「「俳優の目的は人間をつくること」・・・・・・。
17期生の修了公演に、思い切ってテネシー・ウィリアムズの小品戯曲を選びました。
それはひとえに、俳優にとって基本中の基本であり、同時に究極の”使命”である「人間を生み出す」ということに、真正面から取り組んでほしいと思ったからです。
テネシー戯曲に描かれた、時代も国も生活習慣も違う人間たちに、その幾重にも重なった心のひだを持つ魅力的な人間たちに、自分の心と身体のすべてで向き合ってほしいと思ったのです。」(演出・演劇研修所長 宮田慶子氏)
題材の選び方には納得がいくけれども、「時代も国も生活習慣も違う」というところを強調するのであれば、方向性が間違っているということになるだろう。
というのも、テネシー・ウィリアムズほど普遍的なテーマ、要するに「人間の本質的孤独」を執拗に取り上げた戯曲作家は珍しいからである。
したがって、アメリカの特殊な宗教的風土(ピューリタニズムなど)や生活習慣など知らなくても彼の作品は十分理解出来るし、現代の日本人の感性を活かして演じることは可能なはずなのだ。
もっとも、実質的な処女作であり半ば自叙伝でもある「ガラスの動物園」くらいは読んでおく必要があるし(不死鳥とアダルトチルドレンと棺桶からの脱出(1))、多くの場合において、主人公はローラのように「生き辛さ」(つまり発達障害的な傾向)を抱えた人物であることを押さえておくと分かりやすい。
①『坊やのお馬』
ムーニー「おれはひとと物の見方がちがうんだ---(理屈をつけようと努力しながら)---それだけさ。ほかのやつらは---おまえも知ってるだろう―全然かまっちゃいねえんだ。食って飲んで女と寝る。なんにも知っちゃいねえ。朝になりゃ太陽はのぼる、土曜の晩にゃ給料がはいる---やつらはそれで御機嫌だ!よろしい!ところがそのうちおっぽり出されてみろ。どうなるね?子どもは育ちざかり、やがてはおやじと入れかわりに工場づとめ。こいつもやっぱり、食って飲んで女と寝て---土曜の晩にゃ給料もらって!ところがおれはな---(にがにがしげな笑い)いいか、ジェーン、おれはそれじゃ満足できねえんだ!」(p12)
②『踏みにじられたペチュニア事件』
若い男「死んだ人たちは最上の助言を与えてくれるからです。」
ドロシィ「助言て、なんの?」
若い男「生きている人のいろんな問題についてです。」
ドロシィ「どんなことをいってくれるかしら?」
若い男「ただひとこと---生きよ!」
ドロシィ「生きよ?」
若い男「そう、生きよ、生きよ、生きよ!彼らが知っているのは、これだけです・・・・・・これだけが彼らに残された言葉なのです!」(p67)
③『ロング・グッドバイ』
ジョー「・・・おれたちは、いつもいつも、さよならをいってるんだ---生きている時間の一瞬一刻にむかってね!それが人生と言うものさ---ながい、ながい、さようなら!(ほとんど泣かんばかりに、激しく)今日もさよなら、明日もさよなら---最後のさよならをいうまでは!なあ、シルヴァ、その最後のやつっていうのは、世のなかに対する、自分自身に対する、さよならなんだよ!(彼はたまらなくなって顔を窓のほうにそむける)出ていってくれ、おれを一人にしてくれ!」(p324)
・・・こんな風に、現代の日本人にも通用するテーマが繰り返し登場する。
なので、わざわざ”アメリカ人風に”大げさな言葉遣いやジェスチャーを使う必要などないはずなのだ。
実際、その見本を、一昨年、フランス人であるイザベル・ユペールたちが「ガラスの動物園」で実演して見せてくれたじゃないか!