第一部(昼の部)の最後の演目は、「籠釣瓶花街酔醒」(かごつるべさとのえいざめ)で、「吉原100人斬り」と伝えられた実際の大量殺人事件を基に、講釈から脚色された世話狂言である。
これも故勘三郎が得意とした演目らしい。
映画版のあらすじ解説の方がまとまっているので借用してみた。
「上州佐野の絹商人、佐野次郎左衛門と下男の治六は、江戸で商いをした帰りに、話の種にと桜も美しい吉原へやってきます。
初めて見る華やかな吉原の風情に驚き、念願の花魁道中も見ていよいよ帰ろうとするところへ、吉原一の花魁、八ツ橋の道中と遭遇します。
この世のものとは思えないほど美しい八ツ橋に次郎左衛門は魂を奪われてしまいます。
それから半年、あばた顔の田舎者ながら人柄も気前も良い次郎左衛門は、江戸に来る度に八ツ橋のもとへ通い、遂には身請け話も出始めます。
しかし八ツ橋には繁山栄之丞という情夫がおり、身請け話に怒った栄之丞は次郎左衛門との縁切りを迫ります。」
初めて見る華やかな吉原の風情に驚き、念願の花魁道中も見ていよいよ帰ろうとするところへ、吉原一の花魁、八ツ橋の道中と遭遇します。
この世のものとは思えないほど美しい八ツ橋に次郎左衛門は魂を奪われてしまいます。
それから半年、あばた顔の田舎者ながら人柄も気前も良い次郎左衛門は、江戸に来る度に八ツ橋のもとへ通い、遂には身請け話も出始めます。
しかし八ツ橋には繁山栄之丞という情夫がおり、身請け話に怒った栄之丞は次郎左衛門との縁切りを迫ります。」
この作品の設定で注目すべきは、毎度おなじみの「イエ」が、ストレートな形では出てこないところである。
一応、引手茶屋の「立花屋」という「イエ」が出て来るものの、その亭主:長兵衛と八ツ橋との間に血縁関係はない(劇中では「父親代わり」(≒「後見人」といったくらいの意味だろうか?)というセリフが出たような気がする。)。
要するに、八ツ橋は、伝統的な「イエ」から逸脱した存在という位置づけである(まあ、花魁になるような女性は、おそらくそういう境遇なのだろう。)。
また、八ツ橋の間夫(まぶ)である栄之丞は浪人者で、これまた「イエ」からはぐれた人物であり、八ツ橋の稼いだ金で生活している。
このほか、かつて八ツ橋の父に仕えていた権八という男がいて、長兵衛に金をせびって遊び暮らしている。
つまり、複数の人間が、「金のなる木」である花魁:八ツ橋に寄生しているのである。
他方、この作品の主人公である次郎左衛門は、三日とおかずに佐野から吉原に通い、果ては八ツ橋を身請けしようと企てるくらいなので、おそらく独身者であり、やはり「イエ」からはぐれそうになっている人物のようだ。
こうした特殊な設定のもと、この物語は、八ツ橋とそれを取り合う二人の男---次郎左衛門と栄之丞の争い(早い話が「三角関係」)を中核として展開していく。
ところが、典型的な「三角関係」のストーリーとは違って、栄之丞は基本的には表に出て来ず、次郎左衛門と正面から勝負することはない。
それでいて彼は、八ツ橋には次郎左衛門への「縁切り」を強要し、これが悲劇を呼ぶことになる。
カブキ101物語 新装版~籠釣瓶
「次郎左衛門は、八ツ橋の身請けの内々の披露目をする積りで、仲間の同郷の絹商人、丹兵衛と丈助を兵庫屋の座敷へ呼んでいる。そこへ遅れて入って来た八ツ橋、次郎左衛門を見るなり、「あなたと口をきくのが、気分に障る」と取りつく島もない様子で、ついには身請けの話をなかったことにしてくれと言い出す始末。周囲も驚き、なんとかその場を取り繕おうとするが、八ツ橋の決意は固く、万座の中で恥をかかされた次郎左衛門は、じっと堪えて一言、「花魁、そりゃアちとそでなかろうぜ・・・・・・。」」(p54)
この4か月後、次郎左衛門は八ツ橋を惨殺するのだが、この時点で既に、彼が「カルメン」のドン・ホセとは決定的に違うことが分かる。