おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

「武蔵水路」水門。吹上飛行場。中山道。荒川西遷。久下橋。熊谷堤。(「荒川」を遡る。総集編。その6。)

2021-07-04 18:31:37 | 荒川を遡る

「荒川左岸 62.0K」。

堤防の斜面には、菜の花がいっぱい。

前方左に「糠田橋」が見えてきます。               

「糠田橋」。

堤防に上がります。

サクラと菜の花の見事な共演。

その先、「武蔵水路」水門から荒川本流方向を。

解説板。

河川敷側。新緑の木々がすばらしい。

軽飛行機の姿が。 

  河川敷には「吹上飛行場」。

 

注:写真は、4月3日のもの。

河川敷に広がるお花畑。春はポピーや麦ナデシコ、秋は約1200万本のコスモスが咲く。秩父連山や富士山を遠くに望むことができるそうです。

吹上コスモス畑(「Googleマップ」より)      

荒川水管橋」。

 

その先には「大芦橋」が。

「荒川パノラマ公園」。 

「海まで70k」ポスト。

まもなく鴻巣・吹上を通ってきた「旧中山道」が右手から近づいてきます。

土手下に「権八地蔵」(↓)。右手奥から来る道が「旧中山道」。

中山道は下の道になります。

現在の土手は改修され、かさ上げされています。おそらく旧中山道はかつての土手の高さ。

「決壊の跡」碑。

                

1947(昭和22)年9月、カスリーン(キャサリン)台風による堤防決壊の記念碑。

2019年(令和元年)10月の台風19号によって、荒川流域は録的な大雨となり、甚大な被害をもたらしました。治水との戦いはまだまだ続きます。

「旧中山道」沿いにあたる「ライオンズマンション」2棟。

 

馬頭観音(↓)                   中山道一里塚跡(↓)

「旧中山道」はこの先で、堤防から離れて行きます。

輪型の碑(久下堤の碑)」(↓)。

 

荒川の河川敷にあり、荒川の近代改修によって分断され、その後廃村になった旧・新川村(しんかわむら)。

        


 1880年代の「新川村」のようす。河岸には集落や船着場もあります。右上をかすめているのが、「中山道」(久下の長土手)。

荒川の右岸、左岸の河川敷には、旧・新川村(しんかわ)の墓地が残ていて、今もご先祖の供養に訪れる人が多いという。また、河川敷には墓地以外にも、新川村上分(かみぶん)の屋敷森と土砂に半分埋まった三島神社の鳥居が残っているそうです。

久下の集落方向。旧中山道はこの地域を進みます。

「海まで73.0㎞」ポスト。

「久下橋」。

 

 ここに「思いやり橋」と呼ばれた久下冠水橋がありました。
 春は菜の花、秋にはススキを見ながら、人も自転車も車ものどかに渡りました。車一台やっと通れる橋、車は対岸を確かめ、あうんの呼吸で渡りました。

この付近に「旧久下橋(冠水橋)」があったか? 

この解説板がある付近は、旧中山道沿いになっているようです。土手下には「権八地蔵」や「道標」があります。

    元禄11年(1698)に造立された地蔵。江戸時代に平井権八が罪を犯し、お地蔵様に向かって「誰にも言うな」と明かしたところ、「我は言わぬが、汝こそ言うな。」と答えたという逸話で知られています。

「中山道」はこの先、すぐに土手を下って「みかりや」(中山道を往来する旅人相手の茶店で、「しがらきごぼうに久下ゆべし」のことばがある通り、「柚餅子」が名物だったのだろう。また、忍藩の殿様が鷹狩りに来ると、ここで休んだので、「御狩屋」と呼ばれたという)跡を過ぎ、「熊谷宿」の方へ進んで行きます。

現在の荒川の流路は、江戸時代初期に行われた土木事業によってその原型が形づくられました。江戸時代以前の荒川は、元荒川筋を流れ、越谷付近で当時の利根川(古利根川)に合流していました。
 後世「荒川の西遷(せいせん)」と呼ばれるこの河川改修事業は、埼玉平野の東部を洪水から守り新田開発を促進すること、熊谷・行田などの古い水田地帯を守ること、木材を運ぶ舟運の開発、中山道の交通確保、さらに江戸の洪水の防御などを目的にしていたと言われています。これにより埼玉東部低湿地は穀倉地帯に生まれ変わり、また、舟運による物資の大量輸送は大都市・江戸の繁栄を支え、江戸の発展は後背地の村々の暮らしを向上させていきました。

流路の付け替え前。

    流路の付け替え後。

(この項、「」HPより)

桜が満開の「熊谷堤」。

見事な桜並木。

4月3日(土)。おおぜい見物に来ています。

             

圧巻の景色。

 「荒川左岸 76.0K」。

         花びらの絨毯。

この日は、印象深い歩きでした。

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平方河岸。「冠水橋」。ホンダ エアポート。榎本牧場。御成橋。川幅日本一。(「荒川」を遡る。総集編。その5。)

2021-07-03 18:43:20 | 荒川を遡る

これから上流を目指して歩き始めます。「海まで44㎞」ポスト。

「上江橋」をくぐります。関東をぐるりと回る幹線道路の「国道16号線」にここでお目にかかりました。

右下は指扇の街並み。畑もあってのどかな風景。

横堤。                

周囲に田畑が広がる農道を進みます。

 その先に「開平橋」。

橋の下は、すぐ荒川の流れ。

「手打うどん 川岸屋」の看板と向こうにお店。

1年前に廃業したようです。自販機も撤去されています。

「開平橋」。ここには「平方河岸」がありました。

 「西野(にしや・にしの)橋」。荒川本流上に架かる冠水橋(潜水橋)。

※「冠水橋」=洪水時には橋面が水面下になる橋をいう。「沈下橋」。 この先、上流にいくつか架橋されている。

集落を抜けて再び土手に。その先に四阿(「アッピーお休み処」)。

階段を下りて左手へ。

 広々とした牧草地。

軽飛行機が大空を。この先、対岸にある「ホンダ エアポート」から飛び立った飛行機か?

           

「畔吉(あぜよし)の渡場跡」解説板。

川べりの草原。

この先には、牧場が。

榎本牧場」。牛がのんびりと。

この先ものんびりと歩きます。

左折すると、冠水橋の「樋詰(ひのつめ)橋」に。

                

荒川の増水時は欄干が撤去され、通行止めとなることがあります。欄干の着脱は管理要員として年間委託された近隣住民が行なっているようです。

対岸の「ホンダエアポート」。

    

遠くに「太郎右衛門橋」。

太郎右衛門橋

この場所には橋ができる前には私設の渡し場があり、その運営者の名前が後の木製の橋(板橋)の名前となった

 かつて「荒川」には木製の冠水橋がたくさん架かっていました。現存する冠水橋は、少なくなりましたが。

行く手に「圏央道」の橋脚が見えてきます。

その手前、右手が「原山古墳群」。 

駐車場には車がいっぱい、移動販売車もいくつか。賑やかな雰囲気に。「城ヶ谷堤(桜土手)」に。

サクラの下にレジャーシートを敷き、飲食を楽しむ。

「横田薬師堂」脇から再び河川敷へ。

続いて「荒井橋」にさしかかります。

    

「荒井橋」際にある「土地改良記念碑」。右手には、昭和15年(1940)に建てられた「荒井橋記念碑」がある。

「北本水辺プラザ」。下流方向。

上流方向。

高尾橋幅員1.9m。

荒川は昔、旧高尾村(現北本市高尾地区)の西にある「旧荒川」の流路が本流だった。蛇行していた部分で、氾濫を繰り返していたため、昭和初期に行われた荒川の河川改修による流路変更によって直線化された捷水路に付け替えられたことにより、荒川に分断された高尾地区の旧荒川との間に取り残された農耕地を結ぶ橋である。

「御成橋」に向かって進みます。 

広大な農地。            

荒川河川敷へのゴミの不法投棄防止と「花のまちこうのす」をアピールする事を目的として、約125,000平方メートルの敷地に約3,000万本が栽培されている日本一広いポピー畑。
 花の見頃となる5月には、市内外から多くの方が訪れる花の名所となっている。

左折すると、冠水橋の「原馬室(はらまむろ)橋」。

2001(平成13)年9月の台風で先代の橋が流出し、2002(平成14)年に復旧。上流側に大きな鋼製の流木よけがある。荒川右岸側の比企郡吉見町蓮沼新田と左岸側の鴻巣市原馬室とを結ぶ。

「川歩き」はここまで。JR「鴻巣駅」を目指します。

「御成橋」。

徳川家康が当地へたびたび鷹狩りに訪れ、荒川を渡る際に渡船場に臨時に設けられた舟橋に付けられた名前に因む。近くの鴻巣宿には、徳川家ゆかりの寺院である勝願寺がある。

「川幅日本一」の標。「2537m 荒川」。            

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半夏生。半夏雨。そして、雨に煙るスカイツリー。

2021-07-02 20:10:03 | 世間世界

               「東京スカイツリー」。

今日7月2日は『半夏生(はんげしょう)』、雑節七十二候の一つです。

半夏とは烏柄杓(からすびしゃく)という植物の別名で、この毒草が生ずる時期という意味です。

農家にとっては大事な節目の日で、この日までに「畑仕事を終える」「水稲の田植えを終える」目安で、この日から5日間は休みとする地方もある。この日は天から毒気が降ると言われ、井戸に蓋をして毒気を防いだり、この日に採った野菜は食べてはいけないとされたりした。


この日に降る雨を半夏雨(はんげあめ)と言い、この雨が降ると大雨が続くと信じられていました。

3日(土)午前9時の予想天気図(「気象協会」)。

前線に向かって暖かく湿った空気が流れ込むため、大気の状態が非常に不安定となり、前線の活動の活発な状態が続きそうだ。

ところで、「半夏生」の期間中、

・近畿地方の一部地域ではを食べる習慣があり、近畿地方各地の小売店が盛んに販売促進活動を展開しています。たこ焼きをはじめタコのお好み焼・焼きそば、唐揚、タコ天うどんなどを促進する「蛸半夏生キャンペーン」など、あり。

・讃岐の農村ではうどんを食べる習慣があり、1980年に香川県製麺事業協同組合が7月2日を「うどんの日」に制定しています。

地域によってさまざまな風習があるようです。

カラスビシャク(烏柄杓)

サトイモ科の植物の一種で、乾燥させた根茎は半夏(はんげ)の名で知られる漢方薬。花は小型の仏炎苞で、ひものような付属体が上部に伸びるのが特徴。

和名の由来は、仏炎苞とよばれる花の独特の形状が、役に立たないという意味でカラスが使う柄杓に見立てられて名付けられている。別名は、ハンゲ(半夏)。日本の地方により、ヒャクショウナカセ(百姓泣かせ:鹿児島県)、カラスノオキュウ(烏のお灸:群馬県)の方言名でも呼ばれている

半日陰から日当たりの良い山地の道端地、川原花壇の中などに自生し、抜き取っても根茎は地下に残るために根絶は困難で、畑の害草として知られる。(「Wikipedia」参照)

注:「半夏」に当てはまる植物には別の説もあります。

今朝のスカイツリー。

          

けっこう激しい雨でした。

7月7日(水)は、二十四節気のうち「小暑」。その先。太平洋高気圧がせり出して、梅雨前線が北上して消滅すれば、いよいよ本格的な夏の暑さ。

そして、オリンピックが始まり、休日になる22日(木)が「大暑」。

「オリンピック」「コロナ」。はたしてどうなることやら、・・・。

午後4時過ぎの「スカイツリー」。雨に煙っています。

  

 

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田島ヶ原サクラソウ自生地。治水橋。モーターパラグライダー。そしてドイツビール。(「荒川」を遡る。総集編。その4。)

2021-07-01 19:38:53 | 荒川を遡る

「国指定天然記念物 田島ヶ原サクラソウ自生地」。

 

                                                                                   

一面、広大な敷地。

遠くに「さくらそう水門」。一面、ノウルシの花。その間にちらほらとさくら草が可憐な花を咲かせています。

・・・かつて荒川流域にあった多くのサクラソウ自生地が、開発などで失われた今日、大都市近郊に往時の姿を留めて残っていることは奇跡ともいえます。また、江戸時代には荒川流域のサクラソウを原種として、多彩な園芸品種が育てられました。その遺伝情報を田島ケ原のサクラソウは保持しているのです。以上の理由で、「田島ケ原サクラソウ自生地」は、世界的にも貴重な存在となっています。

唯一の国指定特別天然記念物。サクラソウ、ノウルシの他、さまざまな草花が咲き乱れるようです。

奥の方にサクラソウ。一面、「ノウルシ」。

                

野焼き。

3/24サクラソウ。

(「」HPより)          

名残惜しいですが、上流に向かって出発。

「秋ヶ瀬橋」。

    「羽根倉橋」までけっこう長く続く公園。

左奥に荒川本体の堤防。工事中の区間。

  木立が続く。

「羽根倉橋」の先、サイクリングロードを進みます。上空に、モーターパラグライダーのエンジン音が。

     悠々と大空を。

左はゴルフ場。

その先、大きく広がる田畑。

ラジコン飛行機の手入れしている人たち。

大宮けんぽグラウンド」。

遠くに「治水(じすい)橋」。

荒川が現在の位置を通るようになったのは1926年大正15年)5月17日のことである。明治時代から続いた河川改修の一環で、直線化で取り残された旧川の曲線部はびん沼(今のびん沼川)となり、新しい川には渡船場が置かれ有料の賃渡船が運行されたが1927年(昭和2年)に県営化された。渡船場は「馬宮の渡し」と呼ばれ、治水橋とほぼ同じ場所に位置していた(「Wikipedia」より

                                                                          2010年代のようす。蛇行している川が元の荒川の流れ(「びん沼(川)」。左下の流れは、「新河岸川」。中央の橋が「治水橋」。(「歴史的農業環境システム」より)

「治水橋」に関わることを紹介。(以下、「荒川上流河川事務所」HPより)

びん沼は、荒川の河川改修で取り残された旧荒川の一部です。荒川の河川改修は大正期から1945(昭和20)年代にかけて、洪水対策として蛇行していた川筋を直線化する形で実施されました。そして、その河川改修、治水事業を推進したのは、旧荒川(びん沼)のほとりに実家のあった斎藤祐美です。

斎藤祐美(さいとうゆうび・1866(慶応2)~1943(昭和18)年)

・・・
利根川・荒川の両河川の洪水にしばしば見舞われていた埼玉県では、1910(明治43)年の大水害を期に埼玉治水会が結成されました。斎藤祐美は両河川の改修を県議会活動を通じて埼玉県だけでなく、帝都・東京府や国をも動かし、特に荒川の直線化・拡幅および放水路建設等の推進に中心となって尽力をつくしました。
斎藤祐美は「治水翁」呼ばれ、荒川に架かる治水橋(治水翁に因む)のたもとには功績をたたえる彰功碑が建っています。

「治水橋」。荒川を越す橋脚はどこも見上げるほど高い。

サイクリングロード。

  この先を右に下って行くと、JR「指扇」駅に。

さて、今日は、ドイツビールを飲むことにします。

        

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