おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

JR古河駅から小金井駅まで。本陣跡。高札場。松並。・・・(「日光道中」をゆく。その27。)

2016-06-11 13:43:02 | 日光道中
 6月4日(土)。晴れ後薄曇り。
 7月までに何とか「日光道中」を制覇しようと思い、しゃかりに出かけています。ただ梅雨入り。そうタイミングよく出かけられるか?
 今回は、古河宿から小金井宿までの行程。約4万歩歩きました。距離はそれほどではありませんでしたが。

 (8:53)古河駅から日光道中に復帰して、まず「史蹟 古河城下高札場址」碑。
    

高札場と本陣
 日光街道の宿場町としての古河宿の中心は、もと二丁目とよんだこの辺であった。文化4年(1807)の古地図によると、高札場がこの場所にあり、斜め向かいに本陣と、問屋のうちの一軒があり、またその向かい側に脇本陣が二軒並んで描かれている。
 高札場は、親を大切にとか、商いは正直にとか、キリシタンは禁止だとかいった幕府の法令や犯人の罪状などを掲げたところである。
 本陣と、その補助をする脇本陣は、合戦のとき大将の陣どるところに由来して、大名・旗本をはじめ幕府機関の高級役人・公卿・僧侶などの宿泊・休憩所で、古河の本陣は117・5坪(約400平方メートル)もあった。どこの宿でも最高の格式を誇っていたが、経営は大変であったといい、古河の脇本陣はのち他家に移っている。
 問屋は、人足25人、馬25匹を常備し、不足の場合は近村の応援を得たり人馬を雇ったりして、この宿を通行する旅人や荷物の運搬一切をとりしきった宿場役人のことで、他にも3~4軒あって、交代で事にあたっていた。
 街道沿いの宿町は、南から原町、台町、一丁目、二丁目(曲の手二丁目)、横町(野木町)と続き、道巾は5間4尺(約10メートル)ほど、延長17町55間(約1850メートル)余あり、旅籠や茶店が軒を並べ、飯盛女(遊女の一種)がことのほか多い町だったという。

 平成元年3月  古河市教育委員会

通りをはさんだ向かい側には「古河城下本陣址」碑。

そこから宿内をかえりみる。

本格的に歩き出します。行灯風のモニュメント。    

智の大老 土井利勝
 土井利勝(1573~1644)は、江戸幕府初期における最大の実力者にして16万石の古河藩主である。後の2代将軍、徳川秀忠の誕生と同時に近習となり、年寄(老中)として常に政権の中枢にあった。秀忠没後は、家光政権下で大老に就任、引き続き幕政を支えている。
 組織の未熟な江戸初期の幕府にあって、利勝が取り扱った事項はきわめて多く、その活動ぶりから知謀の人と称された。高い政治力・行政能力を有する利勝のもとに権力・権限が集中するのは当然であるとしても、その影響力の大きさから利勝が徳川家康の御落胤であるという説まで囁かれていたという。また、古河藩主としては古河の城と町を大規模に拡幅整備、天守に相当する「御三階櫓」を建造した。近世城下町「古河」の完成にも貢献したのである。

永井直勝 古河の町並み整備のさきがけ
 江戸時代、日光道中を行き交う旅人たちが、往還随一と絶賛するものに、古河藩領の道沿いに植えられた松並の景観があげられる。その美観を生み出したのは、江戸初期の古河藩主、永井直勝(1563~1625)であった。元和8年(1622)、7万2千石の古河城主となった直勝は、同3年、神君徳川家康の日光改葬に伴う交通量の増大に備えて、古河城及び城下を通る日光道中の整備を急速に行っている。領内の街道沿いに松を植樹、また、古河城御成門を築造するなど、現代風にいえば、直勝はその後たび重なる将軍の日光社参で大勢の人々を受容するにふさわしい町並み・景観造りを果たした。
 なお伝存する人差し指の描かれない肖像画は、小牧長久手の戦いで敵将の池田恒興を討ち取るときに負ったとされる傷をとおして、彼の武功を如実に表現している。文武に秀で、家康に重用された好男子、永井直勝。市内の永井寺に現存するその墓は、林羅山の頌徳碑と並び、家康に足を向けぬように日光に北面して建てられている。

この交差点を左に曲がります。と、その右手の角に「道標」。

      

日光街道古河宿道標
 寛永13年(1636)に徳川家康をまつる日光東照宮が完成し、江戸と日光を結ぶ日光街道が整備された。その途中にある古河宿は、日光社参などの往来でひときわ賑わうようになった。
 日光街道は、江戸から古河に至り、二丁目で突き当たり、左が日光道、右が筑波道と分岐するように作られた。その分岐点に、人々の往来の助けにと建てられたのがこの道標である。
 この道標は文久元年(1861)に太田屋詮六が願主となり、八百屋議左衛門ほか11名によって建てられたもので、常夜灯形式の道標として貴重なものである。文字は小山霞外・梧同・選堂という父・子・孫3人の書家の揮毫である。

 平成20年1月  古河市教育委員会

     

 この道をしばらく進み、次の交差点で右折します。枡形になっています。


「よこまち柳通り」。

 この沿道には古いおうちがいくつかあります。川魚料理・うなぎの「武蔵屋」。
    

さらに、  

「大和屋薬局」。

宿場の出口付近。左手には「本成寺」。

旧国道4号線(県道261号)に合流します。角には大きな「常夜燈」。

(9:15)振り返って宿内を望む。

 (9:26)現国道4号線に合流する手前、右手には「塩滑地蔵」。少し奥まったところにあります。
    

 塩滑地蔵は自分の具合の悪いところに塩を塗ると治るということで、治ったお礼に塩を奉納するらしい。

「松並」という地名が。この辺りも松並木があったようです。




1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。○が日光道と筑波道の分岐。→が松並木が続く旧道。。

 (9:33)しばらく進むと、野木交差点で現在の国道4号線に合流します。そこに、「野木町煉瓦窯」の大きな案内板があります。
             


旧下野煉化製造会社煉瓦窯(国指定文化財)【通称:野木町煉瓦窯】
 かつて野木町の近代産業を支えた旧下野煉化製造会社の工場の一部。国の重要文化財に指定されている煉瓦窯は、「ホフマン式円形輪窯」といい、明治23年に作られました。
現存するものの中で唯一完全な形を保っている貴重な産業遺物です。
外形は16角形、高さ約34メートル、周囲は約100メートル。
明治23年から昭和46年までの約80年間、多いときで月408,000本もの赤レンガを焼き上げました。


 ここで製造された赤煉瓦は東京駅舎の一部に使用された他、日光金谷ホテルにも用いられましたそうです。

 この手前辺りで、茨城県から栃木県に入りますが、特に県境の標識は気づきませんでした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

古河公方。「万葉集」東歌歌碑。大正館。・・・(「日光道中」をゆく。その26。)

2016-06-09 22:54:48 | 日光道中

マスコットガール? 「古河公方氏姫『桃香』のまちづくり」。

8万石の城下町です。「古河八萬石最中」。

小説家の永井路子さんの生家があるようです。

              

雪の殿様
 古河藩主、土居利位(1789~1848)は、雪の結晶を20年にわたり観察、わが国最初の雪の自然科学書『雪華図説』を著作・発行した。
 こんにちの雪氷学者は、この雪の殿さまの成果を、科学史上の画期と称賛して高い評価を与えている。
 書画を描くことにも秀でた多芸な利位は、『雪華図説』に掲載した雪華模様を意匠として捉えて、みずから様々な工芸品のデザインに取り込んでいく。漆工品や唐紙、武具・馬具・刀装具、果ては菓子の木型にいたるまで・・・。
 現代、雪の殿さまの「雪華模様」は、市内の小中学校の校章や、街の景観に、今も文化として息づいている。

公方の城 古河城
 古河城は、古河公方の御座所であった中世、そして、将軍家の日光社参における御泊城となった近世というように、歴史上、公方様の城というべき特殊な性格を帯びた存在であった。
 殊に、室町時代の古河城は、政治・軍事面の重要性から、鎌倉公方の北関東における拠点と位置付けられており、15世紀半ばになると、「享徳の乱」を契機に、鎌倉から古河へ移座した足利成氏の居城として整備されていく。そして、初代成氏以降、古河城は、古河公方足利氏の五代130年にわたる根城として、波乱に富む関東戦国史に欠くことのできない存在となる。
 江戸期以降は、幕府大老の土井利勝、堀田正俊を筆頭に、閣老級の譜代大名たちが城主となり、近世城郭としての整備が進められ、南北1800㍍、東西550㍍という関東有数の巨大城郭に変貌した。
 明治6年の廃城令と同43年に開始された渡良瀬川改修工事によって終焉を迎えた古河城であるが、現在も出城跡(歴史博物館)や獅子ヶ崎に土塁や水堀を含む遺構を確認することができる。

公方(くぼう)
 国家に関する公(おおやけ)のことを体現する方面及び国家的統治権、すなわち古い時代の天皇やその朝廷、鎌倉時代、室町時代の将軍に起源する言葉である。特に室町時代の後半には、将軍の公権力の代行者として君臨した足利将軍家の一族の者の肩書きとして用いられた。
 南北朝時代、室町幕府を開いた足利尊氏は、朝廷より公方号を許されたことが、室町幕府政所執事伊勢氏の末裔にて江戸時代の旗本の伊勢貞丈の『貞丈雑記』に記されている。しかし、尊氏は多分に朝廷や公家の称としての意味合いが強かった公方号を素直には喜ばなかった。尊氏は公方の号を賜ると甲冑をまとうことができないと述べ辞退するが、一旦授けたものを撤回もできず、尊氏が預かる形となった。
 以降、2代将軍となった義詮の時代になっても用いられることはなかった。しかし、3代将軍義満以降、将軍の敬称として公方号が積極的に称されることとなった。当初、関東管領としてあった足利基氏も将軍家が公方を称するようになると、鎌倉公方と称するようになった。以降、幕府の主宰者たる将軍や、鎌倉公方を称した鎌倉の足利一族により公方号が世襲されることとなる。鎌倉公方はさらに古河公方、堀越公方両家に分裂し、古河公方はさらに小弓公方と分裂する。
 江戸時代には王権をほぼ全て掌握する将軍の別称として完全に定着し、「公方」と言えば徳川将軍だけを意味するようになる。
 古河公方・小弓公方の子孫である喜連川氏については、非公式ながら公方と名乗る事を認められていた。喜連川氏は徳川将軍家との間に明確な主従関係が存在しないという、極めて特殊な存在であった。

古河公方
 享徳の乱の際に、享徳4年(1455年)、鎌倉から下総国古河(茨城県古河市)に移った関東公方で、初代は足利成氏。第2代は足利政氏、第3代は足利高基、第4代は足利晴氏、第5代は足利義氏である。晴氏が河越夜戦で敗れたことから後北条氏の影響力を強く受けるようになり、晴氏と義氏は古河を離れて、後北条氏の勢力範囲各地を居所とする時期が長かった。天正10年(1582年)、義氏が死去した後は後継者が立たず消滅。後裔は高家の喜連川氏となった。
小弓公方
 永正14年(1517年)、第3代古河公方足利高基の弟足利義明が上総国真里谷(まりやつ)城主の上総武田氏に擁立されて、下総国の小弓城(現、千葉県千葉市)を居所としたもの。自らを第2代古河公方政氏の正当な後継者であると主張し、高基に対抗した。天文7年(1538年)の第一次国府台合戦で義明が戦死したため滅亡した。後裔が古河公方系と合一して喜連川氏となった。
(以上、「Wikipedia」参照)

ここを右に折れて「古河」駅方向へ。

 駅前には大きな万葉歌碑と解説板があります。
    

万葉古河の歌について
 万葉集は日本現存最古の歌集で、8世紀中頃に成立した。全20巻からなり、長歌・旋頭歌・仏足石歌体歌・短歌など4536首の歌を収録し、万葉仮名で書かれている。
 そにうち巻14には東歌として238首が収録されている。東歌はすべて作者不詳で、労働・土俗・性愛の表現に特徴があり、東国の方言的要素を含んでいる。また地名を含む歌が多いのが特徴である。
 その中に相聞歌として古河(許我)の地名を含む歌が二首載っている。

・まくらがの 許我の渡りの からかじの
        音高しもな 寝なへ児ゆえに
(まくらがの古河の渡りのからかじの音が高いように 
     高い噂が立ったなぁ あの子と共寝をしたわけではないのに)

・逢はずして 行かば惜しけむ まくらがの
        許我こぐ船に 君も逢はぬかも
(あなたと逢わずに行ってしまったら心残りだろう まくらがの
     古河を漕ぐ渡し舟であなたにお逢いできないものかなぁ)
※まくらが…「許我」にかかる枕詞

 この二つの歌は、おそらく民謡のように語り歌い継がれたものであろう。いずれにしても、歌の内容から渡し場であった様子がうかがえ、この古河の地が古くからひらけ、渡良瀬川などの河川や沼を交通路として利用し、河川交通の要所として発展していたことをうかがわせる。
 ここに建つ「万葉古河の歌碑」は、昭和60年(1985)4月に万葉歌碑建設実行委員会(代表 渡辺武夫氏)を中心に、たくさんのかたがたの浄財によって建設されたもので、書は大久保翠洞氏(古河市出身の篆刻家)の揮毫である。

 平成20年1月 古河市教育委員会

市内史跡案内板。見所満載のようです。

 電車の出発時間までちょっとぶらぶら。こんなお店がありました。「古美術 大正館」。
            

 上野から快速で54分、JR宇都宮線古河駅西口より徒歩2分。築70年のもともと民家であった木造家屋を改築して店舗にしています。柱や梁に走る木目、ガラス戸、柱時計……、家屋に宿る「匂い」がそのまま大正館の小道具として生き生きと生彩を放って、われわれに語りかけてくれます。
「大正」という時代は、「自由」という思想を背景に日本独自の文化が花開いた時期です。富国強兵の号令の下、国体の強化に一心不乱に進んだ明治。大陸への進出をめざし、アジアの覇権を握ろうと国家が国民を統制した戦前の昭和。この2つの激動の時代に挟まれ、日本近代史に花咲いた「あだ花」のようなはかなさもあります。私はそんな大正時代に漠たる憧れをもっていました。「大正館」という名前もそんな時代にあやかっています。
 古い物には時代を超えて人の心をつかむ「あたたかみ」や「癒す力」があります。骨董(古陶磁器)、古民具、箪笥、漆器、ガラス製品から電笠、ランプ、柱時計、蓄音機まで取り揃えております。一度「古き良き時代」を体験しにいらっしゃいませんか。

大正館店主 中野忠男 (HPより)

(14:46)古河駅。「古河」は茨城県です、念のため。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

御茶屋口。御馳走番所。肴町。坂長。・・・(「日光道中」をゆく。その25。)

2016-06-08 22:16:27 | 日光道中
 (14:05)いよいよ「古河宿」の中心部へ。車の通りも少なく、落ち着いた街並みです。

         
      道の左右にはこうした「行燈」のようなモニュメントがあって、名所・旧跡を案内、解説してくれます。

古河公方 足利成氏
 古河の歴史を彩る重要人物は数あれど、日本の歴史上、戦国時代の幕を開けた初代「古河公方」足利成氏(1434?~1897)ほどのビッグネームは見当たらないかもしれない。公方ということばが将軍の異称であることを考えても、成氏の権力と存在感の大きさは、容易に想像できるであろう。
 成氏の父、持氏は、室町幕府開祖の足利尊氏の子基氏にはじまる鎌倉公方の4代目であった。将軍6代目への継承に野心を抱いていた持氏は、幕府への叛逆を企てるも「永享の乱」に敗れて自刃、その後公方不在の関東の情勢が不安定となると、幕府は、成氏を鎌倉公方に任命している。
 しかし父の遺志を受け継ぐかのように、成氏は、幕府へ対抗しはじめ、「享徳の乱」を契機に鎌倉から古河へ移座、「古河公方」を自称した。成氏は、30年に及ぶ享徳の乱後も鎌倉に復帰することなく、古河の地で没。以後、江戸時代に至るまでの130年間、古河は5代にわたる古河公方足利氏の拠点となり、独自の文化を育んでいくのである。

菓子処「清水屋」さん。

「御茶屋口」という道標。



御茶屋口と御成道

 「御茶屋口」、旧日光街道に面するこの口の名前は、かつてこの地に存在したとされる「御茶屋」に由来している。それは日光社参(徳川将軍が、神君徳川家康を祀る日光山へ参詣する行事のこと)に伴い将軍の休憩所として設けられたとされるが、江戸初期のごくわずかな期間に存在したと推定されるこの建造物について、今のところ、記録として残る略図以外にその詳細はわからない。
 ところで、徳川将軍の日光社参は江戸時代を通じて19回おこなわれているが、古河城は、道中における将軍の宿城となることが通例であった。将軍の古河入城に利用された「御成」の入り口がこの御茶屋口である。
 そして、「御茶屋口」から続く将軍御成の道は、諏訪郭(現歴史博物館)を北側に迂回、その後、幅180メートルに及ぶ「百間掘」を渡す「御成道」を経由して城内に至る。杉並木で飾られた「御成道」と城内との接点には、石垣で堅牢に守られていた「御成門」が将軍をお迎えした。
 なお、将軍休憩の御殿というべき「御茶屋」破却後、その場所の一角には、「御茶屋口番所」が置かれている。これは、古河城下を通行する格式の高い大名や幕府閣僚たちの挨拶に対応する役人の詰所であり、明治維新を迎えるまで存続した。

  平成20年1月  古河市教育委員会


    

 実は、ここに来るまでの間、何カ所も史跡・解説板の下に設置されていた郵便受けのような箱の中には、大きな観光記念スタンプが入っています。スタンプラリー風に楽しめるという趣向です。

西側の通りを望む。行く先に「古河城」があります。

こちらはそのまま街道歩きを続けます。

古民家を活かした「レストランサンローゼ」。



枕河盆踊歌♪
 ハア~古河の名所は(ヨーイヨーイ)お雀さまよ
   おがむその手で(コラショ)
   アレサ盆踊り(アリャアリャアリャサ)
 ハア~日光街道の(ヨーイヨーイ)松の葉みやれ
   枯れて落ちても(コラショ)
   アレサ二人連れ(アリャアリャアリャサ)
 ハア~幸手栗橋(ヨーイヨーイ)古河るる身なら
   心関宿(コラショ)
   アレサゆうきじま(アリャアリャアリャサ)

奥くには土蔵造りの建物。

(14:17)その先で左の脇道に入ると、古い建物が並んでいます。

「御馳走番所 米銀」。

 その左隣には、「古河藩使者取次所址」の石碑が立っています。

史蹟 古河藩使者取次所址 
 使者取次所ハ本碑ノ西ニ接續セル元肴町約五十坪ノ地内ニ在リテ御馳走番所トモ呼ビ町役人大年寄ノ詰所ニシテ十萬石以下ノ大名城下通行ノ際ハ其取次ヲ行ヒ藩廳ヨリハ掛員出張シテ應待セシ役所ニテ明治四年廢藩置縣ト同時ニ廢廢止セラレタリ本碑ハ地元壹丁目熊本藤兵衛舩江豊三郎両氏寄贈ノ資ニ依リ之ヲ建ツト云

     昭和十二年六月吉日 茨城縣古河史蹟保存會長 同古河町壹丁目總代

「米銀」の向いに肴町の説明板が掲げられています。

肴町の由来
 その昔、元和の5年(1619)に奥平忠昌公が古河城主として移封された時代のことです。
 忠昌公は、お城の増築や武家屋敷の拡大のために町屋の大移動をはかり、中心部に新しいまちづくりを行いました。後の大工町や壱丁目、石町、江戸町等は皆その時に名付けられたものです。
 江戸時代に古河城下を通過する諸大名は、使者を派遣し挨拶をしに参りました。古河藩からは役人が出向いて歓迎の接待をしたものです。その役所のひとつに使者取次所があり、別名を御馳走番所と言いました。現在米銀の在る処がそれで、今の中央町二丁目麻原薬局角から中央町三丁目板長本店の間、道巾3間半、長さ22間5尺の通りは、「肴町」と呼ばれるようになりました。
 以来、この肴町通りは古河城裏木戸を経て城内にお米やお茶、お酒をはじめその他の食糧品を供給し、城内との交流の道として栄えて参りました。
 今日、食糧品を扱う大きな店の構える通りとなっているのもその縁でありましょうか。
 歴史の重さがしのばれます。

     肴の会

  「米銀 銀の蔵」。


 左手奥には「坂長」・「泉水亭」。

    

   袖蔵」。

 四つ辻の角地に位置する2階建ての土蔵で、隣接する店蔵と棟を直交して建つ。外壁は白漆喰塗り、屋根は切妻造、桟瓦葺きとする。旧古河城乾蔵を移築したものと伝えられ、牛梁に「文久三年癸亥五月吉日」の墨書がある。店蔵とともに古河城を偲ぶ数少ない遺構である。

国の登録有形文化財に指定されています。

 庭の方に回ってみます。
 
    
      店の裏手。食事をするところ。落ち着いた雰囲気です。


    

石蔵
 屋敷の端に位置する長大な元2階建ての石蔵。外壁は大谷石の切り石積みとし、出入口の両脇柱及びまぐさに長大な一石の切り石を用いる。屋根は切り妻造り、桟瓦葺きとし、2階には窓を設ける。北関東における石蔵の中で、大規模な部類に属する。

 ここは、多目的ホールのような造りに改造されていて、舞台が設置されてあります。たまたま、ここで「詩」の会(朗読会)を企画している方々が下見に来ていました。気に入ったようすで、予約をするつもり。マイクなどはないそうですが、声は響く感じで、なかなかすてきだ、と。
 東海道や中山道でもこうした古い土蔵造りの建物でJazzなどを演奏する案内など見かけましたが、すばらしい試みだと思います。



 まだまだ見所満載の古河宿です。

・「鷹見泉石記念館」
・「繍水草(しゅうすいそう)堂」
・福法寺の山門「旧古河城乾門」

など。

(14:26)それらはまたの機会にして、古河駅に向かいました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

原町一里塚。古河宿。常夜燈。・・・(「日光道中」をゆく。その24。)

2016-06-07 20:56:47 | 日光道中
 さて、小休止して、一路、「古河宿」へ向けて出発です。しばらく進むと、松並木もおしまい。振り返って望む。
右手の畑越しには、JRの線路。ちょうど貨物列車が通過中。


 この辺りも「カサリーン台風」では大きな被害を受けています。赤いテープが剥がれかかっています。よく見ると、表示は2m以上。

道が少し狭くなり、植樹の種類が異なってきました。

「カラオケ喫茶 昭和」。中から昔懐かしい演歌の歌声が。

今度は普通電車が通過中です。

振り返って望む。     
                      両側が小高くなっています。「大堤」という地名もあります。

「星ヒカリ 自転車ピカリ 帰り道」。

右側には「吉田茶園」入口の看板。石塔もあります。

 次第に街並みが出てきました。国道354号線を越え、少し上り坂を進むと、右手に「古河第二高校」。この校庭に日本橋から16里目の「一里塚」の碑があるというので見たところ、高いフェンスに囲まれてよく分かりません。ふと振り返ると道の角にありました。

    鉄塔が建っているところ。

(13:46)左手には「十九夜」塔があります。

振り返って望む。

 家に帰ってから調べてみると、これは「十九夜塔」がメインで「一里塚」ではなさそうです。「一里塚」はやはり校庭の中にあったようで、高いフェンスの内側の中、塚の上に大きな木が植わっているところ、ということでした。どうも結果的には早とちりであったようです。これから歩く方もご注意あれ!

「古河第二高校」正門を過ぎた右手に「祭禮道原口」碑。

                                                

祭礼道
 祭礼道とよばれる日光街道のバイパス道が市街地の東側に設けられ、原町口と横町口を結んでいた。雀神社例祭の際には、二丁目・高札場付近にお仮屋が建ち、出社したご神体のまわりに町民が集まっていたため、旅行者を迂回させて町民とのトラブルを防止した。藩主が土井利勝の頃に完成したと考えられている。明治12年(1879年)、米国元大統領・グラントが日光を訪れた際には、お仮屋を街道から離れたところに移動して、一行を通過させているので、このころから廃止されたと考えられる。

少し高台になっています。地名は「台町」。   

 どこまでも平坦だった関東平野も次第に丘陵地帯に近づきつつあるようです。

広い道に合流すれば、その先はいよいよ「古河宿」になります。

(14:02)入口には「常夜燈」のモニュメント。    
                                               来た道を振り返って望む。

    

松並木のある風景 日光街道
 江戸時代、ここには松並木が整然と続き、数ある街道の中でも、もっとも美しい景観のひとつとして評されていました。
 高低差のない平らなこの区間、松並木の間から見える白壁の古河城、そして富士山や筑波山、浅間山や男体山などは、多くの文化人や画家たちの漢詩、紀行文、絵画などに表現されています。
 当時の松並木は、現在地よりも400㍍ほど南を起点におよそ5キロメートルにわたって続いていましたが、今ではその風情を伝えるものは残されておりません。
 失われた景観を惜しみ、その歴史が未来に語り継がれることを願い、ここに松の植樹を行いました。

 平成17年3月吉日  日光街道街並み景観づくり推進協議会 

 この表現からは、現在、中田地区に植樹されている松並木がまったく考慮されていないのが気になります。平成17年以降に松並木として若松が植えられたということなのでしょうか?

 古地図からは利根川の北側・中田宿からこの手前まで、ほぼ直線道路の両脇に、松並木がおよそ5㎞続いていたことが分かります。




                             
                             

1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。
 このように利根川を渡ったところ(→)から古河宿入口(← 解説板があるところ)の手前まで、沿道の約5㎞にわたって「松並木」がありました。現在の道もほぼ同じ道筋です。

 ここからは「古河宿」内になります。

古河宿
 日光街道の江戸・日本橋から数えて9番目の宿場。
 江戸時代の全期を通じて、古河藩が管理していた古河三宿(中田・古河・野木)の一つである。天保14年(1843年)の『日光道中宿村大概帳』によれば、本陣・脇本陣は1軒ずつ設けられ、旅籠が31軒(大5,中6,小20)あった。宿内の家数は1,105軒、人口は3,865人であった。
 将軍家による日光社参では、古河城は岩槻城・宇都宮城と並び、将軍の宿城とされており、日光街道における主要な宿場の一つであった。日光社参のときには、従者の数が膨大になるため、通常の宿泊施設だけでは足りずに、城下の武家屋敷や町屋も割り当てられた。宿場は日光街道沿いの台町・一丁目・二丁目・横町(現在の本町・中央町・横山町の一部)にあったが、渡良瀬川等による河川交通も発達していたことから、古河の町は日光街道から河岸へ向けて折れ曲がった石町・江戸町等にも広がり、T字型に形成されていた。
 大名が宿泊する本陣は時期により異なるが、最もよく知られているのは二丁目にあったもので、現在、跡地には「本陣跡碑」がある。脇本陣も二丁目にあった。

古河城下・古河宿(江戸時代後期)
 町割りの特徴は、古河城の主要な出入口が北側にあり、西側に渡良瀬川があることから、城下町・宿場町が城の北側と東側に集中していることである。また、このために城と上級武士の住居が低地にあり、町人や下級武士の住居が台地上となっており、他の城下に見られない個性的な景観をなしていた。
 日光街道に面した町を「通町」と呼び、他は「脇町」と呼んだ。また町の発展に伴い、本町とされた通町・脇町から枝町が派生した。

電柱のない、すっきりした広い通りが一直線に延びています。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

利根川橋。中田関所。中田宿。中田の松林。・・・(「日光道中」をゆく。その23。)

2016-06-06 19:10:24 | 日光道中
 いよいよ「利根川橋」を渡ります。大きな川は「利根川」と「荒川(明治から大正にかけて開削された人工河川)」、「隅田川」くらい。「東海道」のように、「大井川」「天竜川」「安倍川」「富士川」などのような大河はありません。それでも、さすが「利根川」=「坂東太郎」です。延々と東に向かい、銚子で太平洋に注ぎます。
 「東海道」でもそうでしたが、旧街道で大河に架けられた「橋」の名は、その川の名を付けたものが多いようです。旧道としての歴史的重さを大事にしたものでしょうか。

利根川橋
 埼玉県久喜市栗橋北と、茨城県古河市中田を結ぶ利根川に架かる道路橋である。
 江戸時代この場所の右岸には栗橋関所、左岸には中田宿があり、その間を渡船で結んでいた。橋は東海道の大井川と同じような江戸防衛という軍事的な理由などで建設されなかったが、徳川将軍が江戸から日光東照宮へ参拝するときだけは、和船を並べ上に板を渡した船橋(せんきょう)が作られた。
 明治時代に入り、明治天皇が何度か東北巡幸した際も、仮設橋を用いて一行を渡河していた。やがて陸軍の近代化に伴って、部隊の移動に支障があるような河川に架橋する計画が持ち上がり、1924年(大正13年)に内務省の手によって旧上り橋が完成した。利根川の中・下流域で最初に架けられた近代的な道路橋である。
 第二次世界大戦後の1947年(昭和22年)9月に発生したカスリーン台風による災害後の利根川改修工事によって、堤防のかさ上げと古河側の引堤が行われ、それにあわせて橋脚のかさ上げと橋桁が増やされた。
 やがて高度経済成長期を迎え、交通量が増加したことから1966年(昭和41年)に上流側に新橋を建設、1924年に建設された旧橋を旧上り・新橋を下り専用とした。
 近年、橋を通る車両の大型化による負荷の増大と、建設から80年近くが経ったことによる老朽化や、橋脚数が多いことによる出水時の河川に対する悪影響などの理由により、旧上り橋が架け替えられることになり、2005年(平成17年)から旧上り橋の下流側で工事が行われ、2009年(平成21年)12月に新上り橋が供用を開始した。廃橋となる旧上り橋は撤去されるが、土木工学史上価値のある近代化遺産であることから古河総合公園内で一部が保存される予定である。
(以上、「Wikipedia」参照)

橋の真ん中付近で「茨城県古河市」に入ります。橋の長さは670㍍ほど、渡り終えるのに10分近くかかります。

上流にはJR線の鉄橋。

対岸にあった「中田宿」は「利根川橋」の両側、現在は河川敷に広がっていました。

 利根川橋を渡ったら、すぐ左に折れて土手を下っていきます。道が右にカーブするところに「房川(ぼうせん)渡と中田関所」跡の解説版があります。薄れていて判読不能の所も。先達の記録をお借りしました。


房川(ぼうせん)渡と中田関所跡
 江戸幕府は、江戸を防衛する軍事上の理由から、大河川には橋をかけることを許さず、また、交通上の要地には関所を設けていた。当地は日光街道の重要地点で、街道中唯一の関所と渡船場の両方があったところである。
 利根川のうち、当地と対岸の栗橋の間の流れの部分を『房川』(理由は諸説あって不明)とよび、渡船場を房川渡、関所を房川渡中田御関所といった。やがて、関所は対岸の栗橋側の水辺に移されたので、普通には、『栗橋の関所』の名で知られていた。
 四人の番士が交代で、関所手形を改め、旅人や荷物を厳しく監視した関所は、明治2年(1869)の廃止令でなくされたが、二艘の渡し船と五艘の茶船を操る船頭たちによって、およそ40間(約70m)の流れを渡した渡船場の方は、大正13年(1924)の利根川橋の完成前後まで続けられた。

 平成元年3月 古河市教育委員会

 (12:33)その先を進むと左手の火の見櫓の下に解説版。下には郵便受けのようなものが。
    

中田宿 
 江戸時代の中田宿は、現在の利根川橋の下、利根川に面して、現在は河川敷となってしまっている場所にあった。再三の移転を経て、現在のような中田町の町並みとなったのは、大正時代から昭和時代にかけての利根川の改修工事によってである。
 中田宿の出発は、江戸幕府が日光街道を整備する過程で、以前の上中田・下中田・上伊坂など、複数の村人を集め、対岸の栗橋宿と一体的に造成されたことにあり、宿場として、隣の古河宿や杉戸宿への継ぎ立て業務も毎月を十五日ずつ半分に割り、中田・栗橋が交代であたるという、いわゆる合宿であった。
 本陣・問屋や旅籠・茶店などの商家が、水辺から北へ、船戸、山の内、仲宿(中町)、上宿(上町)と、途中で西へ曲の手に折れながら現在の堤防下まで、延長530メートルほど続いて軒を並べていたが、ほとんどは農家との兼業であった。
 天保14年(1843)の調査では、栗橋宿404軒に対し、中田宿69軒となっている。ただし、118軒とする記録もある。

 平成19年1月 古河市教育委員会



1880年代のようす。



現在のようす。「中田宿」は「利根川橋」付近の河川敷になっています。

 現在の街並みは一直線の道路に沿って続いています。
    

(12:39)しばらく進むと、左側には寺社が並んでいます。
                                           鶴峯八幡神社。

 1880年代の地図で、「八幡祠」と記された神社。中田の守護神であった。大正元年(1912)利根川の改修工事による中田の町並みの移転にともなって現在地に移された。


小学校では運動会。都内の学校に比べて児童も多いようです。観客も大勢。屋台まで出ています。

 (12:55)JR線の踏切を越えて行きます。
    

 幅広い直線道路の両側には、まだまだ若い松並木が続きます。この付近は「茶屋新田」。50年後、100年後には立派な松並木に。

    

 近所の方が出てきたので話を聞くと、市長が先頭になってこの付近にJRの駅を誘致する運動があった、そのためにこの通りを4車線の広い道にすると計画になった、だが、採算が合わなくて駅の話がつぶれたので、両側に松を植えたのだとか。結局、これが松並木の復活になった、と。たしかにゆとりのある歩道になっています。

 右手に例の郵便受けと解説板が。
    

中田の松原
 いま中田町となっている通りは、江戸時代は、「中田の松原」と呼ばれたうちに入っていて、それは、これから北へ古河の原町入口までの約1里(約4キロ)余の呼び名であった。
 この間には、中田新田の顕正寺、茶屋新田の中の茶屋立場や名物の一本松(一葉一包の珍種)、原町の一里塚などがあり、また松並木を越て、藤井松平氏が建てた板間の碑、鴻巣の桃そして古河城の三階櫓も望まれる景勝の地であった。
 幅5間(約9㍍)の道の両側は一段と高くされ、そこに松並木を植えたのは、寛永7年(16303)、古河城主永井尚政のときであったという。注意して見ると、「左右に松並木が続き、道は広く、東海道にもこのように、まっすぐで、平で、きれいなところはない」と、ある記録に残されているおもかげは、かつての茶屋新田村の中心で、高札場もあったこのあたりに、今もわずかにしのぶことができる。

 平成元年3月 古河市教育委員会

 先ほどの住民の方の話通りかどうか定かではありませんが、結果的には松並木の復活はすばらしい計画になった、と思います。

    

(13:06)神社の社務所前の立て札。

 「日光道中茶屋新田 日本橋17里→  ←日光20里 茶屋松原」 

 ということは、もうじき(ここからあと1時間半くらい歩けば)、ちょうど半分の行程になるわけです。何だか勇気づけられました。(注:現実はそう甘くはありません。実際の17里目の一里塚はまだまだ先になり、「古河宿」を越え、その次の「野木宿」に入った辺りです。「日光道中」の真ん中はもっともっと先のところ。)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

会津見送り稲荷。焙烙地蔵。栗橋宿。栗橋関所。利根川。・・・(「日光道中」をゆく。その22。)

2016-06-04 23:32:44 | 日光道中
しばらく進むと、「会津見送り地蔵」「焙烙地蔵」の道標があります。

 右手の民家の庭先には「会津見送り稲荷」があります。

    

久喜市指定文化財  会津見送り稲荷
              昭和53年3月29日指定
 江戸時代、徳川幕府が参勤交代制をとっていたころ、会津藩の武士が藩主江戸参向に先立ち、先遣隊として江戸へ書面を届けるため この街道を栗橋宿下河原まで来たところ、地水のため通行できず、街道がどこかわからずたいへん困っていると、突然白髪の老人が現れて道案内をしてくれた。お蔭で武士は無事に江戸へ着き、大事な役目をはたせた、という。
 また、一説には、この地で道が通行できずに大いにあせり、そのうえ大事な物を忘れたことに気がつき、困りはてたすえ、死を決意した時、この老人が現われ藩士に死を思い止まらせた、ともいわれている。
 のちになって、この老人は狐の化身とわかり稲荷様として祭ったものである。

  久喜市教育委員会

 旧道はそのまま、国道4号線に合流して北上し、「栗橋宿」へ向かったようですが、案内用の道標に導かれ、そのまま農道のような道を進みます。

振り返って望む。但し、旧道ではありません。

会津見送り稲荷と炮烙地蔵の道標。

右手を進む。

 住宅地を抜けると、栗橋宿に入ります。旧道は宿場入口で枡形になって右から進んできます。右手には「炮烙地蔵」があります。

    

久喜市指定文化財  炮烙地蔵
            昭和53年3月29日指定

 むかし、現在の利根川に関所が設けられ、人の通行をきびしく取締っていた時代、関所を通らないで渡った者、あるいは、渡ろうとくわだて事前に発見された者は、関所破りの重罪人として火あぶりの刑に処せられたと伝えられている。処刑場も地蔵尊のある現在の場所であったという。
 こうした多数の処刑者を憐れみ、火あぶりになぞらえて、その後土地の人が供養のため焙烙地蔵として祭ったものである。今も焙烙に名前を書き入れ奉納されているのが見うけられる。
 また、エボ地蔵ともいわれ、あげた線香の灰をエボにつけると治る、といい伝えられている。
 
  久喜市教育委員会

焙烙(ほうろく)は、素焼きの土鍋の一種。形は平たく、低温で焼かれる。



(写真はHPより)

栗橋宿に入ると、約1㎞の直線道路になります。

栗橋宿
 日光街道の江戸・日本橋から数えて7番目の宿場であるが、当宿と利根川対岸の中田宿は合宿の形態をとっており、両宿合わせて一宿とする記述もある。
 この地は利根川の渡河地点にあたり、日光街道から江戸への出入りを監視する関所が置かれ、江戸の北方を守る要地であった。街道が整備される以前に町は無く、日光街道は手前の幸手宿から北東に向かった栗橋村(後に元栗橋村に改称、現・茨城県猿島郡五霞町元栗橋)に渡船場があり、”房川渡し・栗橋”とよばれていた。
 慶長年間に地元の池田鴨之助、並木五郎平の出願により、現在の栗橋地区となる上河辺新田が開墾された。当初、日光街道は手前の幸手宿から北東の栗橋村(後に元栗橋村に改称、現・茨城県猿島郡五霞町元栗橋)に向かっていた。その後、1616年(元和2年)に街道筋が付け替えられ、現在地に日光・奥州街道の正式な宿駅として栗橋宿が成立した。栗橋宿の開宿に尽力した池田鴨之介は、栗橋宿の本陣を代々務めた。
 栗橋宿の規模は、1843年(天保14年)の記録によると、本陣1、脇本陣1、旅籠25軒、家数404軒、人口1,741人であったという。

房川渡と栗橋関所
 江戸幕府は江戸の街を防衛する理由から、大河川に橋を架けることを禁じた。したがって、日光街道の利根川渡河には房川渡(ぼうせんのわたし)と呼ばれる舟渡しが設置された。 この舟渡しに置かれた関所が栗橋関所であった。栗橋関所は正式には「房川渡中田御関所」と呼ばれ、当初は中田宿側に関所が置かれていたが、後に対岸の栗橋宿側に移され栗橋関所が通称となった。 中山道の碓氷関所や東海道の箱根関所、甲州街道の小仏関所と同様に、「入鉄砲に出女」を取り締まっていた。
 1869年(明治2年)、明治維新の最中に栗橋関所は幕府と共に姿を消した。なお、房川渡は東京から東北方面へ向かう交通路として明治以降も存続したが、1924年(大正13年)の利根川橋完成によってその役割を終えた。

栗橋宿と中田宿
 利根川対岸の中田宿と栗橋宿は合宿の形態をとっていた。荷物や人夫の継ぎ立てを行う問屋の業務は半月毎の交代制であった。

「栗橋宿」という幟が街道筋に掲げられています。

 古い家々の軒先には屋号や建物の概要が掲示されています。
    
「丸島」 創業 江戸末期 質屋 明治期より米販売製粉業を営む 店舗 江戸末期築 住居 明治初期築 

 宿内にはこれまでもあった「カスリーン台風」の爪痕を示す赤テープが巻かれてあります。この辺りは、2㍍40㌢の高さになっています。
    
                          黒塗りは、選挙ポスターのため。

古いおうちもちらほら。

      「2.4m」との表示。背丈を遙かに越えた高さ。

 江戸時代の「利根川」東遷以前も以後も、日光街道周辺はひとたび水害に襲われれば、濁流が遠く江戸の地まで飲み込んでいった、ということになります。戦後のカスリーン台風でもこのような大被害に遭うのですから、この地域では「治水」が今も昔も重要だったことが分かります。

注:利根川の東遷
 古来、利根川は大平洋ではなく、現在の東京湾に注いでいました。現在のような流れになったのは、数次に渡る瀬替えの結果で、近世初頭から行われた河川改修工事は「利根川東遷事業」と呼ばれ、徳川家康によって東京湾から銚子へと流れを替える工事が行われました。
 東遷事業の目的は、江戸を利根川の水害から守り、新田開発を推進すること、舟運を開いて東北との経済交流を図ることに加えて、伊達政宗に対する防備の意味もあったと言われています。
 工事は徳川家康が伊奈備前守忠次に命令し、1594年会の川締切を皮切りに、60年の歳月をかけて、1654年に完了しました。


 「栗橋宿」の中心街を歩きますが、宿場に必置の「本陣」「脇本陣」「問屋場」などといった案内板などは目に付きませんでした。その代わり、こうした古いおうちが目立ちます。

    
下野屋 創業 文化年間 薬舗 店舗 明治40年代築 住居 昭和8年築

    

 そうこうしているうちに、宿場の北はずれに。
    
                                           振り返って望む。

道の両側が緑のシートで囲われて工事中です。右手は本陣跡? 左手は関所陣屋跡? 現在も遺跡発掘作業中のようです。

    左手の発掘現場。

土手の上から。右手に「八坂神社」。

 「栗橋関所」跡碑が土手下にあるはずですが、その付近は工事中で入れないかと思ってしまい、行かずじまい。

↓のところに。

そこで、拝借。
「栗橋関所跡」碑
 江戸時代に整備された五街道の一つ日光道中は交通量が多く、本市には栗橋宿が設けられました。また、栗橋宿には利根川を渡る房川渡(ぼうせんわたし)が設けられると共に、日光道中唯一の関所が設置されました。今日この関所は、一般的に「栗橋関所」と呼ばれていますが、江戸時代は栗橋と対岸中田(なかた)(茨城県古河市)とを結ぶ渡船場の名称をとり、「房川渡中田御関所」と呼ばれていました。
 栗橋関所が設置されたのは、江戸時代初頭で、寛永元年(1624)には、関所の警衛にあたる番士が幕府から任命され、関所の近所に定住したと伝えられています。この番士の屋敷跡は、昨年発掘調査が行われ、江戸時代末期から明治時代にかけての屋敷の礎石や茶碗等が出土しています。
 江戸時代の関所は、「入鉄砲(いりでっぽう)に出女(でおんな)」と呼ばれるように、武器の通行の監視や、江戸に人質として差し出された諸大名の妻子の国元への逃亡の取り締まりが主な役割でした。栗橋関所では、常時4家の番士が交代で関所に勤務し、これらの任務にあたりました。この当時の業務や日々の出来事は、関所番士の一家である足立家に伝わった日記に詳細に記録されており、これらは現在「栗橋関所日記及び関係資料」として県の有形文化財に指定されています。
 栗橋関所は、明治2年(1869)に廃止されましたが、大正13年(1924)に利根川橋の開通を記念して、近隣の人々によって、「栗橋関所址」碑が建てられ、現在は「栗橋関跡」として県の旧跡に指定されています。
 久喜市栗橋北付近にあった関所跡地は利根川の改修工事により、現在は河川敷内となり、遺構等は残されていません。しかし、前述の足立家や他の関所番士の家に伝わった古文書や絵図等から、関所の構造をある程度知ることができます。現在、郷土資料館にこれらの資料を基にした関所の復元模型が展示されていますので、ぜひご覧ください。
(以上、HPより)

 この付近は、「利根川」の大がかりな治水改修工事が行われ、堤防あるいは河川敷になってしまうようです。そのための発掘調査で、道路右側のように、発掘調査終了後、埋め戻され、永久に地中深くに眠ることになってしまうのかもしれません。北端にある「八坂神社」も移転になるようです。まもなくこの辺りの風景は一変することに。

(昭和23年)
                   ↓

(平成10年)
                   ↓

                   ?(スーパー堤防)
 (jcpkuki.blog.shinobi.jp/Entry/629/より)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小右衛門一里塚。権現堂調整池。・・・(「日光道中」をゆく。その21。)

2016-06-03 22:14:01 | 日光道中
 「追分」を過ぎると、左には青々ととした田圃が広がります。田植えを終えたばかりで、眼にもあざやかな緑が水面に。

       

 (10:30)右手の奥まったところには「吉羽屋酒店」。古風な佇まい。
    
                         かつてよく見かけた集落内の万屋さん的雰囲気。

    
   東武線の特急電車。                      普通電車。

この先でY字路になります。

 この先あたりからは旧道が失われているようで、「国道4号線」につながっていくような雰囲気ですが、ものの本ではここは左に曲がって「雷電社」の裏手を進むようになっているのもあります。
 ただ、1880年頃の地図ではすでに「国道4号線」に吸収され、カーブする道の存在はありません。かつての日光街道は消滅し、維新後(明治13年頃まで)に道路の付け替えで、今の国道に変更済みとも考えられます。旧道はもともと堤の上の道だったようで、その後、高く拡幅・整備され、現在の国道になったようです。したがって、このあたりの国道は周囲より一段と高くなって続いています。

 左の道を進んだら、ぶつかった十字路で右に折れ、国道脇・下の側道を進むのが適当かな、と。もちろん、その道は旧道ではありませんが。実際に歩いてみてそんなふうに感じました。
 そのまま行くと、だんだん田んぼの中の道になってしまい、次の「小右衛門一里塚」の裏手に出てしまう恐れがあります。この先も不明なところが出てきそうです。

    
                                     振り返って望む。左奥に「雷電社」。

 国道下の側道を進むと、「国道4号線」に向かう道路のトンネルが出てきますが、そこを抜けて行きます。
 (10:50)しばらくすると、「弁財天堂」が左手に現れます。ここが「小右衛門一里塚」。江戸・日本橋から13里目。

          

久喜市指定文化財(史跡) 一里塚
 慶長9年(1604)江戸幕府は、大久保長安に命じて東海道・中山道・日光道中・奥州道中・甲州道中の五街道をはじめとして、主要街道に一里塚を築かせた。
 江戸の日本橋を基点として、1里(約4キロ)毎に塚(土盛り)を築き、その上に榎などの木を植えて道のりを表し、伝馬制度に大きな役割を果たしたほか、旅人の休憩所にも利用された。 道中奉行所が作成した「五街道分間延絵図」のうち、日光道中を描いた「日光道中分間延絵図」にも、この一里塚が描かれている。
 この塚は、幸手宿と栗橋宿の中間で小右衛門村にあったものである。
 現在、塚の上には昭和初期に付近から移築されたという弁財天堂が建てられている。
 塚の高さは西側から約2㍍、東側(進路側)は約0.6㍍で、塚の形体と当初の広さを残し、当時の姿を偲ぶことができる。

 平成25年3月21日 久喜市教育委員会 

    
                       向こうに見えるお寺は、「真光寺」。

来た道を振り返って望む。国道は左上に。

 その先で、「工業団地入口」交差点の下をくぐるトンネルがあります。本来はそのまま進むのが正しいのでしょうが、「権現堂調整池(行幸湖)」を見ることができないままになってしまうので、右にある国道下のトンネルをくぐり、左の階段を上って交差点を横断します。

来た道を振り返る。右奥の下から来てトンネルをくぐり、正面の横断歩道を渡る。

(10:59)「権現堂調整池」の土手に出ます。

向かい側は「キューピーマヨネーズ五霞工場」。

上流を望む。

ほとんど流れがなく、穏やか。時折、ジョギングの人たちが通り過ぎるのみ。

対岸は工場が立ち並んでいます。しばし休憩。

(11:14)土手を上がって国道に復帰。「東京まで53㎞」ポスト。

「ROUND1STADIUM」の前を通過し、

東北新幹線のガードをくぐります。

 その先すぐ左手にある「国道4号線」をくぐるトンネルを抜けると、国道の西側に出ます。旧道(らしき道)に復帰です。立派な冠木門のあるおうちがあります。


 側道から国道に合流し、しばらく進むと、左手に「ライブシアター栗橋」が見えてきます。そこを左に折れて行きます。

    

 (11:29)知る人ぞ知るところ。「栗橋大一劇場」と大書されたストリップ劇場。踊り子の写真が掲示されていて、この時間なのに上演中です。カメラマンがしきりに周囲を撮影。って私ではありません、念のため。
 国道の向かい側は「ボートピア栗橋」の建物、その向こうは新幹線の高架。「ボートピア」は、言わずと知れた「競艇場外発売所」。



名残惜しそうに振り返って望む。

しばらくは人通りも少ない静かな道を進みます。

   
    
  1880年代のようす。                   現在のようす。
 旧道は図のように「権現堂川」沿いの小高い土手道になっています。現在の国道4号線は分岐点からまっすぐ北へ延びています。この付近一帯は、治水工事のため河川や道路は大きく変化しています。左にカーブしている道が旧道。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

権現堂堤。筑波道との「追分」。・・・(「日光道中」をゆく。その20。)

2016-06-02 21:37:44 | 日光道中
大きな駐車場のところから堤に上がりました。桜並木が二段になっていて、なかなか見事な遊歩道になっています。

(10:00)桜のシーズンにはさぞかし。

 紫陽花が桜の木の下の土手沿いに植わっています。まだ時期が早いので、チラホラと。これも満開なら見事なことでしょう。
        

                     

散策するにはもってこいのところです。

 権現堂桜堤が築かれたのは16世紀のことでした。昔からこの周辺は多くの川が複雑に交錯する地域で、たびたびの洪水に悩まされていました。特に、渡良瀬川からの大量の水を中川へ運んでいた権現堂川は暴れ川で、ひとたび大規模に決壊すると遠く江戸までが水浸しになったそうです。
 江戸時代、隅田川経由で東京湾へ注いでいた利根川は、大規模な開削工事によって渡良瀬川と合流させ、権現堂川を経て旧江戸川(太日川)から東京湾へ注ぎ込むルートへと変更されました。しかし、権現堂川は利根川の途轍もない水量を捌ききれません。洪水のたびに、何度も何度も高い堤防が作り直され、現在の桜堤ができあがりました。
 その後も利根川の東遷事業は続き、17世紀中ごろ約60年かかって利根川は銚子から太平洋に注ぐことになったのです。しかし、それでも権現堂川には捌ききれない水量が流れていたようで、たびたび水害が起こりました。結局、昭和初年に利根川と中川を結ぶ権現堂川は堰き止められ、「行幸(みゆき)湖」という調整池になりました。
 ・・・
(以上、「」HPより)
このHPにはもっと詳しく写真入りで掲載されています。他の公園探訪もたくさん。大いに公園探訪・散策の参考になります。
www.go2park.net/parks/gongendo.htm

    

権現堂堤案内
 幸手市の北端にある権現堂堤。ここは県東部第一の桜の名所である。大正の中頃には、すでに桜の名所として知られていた。戦時中に伐採されマキに使われてしまったという哀しい過去もあるが、戦後すぐに苗木が植えられ、今では以前にもまして美しい桜並木となっている。
毎年、4月の花見の季節には、桜の花が咲き誇り、花のトンネルをつくる。
 権現堂堤では毎春3月下旬~4月上旬にかけて「桜まつり」を開催しています。

 ※ このコースは往復で約1,700mです。たとえばこのコースを570往復すると、札幌まで走ったことになります。
  (この表だと東京は29往復、鹿児島は880往復となるらしい。)

遊歩道を進み、「行幸橋」方向へ。振り返って望む。 


 出口付近にある「行幸堤之碑」。
    

行幸堤(みゆきづつみ)之碑
 権現堂堤は、権現堂川の水防のために江戸時代になる前に造られた堤です。
 しかし、江戸時代を通じて何回もの洪水を経て、明治時代になって地元から新しい堤防造成の機運が起こり、明治8年6月に着工し、10月にはここから栗橋町小右衛門にかけて旧日光道中に並行した新権現堂堤が完成したのです。(現在は国道4号線がその上を通っています。)
 明治9年6月に、明治天皇が東北巡幸に立ち寄られてその労に感じ入り、この仕事に携わった者の名前を石に刻んで残すように言われ、費用の一部が下賜されました。
 人々は大変恐縮し、是非この堤を行幸堤と呼ばせていただきたいと申し出たところ許可されたということです。
 明治22年の町村制施行によって高須賀村。外国府間村・円藤内村・松石村・千塚村が合併し行幸村となりましたが、その村名もこの行幸堤に由来しています。
 また、この石碑の建っている部分は行幸橋の架け替え工事(平成12年~17年)以前はゆるやかな斜面であったため、石碑自体は歩道の近くにあって国道側を向いていましたが、堤が高くなっために上に移し、見やすいように現在の向きにしたものです。

 幸手市教育委員会 

「国道4号線」に戻ると、「行幸橋」の手前。「東京まで50㎞」ポスト。
                     全行程の約3分の1になります。 
「中川」に架かる「行幸橋」を渡ります。

 「中川」は、江戸時代には利根川として流れていました。「利根川東遷」以降は、「古利根川」と言われています。

    
  上流に東武線の鉄橋。                           権現堂堤方向。

橋を渡り終えたら左折し、さらにすぐ右折します。この道が旧道。

途中の右手には大きな灯籠。

(10:25)その先の道が二手に分かれます。

ここが「日光道中」と「筑波道」との追分。
                     

        

日光街道道しるべ
 この道しるべは、安永4年(1775)日光街道と筑波道が分かれるこの場所に建てられたものです。
 昔の旅人にとって、街道を歩くときのたよりになった大切なものです。
 この道しるべには、次のように刻まれています。
 東 川つま道 まいばやし道(右) 右 津くば道(正面) 左 日光道(左)
 ・・・
 「川つま」は現在の茨城県猿島郡五霞町川妻、また「まいばやし」は茨城県古河市前林のことで、筑波へ行く道順です。
 この道は日光だけでなく、遠く奥州(東北)へも通じていたのです。

 幸手市教育委員会
 


1880(明治13)年頃のようす。→が「追分」。かつては渡し船でした。



現在のようす。→が「追分」。かつての旧道にほぼ沿って新しい道路が出来、橋も架けられています。
(どちらも「歴史的農業環境閲覧システム」より)、
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

これぞまさしくお得意の「ガス抜き」。

2016-06-01 22:36:49 | 世間世界
【消費税増税再延期】自民・小泉進次郎氏「そんなおいしい話に若い人たちはだまされない」 与党了承もくすぶる不満、党会合で批判噴出

 アベ(一派)の筋書き通りにすべて事が運ぶ。
 「増税再延期」は既定路線。問題は、衆参同時選挙に踏み切るかどうか、だけっだった。アベたちのハラはそうだった。  
 ただ、内閣支持率の上向きで参院選では「圧勝」する、そうすれば衆参とも三分の二は確保できる、というヨミに変わったのだろう。
 「おおさか維新の会」はすでに手中に収めた。党内の不平分子だって、言いたいことを言わせて、どうせ後は随うに決まっている。アベの後ろにいる恐い方々がにらみをきかせるから。

 公明は論外。選挙マシーンにすぎない学会員。無理難題をふっかけてもくっついてくるに違いないのだから。
 ただ、学会は同時選挙には猛反対、ここで恩を売っておけばいい、のだ。さらに、「おおさか維新の会」が民進党などを蹴落とせば、こっちの方が得策。あげく馬を乗り換えられては、切られては、かなわない、そうされるのを恐れている連中にすぎない、とハナから馬鹿にしている。

 こうしてすべてがアベの発言のままに進行する。しかし、あの男、実はのっぺらぼうの御仁。そんな知恵・才覚はないはず。裏で操っている者がいるに違いない。「日本会議」? それとも、・・・。

 残るは都知事選とのダブル選挙に持ち込むかどうか。
 舛添を下ろして、橋下を立てる方向を模索しているのではないか。そうすれば、「おおさか維新の会」も参院選で伸びる。すでに、「おおさか維新の会」は、有名人、元長野県知事・田中康夫を参院選・東京選挙区から出馬させる算段。あわよくば、橋下、田中の二枚看板で圧勝を目論む。これには、自民・公明も乗ってくるに間違いない。さっそく「おおさか維新の会」は自民党に秋波を送る。ただ、したたかな舛添さん、「不信任案」が通ったら、議会解散の手に打って出るかも知れない、それは困る! てなやりとりがありそう。はてさて。

 すべてが党利党略の駆け引き。財政問題、社会保障問題などそっちのけ。またしても、国民(都民)はころっと騙される。おそらく参院選、都知事選の投票率は、最低を更新するだろう。

 という予想が外れてくれればいいが。
 
まさに何の影響もない、床屋談義の「おやじのつぶやき」与太話(自虐的)でした。

ガス‐ぬき

[名](スル)
1 炭坑などで、ガス爆発やガス突出を防止するため、メタンガスを含む炭層・岩盤に多数の穴をあけ、ガスを除去すること。
2 不満や精神的なストレスなどがたまったとき、それが噴き出す前になんらかの方法で解消すること。


 しかし、国民はどうやって「ガス抜き」すればいいのでしょうか?
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする