜小学校

《文京区》

21新花公園 大15(1926)年 湯島小学校
22元町公園 昭5(1930)年 元町小学校

《台東区》
23東盛公園 昭3(1928)年 東盛小学校
24山伏公園 昭6(1931)年 山伏小学校
25入谷公園 昭6(1931)年 台東小学校
26西町公園 昭5(1930)年 西町小学校
27御徒町公園 昭6(1931)年 御徒町小学校
28石浜公園 昭5(1930)年 石浜小学校
29千束公園 昭5(1930)年 千束小学校
30小島公園 昭6(1931)年 小島小学校
31富士公園 昭6(1931)年 富士小学校
32田原公園 昭6(1931)年 田原小学校
33金竜公園 昭6(1931)年 金竜小学校
34松葉公園 昭6(1931)年 松葉小学校
35精華公園 昭5(1930)年 精華小学校
36柳北公園 大13(1924)年 柳北小学校
37玉姫公園 昭5(1930)年 正徳小学校

《墨田区》

38中和公園 昭4(1929)年 中和小学校
39業平公園 昭5(1930)年 業平小学校
40横川公園 昭6(1931)年 横川小学校
41江東公園(現・両国公園) 昭4(1929)年 江東小学校(現・両国小学校)
42茅場公園 昭6(1931)年 現存せず (JR錦糸町駅南口、現・丸井の南にあった。江東橋3-8。)
43若宮公園 昭6(1931)年 外手小学校
44菊川公園 昭5(1930)年 菊川小学校
45永倉公園 昭5(1930)年  現存せず(「日進小学校」(現竪川中学校)の南側にあった。校地拡張のため消失。亀沢4-11。)

《江東区》

46元加賀公園 昭2(1927)年 元加賀小学校
47八名川公園 昭5(1930)年 八名川小学校
48森下公園 昭5(1930)年 深川小学校
49臨海公園 昭5(1930)年 臨海小学校
50東陽公園 昭2(1927)年 東陽小学校
51扇橋公園 昭5(1930)年 扇橋小学校
52川南公園 昭6(1931)年 川南小学校

(「kantoquake.kanagawa-u.ac.jp/pmapf/index/park.html」さんより一部引用。番号は便宜的に付した。)
当時の基本的なレイアウト。(6つのパターンがあったようです。)
(「同」より)
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爺婆が 行き惑ひつつも 秋の雨

2013-10-07 19:26:17 | じじばばがゆく
 このあいだの土曜日。東京地方、前夜から激しい雨。

 お昼前。少し小降りになってから、お出かけ。いそいそとJR日暮里駅改札口。
 で、はじめての舎人ライナーに乗って、舎人公園でバーベキューって、これじゃどうにもなりません。どうする?
 いちおう、皆さんのためにおにぎりでもつくって、おつまみも用意して持ってきたけど、これどうする? 
 中止にしましょうって、それはいいけど、どこに行く? これ、けっこう重たいんだけど。皆さん、関心ないようだけで、これ、どうする?

 「夕焼けだんだん」って歩くんでしょ。それよりはおなかがすいたわ。どこか食べるところはないの?
 この時間じゃ、おしゃべりできそうなお店、どこもやってないわよ。おそばやさんじゃ、長居できないでしょ。ねえ、どうする?
 12時からやっているお店があるって、じゃ、早く電話してよ。留守電になっちゃうのか。そりゃ、まだ12時前か。じゃあ、どうする? 
 ここで、おにぎり食べちゃう? ついでにおつまみも。お酒でも買ってきてここでやる? まさかね。 

 しとしと降る雨の中、行き場のないジジババたち9人。
 「じゃ、今日はこれで解散ってことで。日にちを改めて12月の忘年会ということにしましょう!」って。
 それはやめてよ。百歳近い年寄りにご飯つくって、何とかやっと家を出てきたんだから。今更こんな時間に帰れないわよ。イヤミたくさん言われたらかなわないし・・・。で、どうする?
 そんな駅の壁地図見ながら、あれこれ能書きはいいから。・・・ハイハイわかりました。でも、おにぎりのこともそうだけど。それよりどうする?

 えっ! 予約できた! 「西日暮里駅前!」ってこれから歩いていくの? ま、しょうがないか。
 でも、日暮里もずいぶん変わったわね。こんなビルが出来たなんて。あれが舎人ライナー。もう、ごみごみした印象しかなかったけど。ほら、駄菓子屋さんとか、大きな生地屋さんとかあったはずだけど、どこに行ったのかしら。帰り、寄ってみない。どうする?

 あれ!先歩いていた人たちの姿が見えなくなった。ま、こっちに曲がればいいか。で、改札口に着いてどうする?
 いた、いた。なんだ、まっすぐ行けばよかったんじゃない。ごめん、ごめん。でも、おにぎりが重たい。早く食べようよ。
 
 ・・・こうしてやっと着いた居酒屋さん。ここは、ふだんはランチタイム、でも、土日はアルコールもOKだそうで、
 
 何飲む? 何食べる? ついでにここでおにぎり食べちゃう?

 そして、いつものお決まりの人の噂と健康談議に花咲いて。ご飯を食べたらどこへ行くの? なんて話はとうの昔に忘れ果て、おしゃべりおしゃべり・・・。いつしかもう3時過ぎに。お店の人には大迷惑。店の人、あそこで食事している、遅いお昼? 申し訳なかったわね。

 イヤだ、まだ雨降ってる。これからどうする? おにぎり重たいし・・・。もう少しお話しましょうよ。せっかく出てきたんだから。「じゃ、また日暮里に戻って」。ハイハイ、わかりました。

 えっ、満員なの!あそこもいっぱい!ですって。どうするのよ、このおにぎり? じゃなくて、私たち。じゃ、カラオケに行きましょうよ。このあいだみたいに、一曲も歌わずのカラオケへ。

 ・・・こうしてやっとカラオケに落ち着いて、「北酒場」一曲以外には誰も歌わずにひたすら飲み、おしゃべりにまたまた花が咲いて・・・。いつしか、5時前。
 では、これで解散って。おつまみは持って帰っていいけど。このおにぎり、どうする?

 「次回は、12月、いつもの『江戸一』にて。けっして『ドイツ』じゃないからね。間違えないように頼みますよ。分かった方は手を挙げて!」。ハイハイ、わかりました。

 雨にも負けず、歳にも、高血圧にも、変形性膝関節症にも、糖尿にも負けず。前立腺にも、介護のジジババにも負けず。孫にも負けず(孫には負けて)・・・、
 元気な中学校のクラス会。卒業して早くも半世紀が過ぎました。身も心も年相応でけっこうでした。幹事の方、お疲れ様。

 そうそう、「松茸おにぎり」は、中村さんちの夕飯のお役に立ちました。

 ※ さて、この文中で「?」「!」は、それぞれ何回ずつ用いられているでしょうか?
      
 
 
 
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「Senso '45」(Tinto Brass)。(古きよき映画シリーズ。その42。)

2013-10-06 22:14:16 | Tinto Brass
「Senso」はイタリア語で「官能」の意。「45」は、1945年。

 カミッロ・ボイトの短編小説をイタリアの巨匠ルキノ・ヴィスコンティが映画化した「夏の嵐」を、ティント・ブラスがリメイクしたもの。

《あらすじ》
 1945年、第二次大戦末期のイタリア。上流階級の女性リヴィアは、夫との不毛で怠惰な日々を過ごしていた。そんなある日、夫と出かけた劇場で若いドイツ軍中尉ヘルムートと出会う。すっかり心を惹かれてしまったリヴィアは官能の世界に溺れてしまう。
 家庭では貞淑な妻を装い、情事の時には大胆に振る舞うリヴィア。そんなある日、ヘルムートを訪ねた時、若い女性とベッドにいる場面を目撃して、激しいショックを受ける。そして、ついに破局へ。


邦題「秘密」。

監督: ティント・ブラス
製作: ジュゼッペ・コロンボ
原作: カミッロ・ボイト
脚本: ティント・ブラス
撮影: ダニエル・ナンヌッツィ
音楽: エンニオ・モリコーネ

出演: アンナ・ガリエナ(リヴィア)
    ガブリエル・ガルコ(ヘルムート)

 48歳のアンナ・ガリエナ。イタリア上流階級の夫人役、最後には若い男に裏切られる哀しい中年女を演じ、肉体をさらけ出す熱演。


 エンニオ・モリコーネの音楽、哀切のこもった調べが見事にマッチ。

 ヴィスコンティの「夏の嵐」は、傑作との評価が高い。その内容は、
 
 1866年、オーストリア占領下のヴェネツィア。フェニーチェ歌劇場でオーストリア軍のフランツ・マーラー中尉(ファーリー・グレンジャー)と反占領軍運動の指導者ロベルト・ウッソーニ侯爵(マッシモ・ジロッティ)の決闘騒ぎが起こる。リヴィア(アリダ・ヴァッリ)は従兄のロベルトを救うため、フランツを桟敷席に招き、決闘の申し出を断るように頼む。決闘は免れたが、フランツの密告でロベルトは流刑になってしまう。
 フランツと再会したリヴィアは、彼に言葉巧みに言い寄られ、秘密の部屋を借りて逢瀬を重ねるようになる。
 やがて開戦、フランツに会えないまま夫とアルデーノへ行くことになった。
 そこへ突然フランツが現れる。リヴィアは、ロベルトから預かった義援金を渡し、フランツを除隊させる。彼を追ってヴェローナへ行くと、フランツは、口汚く罵った。ショックを受けたリヴィアは軍に事実を密告し、フランツは銃殺刑となる。(以上、「Wikipedia」による)

 時代を第二次世界大戦末期に移しましたが、ほぼ「夏の嵐」をなぞっています。満ち足りない日々を送る中年の女性が若い魅力的な男性に心身ともにおぼれていく、その果て。
ガブリエル・ガルコは、実に美男子。

 海のシーンなどは映像的に優れていました。


 後半のモノトーンの映像が効果的。全体として色調をあえて抑え気味なのがいい。

ラストのシーン(銃殺の場面)。

※映像は、すべて「YouTube」による。
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藍染川幹線。白汚零。(「もう一つの藍染川」。その3)

2013-10-05 23:11:18 | 河川痕跡
 藍染川は日暮里の高台、文京区側を流れていた谷田川(藍染本流)の氾濫防止として、西日暮里の京成高架線付近までトンネルで分水、排水路として大正7(1918)年に造られました。昭和35(1960)年に保健衛生上の問題などにより全面トンネル化され、現在は道路になっていますが、トンネルを流れる藍染川幹線は三河島水再生センターで下水処理をされ隅田川へ放流されています。
「藍染川」の終点。京成線・隅田川橋梁脇。
さんより。)
 
 「西日暮里の京成高架線付近までトンネルで分水、排水路として大正7(1918)年に造られました」とありますが、「東京都下水道局」のHPには、「大正2年、東京市下水道設計による最初の工事に着工(台東区龍泉二丁目付近)」とありましたから、このトンネルもかなり初期の頃に造られ、約100年の歴史を重ねていたことが分かります。
 
 今年の下水道局のカレンダーに載っている、とのことでしたが、ひょんなことからそのカレンダーを入手しました。
(「2013年下水道カレンダー」より)

 煉瓦のブロックで固められ、重厚な感じすらある内部のようす。他の写真も見応えのあるものでした。

 6枚の撮影者は白汚 零(しらお・れい)さん。プロフィール(「jinbochogarou.com/shirao%20profile.html」)によれば、
1965年 高知県生まれ。
1989年 東京写真専門学校卒業。
スクール・オブ・ビジュアルアーツ(ニューヨーク)に全学費奨学生として入学。
1991年 芸術学士号(BFA)取得。
1991年 ヘリオギャラリー(ニューヨーク)主催国際写真コンペティション最優秀賞受賞。
1992年 帰国後フリーランスカメラマンとなる。
1999年 富士フォトサロン新人賞受賞。
2000年 上野彦馬賞日本写真芸術学会奨励賞受賞。
2010年 写真集「地下水道」上梓。
2010年 国土交通大臣賞「循環のみち下水道賞」受賞。
2011年 さがみはら写真新人奨励賞受賞。
個展・グループ展多数

 とのこと。また

白汚零Ray Shiraoウェブポートフォリオ - So-net
(www014.upp.so-net.ne.jp/RayShirao/‎)
穴写真家、白汚零(しらお れい)のホームページ。下水道、鍾乳洞など穴があったら入りたい方はぜひお入りください。水道管や沖縄の亀甲墓の写真もあります。

 と。

 HPを訪れると、「胎内都市」「窟にて」「導管」「細道」「カミヌクー」というジャンル(?)ごとの写真が掲載されていました。まさに「穴」に徹底してこだわり、魅せられた(魅せようとする)写真家のようです。今まで接したことのない分野でした(そもそも写真という分野自体にも)。
 「原点・自分探し」(ある意味での胎内回帰)をこうしたかたちで完結させようという表現方法とお見受けしました。

JR高架線の東側。このあたりからトンネルではなくなっていたようだ。「さくら水産西日暮里店」の店の横。「藍染川幹線」の上にお店があるような印象。このごついコンクリート製のものはかつての橋の一部? 
横から見たところ。
その幅に沿って道路のようすが異なる。いかにも開渠だったころの名残り。
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大久保主水。巻石。神田上水跡をたどる。江戸川公園~小石川後楽園。その3。

2013-10-04 22:06:03 | 河川痕跡

 つるべ落としの秋の日。早くも陽が傾き始めました。先を急ぎましょう。上流から下流への道筋だと思っていましたが、ほぼ等高線沿いのたどり道。
「旧町名案内」。水道端。図書館前。そこには重要なことが書かれてありました。

 神田上水は最初の上水道で、徳川家康の命で大久保主水が造った。小日向台地を素掘で通した。明治11年頃石で巻いて暗渠にした。それで、巻石通りまたは水道通りと呼んでいる。

 ここに、造成者としての大久保主水という名と、「巻石」通りの由来が明らかに。


より。大変興味深い記事がありました。

大久保藤五郎と三河餅(掲載日2008年11月16日)

上水の始め
 天正18年(1590)徳川家康は、それまで領有していた駿河・遠江・三河などを離れ関東に移り、江戸に本拠を置きました。そのころの江戸は入り江や低湿地が多く、井戸を掘っても良い水に恵まれない土地でした。そこで家康は家臣の大久保藤五郎(おおくぼとうごろう 不詳~1617)に上水道の見立てを命じました。藤五郎は江戸の西にある井の頭池や善福寺池などを水源とする上水を開発しました。この上水は小石川上水とよばれ、後に神田上水へと発展しています。
 家康は藤五郎の功績に対して主水という名を与えました。大久保家では「もんど」では水が濁るというので代々「もんと」と名乗りました。

三河餅を献上
 話は藤五郎が上水道を開発する以前にさかのぼります。彼は家康の小姓を務めていたのですが、戦の傷がもとで、三河国上和田(岡崎市)に引きこもり、時折菓子を作っては家康に献上しました。江戸幕府の歴史を記した『徳川実紀』によれば、家康は主水の作った菓子を「御口にかないしとて毎度求め」ていました。そのなかに駿河餅とよばれる菓子があります。
 この餅は大久保主水家の由緒書などによれば三河餅となっています。三河も駿河も家康にとってはゆかりの深い土地ですので、どちらの名でもおかしくはありませんが、ここでは大久保家の由緒書ほかから三河餅の名をとりました。大久保家には藤五郎が鎧を着て、家康に餅を献上する絵が残されていますが、ずいぶん大きな紅白の餅で、これが三河餅と言われています。後年、家康が小石川用水の水源、井の頭池を訪れ、茶を点てた時にも三河餅を献上しています。この時には、湯を沸かした「宮嶋」という銘のある茶釜を主水は拝領しました。

幕府御用菓子屋大久保主水
 主水を名乗った藤五郎の子孫は、代々幕府の菓子御用を勤めました。古くは大久保主水一人で、徐々に増えて江戸時代後期になると4・5軒の菓子屋に増えています。しかし、江戸時代を通じて勤めた御用菓子屋は大久保主水家のみです。
 大久保主水は、幕府のさまざまな菓子作りに関わりました。6月16日は嘉祥の日、江戸城大広間には2万個を超す菓子などが並べられ、将軍から大名旗本へ菓子が分け与えられました。この菓子も歴代の主水が中心になって作りました。
参考:「徳川家康と嘉祥」、本HPコラム歴史上の人物と和菓子/『徳川実紀』第一篇

 「もんど」を「もんと」と濁らない。そして、本職は、和菓子作りだったとは? 新発見でした。

 さて、「巻石」の方は? どういう工法なのか?
(「歴史的農業環境閲覧システム」より)当時も明治時代もそして今でも、神田上水の道筋はまったく変わらずにある。道の真ん中の破線になっているのが暗渠だったようだ。現在の「巻石通り」。
 ネットで調べると、お墓に関するものばかり。「お墓は石碑の周りを石で囲みますが、これを巻石といいます。」
境界線として石で囲むこと、また、囲んだ石を指すようです。でも、「巻く」という表現はどこから来るのか?
 お墓の写真を見ても、境界線に沿ってぐるりとしっかりと石を並べて定めていく工法のようです。神田上水の場合は上の部分に石で蓋をしたということでしょうか? 
 「巻石通り」という通称名はぜひ残してほしいものです。できたら、通り沿いにそのいわれも大きく掲示してほしいですのですが。

「www.honkane.com/bunkyou-suidoh1.html」<文京区民のページ>より。

●巻石通り
 文京区春日と水道の間
ここは昔、神田上水が通っていました。地域の人々は、”巻石通り”と呼んでいます。
 神田上水は、井の頭池を源流とし、目白台下の大洗堰(大滝橋付近)で水位を上げ、これを開渠で水を導き、水戸屋敷(後楽園)へ入れた。そこからは暗渠で神田、日本橋方面へ配水した。
 明治11年頃、水質を保つため、開渠に石蓋をかけた。その石蓋を”巻石蓋”と呼んだ。
 その後、神田上水は鉄管に変わり、飲料水としての使用は明治34年(1901)までで、以後は、水戸屋敷跡地に設けられた 兵器工場(陸軍砲兵工廠)の工業用水として利用された。
と荒木坂の説明にありました

 このHPの会社が葬儀屋さんというのも何かのご縁。

北側の小日向台地上は寺町になっている。
夏目漱石の菩提寺である「本法寺」。
坂道の多い町。
区立金富小学校脇。「金富」のいわれは定かならず。この小学校、校舎と校庭(グランド)の間には、お寺がどっしりと構えていました。寺町ならではの光景。

「旧町名案内」大和町。そこには、源頼朝にまつわる北野神社(牛天神)の縁起が記されています。当時、小日向台地の崖下は海(東京湾)だったようです。
(「今昔マップ」より)青い○が牛天神。標高は21㍍で、後楽園付近は5㍍。現在の地図からも東京湾の入り江が深く入り込んでいたことが分かります。(緑色の部分が標高の低いところ。)
 縁起によると、源頼朝が1184年東征の際にここの入り江の松に船をつなぎ波風が静まるのを待つ間、夢に菅神(道真)が牛に乗って現れ二つの吉事があると告げた。武運満足の後は社を営むべしとあり、夢から覚めると牛の形をした石があった。その後、頼家が生まれ、平氏を西に追うことができ、ここに社殿を造営した。(「文京区」HPより。)
(「歴史的農業環境閲覧システム」より)中央左に「北野社」。下方の流れが「神田上水」。このあたりから、開渠になる。右下が後楽園方向。現在の「牛天神下」交差点付近。
遠くに「後楽園遊園地」。
「巻石通り」を望む。
「小石川後楽園案内図」。左下の道が「巻石通り(神田上水)」。
築地塀の石垣。江戸城鍛冶橋門北側の外堀跡から出土した石垣の石材を使って再現した、とのこと。
すでに園外の街灯の明かりが。

(「同」)上方を流れているのが神田上水。
(「同」)東側を開渠で流れていく。

         
しばらく進むと、暗渠になり、南に向かう。「神田川」に架かる中央の橋が「水道橋」、右端の橋が「万年筧」。一方は、神田・日本橋方向へ、もう一方は内堀方向へ、辻、辻を曲がりながら流れていたことが分かる。青色の点線。
神田川・水道橋のほとりにある「案内板」。黄色い線が「神田上水」。

水道橋のたもとにあるレリーフ。かつての「水道橋」のようすを描いている。
現在の「水道橋」という表示。
橋の上からの「神田川」の流れ。
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巻石通り。水道町。神田上水跡をたどる。江戸川公園~小石川後楽園。その2。

2013-10-03 21:20:27 | 河川痕跡
 江戸川橋通りを越えて、いよいよ水路跡の道に入ります。
正面左の「巻石通り」。分岐点に「神田上水」跡という説明板あり。

 そこには、
 「神田上水は日本最古の都市水道」
 と記されています。

 「今昔マップ」によれば、分水地点が標高9㍍、そこから、ほとんど高低差がない崖沿いの標高7~8㍍のところを流れていき、後楽園で約4㍍、その先はぐっと低くなります。しかし、動力を使わずに一気に通水させていたわけですから、微妙な勾配を実現していたことに驚きます。実際歩いてみると、北側は坂道・台地、神田川側(南側)の方が低くなっています。
神田川側を望む。緩い下り坂になっている。
 小日向台地の南側を削って階段状にし、そこに水路を造成した、と。静岡の山間部を抜ける新東名高速のようなやり方? 
 (余談ですが、あの道路は海側に向かって傾斜がきつい丘陵地帯を切り開いたようで、高速の上を渡る一般道の橋はほとんど海側に向かってけっこう斜めに下がっている。)

 「上水道」として適度な水量と清潔さを保つためには、台地上から汚水が流れ込まない、淀まない、逆流しない、あふれない、水漏れしない、江戸川(神田川)方向に流さない、等々の工夫、頑丈な堤防、しっかりした暗渠など、相当の土木技術が要求され、またその後の地元民の苦労もたくさんあったと思われます。

途中で見かけた工事現場。関東ローム層?の赤土・粘土の地層が。関東ローム層も一段深く掘り下げれば、そこそこの強度があったという。
北側は、こうした坂道ばかり。工事現場からも分かるように、相当の高低差があります。

">(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。曲がりくねった道が「神田上水」。「後楽園」近くで再び開渠となる。カギ型に曲がる大きな流れが江戸川(現在の名称は「神田川」)。

町名も南側は「水道」。また、「水道」という名が付された施設も。一本南側の道沿いにある「水道交流館」。
中央の曲がりくねった道が「神田上水」跡。
旧町名案内。「小日向水道町」。説明の中に、「水道」と付されたのは、「神田上水」の土ざらえを定時に行うこと(「定浚―じょうざらえ―」)を命じられたもの、とある。
 神田上水に面した町方は、清潔かつよどみなく下流に流すための役目が義務づけられていたことが分かる。町名の「水道」という名にはそんな由来もあった。「旧文京区立五中(現・文京江戸川橋体育館)」付近。
心なしか少し上って曲がっていく道。
小日向台地を削って流れを築いたようだ。
振り返って来た道を望む。ほぼ平坦な道だった。
「区立水道端図書館」。
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大洗堰。芭蕉。神田上水跡をたどる。江戸川公園~小石川後楽園。その1。

2013-10-02 23:18:04 | 河川痕跡
 久々の都心。会合のついでに、地域探索。今回は「神田上水」。江戸川公園からかつての水路をたどってみます。

(「歴史的農業環境閲覧システム」より)「江戸川」と「神田上水」との分水地点。「関口」という地名もこれに由来しているようだが。

説明板。

 神田上水取水口大洗堰跡
 徳川家康の江戸入り(天正18年―1590)の直後、井の頭池から発する流れに、善福寺池、妙正寺池の流れを落合であわせ、関口で取水して水路を定めたのが神田上水である。
 大洗堰で水は二分されて分水は江戸川に落とし、他は上水として水戸殿に給水し、神田橋門外付近で二筋に分かれた。一つは内堀内の大名屋敷に給水し、他の一つは本町方面、日本橋で北の町屋に給水した。
 大正末年には水質、水量とも悪くなり、昭和8年に取水口はふさがれた。
 上水道として最も古い神田上水の、取水口である大洗堰の跡は永く歴史に残したいものである。
文京区教育委員会 昭和62年3月

「大滝橋」より「江戸川(神田川)」上流を望む。
少し広くなったところ。児童公園になっている。上の明治初期の地図では少し水路が広がり、堰があったあたりか?
「堰」の一部の遺構。
上流側。
説明板。

 神田上水取水口の石柱

 ・・・関口の大洗堰(現在の大滝橋あたり)で水位をあげ、上水路(白堀)で水戸屋敷(現後楽園一帯)に入れた。そこから地下の水道で、神田、日本橋方面に給水した。
 この大洗堰の取水口に、上水の流水量を調節するため「角落」と呼ばれた板をはめこむための石柱が設けられた。ここにある石柱は、当時のもので、昭和8年大洗堰の廃止に寄り撤去されたものを移した。なお、上水にとり入れた余水は、お茶の水の堀から隅田川へ流された。 昭和58年3月 文京区役所


「大洗堰由来碑」
説明板。

 かつて、この地には神田上水の堰があり、古来より風光明媚な江戸名所として知られていました。上水の工事には俳人松尾芭蕉も関与し、その旧居(芭蕉庵)は400㍍程常リュ云為復元されています。
 大正8年、東京市はこの地を江戸川公園として整備し、史跡(大洗堰)の保存に努めましたが、昭和12年になり江戸川(神田川)の改修により失われたので、翌年、堰の部材を再利用して、由来碑を建てました。
 左の碑文はその文面です。由来碑はすでに失われましたが、近年、この碑文のみが見つかりましたので、ここに設置しました。平成3年3月 文京区役所

左岸は切り立った崖。崖伝いに東の方に流れていた。
大滝橋の一つ下の橋から江戸川の下流を望む。
里程標。みなもと↑18.6キロ、すみだがわ↓6.0キロ。
ヒガンバナ。別名曼珠沙華。
上流を望む。
芭蕉の俳句に詠まれた植物の樹木名板。ここに、芭蕉と神田上水との関連が記されています。

 ・・・俳人松尾芭蕉(1644~1694)は、延宝5年(34才)から同8年までの4年間に亘り此処に居住して神田上水の改修工事にたずさわったと言われている。俳聖と神田上水の工事とはまことに妙な取り合わせのように思われるが、彼の前身が伊賀国(三重県)藤堂藩の武士であったことや藤堂藩(藩祖高虎以来、築城土木水利の技術に長じていた)が当時幕府から神田上水の改修工事を命じられていたことなど考え合わせると彼が工事監督としてこの改修工事に関係していたことも納得がいくのである。・・・ 平成6年2月 東京都みどりの推進委員文京地区会

首都高池袋線。江戸川橋の上。

(「同」)右(東)端、江戸川に架かっていた橋が「江戸川橋」。
赤い○。大きな橋であったことが分かる。「神田上水」は、その北側を東西に流れていた。


神田川

 東京都三鷹市井の頭恩賜公園内にある井の頭池に源を発し東へ流れ、台東区、中央区と墨田区の境界にある両国橋脇で隅田川に合流する。流路延長24.6km、流域面積105.0km²と、東京都内における中小河川としては最大規模で、都心を流れているにも拘らず全区間にわたり開渠であることは極めて稀である。
 かつては「神田上水」を取水し、江戸の水道として利用されていた。
 神田川の元の名前は「平川」といい、現在の日本橋川の分流点付近から南流し、現在の丸の内・日比谷に入り込んでいた日比谷入江に注ぎ込む川であった。当時はこの平川が豊嶋郡と荏原郡の境界となっていた。
 1590年(天正18年)に江戸に入府した徳川家康は、海辺で井戸によって真水を満足に得ることができない江戸の飲料水を確保するために平川を改修し、井の頭池と善福寺池、妙正寺池を水源とする神田上水を整備した。この改修により井の頭池を出て善福寺川、妙正寺川と合流する上流部分は現在の姿となり、神田上水は川の本流から目白で分流して小石川、本郷に水を供給した。また、後に水害対策として平川下流の流路を隅田川に通じる道三堀と新たに開削した江戸前島を貫通する流路(外濠)に流れるよう改修した。この内、明治以後に道三堀の西半分と外濠が埋められ、現在の日本橋川の河道が成立した。
 二代将軍徳川秀忠の時代には、江戸城の東北の守りを固めるために平川を天然の堀とすることが企図され、小石川から南流していた流路を東に付け替える工事が行われた。この工事では、水道橋から東は神田台と呼ばれる台地が本郷から伸びていたため、これを掘り割って通し、現在の御茶の水に人工の谷を造成した。神田台の東では、元からあった川を利用して神田台から真東に浅草橋、柳橋の東で隅田川に合流するようにした。この改修によって、平川の元の河道は切り離されて江戸城の堀となり、東に流れるようになった平川は「神田川」と呼ばれるようになる。神田台の掘割の西には水道橋が架けられ、神田上水は日本橋まで給水できるようになった。後に日本橋の旧平川河道と神田川は再び結び付けられ、日本橋川となっている。
 高度経済成長期には生活排水の流入により水質が悪化し「死の川」と呼ばれたが、周辺部に落合水再生センターなどの下水道網、下水道処理施設の整備が進み、元々湧水が多いことなどから近年は水質が大幅に改善し、鯉や鮎、鮒などが生息するようになった。鮎は1993年(平成5年)から毎年確認されている。
 また、かつては洪水で有名という不名誉な肩書きもあったが、80年代以降の川岸整備や放水路の増設によって治水が成された(ただし今でも中野区上高田では危険水位にしばしば達する)。 この際の整備で高戸橋から江戸川橋にかけて植栽された桜が大きく育ち、花見シーズンには多くの人が訪れる。
 神田川の中流域の中でも今日の都電荒川線早稲田停留場付近から飯田橋駅付近まで、東京都内の約2.1キロメートルの区間は「江戸川」と呼ばれていた。この部分も1970年8月に「神田川」に名称が統一されることとなったため、これに由来する地名の多くは1966年までにその名を消したが、江戸川橋駅及びその由来である橋梁、文京区立江戸川公園などにその名をとどめている。なお、明治末頃まで、石切橋から隆慶橋間の両岸は、東京市内屈指の桜の名所と言われた。
(以上、「Wikipedia」参照。)
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世界に冠たる

2013-10-01 23:38:54 | 平和
首相、消費税8%正式表明「次世代に責任を」(読売新聞) - goo ニュース
 TVのニュースを聞いていて一瞬耳を疑った!「世界に冠たる日本・・・」とアベが発言した。一瞬、戦前の大日本帝国はもとより、ナチス・ドイツの国歌一番を思い浮かべた。この男、屈指の筋金入りの保守主義者だと。
 こういう奴の発言を漫然と受け入れる多くの国民。たぶん、私自身はこういう男を上に仰いで、私利私欲をかせごうとする人々に対して恥と思う、と。たとえ圧倒的少数であっても。
 「積極的平和主義」。アメリカ軍直属の軍隊として、次は、航空母艦をつくる予算請求だろう。消費増税分は社会保障には回らず、大企業、特に軍事産業、原発(フクシマをそのままに)再稼働・輸出優先に。
 野田は見事にだまされた! そこが民主党の政治的、国際的未熟さであった!

ドイツよ、全てに冠たる、
世界に冠たる我がドイツよ!
マース川からメーメル川、
エッシュ川からベルト海峡まで
護りの為めに いつも
兄弟の如く団結せば
ドイツよ、汝は全てに冠たる、
世界に冠たる我がドイツなり!
(「gunka.sakura.ne.jp/mil/deutschland.html」さんより)
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