6月4日(土)。晴れ後薄曇り。
7月までに何とか「日光道中」を制覇しようと思い、しゃかりに出かけています。ただ梅雨入り。そうタイミングよく出かけられるか?
今回は、古河宿から小金井宿までの行程。約4万歩歩きました。距離はそれほどではありませんでしたが。
(8:53)古河駅から日光道中に復帰して、まず「史蹟 古河城下高札場址」碑。
高札場と本陣
日光街道の宿場町としての古河宿の中心は、もと二丁目とよんだこの辺であった。文化4年(1807)の古地図によると、高札場がこの場所にあり、斜め向かいに本陣と、問屋のうちの一軒があり、またその向かい側に脇本陣が二軒並んで描かれている。
高札場は、親を大切にとか、商いは正直にとか、キリシタンは禁止だとかいった幕府の法令や犯人の罪状などを掲げたところである。
本陣と、その補助をする脇本陣は、合戦のとき大将の陣どるところに由来して、大名・旗本をはじめ幕府機関の高級役人・公卿・僧侶などの宿泊・休憩所で、古河の本陣は117・5坪(約400平方メートル)もあった。どこの宿でも最高の格式を誇っていたが、経営は大変であったといい、古河の脇本陣はのち他家に移っている。
問屋は、人足25人、馬25匹を常備し、不足の場合は近村の応援を得たり人馬を雇ったりして、この宿を通行する旅人や荷物の運搬一切をとりしきった宿場役人のことで、他にも3~4軒あって、交代で事にあたっていた。
街道沿いの宿町は、南から原町、台町、一丁目、二丁目(曲の手二丁目)、横町(野木町)と続き、道巾は5間4尺(約10メートル)ほど、延長17町55間(約1850メートル)余あり、旅籠や茶店が軒を並べ、飯盛女(遊女の一種)がことのほか多い町だったという。
平成元年3月 古河市教育委員会
通りをはさんだ向かい側には「古河城下本陣址」碑。
そこから宿内をかえりみる。
本格的に歩き出します。行灯風のモニュメント。
智の大老 土井利勝
土井利勝(1573~1644)は、江戸幕府初期における最大の実力者にして16万石の古河藩主である。後の2代将軍、徳川秀忠の誕生と同時に近習となり、年寄(老中)として常に政権の中枢にあった。秀忠没後は、家光政権下で大老に就任、引き続き幕政を支えている。
組織の未熟な江戸初期の幕府にあって、利勝が取り扱った事項はきわめて多く、その活動ぶりから知謀の人と称された。高い政治力・行政能力を有する利勝のもとに権力・権限が集中するのは当然であるとしても、その影響力の大きさから利勝が徳川家康の御落胤であるという説まで囁かれていたという。また、古河藩主としては古河の城と町を大規模に拡幅整備、天守に相当する「御三階櫓」を建造した。近世城下町「古河」の完成にも貢献したのである。
永井直勝 古河の町並み整備のさきがけ
江戸時代、日光道中を行き交う旅人たちが、往還随一と絶賛するものに、古河藩領の道沿いに植えられた松並の景観があげられる。その美観を生み出したのは、江戸初期の古河藩主、永井直勝(1563~1625)であった。元和8年(1622)、7万2千石の古河城主となった直勝は、同3年、神君徳川家康の日光改葬に伴う交通量の増大に備えて、古河城及び城下を通る日光道中の整備を急速に行っている。領内の街道沿いに松を植樹、また、古河城御成門を築造するなど、現代風にいえば、直勝はその後たび重なる将軍の日光社参で大勢の人々を受容するにふさわしい町並み・景観造りを果たした。
なお伝存する人差し指の描かれない肖像画は、小牧長久手の戦いで敵将の池田恒興を討ち取るときに負ったとされる傷をとおして、彼の武功を如実に表現している。文武に秀で、家康に重用された好男子、永井直勝。市内の永井寺に現存するその墓は、林羅山の頌徳碑と並び、家康に足を向けぬように日光に北面して建てられている。
この交差点を左に曲がります。と、その右手の角に「道標」。
日光街道古河宿道標
寛永13年(1636)に徳川家康をまつる日光東照宮が完成し、江戸と日光を結ぶ日光街道が整備された。その途中にある古河宿は、日光社参などの往来でひときわ賑わうようになった。
日光街道は、江戸から古河に至り、二丁目で突き当たり、左が日光道、右が筑波道と分岐するように作られた。その分岐点に、人々の往来の助けにと建てられたのがこの道標である。
この道標は文久元年(1861)に太田屋詮六が願主となり、八百屋議左衛門ほか11名によって建てられたもので、常夜灯形式の道標として貴重なものである。文字は小山霞外・梧同・選堂という父・子・孫3人の書家の揮毫である。
平成20年1月 古河市教育委員会
この道をしばらく進み、次の交差点で右折します。枡形になっています。
「よこまち柳通り」。
この沿道には古いおうちがいくつかあります。川魚料理・うなぎの「武蔵屋」。
さらに、
「大和屋薬局」。
宿場の出口付近。左手には「本成寺」。
旧国道4号線(県道261号)に合流します。角には大きな「常夜燈」。
(9:15)振り返って宿内を望む。
(9:26)現国道4号線に合流する手前、右手には「塩滑地蔵」。少し奥まったところにあります。
塩滑地蔵は自分の具合の悪いところに塩を塗ると治るということで、治ったお礼に塩を奉納するらしい。
「松並」という地名が。この辺りも松並木があったようです。
1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。○が日光道と筑波道の分岐。→が松並木が続く旧道。。
(9:33)しばらく進むと、野木交差点で現在の国道4号線に合流します。そこに、「野木町煉瓦窯」の大きな案内板があります。
旧下野煉化製造会社煉瓦窯(国指定文化財)【通称:野木町煉瓦窯】
かつて野木町の近代産業を支えた旧下野煉化製造会社の工場の一部。国の重要文化財に指定されている煉瓦窯は、「ホフマン式円形輪窯」といい、明治23年に作られました。
現存するものの中で唯一完全な形を保っている貴重な産業遺物です。
外形は16角形、高さ約34メートル、周囲は約100メートル。
明治23年から昭和46年までの約80年間、多いときで月408,000本もの赤レンガを焼き上げました。
ここで製造された赤煉瓦は東京駅舎の一部に使用された他、日光金谷ホテルにも用いられましたそうです。
この手前辺りで、茨城県から栃木県に入りますが、特に県境の標識は気づきませんでした。
7月までに何とか「日光道中」を制覇しようと思い、しゃかりに出かけています。ただ梅雨入り。そうタイミングよく出かけられるか?
今回は、古河宿から小金井宿までの行程。約4万歩歩きました。距離はそれほどではありませんでしたが。
(8:53)古河駅から日光道中に復帰して、まず「史蹟 古河城下高札場址」碑。
高札場と本陣
日光街道の宿場町としての古河宿の中心は、もと二丁目とよんだこの辺であった。文化4年(1807)の古地図によると、高札場がこの場所にあり、斜め向かいに本陣と、問屋のうちの一軒があり、またその向かい側に脇本陣が二軒並んで描かれている。
高札場は、親を大切にとか、商いは正直にとか、キリシタンは禁止だとかいった幕府の法令や犯人の罪状などを掲げたところである。
本陣と、その補助をする脇本陣は、合戦のとき大将の陣どるところに由来して、大名・旗本をはじめ幕府機関の高級役人・公卿・僧侶などの宿泊・休憩所で、古河の本陣は117・5坪(約400平方メートル)もあった。どこの宿でも最高の格式を誇っていたが、経営は大変であったといい、古河の脇本陣はのち他家に移っている。
問屋は、人足25人、馬25匹を常備し、不足の場合は近村の応援を得たり人馬を雇ったりして、この宿を通行する旅人や荷物の運搬一切をとりしきった宿場役人のことで、他にも3~4軒あって、交代で事にあたっていた。
街道沿いの宿町は、南から原町、台町、一丁目、二丁目(曲の手二丁目)、横町(野木町)と続き、道巾は5間4尺(約10メートル)ほど、延長17町55間(約1850メートル)余あり、旅籠や茶店が軒を並べ、飯盛女(遊女の一種)がことのほか多い町だったという。
平成元年3月 古河市教育委員会
通りをはさんだ向かい側には「古河城下本陣址」碑。
そこから宿内をかえりみる。
本格的に歩き出します。行灯風のモニュメント。
智の大老 土井利勝
土井利勝(1573~1644)は、江戸幕府初期における最大の実力者にして16万石の古河藩主である。後の2代将軍、徳川秀忠の誕生と同時に近習となり、年寄(老中)として常に政権の中枢にあった。秀忠没後は、家光政権下で大老に就任、引き続き幕政を支えている。
組織の未熟な江戸初期の幕府にあって、利勝が取り扱った事項はきわめて多く、その活動ぶりから知謀の人と称された。高い政治力・行政能力を有する利勝のもとに権力・権限が集中するのは当然であるとしても、その影響力の大きさから利勝が徳川家康の御落胤であるという説まで囁かれていたという。また、古河藩主としては古河の城と町を大規模に拡幅整備、天守に相当する「御三階櫓」を建造した。近世城下町「古河」の完成にも貢献したのである。
永井直勝 古河の町並み整備のさきがけ
江戸時代、日光道中を行き交う旅人たちが、往還随一と絶賛するものに、古河藩領の道沿いに植えられた松並の景観があげられる。その美観を生み出したのは、江戸初期の古河藩主、永井直勝(1563~1625)であった。元和8年(1622)、7万2千石の古河城主となった直勝は、同3年、神君徳川家康の日光改葬に伴う交通量の増大に備えて、古河城及び城下を通る日光道中の整備を急速に行っている。領内の街道沿いに松を植樹、また、古河城御成門を築造するなど、現代風にいえば、直勝はその後たび重なる将軍の日光社参で大勢の人々を受容するにふさわしい町並み・景観造りを果たした。
なお伝存する人差し指の描かれない肖像画は、小牧長久手の戦いで敵将の池田恒興を討ち取るときに負ったとされる傷をとおして、彼の武功を如実に表現している。文武に秀で、家康に重用された好男子、永井直勝。市内の永井寺に現存するその墓は、林羅山の頌徳碑と並び、家康に足を向けぬように日光に北面して建てられている。
この交差点を左に曲がります。と、その右手の角に「道標」。
日光街道古河宿道標
寛永13年(1636)に徳川家康をまつる日光東照宮が完成し、江戸と日光を結ぶ日光街道が整備された。その途中にある古河宿は、日光社参などの往来でひときわ賑わうようになった。
日光街道は、江戸から古河に至り、二丁目で突き当たり、左が日光道、右が筑波道と分岐するように作られた。その分岐点に、人々の往来の助けにと建てられたのがこの道標である。
この道標は文久元年(1861)に太田屋詮六が願主となり、八百屋議左衛門ほか11名によって建てられたもので、常夜灯形式の道標として貴重なものである。文字は小山霞外・梧同・選堂という父・子・孫3人の書家の揮毫である。
平成20年1月 古河市教育委員会
この道をしばらく進み、次の交差点で右折します。枡形になっています。
「よこまち柳通り」。
この沿道には古いおうちがいくつかあります。川魚料理・うなぎの「武蔵屋」。
さらに、
「大和屋薬局」。
宿場の出口付近。左手には「本成寺」。
旧国道4号線(県道261号)に合流します。角には大きな「常夜燈」。
(9:15)振り返って宿内を望む。
(9:26)現国道4号線に合流する手前、右手には「塩滑地蔵」。少し奥まったところにあります。
塩滑地蔵は自分の具合の悪いところに塩を塗ると治るということで、治ったお礼に塩を奉納するらしい。
「松並」という地名が。この辺りも松並木があったようです。
1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。○が日光道と筑波道の分岐。→が松並木が続く旧道。。
(9:33)しばらく進むと、野木交差点で現在の国道4号線に合流します。そこに、「野木町煉瓦窯」の大きな案内板があります。
旧下野煉化製造会社煉瓦窯(国指定文化財)【通称:野木町煉瓦窯】
かつて野木町の近代産業を支えた旧下野煉化製造会社の工場の一部。国の重要文化財に指定されている煉瓦窯は、「ホフマン式円形輪窯」といい、明治23年に作られました。
現存するものの中で唯一完全な形を保っている貴重な産業遺物です。
外形は16角形、高さ約34メートル、周囲は約100メートル。
明治23年から昭和46年までの約80年間、多いときで月408,000本もの赤レンガを焼き上げました。
ここで製造された赤煉瓦は東京駅舎の一部に使用された他、日光金谷ホテルにも用いられましたそうです。
この手前辺りで、茨城県から栃木県に入りますが、特に県境の標識は気づきませんでした。