<ポトラッチ・カウントのまとめ>
・新版歌祭文(1780年初演)・・・ 3.5
・籠釣瓶(事件発生は1716~35)・・・ 6.0
・義経千本桜 すし屋(1747年初演)・・・ 12.0
・仮名手本忠臣蔵 5・6段目(1748年初演)・・・11.0
こうして見てくると、今月の歌舞伎と文楽(とはいっても、歌舞伎座の公演と国立劇場の一部の公演に限った話だが)のポトラッチ・カウントは、やはり時代物の方が多く、世話物は少なくなっている。
ところが、時代物・世話物を問わず、ポトラッチが不成功に終わるケース、つまり”無駄死に”が多いことに驚く。
これは、加藤周一氏による元禄文化(代表的な人物は山本常朝と近松門左衛門)の説明を踏まえると、理解しやすいと思う。
要するに、元禄時代「武家の美徳」として賛美された「『犬死』の崇高化」という思考が、その後、他の階層にも浸透していった、これを反映して、世話物にもこの種の”犬死”が頻出するようになった、という仮説が成り立ちそうなのだ。
「要するに『葉隠』こそは、偉大な時代錯誤の記念碑であった。それが時代錯誤であったのは、おそらくは決して人と戦うこともなく六十歳まで生きることのできた人物が、誰も討死する必要のない時代に空想した討死の栄光だからであり、徳川体制が固定した主従関係を「下剋上」の戦国時代に投影して作りあげた死の崇高化だからである。誰も討死する必要のない時代の討死は、私的な喧嘩にすぎず、「犬死」としかいいようのないものであったから、『葉隠』は「犬死」を賛美したのである。たとえば、「四十七士」の敵討(1702)を批判して、『葉隠』はいう。彼らが泉岳寺でただちに腹を切らなかったのはいけない、敵討を延したのもよくない、その間に敵が病死したら残念千万ではないかと。・・・
その時代錯誤にもかかわらず、『葉隠』が偉大なのは、「私」を捨てて「一味同心」となることを強調し、自己の所属する特殊な集団そのものを価値として、その他いかなる普遍的な価値(儒・仏・神)もその集団に超越しないとしたからであり、その意味では、まさに典型的な日本の土着思想を代表していたからである。」(p514~515)
ここで言う「日本の土着思想」が、「イエ原理」=「祖霊崇拝」を指していることは言うまでもない。
なので、世話物においても、「当主」が子や女性や奉公人を殺害して”犬死”させるシーン(これが犯罪を構成しないというのには驚くしかないが・・・)が、おそらく違和感なく受け入れられたのだろう。
この「『犬死』の崇高化」(広義の「義理」)へのアンチテーゼとして、近松の心中物(広義の「人情」)が登場したというのが、加藤氏の指摘である。
「『葉隠』型の死は、避ければ避けられる場合に、みずから択んだ死である。・・・「曾根崎心中」型では、恋を捨てない限り、死は避けられない。そのような状況を支配していたのは、「義理」、すなわち一連の厳格な社会的規模(殊に身分・男女による極端な差別を前提としたところの)である。他方恋は、親子の情と共に、人間に自然に備る感情として、「人情」と呼ばれる。「義理」と「人情」の対立、あるいは外在的な規範と内在的な感情との対立のために、主人公たちは、抜け道のない袋小路に追いこまれる。彼らは死をみずから望んだのではなく、死を賭しても恋を望んだにすぎない。その死が崇高なのは、恋の極致が崇高だからであって、死そのものが、殊に「犬死」が、何か深刻で有難いものだからではない。」(p516~517。ちなみに、「社会的規模」というのは「社会的規範」の誤植のような気がする。)
もっとも、最近の演目の傾向からすると、「葛の葉」のような「人情」をテーマとしたものよりも、「忠臣蔵」的な「義理」を強調する演目の方が優勢なように思える。
いまだに「忠臣蔵」を素材とする新作(「俵星玄蕃」「荒川十太夫」)がつくられるような状況(歌舞伎座『俵星玄蕃』『荒川十太夫』特別チラシ公開
)については、近松先生(+加藤先生)もさぞ嘆いていることだろう。
・・・というわけで、3月はどうなりますことやら?