不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

岡崎宿冠木門。岡崎城下二十七曲がり。・・・(名鉄「本宿」駅から「矢作橋」駅まで。その5。)

2015-06-08 22:32:57 | 旧東海道

 さていよいよ「岡崎城下二十七曲り」ですが、先達のレポートでは、けっこう迷いやすく、不明な曲がり角も多い、とのこと、心して、という忠告も。気持ちを引き締めて、さて出発!

 時間は、8時30分前。人々の出勤や小学生たちの登校もピークを過ぎて、住宅街は落ち着きを取り戻した、静けさの中での探索でした。

 ところが、ところが、実際は・・・、「い」の表示で始まる大きな「道標」(上部に金の草鞋が置かれています)とそれが設置できないところには「看板」(これはちょっとよそ見をしていると見逃しそう)が、曲がり角ごとに懇切丁寧に設置されていて、ほとんど迷うところがありません。「い」「ろ」「は」とたどっていけばいいことになります。もちろん、先達の案内・地図を見ながらではありますが。今までの方々が頼りにしていた古い「石標」も健在です。
 これまでのレポートのように、手元の、参考にした地図を取り出し、きょろきょろあたりを見回し、目印を確認し、行きつ戻りつ、次の曲がり角は? ・・・ということは、ほとんど必要なし。
 多くの東海道歩きの人たちがどれほど迷い、あげく、通りすがりの方々に、あるいはお店の方に迷惑を掛けたのか・・・、そんなこともなくなって、ちょっと物足りない気分(勝手な感想ですが)。

 これまで通ってきた、宿場・城下町でもこれほどの懇切丁寧な案内表示は初めてでした(他では、中途半端な表示でかえって迷いやすいところもあった)。大変ありがたい試みです。

「国道1号線」から来た道を振り返る。



岡崎城下二十七曲り
 
 岡崎城下を通る東海道は、その曲折の多さで知られ、通称二十七曲りと呼ばれていました。享和元年(1801)当地を見聞した大田南畝も「町数五十四町、二十七曲ありとぞ」と「改元紀行」に書いています。
 二十七曲りは、田中吉政が城主だった時(1590-1600)城下に東海道を導き入れたことに始まり、のち本田康重が伝馬町を慶長14年(1609)創設して以後、道筋がほぼ決定したと思われます。このねらいは城内を防衛するためのものと言われますが、これにより岡崎の城下町は東海道筋の宿場町としても繁栄することになりました。
 二十七曲りの一部は、戦災復興の道路整備などにより失われはしたものの、現在でもその跡をたどることは可能です。この歴史の道とも言うべき二十七曲りを後世に伝えるために、城下二十七曲りの東口であった当所に記念碑を建て、道標とします。



  1880年代のようす(「今昔マップ」より) 

                 現在のようす(「同」)。

 現在のようすを重ねてみると、「国道1号線」などの道路網の整備、「矢作橋」の付け替え、河川の改修・流路変更などで大きく異なっていることがわかります。○は、「二十七曲がり」の一部のような気がしますが、現在は、はっきりしない道も多いようです。
 特に、太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)7月19日未明から20日にかけてアメリカ軍によって行われた大規模な空襲により、大きな被害を受け、人的被害はもちろん、建物も主要な施設のほとんどが焼失してしまいました。
 その後の復興によって大きく市街地が変貌し、宿場町時代はもちろん、古い建物や史跡などはほとんど存在していません。


   

 現在、どのくらいの「二十七曲がり」が残っているか、楽しみですが。

最初の曲がり角。「岡崎げんき館」を左へ折れる。「い」。

 「岡崎げんき館」は、岡崎市若宮町にある公共の健康増進施設。屋内プールとトレーニングジムを備え、建物の中には岡崎市保健所もあります。 2008年3月1日にオープン。旧市立岡崎病院跡地に「健やかに集い、にぎわいを創出する核として建てられたそうです。

 モニュメント。「岡崎城東入口」の石碑。

しばらく道なりに。

              「ろ」。両町角まで。

「は」。次の伝馬町角まで。石碑。

「常夜燈の由緒」。左手に保存されている。

 この常夜燈(仏式)は旧東海道岡崎の宿両町の街角に火災防止の祈願から遠州秋葉山永代常夜燈として今より182年前寛政二庚戌年(西暦1790)に建てられたものであります。その後昭和20年7月20日未明の空襲で災禍にあいましたが昭和47年10月22日までその原型を留めておりました。
 追日の痛みもひどく危険になりましたので取り壊しその一部「宝珠」を残しこれを安置保存したものであります。
 岡崎では最も古い由緒ある常夜燈で目下重要な文化財として惜(注:「親」の間違いか)しまれております。

 昭和47年10月   両町総代 神谷順治   施工者 宮石一一
 
「に」。「伝馬町通り」にさしかかります。

行く手の左手に「備前屋」。銘菓「あわ雪」。



 「三州岡崎東の駅口に茶店あり 戸々招牌をあげて豆腐を賣る其製潔清風味淡薄にして趣あり 東海道往来の貴族賢輩と雖も必輿を止て賞味し給ふ 東海道旅糧の一好味と謂ふべし」
と、古書にもあるように、江戸時代、岡崎宿の茶店「あわ雪茶屋」で供された「あわ雪豆腐」は 東海道名物として旅ゆく人々に有名でしたが、 明治に入ってからは世の移ろいとともにさびれてまいりました。
 当舗三代目藤右衛門これを惜しみ、その名を菓子に残さんと 日夜研鑚、現在の銘菓「あわ雪」を創作いたしました。
 新鮮な卵白を主原料に精糖を加えて泡立て、寒天で固めた 淡雪のように優しくまろやかで、きめ細かく淡白な舌ざわりは 三河地方を代表する銘菓として愛されております。

こちらは「あわ雪豆腐」。

                                 (HPより)

この付近から、道標や説明板、モニュメントが登場します。

         

道標(みちしるべ)

 江戸時代街道を旅する人々が頼りにしていたのが「道標」です。主要な道の分岐点には必ず道標が建っておりました。東西南北を太陽に頼るしかない当時の旅人にとって自分の行き先を示してくれる道標がどんなに有り難い存在であったか想像できます。
 この「道標」は伝馬の脇本陣でもあった杉山家の所蔵の物を複製しました。素材も当時のままあの岡崎産の良質な「花崗岩(みかげいし)」を使用しております。建っていた場所はここより北と推測され、東海道より足助街道へ行く道を示しております。

注:足助街道(あすけかいどう)は、愛知県岡崎市の岡崎城下の能見口より東海道と分かれ、北上して岩津・桑原・松平を経て足助(現・愛知県豊田市)に至る街道。 


お茶壷道中
 寛永9年(1632)に宇治茶を将軍に献上することに始まったお茶壷道中。家光は将軍の権威を示すため、毎年江戸京都間を往復する一行の茶壷に、はなはだしく威勢を持たせた。宿場では百人の人足を出す定めがあり、多いときにはお茶壷奉行はじめ百人以上の行列をもてなさなければいけないので負担も大きく、この茶壷は各宿場から大いに恐れられていた。行程の都合で岡崎伝馬宿ではこの一行はご馳走屋敷で休んだ。ご馳走屋敷には岡崎藩の家老が出向き、丁重にもてなしたとの記録が残っている。


朝鮮通信使
 江戸時代を通し、友好国であった李氏朝鮮は将軍に向け全十二回の使節の派遣をした。使節は修好・親善だけでなく文化使節としての側面も併せ持ち正使・副使・従事官の他に、朝鮮第一級の学者・医者・芸術家・楽隊・曲芸師など多彩な文化人が加わった平均五百人からなる大使節団であったので、沿道ではたくさんの見物客が出迎えた。一行は海路瀬戸内海を抜け、大阪から京都に入り、陸路で江戸に向かった。岡崎宿は、将軍の慰労の言葉を伝える最初の宿泊地でもあり、岡崎宿の応対は一大行事であった。


助郷
 大名行列のように、多くの人馬を必要とする場合、岡崎宿内では不足する場合もあった。助郷とは宿場で公用旅行者に継立てする人馬の基準数、人70人、馬80匹で不足する分を周辺の村々から雇い入れる制度で、以前からあったものの元禄7年(1694)に正式に実施されている。人馬を提供するところには賃金が支払われるものの安く、助郷の村々にとっては困窮する宿場の負担を転嫁される形になった。幕府からの助成は何度かあったもののやがてその負担は城下の各町にも及ぶこととなった。


飯盛女
 飯盛女(飯売女と表すこともある)は旅篭屋で旅人の給仕や雑用をする女性であったが、三味線を弾き、唄や踊りも披露する遊女でもあった。正保・慶安の頃(1644~51)この飯盛女を置く旅篭が岡崎宿にも増えてくると、旅行者以外の遊客も訪れるようになり、宿場の様相に変化が起こった。旅篭間の競争も激しさを増し、幕府は何度か風紀粛清のため飯盛女の人数制限を行ったが、効果はなかった。以後、岡崎宿の飯盛女は唄に歌われたり紀行文に記されるなどその繁盛ぶりが全国に届くことになった。

 という具合に、東海道・岡崎宿にちなんだ石像と説明板が歩道に設置されています。適当にピックアップしました。


塩座
 塩座というのは塩を専売する権利のことで、岡崎では伝馬町と田町が権利を有し、伝馬町では国分家などが商いをしていた。矢作川を上る塩船は岡崎で差し止めて上流への通行は禁止、塩荷物は宿場を通させないなど塩の管理は厳しいものであったが、実際には抜け荷もあり、しばしばトラブルもあった。上がってきた塩は審査の後、馬に乗せかえられ、足助街道を北上する塩の道へも運ばれた。他に茶座、魚座、煙草株などがあるが、商いをするものは座銭を収め、座銭は町の開発や宿の助成などに使われた。


二十七曲り
 徳川家康が関八州の太守として駿府城から江戸に入ったのが天正18年(1590)8月。。同年の10月には、田中吉政が岡崎城に入城して城下の整備にとりかかりました。吉政は、矢作川に初めて橋をかけ、生川の南のあった東海道を城下へ引き入れました。城下の道は、防衛の意味から屈折しているのが常で、岡崎はその典型でした。これが二十七曲りです。しかし、徳川の安定政権が続くと防衛の意味もなくなり、城下町・宿場町として栄えていきました。




籠田惣門
 田中吉政の時代、岡崎城の周囲は川の流れを取り入れた堀で囲われたとされる。籠田惣門は現在の籠田公園前、西岸寺辺りにあった。門の前に外堀があり、そこから西は岡崎城内となる。惣門は東海道が城郭内に入る出入口にあたり、籠田惣門は東の門であった。西は現在の中岡崎町に松葉惣門があった。二十七曲と呼ばれた東海道は伝馬町を経てこの籠田惣門から北に曲がり現在の籠田公園を抜け、連尺町へとつながってゆく。岡崎では東海道は東西から城下まで導かれていたわけである。


 他にも、「一里塚」、「往来手形」、「駒牽朱印(こまびきしゅいん)」、「本陣・脇本陣」、「矢作橋」、「旅篭屋」などが取り上げられています。

 天保年間(1830~1843)の記録によれば、岡崎宿には伝馬町を中心に本陣三軒、脇本陣三軒、旅篭屋が百十二軒あったとされ、東海道五三次中三番目の規模を誇る宿場でした。旅篭屋はその規模によって大宿、中宿、小宿と区分され、その他に庶民が泊まる木賃宿、休息をする茶屋もありました。

注:東海道53次で最大の宿場は宮宿(熱田宿)。本陣2、脇本陣1、旅籠248。
            2番目が桑名宿。本陣2、脇本陣4、旅籠120。
            3番目が 岡崎宿。本陣3、脇本陣3、旅籠112。だとされています。

古い店構え。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「反対の声は聞かない。聞かせない。知らない。知らせない。思い通りにやる。やらせる。」・・・

2015-06-07 21:49:58 | 平和
安保関連法案 谷垣幹事長「隙間ない整備を」

①NHKのニュース。谷垣の演説を全面的に紹介、以下の内容はまったく報道せず。
 「街頭演説では、安保法案反対のプラカードを掲げるグループがビラを配り、谷垣氏らに「帰れ」と怒号を浴びせる場面もあった。これに対し、谷垣氏は「『帰れ、帰れ』と叫ぶだけでは平和は来ない」と反論した。」・・・

 ますます、自民党・アベの広告塔になり下がったNHK。

② 自民党の二階俊博総務会長は6日のTBS番組の収録で、衆院憲法審査会の参考人質疑で党推薦の憲法学者が安全保障関連法案を「憲法違反」と指摘したことについて「こういう人を呼んでくるのが間違いだ」と述べ、党の関係者を批判した。「党の方針は初めから決まっている。あくまで参考意見で大ごとに取り上げる必要はない」とも語った。

 当初、自民党が推薦しようとした憲法学者も違憲だと発言している。ともかく自分の意見に合わない者は切り捨てる。菅ではないが、「合憲だという学者はイッパイいる」。自分とその人と頷いた1人がいれば、「1、2、イッパイ」になってしまうのだ。(「1、2」と「3」とは大違い、「3」は、イッパイになってしまう。「白髪三千丈」「母を訪ねて三千里」の類い。)

③ 防衛省は5日、米国がサイバー攻撃を受けた場合に、日本の存立が脅かされるなど武力行使の新3要件を満たせば集団的自衛権を行使する可能性があるという見解を明らかにした。民主党に文書で提示した。
 文書は、サイバー攻撃自体が「武力攻撃」に当たるかどうかは「国際法上の位置付けが確立されていない」ため、相手国の意図や攻撃手段などを踏まえて判断すべきだとしている。そのうえで、米国が武力攻撃の一環でサイバー攻撃を受けた場合、「わが国として武力を行使しうる」と自衛隊による集団的自衛権行使の可能性を認めた。
 一例として、他国が米軍の通信システムやレーダーに同時にサイバー攻撃を仕掛ける事態を想定。政府関係者は自衛隊の対応について「サイバーだけでなく、通常兵器での反撃も否定しない」と説明した。
 一方、野党内には「サイバーも対象ならば、集団的自衛権が際限なく拡大しかねない」との警戒感が出ている。【田所柳子】

 いよいよ何でもあり。今回の年金不祥事でも「文書の中に中国文字が使われていた」と、暗に中国からの攻撃のごとき言説が出ている。

④ 公明党は6日、都内で地方組織の代表者を集めた全国県代表協議会を開いた。山口那津男代表は安全保障関連法案について「政府は審議で国民の理解が進むよう丁寧な答弁に努め、真摯かつ謙虚な姿勢で臨んでほしい」と注文を付けた。「わが国を取り巻く環境が厳しさを増すなか、今国会で成立を期したい」と強調した。

⑤ 山口代表が久しぶりに存在感を発揮するときが来た。安倍総理肝いり、集団的自衛権の行使容認に向けた議論で、氏は声高に慎重論を訴えて抵抗した。公明党は「平和の党」がスローガン。非公式の場では、安倍の説明を「抽象的で曖昧」と批判した。「安倍総理の説明はまだ不十分」という意見も多い。公明党への期待も高まった。
 しかし、結局、解釈変更の閣議決定を止めることはできなかった。「自衛権の発動要件を厳しく限定した」と自画自賛する公明党議員もいるが、憲法解釈ですらあっという間に変更する安倍政権だ。文字面の制約は意味がないとの見方が大勢だ。結局「下駄の雪」。政権の水は甘すぎるようだ。(この項、昨年7月)

 そこで、自民党のやり口はすでに承知の上だが、公明党・山口代表までもが追従して(むしろ率先して)憲法違反の「戦争法案」成立に向け、ごり押ししようとしている。仮想敵国が中国だと承知の上で。彼は、結局、公明党・創価学会の広告塔にすぎないのか? 浜四津さんもそうであったように。
 ⑤の頃は、朝日新聞も含めて、「平和」が党是の公明党には歯止め役を期待するむきもあったのだが。・・・今や、「戦争法案」に「平和」が入っているから公明党の姿勢が貫かれている、とでも居直っているのかもしれない。

⑥ 安全保障関連法案の衆院審議が続く中、京都大名誉教授で憲法学者の佐藤幸治氏が6日、東京都内で講演し、「憲法の個別的事柄に修正すべきことがあるのは否定しないが、根幹を変えてしまう発想は英米独にはない。日本ではいつまでぐだぐだ(根幹を揺るがすようなことを)言うのか、腹立たしくなる」と述べ、憲法を巡る現状へのいらだちをあらわにした。法案を巡っては4日の衆院憲法審査会で、自民党推薦の参考人・長谷部恭男氏を含む憲法学者3人全員が憲法9条違反だと批判。自民は当初佐藤氏に参考人を要請したが断られ、長谷部氏を選んでいた。
 佐藤氏は「(憲法という)土台がどう変わるか分からないところで、政治と司法が立派な建物を築くことはできない」とも語り、憲法の解釈変更で安保法制の整備を進める安倍政権への不信感をにじませた。
 講演は「立憲主義の危機」と題するシンポジウムで行われた。続く討論で安保法制について、樋口陽一・東京大名誉教授が「(関連法案の国会への)出され方そのものが(憲法を軽んじる)非立憲の典型だ」と、また石川健治・東京大教授が「憲法9条の論理的限界を超えている」と、憲法学の立場から政府のやり方を厳しく批判した。
 会場の東京・本郷の東京大学構内では、開始前に700人収容の会場から人があふれ、急きょインターネット中継を利用して300人収容の別会場が用意された。だが、そこも満員で立ち見が出る盛況ぶりで、最終的に約1400人が詰めかけた。開始20分前に着き、別会場へ誘導された埼玉県入間市の日本語教師の男性(66)は、「安保法制の進め方は民主主義とは違うと感じていた。それが確かめられ、すっきりした」と満足そうに話した。
 主催した「立憲デモクラシーの会」は昨年4月に設立され、樋口、石川両氏のほかノーベル賞を受けた理論物理学者の益川敏英氏など日本の代表的知識人約60人が呼びかけ人に名を連ねている。【林田七恵、太田誠一】
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「道の駅・藤川宿」。藤川の松並木。大平一里塚。・・・(名鉄「本宿」駅から「矢作橋」駅まで。その4。)

2015-06-06 20:27:29 | 旧東海道

 時刻も1時過ぎ。ここで、昼飯タイム。ところがコンビニを含め、沿道には何にもありません。そこで、「藤川」駅近くの小さな踏切を渡って、その先にある「道の駅・藤川宿」へ向かいました。ここは、2年ほど前にできた国道1号線沿いの「道の駅」。
 愛知県内の「国道1号線」では初の「道の駅」らしいです。

 学校帰りの高校生や運転手などで、「食事コーナー」もけっこう賑わっています。
 「食券」を買って窓口に出すと、係の方が番号でお呼びしますので、と「食券」を受け取りません。そういうシステムなのですが、次々と来る人は同じように「食券」を出しては、同じ事を言われています。なかなか慣れないようすです。
 「むらさき麦」を使用した「カレー」や「うどん」、「みかわ豚」のカツ丼など地元メニューです。

 

 ここで、一休みして、午後の部再開。線路伝いに「B級グルメ・ドジョウの蒲焼き」の垂れ幕が・・・。

 再び踏切を越えて「東海道」に復帰。

名残惜しいですが、「藤川宿」から西に向かって出発です。

 そのまましばらく進むと分岐点に差し掛かります。分岐点を左に行くと吉良道。左手に「吉良道道標」があります。

吉良道道標

 東海道は、藤川宿の西端で南西の方向に分かれて、土呂(現・岡崎市福岡町)、西尾(現・西尾市)、吉良(現・幡豆郡吉良町)方面へ出る道がある。この道を「吉良道」と呼んでいて、その分岐点に「吉良道道しるべ」が立っている。
 道しるべ石は、高さ一四三センチ、幅二○センチの四角柱で、彫られている文字は

<右面> 文化十一年甲戌五月吉日建
<正面> 西尾、平坂、土呂、吉良道
<左面> 東都小石川住
と書いてある。
 とにかく、江戸時代、参勤交代の行列、助郷勤めの出役、さらには海産物の搬入路など重要な脇街道であった。また伝説に、茶壷道中の行列がここを通ると、雨が降るという「茶壷のなみだ雨」の話も残っている。

          藤川宿まちづくり研究会


 
 現在のようす(「今昔マップ」より)。            


 1920年頃のようす(「同」より)。             


 「東海道」は右側の道を進み、名鉄線の踏切を越えます。踏切を渡ると、松並木が道の両側に続いています。踏切の手前にある「説明板」。



岡崎市指定文化財 天然記念物 藤川のまつ並木

 慶長9年(1604)江戸幕府は街道を整備し、東海道の両脇に松を植えた。この松並木はその名残をとどめるもので、現在は藤川町の西端約1キロメートルの間の90本あまりからなり、クロマツが植えられている。松並木は旅人には夏の木蔭を提供し、冬は防風林となった。
 松並木の東につづく藤川宿は、東海道の三十七番目の宿場である。
 歴史的な価値のある松並木であり、大切にして後世に伝えたいものである。

 昭和38年5月8日指定    岡崎市教育委員会 

踏切の向こうに「松並木」。

手入れの行き届いた「松並木」です。この日も大勢の方々で清掃、手入れなどの活動が行われていました。

      

「藤川宿」の看板を過ぎると、「国道1号線」へ合流。
     

 「岡町神馬崎」交差点の先を斜め左に。入ってすぐの左手には、「愛知産業大学留学生会館」。その先には松並木もちらほら。


 

ここからはしばらく道なりに進みます。特にないまま。日差しが強い! 

振り返る。

 しばらくしてけっこう車が激しい通り(「県道48号線」)を地元の自転車の方と一緒に一気に突っ切ります。
 「どこまで行くの?」「岡崎まで」「二十七曲がりかぁ」。・・・

 「国道1号線」の交差点名が「ほたる橋南」。この付近、かつてはほたるの生育地だったらしく、国道沿いに「国指定天然記念物 岡崎源氏蛍発生地」の説明板があるそうです。また、すぐ横に芭蕉句碑「草の葉を 落ちるより飛ぶ 蛍かな」(ただし、この地の作ではない)がある、とのこと。

その先の「高橋」を渡ると、のどかな田園風景が。

    
    ホタルが飛んでもおかしくないような自然環境。ただ、現在はもっと上流のところで生育しているようです。

その後、東海道は「乙川」によって行く手を阻まれてしまいます。

 かつては橋が架かっていたそうです(江戸時代は渡し船)が、撤去されています。そこで、「国道1号線」に出て「大平橋」を渡ります。


 現在のようす(「同」より)。→のところ。

 かつて(1920年頃)のようす(「同」より)。


馬が草を食んでいます。近くに馬小屋でも?

「(日本橋から)323キロ」ポスト。

 「大平橋」を渡ったら左に曲がって「東海道」に戻ります。
正面の先が分断された東海道方面。

その後、道なりに進むとこの付近の「東海道」の図解が。

 広い通り(「国道1号線」)を横断歩道で渡ります。右手に薬師寺。その脇に「東海道」の道標。

                              

来た道を振り返る(正面奥)。


右手に常夜燈。

変わったつくりのおうち。

「つくて道」と刻まれた道標。
                       「つくで」? は、現愛知県新城市(岡崎のほぼ東方向)にある村の名? 

「ようこそ東海道 西大平藩陣屋跡」。右手を入ったところに「大岡稲荷神社」。

奥に見えるのが「西大平藩陣屋跡(大岡越前守陣屋跡)」。

 大岡越前守忠相は「大岡裁き」で有名な町奉行で、当初は旗本であったが8代将軍徳川吉宗の意もあって後に1万石に加増されて大名となり、この西大平藩の初代藩主となりました。江戸詰めだったため、ここには居住したことはありません。

その先には「大平一里塚」。

国指定史跡 大平一里塚

 一里塚とは道の両脇に一里ごとに塚を築いて道標としたもので、制度として確立したのは、江戸幕府が慶長9(1604)年に江戸・日本橋を起点として各街道に一里塚を築造させたことによる。
 大平一里塚は東海道の一里塚のうちの一つで、日本橋から80里にあたる。東海道の一里塚は永井白元、本多光重が奉行となり、代官や領主に築造させているが、大平一里塚は領主である本多重次の子成重が築いた。
 現在の大平一里塚は、昭和3(1928)年に道路改修の際、北側の塚は破壊され、南側だけが残ったもので、塚の大きさは高さ2.4㍍、底部縦7.3㍍、横8.5㍍で、中央には榎が植えられている。元は榎の巨木であったが、昭和20(1945)年の台風で倒木したために新たに植えられたものである。このように一里塚には根張りがよく、塚の崩落を防ぐ目的で榎が植樹されていることが多い。
 昭和12(1937)年12月21日指定

                          岡崎市教育委員会 

    
 南側。                             北側は「常夜燈」になっています。

しばらく進み、国道1号線に合流し、右に。

 その先で再び東海道は分断されるので、右手のホテル街の脇の道を進んで「バイパス」の下をくぐります。突き当りを左に行き、「岡崎インター」の向こう側に出たあと、「岡崎インター西」の信号の先から「国道1号線」脇の道を進みます。



 その後、小川沿いの道を進み、その先を斜め右に入り、緩い上り坂を道なりに進みます。右手に法光寺。その先には「常夜燈」。
 
そのまま進むと、 

左前方に「冠木門」が見えてきます。

 ここから「岡崎宿二十七曲がり」のスタートです。ここへの到着は、午後3時半過ぎでした。この先は、朝一番で回ったところに続きます。                  
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

本陣跡広場。からむし。蛸。西棒鼻。芭蕉句碑。・・・(名鉄「本宿」駅から「矢作橋」駅まで。その3。)

2015-06-05 23:49:42 | 旧東海道

 右手に「本陣跡」。明るく開けた広場になっています。昨年春に完成したばかり、ピカピカ。

「東海道と藤川宿」。

 慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、翌慶長6年、東海道の集落に「伝馬(駒曳)朱印状」を下付して「宿駅」を指定するとともに、公用の旅行者のために「伝馬」36疋を用意することを命じ、その代償として地子(地代)を免除しました。これが近世宿駅制度の始まりです。慶長9年からは幕府の命により、日本橋を基点とした五街道の整備が開始されました。
 慶長6年に整備された藤川の宿は、品川から数えて37番目の宿駅でした。
 中世における藤川の集落は山綱川の北岸にあったとされ、戦国時代末期に現在地に移った新しい集落であることが文献資料から推定されています。東海道の交通量の増加に伴い、寛永15年(1638)に幕府から常備人馬の増加(人足100人、馬100疋)を命じられた際には、宿は困窮しており、これに応じることができないほどの状態であったといいます。そのため、慶安元年(1648)、代官の鳥山牛の助により、藤川宿を補強するために山中郷市場村(現在の市場町)68戸を藤川宿の東隣に移住させる加宿措置がとられましたが、藤川宿の負担は重いものでした。
 天保14年(1843)の「宿村大概帳」の記録によると、藤川宿の1,213人、家数は302軒となっています。東海道五十三次の中では小さな宿場の部類に入ります。しかし藤川宿に本陣、脇本陣、問屋場や高札場、棒鼻などの施設もあり、宿駅としての務めを十分に果たすものとなっていました。

              岡崎市教育委員会

 掲載されているのは、慶長6年の朱印状。

「本陣跡」説明板。

     
                           「高札場」の復元。

                             ①藤川よりの駄賃人足賃
                             ②駄賃並人足荷物次第
                             ③親子兄弟夫婦みな親しく
                             ④切支丹禁制
                             ⑤毒薬にせ薬売買の事禁制
                             ⑥火付け用心

「藤川宿」概念図。

奥には、「むらさき麦栽培地」。
                      藤川小学校の児童が育てている、とのこと。むらさきの穂がなびいています。

その西隣には、「藤川宿資料館」。

本陣石垣。          

    

歴史の息づく、住みよいまち 藤川

藤川宿の概要

 東海道五十三次、37番目の宿場町として設けられた藤川宿の町並みは、9町20間(約1キロ㍍)で、天保14年(1843)の宿内人口は、1213人(加宿市場村とも、男540人、女673人)、302軒で本陣は森川家1軒、脇本陣は橘屋大西家1軒で、ともに中町にありました。旅籠屋は大7軒、中16軒、小13軒でした。
 ここから赤坂宿までは2里9町、岡崎宿へは1里25町でした。
 藤川は、幕府直轄の宿場で代官によって支配されていました。また、藤川宿は東の新居宿から西の宮宿(熱田)まで11宿が組合で、赤坂宿とともに「組合」の取締りの宿場でした。さらに藤川は、塩の道「吉良街道」に通じる交通の要所であり、また、二川・赤坂・御油の4宿連名で荷車の使用を願い出て、街道注で初めて幕府の許可をもらっていました。

藤川宿の棒鼻

 宿の出入口を棒鼻と呼び、大名行列の際はここで本陣・問屋等は出迎え、「何々宿本陣何の何等でございます」と口上を述べたと言います。また、宿から差し出される下座触の「シタニオレッ―」も、この棒鼻から始まる場合が多かったと言います。歌川広重は、「棒鼻の図」を浮世絵に描いています。
 十返舎一九は、「東海道中膝栗毛」に藤川宿の棒鼻の風景を次のように書いています。
 「かくて藤川にいたる。棒鼻の茶屋、軒ごとに生肴をつるし、大平皿。、鉢、みせさきにならべたてて旅人の足をとどむ、弥次郎兵衛“ゆで蛸のむらさきいろは軒毎にぶらりと下がる藤川の宿”(紫色と藤川宿の藤をかける。また、藤のぶらりと下がると軒毎に下がる蛸をかける。)これにより、宿をうちすぎ、出はなれ(宿のはずれ)のあやしげなる店にて休みて・・・」

むらさき麦と藤の花

 藤川では、むらさき麦と藤の花が美しく、道中記や古歌に多く詠まれてきました。
 ◇『芭蕉句碑』(十王堂境内)
  「ここも三河 むらさき麦の かきつばた」
 ◇『東海道名所記』
  「宿を出れば、畑に高野麦とて、一種穂のむらさきなる麦の、はえてみえければ・・・」 ◇『幸亭』
  「ふじ川の藤にゆかりの花なれや 麦のふさまでにほふ紫」

宿場のみやげ

 宿場のみやげは、「からむし細工」のかんざし、綱袋、縄等でした。縄は、本宿の法蔵寺付近でつくられ、法蔵寺縄とも呼ばれていました。現在でも本陣裏に自生しているからむしを見ることができます。

     東海道ルネッサンス

 カラムシ(苧、枲、学名:Boehmeria nivea var. nipononivea)



 イラクサ目イラクサ科の多年生植物。南アジアから日本を含む東アジア地域まで広く分布し、古来から植物繊維をとるために栽培されたため、文献上の別名が多く、紵(お)、苧麻(ちょま)、青苧(あおそ)、山紵(やまお)、真麻(まお)、苧麻(まお)。など。
 茎の皮からは衣類、紙、さらには漁網にまで利用できる丈夫な靭皮繊維が取れるため、分布域では6000年前から栽培されてきた。このため日本に自生するカラムシは、繊維用に有史以前から栽培されてきたものが野生化した、史前帰化植物であった可能性が指摘されている。『日本書紀』持統天皇7年(693年)条によれば、天皇が詔を発して役人が民に栽培を奨励すべき草木の一つとして「紵(カラムシ)」が挙げられている。
 中世の越後国は日本一のカラムシの産地だったため、戦国大名として有名な上杉謙信は衣類の原料として青苧座を通じて京都などに積極的に売り出し、莫大な利益を上げた。新潟県の魚沼地方で江戸時代から織られていた伝統的な織物、越後縮はこれで織られていた。また上杉氏の転封先であった出羽国米沢藩では藩の収入源のひとつであった。このため、カラムシの専売化をめぐり、宝暦10年(1760年)の『青苧騒動』や文化4年(1807年)の『青苧一件』が起こる。なお、置賜地方産のカラムシを「米沢苧」という。
 この他、江戸時代の有名な産地に陸奥国会津や出羽国最上地方があった。
 国の重要無形文化財に指定されている「小千谷縮・越後上布」の原料であり、福島県会津地方の昭和村で栽培され、本州唯一の産地となっている。

(以上、「Wikipedia」参照) 

 (HPより)

                   「脇本陣跡」。

そこからしばらく進むと、
「藤川小学校」に面したところに、「西棒鼻」。 

    

 藤川  歌川豊広

 藤川の
   しゅくの
  棒はな
    みわたせば
 杉の
    しるしと
     うで蛸の
        あし

 〈藤川宿の棒鼻を見わたすと、杉の木で造った表示が立っており、付近の店にはゆでだこのあしがぶら下がっている。〉

※ 歌川豊広 1774~1829。江戸時代後期の浮世絵師。門人として歌川広重がいる。 

 「蛸」は、西浦、吉良から持ってきて売っていたようです。この先に「吉良道」との分岐があるように、物流のルートとして「吉良」海岸までは、「藤川宿」から直線で約18キロ。
 何年か前、知多半島の先、日間賀島(ひまかじま)の民宿に泊まって、蛸(づくし)料理を食べたことがありました。実に美味でした。今でも知多湾では蛸が名物のようです。

「藤川宿」概念図。東↓から西↓まで。

    
    宿内方向。                                 これから進む方向。

左手に「岡崎観光文化百選」。

藤川宿と松並木

 浮世絵師安藤広重が描いた「東海道五十三次藤川宿」の賑わいぶりが、今も残る脇本陣、旅籠などに偲ばれます。
 道標、常夜燈、石仏などに目を向けながら街道筋を歩いてみると、その昔、日差しや北風をさえぎり、旅人の歩みを助けた松並木が、歴史の重みを語りかけてきます。
 またここは、吉良道への分岐点ともなっています。

左側にあるのは、「十王堂」。

藤川の十王堂
 「十王堂」は十人の王を祀る堂で、その「十王」とは、冥土にいて亡者の罪を裁く10人の判官をいう。
 秦広王・初江王・宋帝王
 五官王・閻魔王・変成王
 太山王・平等王・都市王
 五道転輪王
の総称である。
 藤川宿の「十王堂」はいつ頃創建されたかは不明であるが、十王が座る台座の裏に「宝永七庚寅年七月」(1710)の記年があるので、ここの十王堂の創建はこの年であろうと推測する。
 また、地元では、忠臣蔵で有名な神崎与五郎に言いがかりをつけた箱根の馬子・丑五郎との伝説を伝えている。 

         藤川宿まちづくり研究会   
注: 
 (初七日)「秦広王」生前の悪事の書類審査をする。
 (二七日)「初江王」三途の川を渡るかどうかの判断。悪事を働いた人は橋を渡れずに水の中を渡る。
 (三七日)「宋帝王」邪淫の有無を裁く。
 (四七日)「五官王」生前の罪の重さを業秤にかける。
 (五七日)「閻魔王」生前の悪事を浄玻璃の鏡に写し出す。
 (六七日)「変成王」五官王の秤と、閻魔王の鏡を使って再審査をする。
 (七七日)「泰山王」判決を下す。
 (百日目)「平等王」
 (一周忌)「都市王」
 (三回忌)「五道転輪王」

 芭蕉の句碑。
    

芭蕉句碑

 「芭蕉句碑」は江戸時代の俳人・松尾芭蕉が詠んだ句を、石に刻んで建てたものである。
 「爰(ここ)も三河 むらさき麦の かきつばた はせを」
 碑の裏に
 「寛政五歳癸丑冬十月
       当国雪門月亭其并連中
            以高隆山川之石再建」
と、建碑の書誌的事項が彫られている。
 この碑の高さは1.65㍍、幅1.07㍍、厚さ約0.2㍍。花崗岩の自然石で、この近辺の芭蕉句碑では最大級といわれている。
 その傍らに、0.9㍍、幅0.5㍍ほどの自然石が立っている。これも芭蕉句碑で、この碑は元、別な所にあったが、大正初期に現在地に移された。

       藤川宿まちづくり研究会        
 
 実はこの句、芭蕉のつくったものかどうか不明らしい。『芭蕉俳句全集』では「存疑の部」(存在が疑わしい)に入っています。また、「ここも駿河・・・」という地名を変えただけの句もあるようです。

振り返って望む。

 しばらく行くと、左手に「藤川の一里塚」。
     

藤川宿の一里塚

 「一里塚」は、街道に一里ごとに土を盛り上げ、樹木を植えて、道しるべとした塚のことである。
 慶長9年(1604)、江戸幕府は諸街道の整備の一つとして、江戸日本橋を起点として、一里ごとに道の両側に塚を築いて樹木を植えて目印とした。
 樹木は普通、榎であった。
 ところで、藤川の一里塚であるが、記録によると
 「一、此宿より岡崎宿迄之間 壱里塚弐ヶ所 
    壱ヵ所 木立 左無之 右榎
       但、左右之塚共 藤川宿地内」
と記してある。このような藤川の一里塚は、当時は街道の左右に塚を作り、榎が植えてあったらしいが、天保年間(1830~)頃にはすでに南側はなくなり、北側の榎は昭和初期には枯れててなくなってしまった。

      藤川宿まちづくり研究会

 江戸・日本橋から79番目の一里塚です。京までは124里ですから、全行程の3分の2近くになったわけです。    
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

藤川宿。東棒鼻。むらさき麦。問屋場跡。・・・(名鉄「本宿」駅から「矢作橋」駅まで。その2。)

2015-06-04 20:00:20 | 旧東海道

 さて、次の藤川宿に向けて出発です。沿道には松が。その脇には「東海道」という石碑。
           

 「国道1号線」を横断してしばらく進むと、大きな石碑。「御開運御身隠山」。

 左手に広がる森が「山中八幡宮」。境内には家康が命拾いをしたという「鳩の窟」があります。
 永禄6年(1563)、「三河一向一揆」で、門徒に追われた家康がこの洞窟に身を隠し、追手が洞窟を探そうとしたら二羽の鳩が飛び立たった。「人がいるところに鳩がいるはずない」と、一揆の者が立ち去り家康が難を逃れたということです。

正面の小高い丘が「山中八幡宮」。早苗の緑が広がります。 

 国道沿いに歩き、しばらく進み、「市場町」の交差点で左の道・県道327号線に入ります。正面奥には「藤川宿」の説明板。
                 

いよいよ「藤川宿・東棒鼻跡」に着きました。
    

東棒鼻

 「棒鼻」とは、宿場の出はずれ、すなわち出入り口のことである。東にあるので「東棒鼻」と呼んでいる。
 藤川宿に棒鼻が再現されたのは、東海道ルネッサンス活動の機運が盛り上がった平成元年である。なぜ、棒鼻が藤川に再現されたかというと、江戸時代の浮世絵の絵師・歌川広重が東海道五十三次の藤川「棒鼻ノ図」に描いたからである。
 絵の中には、八朔(八月一日)の御馬進献(おんましんけん)の行列がちょうど藤川宿の棒鼻に差しかかるところで、辺りに境界を示す傍示杭(ぼうじくい)、道の両側に石垣を積んで、土を盛った宿囲石垣(しゅくがこいいしがき)を描いている。
 最近、明治20年ころ写された写真が見つかり、宿囲石垣が写っていたことから、その存在も認められた。
 現在、藤川宿と言えば、「棒鼻」と言われるぐらい、藤川宿の象徴となっている。

            藤川宿まちづくり研究会  


  東海道五十三次之内 藤川 棒鼻ノ図 / 歌川 広重

 地方役人たちが土下座している。御弊をたてた駒と一緒に御馬献進の一行がゆく。幕府は毎年8月1日に朝廷に馬を献上することになっており、広重は天保3年にこの行列に参加した。図は藤川宿に差しかかるこの行列を迎える様子が描かれている。愛らしい黒赤二頭の馬。夕雲がたなびく。一行を迎えて犬まで座っているところが面白い。街道の脇に立つ棒鼻が宿場の外れを表わしている。

 (「知足美術館」HPより)

         
 大正期の藤川。奥に「常夜燈」。(「同」より)            現在のようす。「常夜燈」の頭上は「国道1号線」。


           広重の絵に合わせたような榜示杭がセットされている。

 ただし、広重の絵は、一行が「東棒鼻」を東から西へ入るところを描き、宿場役人は内側の北側で迎えています。しかし、今ある榜示杭の位置は、「東棒鼻」の外で、南側に設置されています。



是より西、藤川宿 岡崎宿へ一里二十五町 ~藤川の歴史と文化を訪ねて~

秋葉山常夜灯
 宿場の出入口付近に、寛政7年(1795)に建立の秋葉山常夜灯が」現存しています。

商家「銭屋」
 問屋場跡から家数にして5軒ほど先の南側に今も残る商家。連子格子が昔のにぎわいや旅人の姿を思い出させる味わいの深い建物です。

脇本陣跡(藤川宿資料館)
 脇本陣橘屋大西家は中町の東海道北側にあり、明治天皇御小休所の座敷もありました。昭和30年に藤川村が岡崎市と合併するまでは、役場が置かれていました。脇本陣で現存するのは門のみですが跡地全体は岡崎市の史跡に指定されています。現在は宿場町の模型等を展示した藤川宿資料館として利用されています。

十王堂(芭蕉句碑)
 元禄期に建立されたと伝えられる藤川の十王堂。その境内には「ここも三河 紫麦のかきつばた」と詠んだ芭蕉の句碑が建てられています。これは寛政5年(1793)に西三河の俳人が再建したと記されています。

棒鼻跡
 平成4年に、棒鼻モニュメントが復元されました。東は国道一号との分岐点、西は藤川小学校の前に整備されています。

道標(吉良道)
 東海道から左へ分岐する脇道を吉良方面へ通じる道「吉良道」と呼んでいます。この道は塩の道として利用度の高い道でした。現在でも吉良道の道標が残っています。

藤川の松並木
 天保14年(1843)には、34間(「町」の間違い。約3.5㎞)の長さが続いていたと伝えられる藤川の松並木。昭和38年に市指定の天然記念物になった際には、幹周り2㍍のクロマツ90本が町の西はずれに約1キロに渡って東海道の左右に立ち並んでいたと言います。

 ・・・

   東海道ルネッサンス
  

左手の奥が「曲尺手」(鈎の手)になっている。それに従って、左の道を進む。

「石垣」が現代の旅人をチェックする(見守る)ように道の両側に。



「国道1号線」脇のところに「むらさき麦栽培地」。

むらさき麦

 今から300年ほど前、俳人・松尾芭蕉は「爰(ここ)も三河 むらさき麦の かきつは(ば)た」の句を残しました。これはむかし藤川宿一帯で紫色に染まる麦が作られていたからで、これを「むらさき麦」と呼んでいました。しかしこの麦は、戦後、作られなくなり、幻の麦となってしまいました。
 平成6年、地元の人々の努力によって再び栽培されるようになり、以後、毎年5月の中旬から下旬にかけて、その美しい色を観賞することができます。

      藤川宿まちづくり研究会

 収穫の時期でしょうか、ほんのり紫色の穂が実っています。 

「曲尺手」を振り返る。左手から来る。

宿内のようす。静かで落ち着いた道筋。

駐車場も「藤川宿」らしい趣。 

      
                    振り返り、振り返り歩きたくなるような風情。

 しばらく進むと城郭のような建物。「人形処 粟生(あおう)人形工房」。
    

道の右手には「高札場跡」。

藤川宿の高札場

 「高札」とは、立て札ともいい、法度・掟書・犯罪人の罪状などを記し、交通の多い市場、辻などに掲げられた板札をいう。その目的は一般の人たちに法令を徹底させるためのものであった。
 藤川宿の高札場はここの場所にあり、記録によると
 「一、高札場 高さ 壱丈 長さ 弐間半 横 壱間」

とあり、規模の大きい、広い場所であった。
 ちなみに、当時掲示されていた高札は、八枚あったようで、大きいものは横238㌢、縦53㌢もあり、もし当時のものを8枚並べるとすれば、正面に二面ずつ、四段に掲げて常時掲揚していたのであろうか。
 現在保存されている高札は六枚あり、いずれも岡崎市文化財に指定され、内、三枚は資料館に掲示してある。

     藤川宿まちづくり研究会

 宿内の解説板の多くは「藤川宿まちづくり研究会」の皆さんの手によるものです。、それぞれ時代考証を含めて、丁寧な解説文ばかり。「宿場まちづくり」の熱心さに頭が下がります。少し古くなったものの目立つのが残念ですが。

続いて「問屋場跡」。

藤川宿の問屋場跡

 藤川宿の「問屋場」は、ここ字中町北にあった。「問屋場」は宿場町では、最も中心となった場所で、人馬の継ぎ立て(伝馬)、書状の逓送(飛脚)などの業務を行うところが「問屋場」であった。藤川宿では、ここを「御天馬所」とも称していた。
 この問屋場については、記録によると

「一、人馬継ぎ問屋場 壱ヶ所 字中町
   問屋 弐人 年寄 五人
   帳付 四人 飛脚番 六人
   人馬差 六人 小使 六人」

とある。
 また当初の問屋場は、問屋場役人の屋敷の一部を使用していたようだが、江戸時代中頃に、現在地に専用の建物を設けて、業務に当たったという。明治五年七月、伝馬制廃止後は閉鎖され、その役割は終わった。

      藤川宿まちづくり研究会

    

正面は手を加えてありますが、こうして宿内には古い家屋が残っています。
            
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

読書「猫を拾いに」(川上弘美)マガジンハウス

2015-06-02 21:27:11 | 読書無限

 相変わらず洒脱なショートショート(といっては失礼ですか)。川上さんの感覚・アンテナはどういう張り巡らし方、構造をもっているのだろう。というのも、この中の「ひでちゃんの話」。その導入部。
 「秋葉原」駅の総武線ホーム。上り線に「包丁研ぎ教えます」という看板。こちらも、たまに駅のホームで待っていると、たいていが夜遅く、人を送りがてらになかなか来ない電車を待っていると、きまってその看板に目が。隣の人に「あれ、見てよ、包丁研ぎ教えますって」「ふ~ん」以上、終了!
 なかなかインパクトのある広告でした。(今もあるのかどうか、ここ何年も乗りません、訳あって・・・)。その看板に惹かれて会社勤めを辞めて弟子入りした女友達の「ひでちゃん」の話し。・・・何だか共通の話題が出来た感じで、勝手な親近感が(といっても、誰でも気づく「超」有名な看板でしたが)。
 このようにあり得ない話しでありながら、あり得る話しにしてしまう「川上ワールド」。全編がそうです。引き込まれます。標題の「猫を拾いに」も、プレゼントをたらい回しにする習慣のところへ拾ってきた「猫」をプレゼント、いつものようではなく、いっこうに手放す気がないので、自分が猫を拾いに行く、という話し。
 最近は、あけすけなセックス話もちりばめて、(先日、27、28歳になった女性3人と亀戸の酉屋さんで飲みましたが、そっちの話しで大いに盛り上がった! 20代後半でこうなのだから。推して知るべし。)ちょっぴり哀しいお話も・・・。
 人間と間(でも、生きているもの同士の不思議な交流)、奇妙な人間関係(不自然そうで不自然でない)など、軽妙な語り口についまねをしたくなるような文体。誰でも出来そう、で出来ないのが、この方の言語感覚・文体の大きな魅力です。風俗(俗な世界)を扱っていながら「深み」のある展開、内容、気分にさせてしまうことは、凡人にはけっしてまねできません。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

読書「猫キャンパス荒神」(笙野頼子)河出書房新社

2015-06-01 22:36:16 | 読書無限

 一昨日の揺れは、すぐに20011年3月11日の大地震を思い出させた。不気味な長い、ゆったりとした横揺れ。
 当時、都庁の31階で、あの地震に遭遇した。立っていられなくて、いすに呆然と腰掛け、窓外の高層ビルの揺れ、微妙に違う、その揺れに気分が悪くなったことを。
 TVではすぐに現地のすさまじい様相を映し出していた。あれは、イシハラが都議会のさなか、「後出しじゃんけん」で「都知事選」出馬を表明した、その直後であった。福島第一原発は、まだ最悪の状態を迎えているとの報道はなかった。
 が、当時の同僚は、福島原発が危険な状態に陥っているという情報を「原発関係者」から入手し、福島にいる娘に、ただちに福島から避難するように連絡をとった。そばで聞いていても何事なのかくらいに思っていたが、「原発が爆発するぞ」と。
 まだ日の明るい時間、都庁内ではそれほどの緊迫感はなかった。ただ誰もがTVの画面に釘付けになっていた。
 帰宅難民となったが、週明けから職場は、避難者の受け入れ、特に、小学生や中学生、高校生の避難者への都内への受け入れ業務を短期間の準備をもって開始した。その対応は、実に的確でスムーズだった。
 私のいた部署はその問い合わせ、相談、受け入れ斡旋の窓口になった。電話当番という役目だが、ひっきりなしにかかってくる電話は切実な現地の声だった。
 当初、個人的な予想としては宮城、岩手などの津波被害や火災によって、家を失ったり、避難せざるをえなくなった方々からの問い合わせが多いだろうと思ったが(たぶん他の人達も)、そうではなく、「福島原発」による高度の放射能汚染から土地を離れざるをえなくなった親子からの電話がほとんどだった。「浪江」「南相馬」「いわき」「富岡」「双葉」・・・。TVでしばしば登場する町の名前。必死な思いで東京に避難してくる、避難しようとしている、着の身着のままで東京に避難してきた、親子の、特に母親の声が多かった。
 最寄りの受け入れ施設の紹介と学校の斡旋など、昼休みも交代で対応した。その他にもボランティアの申し出、何かできることはないか、学用品はどうか、など多くの都民からの声も寄せられる、そんな毎日だった。その1年後、そうした仕事が一段落して(まだ不充分? )退職した。その後、都庁に行くこともなくなった。

 あれから4年。都内の小学校や中学校、高校に入った子ども達、親子は今どうしているのだろうか? ふるさとに帰ることが出来たのか? 都内での生活を今も続けているのか? 新しい土地での生活になじんでいるのか? ふと思い出す。

 2014年の春、「タロウ」が18歳(推定)で死んだ。神社の境内に捨てられていた子猫二人を息子が持ってきて、18年、家族で育ててきた、その雄の猫が死んだ。人間で言えば長寿だと言われたが、こちらに一番なついていたので、とても寂しかった。もう一人のばあさん猫の「モモ」は19歳になっても、まだまだ元気そうだ。

 こうして4年が過ぎ、2015年の6月が始まろうとしている。

 「権力はリセットだと私は数年前に言った。今、言い換えというよりはもう一度言う。降り積もった汚染をなかった事にするためにそれは物事をゼロにするのだ。しかし汚染を引き受けさせられた身体を持つ、人々はけしてゼロに出来ない。そこで権力はその人達を見えなくする。そしてその理不尽の中からまた新しく税をとっていく。そう、結局リセットは国家にとっては税の契機に過ぎない。それと、学生に講義している最中に思った事を今ひとつ付け加える。汚すという事と経済という事は表裏一体ではと、大儲けの欲とは汚してはならないものを汚したいという欲望を内蔵しているのかも。
 回避出来る汚染を回避させず、人を汚染するもの、それが権力だ、その汚染をつかってまた大金を儲ける事と汚す事の両方が権力の目的だ。そう言うと性の話みたいだが、これが『核』ではないのか。」(P208)

 ここに来て、高橋さんの『恋する原発』をものした意味・意図の一分が理解できた。たかがお湯を沸かす道具・装置に過ぎない、それでいて、何千年かけても処理しようのない放射性廃棄物を生み続ける「原発」。そのマイナスをも儲けに変えるシステムそのものを覆さなければ、未来はないだろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする