「読書は日々に新た」という。つまり、読むたびに新しい発見があるのである。
おそらく既に5回くらいは読んでいるはずであるが、最近読んで新たな発見をしたのが、以前にも書いた「午後の曳航」。とりわけ、映画化されたもの(午後の曳航)と対比することによって、物語の仕組みがいっそう良く分かる。
例えば、主人公である13歳の少年:登の部屋(母親の部屋との間に覗き穴がある)と母親の部屋(ここで母とその愛人である2等航海士:塚崎との情事が営まれる)との位置関係についてであるが、映画では少年の部屋が2階で母親の部屋が1階となっていた(撮影の便宜のためかと思われる)。ところが、三島の原作を読む限り、この2つの部屋は2階にあって隣り合っているのである。
ここで重要なのは、登の部屋には窓はあるものの海に面していないため海が見えないが、母親の部屋には窓があって、このため、登は覗き穴を通じて(母の部屋から見える)海を垣間見ることができることである。要するに、この設定からは2つの部屋がどうしても2階に位置することが必要である。
その理由は、冒頭の章で開示される真理、すなわち、「世界は単純な記号と決定で出来上がっている」ことを象徴する出来事の意味づけにある。それは、登が覗き見た母の部屋での、母と塚崎が情事に臨む前に汽笛が鳴る「奇跡の瞬間」のことである。
汽笛のおかげで、突然それらの札は宇宙的な連関を獲得し、彼と母、母と男、男と海、海と彼とをつなぐ、のっぴきならない存在の環を垣間見せたのだ(p15)。
これぞ有名な、主人公:登と世界が合一化する神秘的な瞬間である。そして、ここでは、登が「海」、すなわち、「陸=生活」の対極にあるものを垣間見ていることが絶対に必要なのだ。
さて、次なる課題は、雑駁なガラクタに満ちた世界を完成させた「汽笛」の象徴するものは何かということである。・・・じっくり調べよう。
おそらく既に5回くらいは読んでいるはずであるが、最近読んで新たな発見をしたのが、以前にも書いた「午後の曳航」。とりわけ、映画化されたもの(午後の曳航)と対比することによって、物語の仕組みがいっそう良く分かる。
例えば、主人公である13歳の少年:登の部屋(母親の部屋との間に覗き穴がある)と母親の部屋(ここで母とその愛人である2等航海士:塚崎との情事が営まれる)との位置関係についてであるが、映画では少年の部屋が2階で母親の部屋が1階となっていた(撮影の便宜のためかと思われる)。ところが、三島の原作を読む限り、この2つの部屋は2階にあって隣り合っているのである。
ここで重要なのは、登の部屋には窓はあるものの海に面していないため海が見えないが、母親の部屋には窓があって、このため、登は覗き穴を通じて(母の部屋から見える)海を垣間見ることができることである。要するに、この設定からは2つの部屋がどうしても2階に位置することが必要である。
その理由は、冒頭の章で開示される真理、すなわち、「世界は単純な記号と決定で出来上がっている」ことを象徴する出来事の意味づけにある。それは、登が覗き見た母の部屋での、母と塚崎が情事に臨む前に汽笛が鳴る「奇跡の瞬間」のことである。
汽笛のおかげで、突然それらの札は宇宙的な連関を獲得し、彼と母、母と男、男と海、海と彼とをつなぐ、のっぴきならない存在の環を垣間見せたのだ(p15)。
これぞ有名な、主人公:登と世界が合一化する神秘的な瞬間である。そして、ここでは、登が「海」、すなわち、「陸=生活」の対極にあるものを垣間見ていることが絶対に必要なのだ。
さて、次なる課題は、雑駁なガラクタに満ちた世界を完成させた「汽笛」の象徴するものは何かということである。・・・じっくり調べよう。