おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

東武線栗橋駅~羽生駅。その6。河川敷工事。「東北自動車道」。「利根川自転車道」。(「利根川を歩く」2回目。)

2021-10-15 23:05:38 | 利根川を歩く

                 広々とした舗装道路。

歩く人も無く、若者が競技用の自転車のトレーニングでしょうか、ものすごいスピードで行ったり来たりしています。

左手の土手は芝生養生中で「立入禁止」、右手の河川敷では工事の車が。

対岸は、「谷田川排水機場」の水門。群馬県邑楽郡板倉町になります。

(「Googleマップ」より)

この付近から「利根川」は大きく左にカーブし、南西に向きを変えます。

整備済みの舗装道路も終わり、かつての未舗装の土手道に。

河川敷の工事はかなり大がかりです。

左手はフェンスが続き、下りることができません。この道路も本当は「立入禁止」?

前方に「東北自動車道」の橋梁(「利根川橋」)が見えてきます。「144.0㎞」ポスト。

この先は進めず、土手下に下りて迂回します。

来た道を振り返る。

「東北自動車道」橋梁下。

この付近の今昔。

                  1880年代のようす。

                  2010年代のようす。中央が「東北自動車道」。この先、北に「館林IC」。

再び土手に上がります。

      

「利根川自転車道」。

手つかずのところも。

しかし、左の土手下では。

「146㎞」ポスト。

河川敷ではラジコン飛行機を飛ばしています。

「東武伊勢崎線」の鉄橋が見えてきます。

 

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東武線栗橋駅~羽生駅。その5。羽生滑空場。羽生スカイスポーツ公園。(「利根川を歩く」2回目。)

2021-10-14 20:14:16 | 利根川を歩く

東武伊勢崎線・加須駅からコミュティバスで再び「加須未来館」まで。そこから歩きを再開。曇り空の一日。

遠くの山々も霞んで見えません。

土手上の道では、おおがかりな工事が進められているため、右手の河川敷側に下ります(本当は「立入禁止」)。

ただし、土曜日のため工事はしていませんでしたが。

ツーリングの二人連れ、この先、上流方向へ行こうとして断念。大きく迂回するようです。

一直線の道路が続きます。行き交う車も自転車も通行人もいません。

            

来た道を振り返る。遠くに「埼玉大橋」。

利根川の水面は見えず。

                   草木が生い茂っています。

左手の舗装された道路を土手上に。

そこに「飛行機の横断あり注意!」の標識。?? 

・・・

              

羽生ソアリングクラブは、スカイスポーツの振興と地域の発展に寄与することを目的として設立されたNPO法人(特定非営利活動法人)です。

グライダー(滑空機)、モーターグライダー(動力滑空機)による飛行活動を通じて、健全な社会性と協調性を育むとともに、地域住民との交流やイベントへの積極的な参加により、地域の活性化に貢献しています。

羽生ソアリングクラブの活動拠点は、埼玉県羽生市の羽生滑空場です。 羽生滑空場は、羽生市の北東、利根川の右岸河川敷に位置し、周辺に高圧線などの障害物件が少なく、年間を通じて良好な上昇気流が得られるなど、関東でも有数の好条件を備えた滑空場です。

羽生滑空場の8km北には板倉滑空場、8km南西には栗橋滑空場(読売加須滑空場)、17km西には妻沼滑空場があります。 適度な距離を置いて他の滑空場が存在することも、飛行の安全性を高めています。

東北自動車道羽生インターから車で約10分と近く、土手の上には羽生市スカイスポーツ公園があって駐車場も整備されています。 会員はもちろん、一般の方々も天気の良い日には数多く見学に訪れます。

(この項、「」HPより)

右手の河川敷が「羽生滑空場」。今日は一機も飛んでいません。残念!

        

左手に格納庫がいくつか。

そのすぐ先に「羽生スカイスポーツ公園」。高さと長さがある滑り台。親子連れが楽しんでいます。

       

「羽生スカイスポーツ公園」は、利根川サイクリングロードに隣接し(加須未来館から片道4km)、建設が進む利根川のスーパー堤防の上にあります。・・・他には、つり橋やトランポリンなどの遊具と四阿、自衛隊のT-3型初等練習機、芝生広場、などがあります。

公園前の河川敷はグライダーの滑走路になっているので、休日の晴れた日には地元のスカイスポーツクラブ(NPO法人 羽生ソアリングクラブ)がグライダー等で飛ぶ姿を見ることができます。

「羽生スカイスポーツ公園」は総敷地面積約4.8haほど。 公園のある羽生市の常木地区は「羽生ソアリングクラブ」が利用する滑走路があるなどスカイスポーツと関係が深いこともあって、飛行機をコンセプトに整備された公園のようです。

(この項、「」HPより)

この付近は、整備された道路になっています。

利根川の水面が遠くに。

                                          2010年代のようす。

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東武線栗橋駅~羽生駅。その4。「加須(かぞ)未来館」。コスモス畑。(「利根川を歩く」1回目。)

2021-10-13 20:34:57 | 利根川を歩く

                   先に進みます。「海から135㎞」ポスト。

       

              眼下にひろがる田園風景。

対岸遠くには「男体山」(↓)。

上流に「埼玉大橋」が見えてきましたが、その付近も工事中のため、近づけません。いったん土手下に降りて、迂回します。橋をくぐる道も、歩く先々で「立入禁止」。結局、行ったり来たりして「埼玉大橋」を過ぎてしまいます。

右奥に「埼玉大橋」。

(「Googleマップ」より)

加須未来館(かぞみらいかん)」が行く手に見えてきました。そこにたどり着くにも一苦労。

外観がすてきな建物。

      

加須未来館 夢をはぐくみ未来を創造する施設

 加須未来館は、美しい農村景観と豊かな自然環境のもとで、地域の活性化を図るグリーン・ツーリズムの推進と、子ども達が楽しみながら宇宙への夢を育み未来を創造する施設です。

 館内の施設は、宇宙や科学への体験ができるプラネタリウムや天体観測室、各体験施設等と、地域の農産物や特産品などを使ったレストランや直売所等がご利用いただけます。

 加須未来館では、「世界初」の単眼式超高解像度8K対応型デジタルプラネタリウムを導入しました。

  最新の技術による迫力のある映像と臨場感あふれる音響にて、今まで体感したことのないようなドーム全天周に広がる美しい星空と、リアルで迫力のある宇宙や科学の番組をお楽しみください。

       

(この項、「」HPより)

地元野菜などの物産展も開かれていて、けっこうたくさんの方が来館しています。プラネタリウムも人気のようです。

         

もう2時過ぎ。土手を上ったり下ったりで疲れた! これから先は次回ということで、ここから加須(かぞ)市のコミュニティバスに乗って(200円)、加須駅に向かうことに。

ここのもう一つの魅力は「コスモス畑」。休耕田を利用してのけっこう大きなコスモス畑がちょうど見頃です。

 

色とりどりのコスモス。

     

 

コスモスは、加須市の「市の花」だそうです。バスを待つ時間、しばしの鑑賞。

ところで、10月8日は二十四節気のうち「寒露(かんろ)」10月8日〜10月22日頃

夜が長くなり、露がつめたく感じられるころ。朝晩は少し冷え込み、日中は秋晴れの過ごしやすい日が多くなる。夜空を見上げると、美しく輝く月が見られます。

「七十二侯」ですと、

・初侯 10月8日〜10月12日頃 鴻雁来(こうがんきたる)

ツバメと入れ違いに雁が北から渡ってくる頃。雁は日本で冬を過ごし、暖かい春になるとシベリアの方へ帰っていきます。毎年、初めに訪れる雁を「初雁(はつかり)」と呼びます。
・次侯 10月13日〜10月17日頃 菊花開(きくのはなひらく)

菊の花がさく頃。各地で、菊の展示や菊まつり、品評会が行われます。菊には不老長寿の薬効があるとされ、旧暦9月9日の重陽の節句には、菊の花を酒に浮かべた菊花酒を飲む風習がありました。

・末侯 10月18日〜10月22日頃 蟋蟀在戸(きりぎりすとにあり)

蟋蟀が戸口でなく頃。この候の蟋蟀は、夏から冬にかけて見られ、鈴のような音色を響かせるツヅレサセコオロギだと言われています。ギーッチョンと機織りのように鳴く蟋蟀ではありません。

(この項、「暦生活」HPより)

東京地方。今年の10月は夏日続きの暑さが続きました。今朝は、雨模様で、少し涼しい。

今夜は上弦の月。秋空に澄んだ半月が見られるでしょうか?

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東武線栗橋駅~羽生駅。その3。カスリーン公園。利根川堤防決壊碑。(「利根川を歩く」1回目。)

2021-10-12 19:44:29 | 利根川を歩く

                 「決潰口跡」碑。利根川堤防の決壊碑。

左手にあるのは、「カスリーン公園」です。1947(昭和22)年に発生したカスリーン台風によって起きた大災害を忘れないために、旧大利根町の利根川の堤防上に1997(平成9)にモニュメントなどが設置された公園。

米軍による空撮。×が決壊箇所。

1947年9月16日午前零時20分、北埼玉郡東村(現加須市)新川通地先で、濁流に洗われていた利根川右岸堤防(写真中央上)が幅約350mにわたり大決壊。東村での利根川決壊とほぼ同時刻の同日午前零時15分、渡良瀬川堤防が川辺村(現加須市)三国橋付近(写真右上)で延長約380mにわたり決壊。堤防を崩した濁流は、埼玉県東部低地を東遷以前の利根川の流れのように流れ下り、東京東部低地(葛飾区、足立区、江戸川各区)までも水没させました。

(この項、「」HPより)

「カスリーン台風」はここ「利根川」のみではなく、「荒川」などでも堤防が決壊しました。

「荒川を遡る」歩きでは、熊谷手前、久下地区のところで紹介。

「決壊の跡」碑。              

昭和22年(1947)9月のカスリーン台風による洪水のため、河口から71km付近久下地先のこの碑がある場所で濁流が堤防を越え決壊しました。
流れ出た洪水は埼玉県北部の村を次々と襲い、おりしも利根川の決壊による濁流と合流してはるか東京まで達し、付近一帯に甚大な被害を与えました。
下の画像は洪水から約一ヶ月後の昭和22年10月に米軍が空撮したものですが、破堤している様子がわかります。

(この項、「」HPより)

1947(昭和22)年9月、カスリーン(キャサリン)台風による大洪水の発端となったのは、埼玉県東村(現在の埼玉県大利根町付近)での利根川堤防の破堤。この地点は、利根川の水は全て集中する上、下流の栗橋付近には鉄橋があり、そこに漂流物が引っかかって流れを悪くしていたほか、渡良瀬川との合流点もあるため、増水時には水の流れが悪くなるという構造的な問題を抱えていた。
 こうした要因によって、9月15日午後9時ごろには堤防の上から水が溢れはじめ、16日午前0時過ぎに大音響とともに、東村の利根川右岸提が340㍍にわたって決壊。濁流は南に向かい、午前3時には栗橋町、午前8時には鷲宮町、午前10時には幸手町(現在の幸手市)、午後1時には久喜町(現在の久喜市)に到達する。
 一方、荒川では15日夜に熊谷市付近で堤防が決壊しており、洪水は16日の午前中には、笠原村(現在の鴻巣市)に到達し、元荒川沿いに流下していく。
 利根川の濁流は庄内古川、古利根川周辺を中心にいくつも決壊を引き起こしながら、17日未明には春日部町(現在の春日部市)、同日夜には元荒川からの水をあわせて吉川町(現在の吉川市)に達し、現在の中川付近と江戸川に挟まれた地域を流下しながら、18日の夕方には埼玉県と東京都の境界付近である大場川の「櫻堤」(現在の水元公園付近)まで達した。19日未明ついに「櫻堤」が崩壊。その日のうちに金町、柴又、小岩付近は水没した。・・・
 同じころ、八条村(現在の八潮市)で中川の右岸が決壊、綾瀬川の東側も水没する。そして20日午前3時に亀有付近でも堤防が決壊し、夕方には四ツ木付近まで浸水する。金町方面に流れた水は、20日夕方には船堀付近に到達し、そこから荒川や旧江戸川を経て東京湾へと注ぎはじめた。
 なお、この2年後に大型で強い台風、キティ台風が上陸。高潮のために、今度は下町の江東区や墨田区などを襲って、浸水などの大きな被害を受けた。わずか2年足らずの大型台風の被害だったので、この台風と混同している人もいる。
 最近の研究では、超大型の台風(大きな集中豪雨)が襲った場合には、この時とほぼ同じように利根川の堤防が決壊する可能性が指摘され、その場合の想像以上の大きな被害予測が報告されている。

(この項、「Wikipedia」参照)

 ちなみに我が家付近では、濁流は、3㍍の高さに達すると予測されています。

2019年(令和元年)10月の台風19号によって、荒川流域は録的な大雨となり、甚大な被害をもたらしました。治水との戦いはまだまだ続きます。

・・・

左の図で「利根川」上流の×が今回の公園付近。グレーの部分が浸水地域。

上の記事でもあるように(赤字部分)、利根川の決壊は下流地域に大きな被害を与えました。

モニュメント。

その周囲には当時の被害を伝える写真等が掲示されています。

 カスリーン台風の概要。

葛飾区亀有付近のようす。

                     2010年代のようす。中央に「カスリーン公園」。

この部分は、利根川が直線に流れるよう人工的に開削したところ(「新川通」)で、上流からの流れが一気に集中する上、右から「渡良瀬川」が合流するので水量は多くなってしまう、さらに下流には東武線の鉄橋があり、漂流物がたまりやすい、という構造的な問題があった。

現在、この付近では「スーパー堤防」が完成していますが、将来の大洪水に備えて利根川護岸・治水工事が大がかりに進められているわけです。

    

付属の施設は閉館中。芝生では親子連れが遊び戯れ、ツーリングの人たちが休憩中。のどかな昼下がりです。

      

 

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東武線栗橋駅~羽生駅。その2。「利根川鉄橋」。「撮り鉄」。「まむし注意」。(「利根川を歩く」1回目。)

2021-10-11 21:14:55 | 利根川を歩く

「利根川橋」の手前で、土手に上がったものの、すぐ行き止まり。下に降りて大きく迂回します。

原っぱのところに「明治天皇行幸記念碑」。

明治19年(1886)7月9日に行われた日本鉄道会社第二区線(現JR宇都宮線)の「利根川鉄橋」の開通式に明治天皇が行幸した。栗橋から対岸へは徒歩で鉄橋を渡り、帰りは船で戻った。その後、漁や水泳大会、栗橋の八坂神社の神輿が利根川に担ぎこまれる様子などを天覧した。この時の行幸の記念碑。もとは鉄橋脇、利根川の土手沿いにあったものが、工事により、現在地が変わっています(ただ土手が完成後はもとの場所に移転される可能性あり? )。

JR線の向こうに行く道が見つからず、うろうろしていると、地元の方がその先に線路下を通る道があります、と。「立入禁止」の看板がありますが。歩きなら大丈夫ですよ。・・・

「利根川鉄橋」脇に。

舗装された道を進みます。

眼下の街並み(加須市)。

「(海から)131.0㎞」ポスト。

直線の道(「利根川自転車道」)。但し、道路脇のいたるところには「まむし注意! 」の看板が。

          

対岸遠くに「筑波山」。

上流遠くは日光連山。

東武日光線の鉄橋が見えてきます。

鉄橋の手前に何人かの集団が。どうも「撮り鉄」の人たちのようです。

カーブして鉄橋を渡る、撮り鉄にとっては撮影ポイントなのでしょう。

田園風景が広がる。

東武電車の通過を待っていると、

        

                   特急「スペーシア」が通過中。

スマホではうまく撮れないので、

(写真は、「」HPより)

今度は、土手から下に降りて鉄橋下に。

行き交う人もなく、のんびりと。

それもそのはず。左手の住宅地からは立入禁止のネットがずっと張りめぐらされていて、土手に上がることができない。

一方、土手に上がったら上がったで、左に降りて行くことができない、という具合。

右手対岸は、「渡良瀬川」と「利根川」にはさまれた田園地帯。いくつか会社の建物も。

「134㎞」ポスト。左手遠くに「赤城山」。

 

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東武線栗橋駅~羽生駅。その1。利根川東遷。静御前墓所。栗橋宿。(「利根川を歩く」1回目。)

2021-10-10 19:44:23 | 利根川を歩く

「荒川」を歩いた後、どこを歩こうかと思い、「利根川」はどうか? 

「利根川」は群馬県と新潟県の県境に源を発し、江戸時代の「利根川東遷事業」によって千葉県銚子港までとなった、日本で2番目に長い川(全長320㎞)。

        

(この項、「」HPより)

「栗橋」駅の北方にある「利根川」は、「渡良瀬川」との合流地点でこの付近が「東遷」の重要な場所で、上流へ向かう出発点としてはふさわしいところのようです。

じんべえ時悠帖Ⅱhttps://ameblo.jp/jinbei1947/entry-12549018071.html?frm=theme)さんを参考に検討、アプローチ・交通機関などなかなか大変そう。その記録をもとにチャレンジしてみます。

ところが、現在、「利根川」流域は、「国土強靱化」計画の一環なのでしょうか、大がかりな土木工事が進行中。至る所で「立入禁止」。なかなか土手に近づけません。土手に上がったり、迂回したり、・・・。

歩こうと思っていた「利根川自転車道」は寸断されています。けっこう疲れた歩きだった、その1回目。

「栗橋」駅下車、利根川に向かいます。駅を出た、すぐ先の一角に。

                              舞ふ蝶の 果てや夢みる塚のかげ

   

吉野山峰の白雪踏み分けて入りにし人のあとぞ恋しき                             

しづやしづしづのをだまき繰り返し昔を今になすよしもがな

ここに静御前のお墓があるとは知りませんでした。

栗橋駅周辺の伊坂地区には、源義経(みなもとのよしつね)の恋人であった静御前の悲恋にまつわる伝承が語り継がれています。

静御前は、磯禅師(いそのぜんじ)の一人娘として仁安3年(1168)に生まれたといわれ、舞を職業とする白拍子(しらびょうし)と呼ばれる美しい舞姫に成長いたしました。干ばつが3年も続き、加えてその年も長い日照りで農民が大変に困っておりました。そこで、後鳥羽上皇が寿永元年(1182)、京都神泉苑に舞姫100人を選び、「雨乞いの舞」を命じられました(「久喜市」HPでは「後白河法皇」)。最後に静が舞い始めると空がにわかに曇り、激しく雨が降り出し3日3晩も降り続いたといいます。後鳥羽上皇は、静が15才でありながら類稀な才能を賞讃され、褒美に「蝦蟇龍」の錦の舞衣を賜りました。この衣は現在、古河市中田町の光了寺に保存されております。平氏追討に功績のあった義経の寵愛を受けた静が初めて義経に出会ったのもその頃のことでした。その後、義経は兄頼朝の不興を蒙り、奥州平泉の藤原氏を都頼って京都を落ちのびました。静は義経を慕って京都を発ち、平泉に向かいましたが、途中の下総国下辺見付近で「義経討死」の報を耳にして悲しみにくれ、仏門に入り義経の菩提を弔いたいと再び京都に戻ろうとしました。しかし、重なる悲しみと馴れぬ長旅の疲れから病気となり、文治5年(1189)9月15日、この地で死去したと伝えられています。侍女琴柱がこの地にあった高柳寺に遺骸を葬りましたが、墓のしるしの無いのを哀れみ、享和3年(1803)5月、関東郡代飛騨守忠英が「静女之墳」の墓碑を建立したものと考えられています。また、境内にある「舞ふ蝶の 果てや夢みる塚のかげ」という歌碑は、江戸の歌人坐泉の作を村人が文化3年(1806)3月に建立したのであります。

静桜(しずかざくら)

静桜は静御前ゆかりの花であり、数の希少さとともに学術的にもきわめて貴重な桜です。里桜の一種といわれていますが、ソメイヨシノのような一般の桜に比べ、花期の訪れが遅く、4月中頃から開花します。花は、5枚の花弁の中に、旗弁(はたべん)といって、おしべが花びらのように変化したものが混じる特殊な咲き方をします。このことから、開花した様子は、一見、八重と一重が混じったように見え、他の桜とは趣を異にした風情を見せています。この桜の原木は宇都宮市野沢にあります。地元の伝承では、奥州へと向かった静が、義経の討死を知り、野沢の地に1本の桜を植え菩提を弔ったのがその名のおこりといわれています。その接ぎ木の苗が(財)日本花の会から寄贈され、この墓所に植えられました。・・・栗橋町では静桜を町のシンボルとして大切に育て、その数を増やすことを目的に「静桜のくりはし」づくりを進めています。

なお、高柳寺は、後に中田(なかた)(現在の茨城県古河市)へ移転し、光了寺(こうりょうじ)と名を改めています。光了寺には、雨乞いの儀式で与えられたとされる「蛙蟆龍(あまりょう)の舞衣」が静御前の遺品として伝えられています。

また、栗橋北の経蔵院(きょうぞういん)の本尊「地蔵菩薩像(じぞうぼさつぞう)」(市指定文化財)には、静御前の持仏(じぶつ)との伝承が残されています。

大正12年(1923)には地元の有志によって静女古蹟(しずじょこせき)保存会が結成されています。現在では静御前遺跡保存会によって、静御前の命日と伝えられる9月15日には毎年墓前祭が営まれています。静御前の伝承は今もなお地元の人々によって語り継がれ、守られています。

(この項「久喜市」HPより)  

静の死については諸々の伝承があるが、はっきりしたものはない。自殺説(姫川(北海道乙部町)への投身、由比ヶ浜への入水など)や旅先での客死説(逃亡した義経を追ったものの、うら若き身ひとつでの移動の無理がたたったというもの。静終焉の地については諸説ある)など列挙すればきりがないが、いずれにせよまだ若年のうちに逝去したとする説が多い。以下、各所にある、「静御前」終焉の地あれこれ。

  • 終焉の地が諸説ある中、岩手県宮古市鈴久名にある鈴ヶ神社は、静御前を祀る神社として最北端であろう。源義経が平泉を抜け出して、北海道に渡ったという義経北行紀の経路箇所にあたり、静はここで義経の2人目の子を出産しようとするが、難産のすえ、母子ともに亡くなったという。
  • かつて埼玉県久喜市栗橋区域にあった高柳寺(現・茨城県古河市光了寺)には巌松院殿義静妙源大姉という静御前の戒名がある。その過去帳には文治5年(1189年9月15日に他界した、とある。
  • 埼玉県久喜市栗橋区域の伝説によると、源義経を追ってきた静御前は1189年文治5年5月、現在の茨城県古河市下辺見(しもへいみ)で義経の死を知り、当時栗橋町にあった高柳寺(現光了寺。古河市中田)で出家したものの、慣れぬ旅の疲れから病になり同年9月15日に亡くなったとされる栗橋駅東口には静御前の墓と義経の招魂碑、さらには生後すぐに源頼朝によって殺された男児の供養塔がある。
  • 兵庫県淡路市志筑(しづき)はかつてしづの郷と呼ばれた。静御前は鎌倉で義経との子を殺されたが命を助けられ、頼朝の妹の夫、一条能保に預けられたという。一条家の荘園が志筑にあったためここに隠れ住み、1211(建暦元)年の冬に47歳で没したため、供養として宝篋印塔が建てられたと伝えられている。
  • 奈良県大和高田市の磯野は磯野禅尼の里で、静御前も母の里に戻って生涯を終えたとする伝説が伝えられる。
  • 新潟県長岡市栃尾地域(栃堀)にも、静御前のものと伝えられる墓が存在する。2005年のNHK大河ドラマ『義経』では、番組中の「義経紀行」において、この墓が紹介されている。
  • 福島県郡山市には、義経の訃報を聞いた静御前が身を投げたと言われる美女池や、その供養のために建立された静御前堂があり、静御前堂前の大通りは静御前通りと名づけられている。2005年には静御前堂奉賛会により鶴岡八幡宮の東の鳥居付近に「静桜」が植樹された
  • 長野県大町市美麻大塩には、静御前が奥州と大塩を間違えてたどり着き、そこで亡くなりその時、地面に刺さった杖から芽吹いたという、イヌザクラの巨木「静の桜」がある。別名「千年桜」ともいわれており、山中深く美麻の丘に一本佇む姿は「神聖な桜」とも伝えられ、修行僧が静御前の魂を供養し、千年桜より癒されたといわれている。また、薬師寺には勧融院静図妙大師という静御前の戒名を記した墓と、磯禅尼の供養碑もある。
  • 福岡県福津市にも墓がある。伝承によると、落ち延びた静御前は、豊後国臼杵を経て宗像氏能の計らいで、勝浦村・勝田の地に移住し、実子の臼杵太郎を産んで、息子が大分県大友氏に仕い、静御前は義経を探しに京都に上洛したという。
  • 茨城県古河市下辺見には、静御前が行き先を思案したとされる思案橋という橋がある。
  • 香川県東かがわ市には次のような言い伝えがある。愛児を殺され、生きる望みを失った静は自殺を考えたが、母磯野を伴っていたため、それもかなわなかった。文治3年8月、母の故郷である讃岐国入野郷小磯(現・東かがわ市小磯)へ母と共に帰り、文治4年3月、讃岐国井閇郷高木(現・香川県木田郡三木町井戸高木)にある長尾寺において宥意和尚から得度を受けた。剃髪後、母は磯野尼、静は宥心尼とそれぞれ名を改め、薬師庵において信仰の日々を送るようになった。後年、母磯野尼は長尾寺への参詣の帰り、井戸川の畔で寒さと老衰のため倒れ、69歳で亡くなり、まもなく静も母の後を追うように建久3年3月、義経に逢うことなく24歳の短い生涯を閉じた。長尾寺には静親子が剃髪したときに使用したとされる剃刀を埋めた剃髪塚、井戸川橋のある県道沿いには母磯野尼の墓、昭和地区には静が俗世への想いを断ち切るために、吉野山で義経から形見としてもらった紫檀の鼓(初音)を井戸川橋に棄てたとされる「鼓ヶ淵」がある。その他、小磯には静屋敷が、三木町中代には静庵・静の本墓・位牌・下女琴柱の墓があり、同町下高岡の願勝寺にも静の墓とされるものがある

(この項「Wikipedia」参照)

・・・このように、静御前伝説は北は岩手から、南は福岡、香川まで全国的な規模であるようです。

さて、「利根川」に向かいます。栗橋は「日光道中」歩きの際、通過しました。ほとんど「栗橋宿」としての遺構は残っていませんでしたが、関所跡など発掘が進んでいました。

以下、2016年6月のブログ記事

・・・
道の両側が緑のシートで囲われて工事中です。右手は本陣跡? 左手は関所陣屋跡? 現在も遺跡発掘作業中のようです。

    左手の発掘現場。

土手の上から。右手に「八坂神社」。

「栗橋関所跡」碑。
 江戸時代に整備された五街道の一つ日光道中は交通量が多く、本市には栗橋宿が設けられました。また、栗橋宿には利根川を渡る房川渡(ぼうせんわたし)が設けられると共に、日光道中唯一の関所が設置されました。今日この関所は、一般的に「栗橋関所」と呼ばれていますが、江戸時代は栗橋と対岸中田(なかた)(茨城県古河市)とを結ぶ渡船場の名称をとり、「房川渡中田御関所」と呼ばれていました。
 栗橋関所が設置されたのは、江戸時代初頭で、寛永元年(1624)には、関所の警衛にあたる番士が幕府から任命され、関所の近所に定住したと伝えられています。この番士の屋敷跡は、昨年発掘調査が行われ、江戸時代末期から明治時代にかけての屋敷の礎石や茶碗等が出土しています。
 江戸時代の関所は、「入鉄砲(いりでっぽう)に出女(でおんな)」と呼ばれるように、武器の通行の監視や、江戸に人質として差し出された諸大名の妻子の国元への逃亡の取り締まりが主な役割でした。栗橋関所では、常時4家の番士が交代で関所に勤務し、これらの任務にあたりました。この当時の業務や日々の出来事は、関所番士の一家である足立家に伝わった日記に詳細に記録されており、これらは現在「栗橋関所日記及び関係資料」として県の有形文化財に指定されています。
 栗橋関所は、明治2年(1869)に廃止されましたが、大正13年(1924)に利根川橋の開通を記念して、近隣の人々によって、「栗橋関所址」碑が建てられ、現在は「栗橋関跡」として県の旧跡に指定されています。
 久喜市栗橋北付近にあった関所跡地は利根川の改修工事により、現在は河川敷内となり、遺構等は残されていません。しかし、前述の足立家や他の関所番士の家に伝わった古文書や絵図等から、関所の構造をある程度知ることができます。現在、郷土資料館にこれらの資料を基にした関所の復元模型が展示されていますので、ぜひご覧ください。
(以上、「久喜市」HPより)

 この付近は、「利根川」の大がかりな治水改修工事が行われ、堤防あるいは河川敷になってしまうようです。そのための発掘調査で、道路右側のように、発掘調査終了後、埋め戻され、永久に地中深くに眠ることになってしまうのかもしれません。北端にある「八坂神社」も移転になるようです。まもなくこの辺りの風景は一変することに。

・・・

それから5年。ずいぶんと工事が進んでいるようです。道路なども整備されています。その分、なかなか利根川河畔にたどり着けません。

途中の解説板。  

                       「栗橋番士屋敷跡」。

やっと利根川土手に上がります。

        上流にはJR宇都宮線の鉄橋。

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5都県で32人が重軽傷エレベーター閉じ込め5件、製油所火災も。「日暮里舎人ライナー」。

2021-10-08 20:10:46 | 世間世界


gooニュース

https://news.goo.ne.jp/article/asahi/nation/ASPB82C94PB8UTIL007

昨晩の地震は、けっこう強く感じました。10年ぶりという報道も。「東日本大震災」の時には、都庁の32階で遭遇。大きな横揺れにビックリしました。隣の高層ビルの横揺れと重なって、高層ビルでの怖さを実感。さらにエレベータが停止し、階段を降りて庁外に。その後も山手線などが不通となって、帰宅するのに延々、徒歩で。あの時は、午後の時間帯だったので、大勢の人が帰宅困難者に。

都庁もその後、耐震化構造に。聞くところによると、斜交いの柱を室内に設置した、とか。

昨晩の地震。

すでに就寝間近。身に危険はまったく感じず、室内外も被害なし。

マスコミの報道では帰宅途中の足が混乱した、と。あの時間でまだまだ帰宅中という内容に、現役をとっくに終えた身としては、驚きでした(お恥ずかしい)。10時という時間帯は、同僚とお酒を飲んで遅くなる、くらいしかなかったから。

今朝のニュースでは交通機関の乱れだけでなく、水道設備などの破損、さらに何人も重軽傷者が出た、とのこと。

特に「日暮里舎人ライナー」の緊急停止、車両破損で普通になった、とのニュースは驚きました。

「日暮里舎人ライナー」は、都道上、また荒川でははるか頭上に橋脚があり、上がったり下がったりして進む感じ。

写真(以前、ブログに掲載)は、荒川に架かる橋梁。隣が「扇大橋」。

 

足立区は「震度5強」だったそうで、けっこう地震の衝撃が大きかったことでしょう。

上図・「高野駅」付近で脱輪した、とのこと。復旧にも時間がかかりそうです。足立区北西部の庶民の足として、早く復旧して欲しいものです。

・・・

気象庁の束田進也地震津波監視課長は8日未明、千葉県北西部で起きた最大震度5強の地震について記者会見し、「内閣府が想定する首都直下地震より(震源が)深く、規模がマグニチュード(M)5.9と小さい」と話した。

一方、震源は千葉県北西部の東京湾岸だったが、最大震度5強の揺れを観測したのは東京都足立区や埼玉県川口市などだったことについて、束田課長は「地盤が周囲より軟らかい場所で揺れが大きくなっている」との見方を示した。

 千葉県北西部や東京23区では、ビルやマンションの高層階がゆっくりと揺れ続ける「長周期地震動」がやや大きかったとみられ、気象庁は4段階の階級で上から3番目に大きい「階級2」と発表した。

(この項、「時事通信社」HPより)

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川又~一級河川荒川起点」碑。(「荒川を遡る」総集編。その3。)

2021-10-06 20:51:52 | 荒川を遡る

「西武秩父」駅から中津川行きのバスに乗って、9時40分過ぎに到着。

これから約2時間。雨が降りしきり中、さて、どうしたものか?

せっかくだから行けるところまで、と大学生の青年と林道を歩き始めます。

東京発電(株)川又発電所。

入川渓谷。

しばらくすると、左手に「入川渓谷夕暮キャンプ場」。

キャンプ場の西隅に前田夕暮の歌碑。           

前田夕暮は、終戦の年この地に疎開し、山林事業を営みながら、2500あまりの歌を詠んだ。

1925年(大正14年)、亡父から跡を継いだ歌人の前田夕暮を社長とする関東木材合名会社がその拠点を両神村小森から大滝村入川へと移したことで、入川は一つの集落を作るほどの繁栄を導いたと言われている。

前田夕暮は明治から昭和期にかけて自然主義の代表歌人として、牧水・夕暮時代と称される一時代を画しました。そんな日本を代表する歌人、前田夕暮氏の名前から入川渓谷夕暮キャンプ場と名付けました。(「入川渓谷夕暮キャンプ場」HPより)

山を開き土を平坦して建てし工場 その隅にしろし栃の太幹

そこからの入川渓谷。 

 

実は、この先、トロッコの線路跡をたどるように進みます。「入川軌道(森林軌道)」跡。しっかり線路が残っています。

森林で切り出した木材運搬に活躍したのが、「入川軌道」。前述の「関東木材合名会社」が運営。

最初は人力でトロッコを押していたが、やがて馬が引くようになり、戦後はエンジンを積んだ内燃機関車が4~5連結のボギーを引いて運搬していた。レールの幅は普通の鉄道よりも狭いナローゲージ(762mm)で、機関車の重さは4.5~6トン。

終戦後も町の復興の為に木材の需要も多く、大変な賑わいをみせたが、安い輸入材や環境破壊に押されて昭和45年、森林軌道の幕を閉じた。

     

2010年代のようす。右手に「川又」バス停。「入川」沿いに上って行きます。(「歴史的農業環境システム」より)

すぐ先に「トラウトオン!入川」。

         

トラウトオン!入川(入川渓流観光釣場)は奥秩父・荒川の源流に位置し、全長1000メートルに及ぶ専有釣り場、10000平方メートルに広がる敷地面積。まさにプレミアムな大自然を満喫できます。

この日も家族連れでしょうか、何組か釣りを楽しんでいます。

ここまでは、何台か車とすれ違いましたが、この先からは人とも出会わず、雨の中の歩きとなります。

      

この地域一帯は、「東京大学秩父演習林」となっています。

東京大学秩父演習林

秩父演習林は、全国に7か所ある東京大学の演習林の1つです。
6000ha近くにおよぶ広大な森林を保有し、冷温帯域の森林生態系に関する教育研究活動を幅広く展開しています。秩父演習林は奥秩父山地に広大な森林を有するフィールドステーションです。

標高差の大きい急峻な山岳地形をもち、関東地方では数少ない原生状態の森林が広範囲にわたって残存している特徴を生かして、冷温帯域の森林生態系(森林動態・生物多様性・生物害)に関する教育研究活動を幅広く展開しています。

(この項「東京大学大学院農学生命科学研究科附属演習林 秩父演習林」HPより)

ここからは左手の道を進む。

足元には枕木が埋まっています。これからトロッコ線路跡を進みます。

「荒川起点」碑付近にある「解説板」。

森林軌道の歴史(入川軌道)

こんな山奥でレールに枕木、不思議に思いませんか。重い木材を満載してガタゴト、ガタゴト、ギシギシここには昭和23年から45年の間トロッコが走っていた道。当時はここと同様の森林軌道が日本のあちこちにありましたが今ではほとんど姿を消してしまいました。

この解説板にあるように、「荒川起点」碑までの道はトロッコが走っていた道です。所々に架けてある橋も整備されていて、線路伝いにまったく不安なく歩くことができます。渓谷美を愛でるよりも、興味はこちらの方に。

この辺りですれ違ったのでしょうか?

渓谷側の軌道が崩れ、レールがなくなっているところもあります。

このように渓谷側に落ちてしまったレール。

 

今にも向こうからトロッコがやってくるような・・・。

下流方向。整備された鉄橋。

こんな急峻な崖沿いに線路を敷設したものです。戦前から盛んだった林業が、戦後は復興のため、山奥から木材を切り出している頃のようすが偲ばれます。

厳しい自然環境のもと、永年の風雪の経過のなかで、すでに線路が失われたところや線路幅が一様でなくなった箇所もたくさんあります。

が、これほどきちんと整備された道になっているとは思いませんでした。

山側から一気に落ちる沢の流れ。                 

こうしたところには小さな鉄橋が架けられています。

新緑の頃、また紅葉の時期は最高の景観。

かなり雨脚が強くなってきますが、木々におおわれているせいか、風がない分、助かります。

 ようやく到着します。

                        大きな案内板が設置されています。

しかし、そこには「一級河川荒川起点」碑の解説は記されていません。

この付近だろうと右から流れる沢(赤沢)、左からの流れ(入沢)を眺めましたが、どこにあるのか? と。

ごろごろと岩が重なる中、ちょっと迷います。

     

右と左との沢が合流するところにありました! 

 

     

2010年代のようす。↓に「一級河川荒川起点」碑。源頭は左下に流れる沢を詰めたところ、甲武信岳の直下になるようです。

そこまで上るのには本格的な登山となります。

ここまで、「川又」から約2時間。青年とお互いに記念写真を撮ります。

この雨の中では途中で引き返してしまったかもしれません。同行の青年に感謝、感謝です。

注:この入沢と赤沢の合流点から中川との合流点までの流路延長173 kmが、一級河川としての「荒川」。

来た道を再び戻ります。振り返り、振り返り。

ようやく川又に戻ってきました。

荒川河口(中川との合流点)からここまで。173㎞の「荒川」を遡る旅も終わりです。

熊谷まで関東平野を流れ、熊谷から長瀞・秩父・三峰口まで、そしてその上流の渓谷美、と変化に富んだ歩きでした。

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秩父湖~川又(往復)。栃本関。(「荒川を遡る」総集編。その2。)

2021-10-05 19:59:02 | 荒川を遡る

                  荒川上流を目指します。

「秩父湖」バス停から川又まで。

往路は湖畔・荒川沿いの道、復路は栃本集落の道。

どちらも旧「国道140号線(秩父街道)」。アップダウンはありますが、舗装道路を歩きます。

「三峯神社」へはダムを左折して行きます。秩父湖で下車したのは二人のみ。満員のバスはそのまま「三峯神社」へ。

二瀬ダム。水面はかなり低く。

「大洞川」。奥に吊り橋。          

途中の二股、栃本への道を分けて、左を進みます。旧国道140号線。

荒川に架かる吊り橋。但し、立入禁止。

「秩父湖吊橋」。この直下まで「湖岸遊歩道」。

眼下に荒川。ススキが揺れる。

木漏れ日の下を。右に左にカーブしながら上っていきます。

護岸工事。目がくらむような真下に荒川。

歩き始めてから約1時間。「不動滝入口四阿」に到着。「不動滝」への案内板が。

不動滝のいわれ

荒川に流れこむ大除沢がつくる不動滝は落差50mもあり、その荘厳さを不動明王になぞらえて不動滝としたのでしょう。大除沢には、昭和の初期に多くの山林業者が入山していて、その人たちは守護神として不動様を信仰したといいます。徳川時代の末期には、行者が修行場として使用したともいわれています。

荒川に架かる「不動橋」を渡った対岸にあるようです。

           (「彩の国さいたま」HPより)

大滝・落合橋の先で右に分岐した「(新)国道140号線」が近づいてきます。新旧の国道がこの先で合流し、雁坂峠トンネルを抜け、甲府に向かうことになります。

 

右手のトンネルが「(新)国道140号線」ルート。

「R140彩甲斐街道」。「これより滝川渓谷 この先300m左折入川渓谷 雁坂トンネルまで7k 甲府へ52k」。

川又といっても何か特にあるわけではありません。大きめな「観光トイレ」と「四阿」と観光案内板、そして駐車スペース。

少し先に「扇屋山荘」。民宿と売店を兼ねた施設。前を通りましたが、営業しているかどうか不明でした。

ほんの少しだけ入川(荒川)沿いに上ってみました。

       

 

下を見ると、透き通るような、まさに「水色」の流れ。

すっかり見とれてしまいます。

 

実は、この上流にキャンプ場があり、さらにその先まで進むことが出来ます。次回、そこまで入ってみようと思います。そのさらに上流に進むと、「一級河川荒川起点の石碑」があるようです。(源流はもっと上流になりますが)

四阿で昼食休憩して、栃本に向かいます。

下流方向。

     

2010年代のようす。(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。行きは、荒川に沿った道を進み、帰りは栃本集落への道。「栃本関」から北西に向かう道は、かつては信州への道でした。

栃本までは約20分の上り坂。

古風で落ち着いた風情の家並み。

        

山間の傾斜地に家々と耕地。

栃本は、白泰山から東に延びる尾根の上の地すべりによってできたなだらかな地形に形成された集落です。尾根の北側の中津川の谷には秩父帯と四万十帯の境界があります。秩父帯の険しい地形に比べ、やや穏やかな地形の四万十帯の地域を古い街道は通過しています。(「ジオパーク秩父」より)

  右手に荒川沿いの山々。

国指定史跡「栃本関跡」。

江戸幕府は、関東への「入り鉄砲」と関東からの「出女」を取り締まるため主要な街道に関所を設けた。

栃本関は、中山道と甲州街道の間道である秩父往還の通行人を取り調べるため設けられたもので、その位置は信州路と甲州路の分岐点になっている。

そのはじまりは、戦国時代、甲斐の武田氏が秩父に進出したとき関所を置いて山中氏を任じたと伝えられるが、徳川氏の関東入国以後は、天領となり、関東郡代伊奈忠次が慶長19年(1614)大村氏を藩士に任じたという。以後、大村氏は幕末まで藩士の職を代々つとめた。

関所の役宅は、文政元年(1818)と文政6年(1823)の二度にわたって焼失し、現在の主屋は幕末に建てられたもので、その後2階を建て増しするなど改造されたが、玄関や上段の間及び外部の木柵などには、関所のおもかげをよく留めている。

そこからの山並み。           

これから先、下り道となって秩父湖へ戻ります。

途中、廃校になった「上中尾小学校」。

1909年(明治42年)開校、1981年(昭和56年)閉校。
1937年(昭和12年)から1949年(昭和24年)まで、児童用の寄宿舎があったそうです。その後、滞在型の私立養護学校「光の村養護学校・秩父自然学園」として活用。その養護学校も閉鎖となり、今に至っています。道路側から校舎内を覗くと、作業場のような雰囲気。

校舎は昭和7年(1932年)に竣工。

校庭の片隅に記念碑が二つありましたが、立入禁止のため、確認できませんでした。

この校舎は、山中節治さん(1895~1952)の設計。大正・昭和初期に函館をはじめ国内で活躍した建築家で、兄の関根要太郎さんとともにモダン建築家として活躍した方。そのため、この校舎は解体されず残されているようです。

(「今昔マップ」より)

○が小学校。古くからあったことが分かります。

小さな集落が今も。急峻な山裾に開かれ、斜面に家々が点在している。

さらに下ると、「麻生加番所」跡。

                   

寛永20年(1643)、幕府の役人が当村巡見の際、栃本関の警備の手薄なのを見て、麻生に加番所を設置するよう指令があり、設置されたものである。施設は名主宅を役所とし、別に間口3.6m(2間)、奥行2.7m(1.5間)の番人詰所があった。

この番所の建設補修費すべて古大滝村によりまかなわれた。番屋は現存せず、現在の家は安政4年(1857)11月焼失のため新築されたものであり、今も同家を「番所」と呼んでいる。千島家は鉢形北条の奉行、千島下総の末裔といわれている。

こうして、再び「秩父湖」に戻ってきました。

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三峰口駅~秩父湖。そして今日は「大安」。衆議院選挙投票日は「仏滅」。(「荒川を遡る」総集編。その1。)

2021-10-04 19:53:23 | 荒川を遡る

9月26日。やっと「一級河川荒川起点」碑までたどり着きました。

秩父鉄道「三峰口駅」。SLに乗車したときも含め、何度も乗り降りしました。秩父鉄道の沿線風景は見ごたえがあります。

ところで、秩父鉄道「樋口駅」の手前。「撮り鉄」の某議員が「勝手踏切」を渡って、書類送検された(不起訴)地点近くも歩きました(「国道140号線(彩甲斐街道)」)。

熊谷からやってくるSLがカーブする先のところ。たしかに絶好の撮影ポイントです。そういえば、SLに乗ったときもやたら(この場所とは限りませんが)汽笛を鳴らしていました。

SLが運行されるときは、特に、沿線には撮影する人が随所に。はじめはサービスで鳴らしているのかと安直に思いましたが(そんなはずはあるわけがありませんね)、確かに危険で、迷惑な行為です。

鎌倉から出る「江ノ電」も撮影ポイントがあって、そこにも「鉄道マニア」が、さらにJRの小海線・野辺山駅付近(JR最高地点)、・・・(かくいう小生もそこで撮りました。)。

「撮り鉄」には、けっこう撮影ポイントが全国にはあるようです。

先日も利根川沿いに架かる東武線鉄橋付近には「撮り鉄」の人達が陣取っていました。ここもカーブがほどよくて、撮影に絶好!

 トンネル、鉄橋、カーブ、駅のホームの先端、・・・。お仲間と示し合わせて撮りにいくようです。(件の議員もそうだったようですが)

なかなか本題に入りません。

今回から総集編。秩父鉄道「三峰口」駅から「荒川起点」まで。荒川河口から三峰口駅までの総集編の続きです。

荒川に架かる「万年橋」。  

 

            

この付近が「金蔵落しの渓流」。

紅葉の時期にはさぞかし見事。

眼下は荒川の清流。上流。

「道の駅大滝温泉」。

ここで、右手のお店「郷路館」で手打ちそばを食べ、小休止。美味しいお蕎麦でした。  

店内に国語学者の金田一晴彦さんの似顔絵とコメントが。「春風秋雨是人生」と。

「大滝橋」。

             

右手から「中津川」が合流。

                            「落合橋」。

新しい「国道140号線」は中津川沿いに進み、「大峰トンネル」を経て、川又で再び合流します。「秩父湖」方面には荒川沿いの旧国道を行きます。

車の量が少なくなります。

しばらく進むと、「三十槌の氷柱」の看板。

(HPより)

この先、ダムサイトに向かう急カーブの上り坂が続きます。最後のひとふんばり。車から気の毒そうな視線が。

やっと今回のゴール地点が見えてきます。

「二瀬ダム」。

上りが続き、脱水症になるような暑い一日。

秩父湖バス停近くのお店で買ったビールが格別に美味しかった。

自民党の岸田文雄総裁は4日、次期衆院選について「19日公示―31日投開票」とする意向を固め、党幹部に伝えた。臨時国会で首相に指名された後、会期末の14日に衆院を解散する。新内閣発足後の4日夜の記者会見で表明する方針だ。新政権発足直後の選挙が得策と判断した。新型コロナ感染者数が減少し、緊急宣言が解除された現状での衆院選実施が望ましいことも考慮した。複数の関係者が明らかにした。(「共同通信」より)

総理就任・国会解散は「大安」。公示日、投票日はともに「仏滅」。吉と出るか凶と出るか。与野党にとっての正念場を迎えます。

お上のやることに無関心、冷ややかに見つめるのではなく、ぜひ投票に行きましょう。

「ハロウィン」で浮かれる場合ではなさそうです。

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西武観光バス「川又」~荒川起点(往復)。その4。「一級河川荒川起点」碑。「滝沢ダム」。(「荒川を遡る」第12日目。)

2021-10-03 16:24:13 | 荒川を遡る

入川もますます渓谷らしくなってきます。眼下に流れる入川。

山側から一気に落ちる沢の流れ。

                   

こうしたところには小さな鉄橋が架けられています。

新緑の頃、また紅葉の時期は最高の景観。

かなり雨脚が強くなってきますが、木々におおわれているせいか、風がない分、助かります。

 ようやく到着します。

                        大きな案内板が設置されています。

しかし、そこには「一級河川荒川起点」碑の解説は記されていません。

この付近だろうと右から流れる沢(赤沢)、左からの流れ(入沢)を眺めましたが、どこにあるのか? と。

ごろごろと岩が重なる中、ちょっと迷います。

     

右と左との沢が合流するところにありました! 

 

     

2010年代のようす。↓に「一級河川荒川起点」碑。源頭は左下に流れる沢を詰めたところ、甲武信岳の直下になるようです。

そこまで上るのには本格的な登山となります。

ここまで、「川又」から約2時間。青年とお互いに記念写真を撮ります。

この雨の中では途中で引き返してしまったかもしれません。同行の青年に感謝、感謝です。

注:この入沢と赤沢の合流点から中川との合流点までの流路延長173 kmが、一級河川としての「荒川」。

来た道を再び戻ります。振り返り、振り返り。

ようやく川又に戻ってきました。

荒川河口(中川との合流点)からここまで。173㎞の「荒川」を遡る旅も終わりです。

熊谷まで関東平野を流れ、熊谷から長瀞・秩父・三峰口まで、そしてその上流の渓谷美、と変化に富んだ歩きでした。

荒川をめぐる地元の人々の暮らしを垣間見、「荒」川との闘い、治水、橋の工夫などや四季折々の自然とのふれあいもすばらしいものがありました。

機会があれば、見落とした場所なども含め、もう一度歩いてみたいところも、数多くありました。

毎日、見る「荒川」にいっそうの親しみを感じます。

 

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西武観光バス「川又」~荒川起点(往復)。その3。森林軌道(入川軌道)跡。(「荒川を遡る」第12日目。)

2021-10-01 18:50:06 | 鉄道遺跡

ピカピカのまま、落ち葉の中に埋もれて、しっかり線路が残っています。

「荒川起点」碑付近にある「解説板」。

森林軌道の歴史(入川軌道)

こんな山奥でレールに枕木、不思議に思いませんか。重い木材を満載してガタゴト、ガタゴト、ギシギシここには昭和23年から45年の間トロッコが走っていた道。当時はここと同様の森林軌道が日本のあちこちにありましたが今ではほとんど姿を消してしまいました。

この解説板にあるように、「荒川起点」碑までの道はトロッコが走っていた道です。所々に架けてある橋も整備されていて、線路伝いにまったく不安なく歩くことができます。渓谷美を愛でるよりも、興味はこちらの方に。

この辺りですれ違ったのでしょうか?

渓谷側の軌道が崩れ、レールがなくなっているところもあります。

このように渓谷側に落ちてしまったレール。

 

今にも向こうからトロッコがやってくるような・・・。

下流方向。整備された鉄橋。

こんな急峻な崖沿いに線路を敷設したものです。戦前から盛んだった林業が、戦後は復興のため、山奥から木材を切り出している頃のようすが偲ばれます。

厳しい自然環境のもと、永年の風雪の経過のなかで、すでに線路が失われたところや線路幅が一様でなくなった箇所もたくさんあります。

が、これほどきちんと整備された道になっているとは思いませんでした。

そのため、「一級河川荒川起点」碑まで無事にたどり着けました。

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