Don't Kill the Earth

地球環境を愛する平凡な一市民が、つれづれなるままに環境問題や日常生活のあれやこれやを綴ったブログです

2月のポトラッチ・カウント(2)

2024年02月10日 06時30分00秒 | Weblog
 「養父への義理から別れ話を持ち出す久松と二人きりになったお染は、自害しようとする。それを見て、久松は二人で死ぬことを約束する。そこへ、事の成り行きをみていた久作に人の道に反していると諭され、二人は別れを誓うが、お互い心中の覚悟を決めていた。
 祝言の席でお光が綿帽子を取ると、髪を切り尼の姿になっていた。お光は二人の心を察し、自分が身を引けば、二人が幸せになれると考えたのだった。

 養父への義理を重んじる久松は、「『イエ』の御恩に報いる」ため、お染と別れようとするが、これにお染は「自殺」というポトラッチによって応じようとする(ポトラッチ・カウント:自殺は未遂なので0.5ポイント)。
 これを受けた久松は、二人で死ぬ、つまり「心中」を決意する(これも未遂なので0.5ポイント)。
 歌舞伎では、この後養父の久作が割って入り、「二人が死ぬんならわしも死ぬ」と叫んで剃刀を奪って死のうとする(これも未遂なので0.5ポイント)。
 「お夏清十郎」を引き合いに出して「人の道」を説く久作に対し、久松とお染は「分かりました」と答え表向きは説得された風を装いつつも、内心では二人で心中する覚悟を固めている(これも未遂だが、二人分なので1.0ポイント)。
 二人の内心を読み取ったお光は、自分が犠牲となって二人の命を救うべく、白無垢に袈裟を架けた姿で登場し、周囲に自分が出家したこと(久松との結婚を諦めたこと)をアピールする。
 つまり、お光は、「『イエ』からの離脱」というポトラッチを実行する(これは1.0ポイント)。
 「ばらの騎士」の元帥夫人のように、「静かに身を引く」という「正しいやり方で」はなく、わざわざ「出家」=「イエ原理からの離脱」を、しかも周囲にアピールするというドラスティックな手段を取らざるを得なかったところが、当時の社会が抱えていた問題性(「イエ」というレシプロシテ原理の地獄)を浮き彫りにしている。
 以上を総合すると、この芝居のポトラッチ・カウントは、3.5:★★★☆となる。
 ラストで、お常(お染の母)&お染は船で、久松は駕籠で、別々に大坂に帰ろうとする。
 お光と婚約しているはずの久松がお染たちと一緒に帰るのは、久作いわく「『世間の義理』に反する」からである。
 彼ら/彼女らの行動の参照規準は、徹頭徹尾「世間」なのである。
 ところで、この別離のシーンでは、二人の駕籠舁きが極めて重要な役割を演じている。
 これを”ディテールの巨匠”、二十歳の三島由紀夫が見逃すはずはなかった。

 「・・・廻り舞台、花道を十分活用し乍ら、床を生かした演出がすぐれてゐるし、カゴカキが息杖を掲げて足で拍子をとる、その間拍子とかけ声が糸に乗つて、悲劇をリズミカルに高潮させる。」(p174:昭和二十年一月三日)

 花道方向に駕籠と久松、反対方向に船とお常&お染が配置されるのだが、ここで観客が視線を注ぐべきは、お光と久松とのアイコンタクトである(船とお常&お染は、舞台の絵面=シンメトリーの要請から配置されているだけで、こちらをクローズ・アップする必要はない)。
 この直前、駕籠舁きが駕籠を下ろし、丸めた手ぬぐいで「暑い、暑い」と言いながら背中の汗を拭うユーモラスなシーンがあるが、私は歌舞伎座のこの演出は素晴らしいと思った。
 仕事の合間に汗を拭く駕籠舁きの「動」と「日常」に、「これが今生の別れ」とばかりにアイコンタクトを交わすお光と久松の「静」と「非日常」を対置させると同時に、しばし物語の進行を止めて、名残を惜しむお光と久松の交感を強調する意図があるわけだ。
 
コメント
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