Don't Kill the Earth

地球環境を愛する平凡な一市民が、つれづれなるままに環境問題や日常生活のあれやこれやを綴ったブログです

コンサート・ホールにご用心

2024年02月19日 06時30分00秒 | Weblog
R.シュトラウス:交響詩「ドン・ファン」 作品20
ブルッフ:ヴァイオリン協奏曲第1番 ト短調 作品26
フランク:交響曲 ニ短調 
※ ソリスト・アンコール:イザイ「無伴奏ソナタ」第2番・第4楽章

 「名曲シリーズ」最終回は、R.シュトラウス「ドン・ファン」、ブルッフ「ヴァイオリン協奏曲第1番」、フランク「交響曲 ニ短調」という取り合わせ。
 「ドン・ファン」は、いい曲だが、笑ってしまいたくなるほどのワーグナーの模倣作品。
 シュトラウスは、当初はピアノで弾いたというのだから、ピアノ版を聴いてみたい気がする。
 ブルッフのコンチェルトは、上演頻度が非常に高いためか、私の場合、普通の演奏だと余り心に響かなくなってしまっている。
 今回のシモーネ・ラムスマさんの演奏は、(申し訳ないが)「普通」という印象。
 ところが、アンコールのイザイに入ると、ストラディヴァリウスが目を覚ましたかのように、ホールじゅうに音が響き渡る。
 これも先日の辻井さんのように、「追い込み型」、つまり「スロー・スタート」パターンにはまったためなのだろうか?
 メインのフランク「交響曲 二短調」は、当初、
某音楽院教授「交響曲にイングリッシュ・ホルンを使った例など聞いたことがない。これは交響曲ではない。
グノー「無能の主張が教義にまで達している。
などと一部で酷評されたらしい。
 とはいえ、虚心坦懐に聴くと、フランクが「第九」をイメージして作った曲というだけあって、大団円に向けて緻密に構成されたなかなかの名曲である。
 こんな感じで、私などは良い選曲だと思うのだが、客席を見ると、やや空席が目立つ。
 この理由としては、もちろん選曲等の問題もあるが、そればかりではないだろう。
 この時期のコンサート・ホールで用心しなければならないのは、何といっても「感染症」であり、体調不良のため、あるいは感染予防のため、鑑賞を見合わせるお客さんが相当数いるのではないかと思うのである。
 先週もそうだったが、明らかに風邪(又はインフルエンザなど)に罹患していると思われるお客さん(それも結構な数)が、「ゲボゲボ」とせき込みながら鑑賞しているのを見かけた。
 「せっかく買ったチケットだから、体調悪いけど行ってみよう」という気持ちは分からないでもないが、こういう状況を見ると、「しばらくコンサートに行くのは控えよう」と考えるお客さんが出て来てもおかしくない。
 このスパイラルが、空席率の上昇を招いているのかもしれないのである。
 
 
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ショパン・コンクールの覇者(3)

2024年02月18日 06時30分00秒 | Weblog
曲目・演目
ルトスワフスキ:小組曲
ショパン:ピアノ協奏曲 第2番 ヘ短調 Op.21
ベートーヴェン:交響曲 第7番 イ長調 Op.92

 2021年のショパン・コンクールの覇者であるブルース・リウがショパンのコンチェルトを弾くというので、さすがに大入り満員。
 だが、当初予定されていたオーケストラとリウの共演による「ショパン:ポーランドの民謡による大幻想曲 イ長調 Op. 13 」が、「演奏者の強い希望により」オーケストラのみによる「ルトスワフスキ:小組曲」に差し替えとなっており、ちょっと残念。
 多忙でリハーサルの時間もおそらく十分取れないであろうリウへの配慮ではないかと勘ぐったりもする。
 さて、ショパンのコンチェルト2番だが、私個人は、(2楽章は別として)あまり好きな曲ではない。
 1楽章の完成度とはレベルが違うような気がするのである。
 リウの演奏は、予想通り、緩急のついた見事な完璧な演奏であった。
 アンコールの1曲目は「ラ・カンパネラ」だが、これも見事な演奏で、特に小指と薬指のタッチの強さが目に付いた。
 昨年彼のソロ・コンサートに行ったとき、「和音の美しさ」(割れて聞える場面が皆無)に驚いたのだったが(リーとリウ)、その理由は、どうやら小指と薬指の強さにありそうな気がする。
 「ショパン・コンクールで優勝するためには、小指と薬指を強化すべし」ということかもしれない。
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通過儀礼=「父たる地位」の拒絶

2024年02月17日 06時30分00秒 | Weblog
 「第1幕】裕福な独身老人ドン・パスクワーレは主治医マラテスタに花嫁探しを依頼した。実はパスクワーレの甥エルネストの親友でもあるマラテスタは、妹を薦める。エルネストの恋人ノリーナを自分の妹と偽ってパスクワーレと結婚させ辟易させて、逆にエルネストとの結婚を認めさせようという魂胆だ。エルネストが伯父の勧める結婚話を断ると、パスクワーレは自分が結婚して子を設けると宣言。エルネストは財産を相続してノリーナを迎える夢が破れ嘆く。

 ドニゼッティのオペラ・ブッファ。
 「愛の妙薬」と同様、ドタバタ喜劇なので、歌舞伎や文楽と違って安心して観られる。
 びっくりしたのは、歌手のパフォーマンスがハイレベルなこと。
 声量も十分だし、演技力が抜群である。
 マラテスタ役の上江隼人さんが、海外から招へいした歌手と互角以上の活躍を見せ、大きな拍手を受けていた。
 さて、第一幕のあらすじから分かるように、ドン・パスクワーレは裕福な独身老人であり、70歳になるまで”結婚”という通過儀礼を経験せずに生きてきた。
 これには、商人・手工業者の同業組合において結婚可能な地位に上り詰めるには相当長期を要するために男性の結婚年齢が高く、他方で女性側は持参金が要求されたという、当時の社会状況がある。
 つまり、通過儀礼を経験すること自体が容易ではないのである。
 そのドン・パスクワーレが、70歳になって「結婚して子どもをつくる」と宣言した。
 推定相続人の甥:エルネストが、貧乏な未亡人:ノリーナと結婚しようとしているのを知って、エルネストには相続させたくないと思ったのである。
 ドン・パスクワーレはエルネストらの計略に引っ掛かり、最終的にはエルネストの結婚を許すとともに、自身の結婚話は立ち消えとなる。
 ちなみに、演出者のステファノ・ヴィツィオーリ氏は、ドン・パスクワーレを「このオペラの真の道徳的勝利者」だとしているが、全くそのとおりである。

 「ジークフリート王子の誕生日を祝う宴の場、女王は翌日に催す舞踏会で花嫁を選び結婚するよう王子に命じる。王子は物思いに沈み、現実逃れのために夢に憩いを求める。そんな王子の前にロットバルトの邪悪な呪いにより白鳥に姿を変えられた娘オデットが現れる。すっかりとりこになり、呪いを解くには男性が彼女に永遠の愛を誓うしかないと知った王子はオデットを助ける約束をするのだが、花嫁選びの舞踏会に現れた白鳥に瓜ふたつのロットバルトの娘、オディールに心を奪われてしまい結婚を申し込んでしまう。自分の過ちに気づき深い絶望に苛まれる王子は湖の幻影で嘆くオデットに許しを求めるのだが...。

 ヌレエフ版「白鳥の湖」を通しで観るのは初めてだが、第一幕から唖然とするシーンの連続である。
 まず、ジークフリート王子が椅子に座って夢想にふけっている姿で登場するのが意表を突く。
 華やかな饗宴が催されているというのに、王子はひたすら憂愁に沈んでおり、ときどき「プイッ」と舞台の外に姿を消したりする(殆ど踊りもしない)。
 王子が唯一関心を示しているのは、家庭教師:ヴォルフガングであり、王子が動くのは、だいたい彼の近くに行くときである。
 ここまでの設定で分かるのは、この王室には「王」(ジークフリートの父)が存在しないこと=「父の不在」である。
 王子がやたらとヴォルフガングに纏わり付くのは、精神分析的に言えば、「ヴォルフガングを父親にしたい=自分はその息子になりたい」という願望の現れと解することが出来る。
 こう解釈すると、王子が、通過儀礼=「王」(父)になることに対して頑強に抵抗する理由が分かる。
 また、ヴォルフガングの真の姿であるロットバルトの”娘”(実際は娘ではない)であるオデット=オディールに王子が惹かれる理由も容易に理解できる。
 オデット=オディールと結婚することは、ヴォルフガング=ロットバルトの「息子」になることを意味するからである。
 ・・・こんな風に、王子は、通過儀礼=「父たる地位」に就くことを、「息子たる地位に就く」ことによって拒絶するのだが、これが失敗することは言うまでもない。
 オデット=オディールは、実際はヴォルフガング=ロットバルトの娘ではないからである。
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2月のポトラッチ・カウント(8)

2024年02月16日 06時30分00秒 | Weblog
<ポトラッチ・カウントのまとめ>
・新版歌祭文(1780年初演)・・・         3.5
・籠釣瓶(事件発生は1716~35)・・・      6.0
・義経千本桜 すし屋(1747年初演)・・・    12.0
・仮名手本忠臣蔵 5・6段目(1748年初演)・・・11.0

 こうして見てくると、今月の歌舞伎と文楽(とはいっても、歌舞伎座の公演と国立劇場の一部の公演に限った話だが)のポトラッチ・カウントは、やはり時代物の方が多く、世話物は少なくなっている。
 ところが、時代物・世話物を問わず、ポトラッチが不成功に終わるケース、つまり”無駄死に”が多いことに驚く。
 これは、加藤周一氏による元禄文化(代表的な人物は山本常朝と近松門左衛門)の説明を踏まえると、理解しやすいと思う。
 要するに、元禄時代「武家の美徳」として賛美された「『犬死』の崇高化」という思考が、その後、他の階層にも浸透していった、これを反映して、世話物にもこの種の”犬死”が頻出するようになった、という仮説が成り立ちそうなのだ。

 「要するに『葉隠』こそは、偉大な時代錯誤の記念碑であった。それが時代錯誤であったのは、おそらくは決して人と戦うこともなく六十歳まで生きることのできた人物が、誰も討死する必要のない時代に空想した討死の栄光だからであり、徳川体制が固定した主従関係を「下剋上」の戦国時代に投影して作りあげた死の崇高化だからである。誰も討死する必要のない時代の討死は、私的な喧嘩にすぎず、「犬死」としかいいようのないものであったから、『葉隠』は「犬死」を賛美したのである。たとえば、「四十七士」の敵討(1702)を批判して、『葉隠』はいう。彼らが泉岳寺でただちに腹を切らなかったのはいけない、敵討を延したのもよくない、その間に敵が病死したら残念千万ではないかと。・・・
 その時代錯誤にもかかわらず、『葉隠』が偉大なのは、「私」を捨てて「一味同心」となることを強調し、自己の所属する特殊な集団そのものを価値として、その他いかなる普遍的な価値(儒・仏・神)もその集団に超越しないとしたからであり、その意味では、まさに典型的な日本の土着思想を代表していたからである。」(p514~515)

 ここで言う「日本の土着思想」が、「イエ原理」=「祖霊崇拝」を指していることは言うまでもない。
 なので、世話物においても、「当主」が子や女性や奉公人を殺害して”犬死”させるシーン(これが犯罪を構成しないというのには驚くしかないが・・・)が、おそらく違和感なく受け入れられたのだろう。
 この「『犬死』の崇高化」(広義の「義理」)へのアンチテーゼとして、近松の心中物(広義の「人情」)が登場したというのが、加藤氏の指摘である。

 「『葉隠』型の死は、避ければ避けられる場合に、みずから択んだ死である。・・・「曾根崎心中」型では、恋を捨てない限り、死は避けられない。そのような状況を支配していたのは、「義理」、すなわち一連の厳格な社会的規模(殊に身分・男女による極端な差別を前提としたところの)である。他方恋は、親子の情と共に、人間に自然に備る感情として、「人情」と呼ばれる。「義理」と「人情」の対立、あるいは外在的な規範と内在的な感情との対立のために、主人公たちは、抜け道のない袋小路に追いこまれる。彼らは死をみずから望んだのではなく、死を賭しても恋を望んだにすぎない。その死が崇高なのは、恋の極致が崇高だからであって、死そのものが、殊に「犬死」が、何か深刻で有難いものだからではない。」(p516~517。ちなみに、「社会的規模」というのは「社会的規範」の誤植のような気がする。)

 もっとも、最近の演目の傾向からすると、「葛の葉」のような「人情」をテーマとしたものよりも、「忠臣蔵」的な「義理」を強調する演目の方が優勢なように思える。
 いまだに「忠臣蔵」を素材とする新作(「俵星玄蕃」「荒川十太夫」)がつくられるような状況(歌舞伎座『俵星玄蕃』『荒川十太夫』特別チラシ公開
)については、近松先生(+加藤先生)もさぞ嘆いていることだろう。
 ・・・というわけで、3月はどうなりますことやら?

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2月のポトラッチ・カウント(7)

2024年02月15日 06時30分00秒 | Weblog
 「国立劇場が主催する人形浄瑠璃文楽の2月公演で、人形遣い吉田玉助(57)=写真=が第1部「仮名手本忠臣蔵」の早野勘平を遣う。これまで若手や中堅が中心の鑑賞教室ではこの役をつとめてきたが、いよいよ本公演に登場。5~13日、東京都新宿区の日本青年館ホールで開かれる。 
 上演される五、六段目は武士から猟師に身をやつした勘平が、討ち入りに加わるため名誉を挽回しようとする場面。妻おかるとその家族も力を貸すが、事態は悪い方へ転がっていく。・・・
 見どころは、勘平が切腹した際の語り。「おかるの母たちとのやりとりが重要。掛け合いをうまくできれば」。衣装の色合いが暗く、舞台全体がモノトーンになりがちだからこそ「しっかりした華のある役どころに仕上げたい」と語った。

 国立劇場が改築中のため、ラッキーなことに、職場に近いところで文楽公演が開催されるというので、第一部を観に行った(会場を長期間押さえられなかったせいか、開催期間が9日間と短く、日程が合わないので第二部と第三部には行けずじまい.。)。
 第一部の12時から14時20分という時間帯は、昼休みの時間を含めて仕事の合間に行けるのでありがたい。
 もっとも、会場は一般の多目的ホールのため、国立劇場のように弁当を売っていないのは難点である。
 メインは、「仮名手本忠臣蔵」の5・6段目。
 開幕前の豊竹呂太夫の紹介の時、客席から「待ってました!」という掛け声がかかる。
 文楽における主役は太夫であり、人形遣いは太夫のセリフに合わせる立場のようである。
 豊竹呂太夫は4人の人物の声を使い分けるが、とりわけ切腹する勘平は迫真の演技で、この人は”プチ切腹”をしたことがあるんじゃないかと思えてくるほどである。
 また、彼の話ぶりを実際に聞くと、日本で「声優」という職業が発展した理由がよく分かるような気がする(そうすると、人形→アニメ、太夫→声優ということか?)。
 主君:塩谷判官の一大事の際、妻のおかると色ごとに耽っていて立ち会えなかった勘平は、今は浪人の身となり、狩りをして暮らしている。
 勘平は、「殿の御大事に外れたる」ことを悔いる余り、おかるを廓に売って、仇討ちのための軍資金を作ろうとする(ポトラッチ・ポイント1.0)。
 おかるの父:与市兵衛は、おかるの身売り代金100両のうち半分の50両を持って帰る途中、強盗:斧定九郎に遭い、殺害される(仇討ち資金のために命を犠牲にしたので、ポトラッチ・カウントは5.0)。
 だが、その時、イノシシを目掛けて撃った勘平の鉄砲が定九郎に命中し、定九郎は絶命する。
 この経緯を知らない勘平は、死んだ定九郎が持っていた財布を発見し、これを自宅に持ち帰る。
 妻と婿が与市兵衛の帰りを待っていたところ、殺害された与市兵衛の遺体が運び込まれる。
 与市兵衛の突然の死に妻は悲嘆にくれるが、婿の勘平はなぜか泣きもしない。
 これを不審に思った与市兵衛の妻は、勘平が血の付いた財布を持っていることに気づき、彼を与市兵衛殺しの犯人と決めつける。
 「父様(ととさま)を返せ!」と激しく非難された勘平は、無罪の証明が出来ない状況に追い込まれ、切腹を断行する(ポトラッチ・ポイント5.0)。
 「魚屋宗五郎」や「義経千本桜~すし屋の段」もそうだが、事実確認を尽くさないまま死んだり殺したりするくだりが、歌舞伎や文楽では頻出する。
 ところが、与市兵衛の遺体を見分したところ、弾丸ではなく刀による傷が死因となっていることが判明し、勘平の無実が証明される(最初から遺体を確認しておけばよかったのである。)。
 だが、時すでに遅く、勘平は息絶える。
 その後、勘平が持っていた50両と残り50両は、仇討ちのための軍資金ではなく、勘平と与市兵衛の供養のための資金に充てられることが決定する。
 結局、勘平は完全な”無駄死に”に終わり、おかるの身売りも目的を達することが出来ないことが確定した。
 ひどいストーリーであるが、作家及び当時の観客の解釈は、おそらく、
 「勘平とおかるがこういう運命に遭うのは、主君の一大事の時に、プライベートを優先させて乳繰り合っていたからであり、因果応報というべきである。
というものだろう。
 現代に置き換えて言うと、「カイシャ存亡の危機にハネムーン休暇をとって海外旅行に出かけたが、戻ってきたらカイシャが倒産しており、整理解雇された。」という事例が考えられる。
 これと同様の思考に基づくのが、「単身赴任ハラスメント=新婚の社員やマイホームを新築したばかりの社員に対し単身赴任を余儀なくされるような辞令を好んで発するカイシャ」であろう。
 いずれにせよ、
 「滅私奉公しないとバチが当たるぞ!
という思考は、プラーベートを大切にするZ世代には理解不能だろう。
 以上を総合すると、「仮名手本忠臣蔵」5・6段目のポトラッチ・カウントは、11.0(★★★★★★★★★★★)となる。
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2月のポトラッチ・カウント(6)

2024年02月14日 06時30分00秒 | Weblog
 「梶原の厳しい詰問に弥左衛門が困っているところへ権太が首桶を抱え内侍と若君を縛って引いてきます。梶原は権太の手柄を賞賛して当座の褒美に頼朝公の陣羽織を与え母子を引き立てて行きます。
 計略が水の泡となり、弥左衛門は怒りの刃を権太のわき腹へ突き刺しました。権太は深傷に苦しみながら、間違えて持ち帰った桶の中に首があったので父親の忠義な心が判り、自分の子どもと女房を身代わりに立てて梶原を欺し、これまでの不孝を詫びる心算だったと打ち明けました。
 弥左衛門ははじめて知る権太の心根に胸を打たれますが、とき既に遅く、子に手をかけた悔恨の涙にくれるのであります。

 銀ではなく首の入った鮨桶を見て、権太は即座に父の計略(小金吾の首を維盛の首と偽って献上すること)を見抜き、加えて、自分の妻子を維盛の妻子の身代わりとして差し出したのである(このあたりはいかにも不自然な筋書きである。)。
 こうした事情を知らない弥左衛門は、事実確認を行うことなく、直ちに権太に太刀を刺す(こんな風に、事実確認を行わないまま殺人を行ってしまうところは、「魚屋宗五郎」に似ている。)。
 ここに至って、ようやく権太は自分の妻子を身代わりにしたことを明かし、
 「何ぼ鬼でも蛇心でも、親父さんたまったもんじゃござんせんぜ、母者人、たまったもんじゃごんせんごんせん、可哀や女房倅めがわっと一声、その時は、コレ、血、血、血を吐きました。
と述べた後、息絶える。
 作家、あるいは当時の観客にとっては、ここが最大の「泣き」の場面だったようだが、ここには、主君のための「自己犠牲」が美徳とされていた社会の病理があらわれている。
 権太は全くの無駄死にであるが、結果的に人命が犠牲に供されたので、ポトラッチ・ポイントは5.0。
 権太の妻子は梶原景時がおそらく寛大な処分を下して命は救うと思われるので、ポトラッチ・ポイントは二人分で2.0。
 以上を総合すると、「義経千本桜 すし屋」のポトラッチ・カウントは、12.0(★★★★★★★★★★★★)となる。
 ところで、「すし屋」に似た事件が、最近プロ野球の世界で起こった。
 それは、ソフトバンクの「人的補償」問題である。

 「今回の騒動は、西武がプロテクトから外れていた和田を人的補償として指名し、うちで現役生活をまっとうしたいと願う和田がそれを受け入れられずに引退を伝えたことから始まった。・・・
 西武の渡辺久信GMは最初、人的補償として石川柊太、無償は三森大貴がほしいと言ってきたそうです。ソフトバンクにしてみると、それはさすがに飲めないとなり、その後も人的補償に関しては周東佑京や中村晃の名前も出て、それも難しいとなった末、最終的に甲斐野に落ち着いた。

 この件では、和田投手のポトラッチ(「トレードなら引退します」)が奏功した形だが、その犠牲となった甲斐野投手の口からは、次のようなセリフが出たのかもしれない。
 「監督さん、たまったもんじゃござんせんぜ、会長さん、たまったもんじゃごんせんごんせん・・・。
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2月のポトラッチ・カウント(5)

2024年02月13日 06時30分00秒 | Weblog
一、猿若江戸の初櫓
二、義経千本桜 すし屋
三、連獅子

 第二部(夜の部)は”とちり席”が取れず、やむなく前から三列目・右前方の席をゲット。
 舞台全体や花道を観るのは難しいものの、大道具・小道具類は細部まで鮮明に見えるし(首などは5メートルほどの至近距離)、脳出血の後遺症を抱える兄・中村福助を気遣う弟・中村芝翫の「大丈夫?」という声もはっきりと聞こえる(福助は歩行が困難で、黒子が二人がかりで補助をしている。)。
 さて、夜の部の演目のうち、社会学的・法学的観点から分析の対象となるのは、義経千本桜の三段目「すし屋」である。

 「鮨屋の娘お里は、この家にいる弥助と祝言を挙げることになっている。兄のいがみの権太が入ってきて、母から三貫目の金をだまし取って帰ろうとすると、親父の弥左衛門が戻ってきたので、あわてて金を鮨桶に隠して、奧に引っ込む。 
 帰宅した弥左衛門は、ある生首を鮨桶に隠し、弥助をうやうやしく上座に据えて、維盛(これもり)の首を出せとの詮議が厳しいので隠居所の上市村へ隠れてくれ、という。そこへ、一夜の宿を求める旅人が来る。維盛の妻と子であった。維盛は再会を喜ぶが、事情を知ったお里は嘆くばかりである。以上の事情を知った権太は、したり顔で鮨桶を持って去って行った。・・・」
 
 この演目もやはり設定が重要なのだが、主人公「いがみの権太」は、札付きのならず者で、度を過ぎた素行不良のため、父親の弥左衛門から勘当されていた。
 つまり、権太は「イエ」秩序のアウトサイダーである。
 権太は、母からせびった銀が入っているはずの鮨桶を持っていくが、中には弥左衛門が持ってきた人の首が入っていた。
 この「すり替え」の設定は、「尺には尺を」の首のすり替え(ヘッド・トリック:head trick)に似ている。
 作者:並木千柳がシェイクスピアを読んでいたということはあり得ないから、洋の東西を問わず「首のすり替え」が行われていたということなのだろう。
 さて、権太が持って行った首は、もちろん維盛の首ではない。
 維盛の妻(若葉の内侍)と子(六代君)の供をし、彼女たちを守護した末に追手に討たれた主馬小金吾(しゅめのこきんご)の首であった(主君の妻子の犠牲となり命を失ったことから、ポトラッチ・ポイントは5.0)。
 権太は、この首をいったいどうするのだろうか?
 
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2月のポトラッチ・カウント(4)

2024年02月12日 06時30分00秒 | Weblog
 「籠釣瓶」が「カルメン」と決定的に違うのは、次郎左衛門と八ツ橋の関係は「個人VS.個人」ではなく「集団VS.集団」であるという点である。
 「カルメン」の別れ話は、あくまでカルメンとドン・ホセという「個人VS.個人」の間の問題だった。
 ところが、「縁切り」の場で分かる通り、次郎左衛門と八ツ橋は、いずれも背後に集団を背負った男女であり、集団間の贈与が不成立に終わったことが悲劇の根本原因となっている。
 八ツ橋には間夫である栄之丞がいるが、浪人者であるため「当主」の資格を欠く(「イエ」を構成できない)。
 権八は単なる寄生者であり、これも八ツ橋一家の構成員ではない。
 「イエ」秩序のアウトサイダーであるこの二人が生きていくためには、八ツ橋がいつまでも花魁でいてくれることが必要である。
 対して、八ツ橋の”後見人”である長兵衛(夫婦)は、次郎左衛門に八ツ橋を身請けしてもらい(次郎左衛門の「イエ」に入ってもらい)、多額の金銭を得ることを望んでいるが、問題は、長兵衛は「当主」の力を持たない”お飾り”に過ぎないことである(この状況は現在の清和会に似ているような気がする。)。
 このように、「八ツ橋グループ」は分裂しているところ、実権を握る栄之丞の一存で「愛想尽かし」、すなわち次郎左衛門に対する「縁切り」が実行される。
 だが、次郎左衛門は個人として登場しているのではなく、地元の絹商人仲間と連れ立って、公式に「身請け」を申し入れているのであり、集団=「次郎左衛門グループ」として贈与(しかもポトラッチ的贈与)を行おうとしている(ポトラッチ・カウント1.0)。
 これを八ツ橋は、「万座の中で恥をかかせる」形で拒絶する。
 かかる行為は、モース先生が言うところの「贈り物を受領する義務」(l'obligation de recevoir)に対する重大な違反行為であり、大量虐殺を招きかねない(命と壺(10))。
 案の定、次郎左衛門は、地元で身辺整理をした後、再び吉原に出向き、「よくも恥をかかせてくれたな!」と叫びながら八ツ橋を斬り殺す。
 ここには、ドン・ホセのような、愛が反転したものとしての「憎しみ」(おやじとケモノと原初的な拒否)は存在しない。
 その代わり、「恥」、すなわち「準拠集団内における地位喪失」への代償として、八ツ橋の命が要求される(人命が失われたので、ポトラッチ・ポイントは5.0)。
 以上を総合すると、「籠釣瓶」のポトラッチ・カウントは、6.0(★★★★★★)となる。
 
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2月のポトラッチ・カウント(3)

2024年02月11日 06時30分00秒 | Weblog
 第一部(昼の部)の最後の演目は、「籠釣瓶花街酔醒」(かごつるべさとのえいざめ)で、「吉原100人斬り」と伝えられた実際の大量殺人事件を基に、講釈から脚色された世話狂言である。
 これも故勘三郎が得意とした演目らしい。
 映画版のあらすじ解説の方がまとまっているので借用してみた。

 「上州佐野の絹商人、佐野次郎左衛門と下男の治六は、江戸で商いをした帰りに、話の種にと桜も美しい吉原へやってきます。
 初めて見る華やかな吉原の風情に驚き、念願の花魁道中も見ていよいよ帰ろうとするところへ、吉原一の花魁、八ツ橋の道中と遭遇します。
 この世のものとは思えないほど美しい八ツ橋に次郎左衛門は魂を奪われてしまいます。
 それから半年、あばた顔の田舎者ながら人柄も気前も良い次郎左衛門は、江戸に来る度に八ツ橋のもとへ通い、遂には身請け話も出始めます。
 しかし八ツ橋には繁山栄之丞という情夫がおり、身請け話に怒った栄之丞は次郎左衛門との縁切りを迫ります。

 この作品の設定で注目すべきは、毎度おなじみの「イエ」が、ストレートな形では出てこないところである。
 一応、引手茶屋の「立花屋」という「イエ」が出て来るものの、その亭主:長兵衛と八ツ橋との間に血縁関係はない(劇中では「父親代わり」(≒「後見人」といったくらいの意味だろうか?)というセリフが出たような気がする。)。
 要するに、八ツ橋は、伝統的な「イエ」から逸脱した存在という位置づけである(まあ、花魁になるような女性は、おそらくそういう境遇なのだろう。)。
 また、八ツ橋の間夫(まぶ)である栄之丞は浪人者で、これまた「イエ」からはぐれた人物であり、八ツ橋の稼いだ金で生活している。
 このほか、かつて八ツ橋の父に仕えていた権八という男がいて、長兵衛に金をせびって遊び暮らしている。
 つまり、複数の人間が、「金のなる木」である花魁:八ツ橋に寄生しているのである。
 他方、この作品の主人公である次郎左衛門は、三日とおかずに佐野から吉原に通い、果ては八ツ橋を身請けしようと企てるくらいなので、おそらく独身者であり、やはり「イエ」からはぐれそうになっている人物のようだ。
 こうした特殊な設定のもと、この物語は、八ツ橋とそれを取り合う二人の男---次郎左衛門と栄之丞の争い(早い話が「三角関係」)を中核として展開していく。
 ところが、典型的な「三角関係」のストーリーとは違って、栄之丞は基本的には表に出て来ず、次郎左衛門と正面から勝負することはない。
 それでいて彼は、八ツ橋には次郎左衛門への「縁切り」を強要し、これが悲劇を呼ぶことになる。

 「次郎左衛門は、八ツ橋の身請けの内々の披露目をする積りで、仲間の同郷の絹商人、丹兵衛と丈助を兵庫屋の座敷へ呼んでいる。そこへ遅れて入って来た八ツ橋、次郎左衛門を見るなり、「あなたと口をきくのが、気分に障る」と取りつく島もない様子で、ついには身請けの話をなかったことにしてくれと言い出す始末。周囲も驚き、なんとかその場を取り繕おうとするが、八ツ橋の決意は固く、万座の中で恥をかかされた次郎左衛門は、じっと堪えて一言、「花魁、そりゃアちとそでなかろうぜ・・・・・・。」」(p54)

 この4か月後、次郎左衛門は八ツ橋を惨殺するのだが、この時点で既に、彼が「カルメン」のドン・ホセとは決定的に違うことが分かる。
 
 
 
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2月のポトラッチ・カウント(2)

2024年02月10日 06時30分00秒 | Weblog
 「養父への義理から別れ話を持ち出す久松と二人きりになったお染は、自害しようとする。それを見て、久松は二人で死ぬことを約束する。そこへ、事の成り行きをみていた久作に人の道に反していると諭され、二人は別れを誓うが、お互い心中の覚悟を決めていた。
 祝言の席でお光が綿帽子を取ると、髪を切り尼の姿になっていた。お光は二人の心を察し、自分が身を引けば、二人が幸せになれると考えたのだった。

 養父への義理を重んじる久松は、「『イエ』の御恩に報いる」ため、お染と別れようとするが、これにお染は「自殺」というポトラッチによって応じようとする(ポトラッチ・カウント:自殺は未遂なので0.5ポイント)。
 これを受けた久松は、二人で死ぬ、つまり「心中」を決意する(これも未遂なので0.5ポイント)。
 歌舞伎では、この後養父の久作が割って入り、「二人が死ぬんならわしも死ぬ」と叫んで剃刀を奪って死のうとする(これも未遂なので0.5ポイント)。
 「お夏清十郎」を引き合いに出して「人の道」を説く久作に対し、久松とお染は「分かりました」と答え表向きは説得された風を装いつつも、内心では二人で心中する覚悟を固めている(これも未遂だが、二人分なので1.0ポイント)。
 二人の内心を読み取ったお光は、自分が犠牲となって二人の命を救うべく、白無垢に袈裟を架けた姿で登場し、周囲に自分が出家したこと(久松との結婚を諦めたこと)をアピールする。
 つまり、お光は、「『イエ』からの離脱」というポトラッチを実行する(これは1.0ポイント)。
 「ばらの騎士」の元帥夫人のように、「静かに身を引く」という「正しいやり方で」はなく、わざわざ「出家」=「イエ原理からの離脱」を、しかも周囲にアピールするというドラスティックな手段を取らざるを得なかったところが、当時の社会が抱えていた問題性(「イエ」というレシプロシテ原理の地獄)を浮き彫りにしている。
 以上を総合すると、この芝居のポトラッチ・カウントは、3.5:★★★☆となる。
 ラストで、お常(お染の母)&お染は船で、久松は駕籠で、別々に大坂に帰ろうとする。
 お光と婚約しているはずの久松がお染たちと一緒に帰るのは、久作いわく「『世間の義理』に反する」からである。
 彼ら/彼女らの行動の参照規準は、徹頭徹尾「世間」なのである。
 ところで、この別離のシーンでは、二人の駕籠舁きが極めて重要な役割を演じている。
 これを”ディテールの巨匠”、二十歳の三島由紀夫が見逃すはずはなかった。

 「・・・廻り舞台、花道を十分活用し乍ら、床を生かした演出がすぐれてゐるし、カゴカキが息杖を掲げて足で拍子をとる、その間拍子とかけ声が糸に乗つて、悲劇をリズミカルに高潮させる。」(p174:昭和二十年一月三日)

 花道方向に駕籠と久松、反対方向に船とお常&お染が配置されるのだが、ここで観客が視線を注ぐべきは、お光と久松とのアイコンタクトである(船とお常&お染は、舞台の絵面=シンメトリーの要請から配置されているだけで、こちらをクローズ・アップする必要はない)。
 この直前、駕籠舁きが駕籠を下ろし、丸めた手ぬぐいで「暑い、暑い」と言いながら背中の汗を拭うユーモラスなシーンがあるが、私は歌舞伎座のこの演出は素晴らしいと思った。
 仕事の合間に汗を拭く駕籠舁きの「動」と「日常」に、「これが今生の別れ」とばかりにアイコンタクトを交わすお光と久松の「静」と「非日常」を対置させると同時に、しばし物語の進行を止めて、名残を惜しむお光と久松の交感を強調する意図があるわけだ。
 
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