Don't Kill the Earth

地球環境を愛する平凡な一市民が、つれづれなるままに環境問題や日常生活のあれやこれやを綴ったブログです

タイトル・ロール?(2)

2024年02月26日 06時30分00秒 | Weblog
 「自身が主宰する劇団はえぎわをはじめ、外部のプロデュース公演など幅広く活動し、独創的な作品を生み出しているノゾエ征爾。彩の国さいたま芸術劇場では、2022年春、ノゾエを招いてシェイクスピアの『マクベス』を題材としたワークショップを実施。ワークショップでは「演劇を見慣れていない若者に演劇の魅力を知ってもらう」という目標を掲げ、ノゾエは親しみやすく、飽きさせない構成と演出で約100分の『マクベス』をつくりあげた。これをきっかけに、はえぎわと彩の国さいたま芸術劇場の共同制作による『マクベス』を東京と埼玉で上演することが決定。新たなキャストを迎えてブラッシュアップしたノゾエ版『マクベス』にご期待ください。

 観ていて全く飽きないし、不自然な日本語のセリフも出て来ない、好感の持てる「マクベス」で、これなら中高生にもお勧めできる。
 まず、たくさんの「椅子」を使う所が新鮮で、これによって、王座や城まで表現してしまう(しかも低予算で助かる)。
 次に重要なのが、松岡和子氏の翻訳を用いている点である。
 シェイクスピアに限らず翻訳劇の場合、訳者によっては「死んだセリフ」、つまり日常会話では絶対に出て来ない日本語を使用していることがある(翻訳劇と生きたセリフ)。
 なので、ここは”松岡さん一択”とするのが正解で、見事に正解を選んだという印象である。
 さて、ストーリーをみていくと、これまで「マクベス夫人」が実質的に主役であり、ストーリー展開を支配していると見ていたのだが(タイトル・ロール?)、この見方を修正する必要性を強く感じる。
 というのも、シェイクスピアは、やはりマクベスの心理にフォーカスしてこの戯曲を書いたと思われるからだ。

 「マクベスの心中には「王になりたい」野心が隠されていて、その恥部を指摘されて彼はうろたえたのであり、同時にその野心が魔女の預言をもっとはっきり自分のものにしておこうとさせたのである。ここにすでに、自分の内なるものよりも外的な運命の力に頼ろうとするマクベスの心性が端的に示されている。ダンカン殺しそのものも、妻の励ましがなければ決行できないマクベスなのである。」(p175 中村保男氏の解説)
 「打ってこい、マクダフ、途中で「待て」と弱音を吐いたら地獄落ちだぞ。(同上)
 ブラッドレー教授よ、あなたのすぐれた洞察力は、この場合にも恐らくこのせりふのもつ意味の重さを十分に感じ取っていたに相違ない。なぜなら、あなたは「地獄へ下る道すがらに、何と恐ろしくはっきりした自己意識であろう。しかも彼を駆り立てる生命と自己主張との本能は何という恐ろしい強さであろう」と言っている。それならば、なぜあなたはこのマクベスの最後の言葉を引用しなかったのかーーー・・・。」(p167~168 福田恆存氏の解説)

 第5幕第9場に至ってようやく、それまで「運命」(=魔女たちの預言)、「名誉」(=「王」の地位)、「欲望」(=「妻」の意志)などといった「外的な力」によって駆動されていたマクベスが、そのような力をことごとく失うとともに、初めて「自分の内的な力」(=「自我」)に従うことに目覚めたという、この戯曲のクライマックスが現れるのである。
 あえて演出上の難点を一つだけ挙げると、中村保男先生が強調している「第2幕第3場における門を叩く音」が出て来なかった(私の記憶違い?)のが惜しいところ。
 台本を普通に読んでいると見逃してしまいそうだが、これは「回帰不能点」(ポイント・オブ・ノー・リターン)を知らせる重要なくだりである。
 マーラーの交響曲第10番で言えば、3楽章と4楽章の「軍楽隊用大太鼓の強打」に相当するだろう。
 なので、演出的には絶対に落としてはいけないところであった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする