Don't Kill the Earth

地球環境を愛する平凡な一市民が、つれづれなるままに環境問題や日常生活のあれやこれやを綴ったブログです

2種類の怒り、あるいは神経症と統合失調症(5)

2024年12月11日 06時30分00秒 | Weblog
 「・・・情動とは、衝動と動機の機構や、報酬と罰の機構から一段進んだ段階であり、これは地球上の全生物が持つ本質的特徴だ。・・・
 「恐れ」を例に取ってみる。恐れは、生物学的観点から最もよく研究された情動の一つだ。恐れの情動を構成する作用は、心臓、肺、腸で発生し、鎮痛作用をもたらす予備的行動が含まれる。恐れを感じるとき、人間の系全体が自動的に痛みへの反応を減少させるからだ。これには、コルチゾールを分泌するホルモン系で生じる作用も含まれる。これらすべての作用は、生物界全体に見られる。人間も恐れを引き起こす対象に対して、その場で停止するか、危険の源から逃げるかなど、特定の注意行動を起こす。これは、人間が恐れの情動を引き起こす対象とともに、それと関係が深い特徴を思い起こす特定の認知モードと戦略を持っているためだ。すなわち恐れという情動時に、望むか望まないかを特定の方法で考えることができるということにほかならない。・・・
 現在、情動に関する研究で大きく進歩している領域の一つが、情動プロセスで、このプロセスには4段階ある。情動にかなう刺激の評価、情動の誘発、情動の実行、そして最終的に情動の状態形成に対して、脳のどの部分が応答するかは、各段階で異なる。情動にふさわしい刺激が主に大脳皮質で評価され、皮質や皮質下で誘発され、脳幹や視床下部など脳領域の主に皮質下で実行され、最後に情動状態が脳だけでなく全身にも発生する。・・・
 それでは、人間は情動をどこで感じるのだろう。数年前、私たちは、情動は主に島皮質と呼ぶ大脳皮質のプラットフォームで感じると提唱した。今日この領域は、感情の処理装置として機能していることが明らかになっている。では、感情は大脳皮質のみで感じられるのかというと、答えはノーだ。脳幹内には感情の生成にとって重要な別の機構がある。これは大脳皮質がなく、島も全くない状態で生まれた患者の研究で分かる。水無脳症と呼ばれる状態にあるこの患者は、島皮質がないにもかかわらず、情動と感情を持っている。この例からも、感情体系を構成するレベルが複数あることが分かる。

 「情動」について考える場合、いちばん分かりやすいのが「恐れ」である。
 これが、感覚装置→大脳(島皮質など)あるいは脳幹→身体というルートを通って発現するわけである(引用した講演では「感覚装置」には言及されていないが、おそらく自明なので省略されたものと思われる)。
 「恐れ」は、デイヴ・アスプリーによれば、最重要のミトコンドリアの習性、すなわち「第1のF」である。
 つまり、生存が脅かされる蓋然性が高い状況に対して、「逃げる」、「隠れる」、「戦う」のいずれかの行動を選択すべきことを指示する大脳あるいは脳幹からの身体への電気信号なのである。
 これは、生命体の維持のためには必須な作用だが、機能不全を起こして、病気を発症することもある。
 例えば、ささいなことに「恐れ」を感じる状態が続くと、恐怖症性障害という病気とされる。
 医学的には、「大脳あるいは脳幹」→「身体」のプロセスに働きかけることが優先されるようで、薬物療法(抗不安薬や抗うつ剤の服用)が行なわれているようだ。
 だが、素人考えでは、まず、「感覚装置」→「大脳あるいは脳幹」のプロセスで補正を行うことが有効なのではないかとも考えられる。
 さあ、どうするか?
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2種類の怒り、あるいは神経症と統合失調症(4)

2024年12月10日 06時30分00秒 | Weblog
 <ケース1>も<ケース2>も、オブジェクト(「物」)を「主体」(animus を備えたもの)と妄想してしまうところは、コッペリウスやプーチンと共通しているようだ(「主体」化、あるいはコッペリウスとプーチン)。
 ただ、「エス」の発現形態について、(外界に対する)「復讐」なのか、それとも一種のフェティシズムなのか、という違いがあるだけである。
 もっとも、この違いは本質的なものではなく、フェティシズムも(怒りとして表現された)「原初的な拒否」も、実は同一の起源に発しているのだった(おやじとケモノと原初的な拒否)。
 さて、「怒り」は、アントニオ・ダマシオによれば、「感情」ではなく「情動」であって、「一次の情動」又は「普遍的情動」と位置づけられる。
 そして、「情動」の発生メカニズムには、次の2とおりがある。

 「情動はつぎの二つの場合の一つで生じる。第一の場合は、有機体が、その感覚装置の一つを使っていくつかの対象や状況を処理するとき---たとえば、よく見慣れた顔や場所の光景を取り込んだとき---情動が生じる。第二の場合は、有機体の心が、記憶をもとにいくつかの対象と状況を構築し、それらを思考のプロセスの中にイメージとして表象するとき---たとえば、友人の顔とその友人がつい先日死んでしまったという事実を思い出すとき---情動が生じる。」(p79)

 私見では、ダマシオが言うところの第一の場合が<ケース1>に、第二の場合が<ケース2>にそれぞれ対応していると思われる。
 <ケース1>では、電車のお気に入りの座席に老人が座る映像を少女の感覚装置=目が捉え、「怒り」という情動が誘発された。
 <ケース2>では、ある記憶(おそらくトラウマ体験)を基にある人物が攻撃してくる映像が老人の心=大脳の中で構築され、「怒り」という情動が誘発された。
 そして、この違いは、フロイト先生が指摘したところの「神経症」と「精神病」(統合失調症)の発症メカニズムの違いにも対応していると考えられるわけである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2種類の怒り、あるいは神経症と統合失調症(3)

2024年12月09日 06時30分00秒 | Weblog
 <ケース1>は、オブジェクトの問題、つまり人/物あるいは自/他の区別・境界が不分明であることから生じる現象であるらしいことが分かった。
 これはかなりプリミティヴな現象だが、私見では、<ケース2>も基本的なメカニズムは同じだと思う。
 この老人の家は防音体制がしっかりしており、外部からはヘルパーさんなども滅多に入ることがないので、”他者からの攻撃”を受けることはおよそ考えられない。
 それにもかかわらず、この人の脳内では、繰り返し”他者からの攻撃”が起こっている。
 つまり、ここでは、脳内の電気信号という「自己」の「物」の作用が、「他者」という「人」の攻撃に変換されているわけである。
 このメカニズムは、<ケース1>の少女が、電車の座席という「他」の「物」を、”自己の身体(の一部)”と認識したことの裏返しと言ってよい。
 ここで興味深いのは、どちらのケースでも、「怒り」という行動を惹き起こしたことである。
 これはどう説明すべきだろうか?

 「精神病の発生に際して、もちろん異なつた力域との間にだが、神経症における過程に似たものが起ると考えられる。また精神病でも次の二つの段階がはつきりしているといえる。その第一の段階は、こんどは自我が現実から離れることであり、第二は、傷手をまた回復し現実との関係がエスを犠牲にして復活することである。(中略)第二の段階は、神経症でも精神病でも同じ傾向をもつ。つまり、どちらのばあいにも、現実によつて強制されないエスの権力に、身を任せるのである。神経症も精神病も、外界に対するエスの復讐の二つの表現であり、現実の困難(※ギリシャ語につき省略)に順応することの不快さ、---不可能といつてもよいが---を示すものである。(中略)
 神経症者は現実を否定せず、現実について知ろうとしないだけだが、精神病者は現実を否定して、それを置き換えようとする。正常といい「健康」というのは、この二つの反応の、ある特徴を結びあわせて、神経症のように現実を避けることはまずなく、しかも精神病のように現実を変化させようもしない態度をいうのである。」(p169~170)
 
 例によって見事な分析だが、要するに、「怒り」は、「外界に対するエスの復讐」---<ケース1>は現実を否定する場合の、<ケース2>は現実を変化させる場合の---なのである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2種類の怒り、あるいは神経症と統合失調症(2)

2024年12月08日 06時30分00秒 | Weblog
 どちらも「自我」が関係しているらしいことは、私のような素人でも分かる。
 <ケース1>は、多くのお父さん・お母さんが経験していることだろうが、(電車の)「座席」というものが少女にとって何であるかという視点で考えるとよいかもしれない。

 「それで、結局は対人関係の問題なのに、なぜ対象ということなのかということになると、これまた発達論にさかのぼるのですけれども、生まれたばかりの赤ちゃんは、相手が人間だということは知らないし、人間の全貌なんて見えていません。赤ちゃんに見えているのは、お母さんのおっぱいとか、顔とか、腕とか、バラバラです。それはオブジェクトに過ぎない。だから、バラバラのオブジェクトとしてしか体験されていない。それがまとまって人間像になっていく。そうするとオブジェクトという言い方が適切だということになって、オブジェクトとしか言いようのない段階からの発達を扱っているということです。
 だから、大人になってみれば、オブジェクトは人間と同じです。それならば、内在化された対人関係と言っても構わない。けれども、それを対象関係と言い表すには今言ったような根拠があるのです。」(p40~41)
 
 そう、「座席」は少女にとっては”オブジェクト”なのであり、それが人であるか物であるかは差し当たり関係ない。
 さらに、赤ちゃんや幼児の場合、それが自己であるか他の人間・物であるかすら不分明である。
 ここで、”オブジェクト”の起源が一体何であるかを考えてみると、私見では、結局「自分の身体」というほかないのではないかと思う。
 つまり、赤ちゃんや幼児(あるいはそれに近い大人)は、”オブジェクト”を「自分の身体」の延長としてとらえていると思うのである。
 なぜなら、人間にはもともと「自体愛」の本能があるからである(おやじとケモノと原初的な拒否)。
 なので、フロイト先生であれば、
 「電車の座席は、少女の”erweiterten Ich”(拡張された自我)、というか、”erweiterten Leib”(拡張された身体)じゃよ。
 だから、これを奪われた少女は、自分の体が踏んづけられたと感じたんじゃないかな?
などと説明するのかもしれない。
 確かに、そういえば、声と全身で表現された少女の激しい怒りは、赤ちゃんや子供が怪我をした時に示す反応とそっくりだった。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2種類の怒り、あるいは神経症と統合失調症(1)

2024年12月07日 06時30分00秒 | Weblog
 最近、仕事中にこんな「怒り」の発現形態を見聞した。

<ケース1> お気に入りの座席を奪われた少女の怒り
 依頼者宅に向かう路面電車内の出来事。
 始発駅で乗り込むと満席で座れない状況。
 すると、私の前に並んでいた3、4歳くらいの少女が激しく泣き出した。
 お気に入りの座席に、先に乗り込んだ老人が座ってしまい、「席を奪われた」と思ったらしいのである。
 一緒にいたお父さんが懸命になだめるものの、その少女は、私も滅多に見ることがないほどの激しい怒りを、4、5駅の間=10分以上(!)も声と全身で表現し続けた。

<ケース2> 見えない敵に「やめなさい!」と大声で叫び続ける老人の怒り
 一人暮らしの老人。
 長らく統合失調症を病んでおり、最近、幻覚などの症状が悪化してきた。
 幻覚の内容は、見えない敵がさまざまな形で依頼者の脳や骨を攻撃してくるというもの。
 攻撃に耐えられなくなったこの老人は、ベランダに出て大声で「やめなさい!」などと長時間に亘って叫び続けた。

 ケース1もケース2も、「怒り」の発現形態ではあるが、原因とメカニズムはかなり違っている。
 さて、これをどう説明すべきだろうか?

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ソロからコーラスへ

2024年12月06日 06時30分00秒 | Weblog
指揮=鈴木優人
ソプラノ=ジョアン・ラン
メゾ・ソプラノ=オリヴィア・フェアミューレン
テノール=ニック・プリッチャード
バス=ドミニク・ヴェルナー
合唱=ベルリンRIAS室内合唱団


ベリオ:シンフォニア
モーツァルト:レクイエム ニ短調 K. 626(鈴木優人補筆校訂版)
 
<アンコール曲>
モーツァルト:アヴェ・ヴェルム・コルプス

 海外の歌手とベルリンRIAS室内合唱団を招いた広い意味での歌曲コンサート。
 前半の「シンフォニア」は「これぞ現代音楽」という曲で、音楽なのかどうかすら怪しい。
 例えば、1楽章ではレヴィ・ストロースの「生のものと火を通したもの」のテクストが読み上げられ、2楽章では呟き声がだんだん明瞭となり「マーティン・ルーサー・キング」の名が浮かび上がる。
 解説の澤谷夏樹さんは、この音楽を「不整脈」と評するが、確かに、真剣に聞いていると不整脈を発症しそうである。
 ともあれ、5楽章では(意味のある/意味のなさそうな)言葉、歌、楽器の音が同じリズムで演奏され、シンクロして一つの世界を作り上げた。
 これで先ほどまでの「不整脈」が治ったように感じる。
 これはこれで、普段味わうことの出来ない感動的な時間である。
 後半はモーツァルト「レクイエム」の鈴木優人氏による補筆校訂版である。
 改めて感じるのは、旧約聖書にあらわれた世界観・死生観はやはり恐ろしいということである。
 こうしたセム系の世界観・死生観は、(私が勝手に名付けた)「モース&ユベール・モデル」(命と壺(5))に含まれるはずだが、インド・ヨーロッパ系の世界観・死生観と違うのは、「終末」(この世の終わり)を観念しているところである。
 「レクイエム」の中でも、Ⅲ.Sequenz(セクエンツィア(続唱))の歌詞は恐ろしい。

 「怒りの日、その日こそ ダビデとシビラの預言のごとく この世は灰に帰さん。
 すべてを厳しくたださんと 審判者が来たもう時、いかに恐ろしきものならん。」(訳:今谷和徳氏)

 「この世は灰に帰さん」というのだから、「火」(=生命)の”媒介物”は絶滅してしまうのである。
 確かに、太陽にも寿命はあるそうだから、少なくとも太陽に由来する「火」はいつかは消えてしまうことになるが、その前に"媒介物"を絶やしてしまえというのだろうか?
 いや、旧約聖書の神は太陽を含む全宇宙を造ったはずなので、太陽も含め全宇宙を灰にしてしまうのだろう。
 さて、終演後、4回目くらいのカーテンコールの後、ソロ・パートを歌った4人の歌手は、舞台の袖に引っ込まず、なぜか舞台後方の合唱隊の前に並んで立った。
 明らかに、合唱によるアンコールが始まる気配である。
 そして、流れてきたのは・・・・・・。
 イントロですぐ分かる、モーツァルトの「アヴェ・ヴェルム・コルプス」だった。
 これほどアンコールにふさわしい曲も珍しいが、面白かったのは「ソリストがコーラスに合流する」というところ。
 「ソロからコーラスへ」という変身を見ることが出来たのである。
 これを能でやるとすれば、「シテ」が「地謡」に加わるという話になるだろうが、どこかでやってくれないかな?
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ロシア&ウクライナから日本へ

2024年12月05日 06時30分00秒 | Weblog
  • A.ショール/M.プレトニョフ:ピアノと管弦楽のための組曲 第2番 [ピアノ:ミハイル・プレトニョフ]
  • M.ムソルグスキー(ラヴェル編):組曲「展覧会の絵」

  • <アンコール曲>
  • A.ショール/M.プレトニョフ:ピアノと管弦楽のための組曲 第2番より
  • 第6曲「ダルタニアン」
  • 第7曲「マチウシI世」
  • 第3曲「トム・ソーヤ」
 私の目当ては「ピアニストとしてのプレトニョフ」。
 昨年のラフマニノフ・ピアノコンチェルト全曲演奏会のチケットを買い損ねた後悔の念から、プレトニョフのピアノ演奏は絶対聴かなければいけないと思っていたのである。
 例によってひょうひょうとした演奏スタイルで、やはり彼も「鼻歌派」だった。
 ちょこちょこミスタッチはあるものの、自分が共作した曲でもあり、終始リラックスした演奏ぶりで、アンコールは3曲という大サービス。 
 どうやら彼が単に弾きたかったということのようだ。
 会場には作曲者のアレクセイ・ショールがいて、舞台に上がって喝采を浴びていた。
 ウクライナ生まれでイスラエル、次いでアメリカに移住した彼は、もともと数学者、ヘッジファンドの辣腕社員だったが、40代になって幼い頃から大好きだった音楽の世界に転身したという異色の経歴をもつ。
 曲名からも察せられるように、ファンタジー色が強いが、メロディーはロシア、スペイン、アルゼンチン、ジャズなどが混合した民謡的でありつつも、全体としては「無国籍」という印象である。
 これは彼の経歴が影響しているのかもしれない。
 後半は「展覧会の絵」(ラヴェル編)だが、注意深く聴いていると、日本の演歌に似たメロディーがところどころに出現する。
 分かりやすいのは「古城」あたりで、昭和初期にヒットした物悲しい歌謡曲を彷彿とさせる。
 意外にも、ロシアの国民楽派と昭和歌謡とは共通点を有しているのである。

 「-新著は「歌謡曲とは何か」を探る旅のような本ですね。昭和3年をスタート地点にして、元号が平成に変わるまでの状況を書いています。「流行歌手第1号」として「東京行進曲」を歌った佐藤千夜子を挙げ、昭和10年代の記述では作曲家の古賀政男、江口夜詩、古関裕而らの活躍に言及します。
刑部:この時代の歌謡曲は歌手はもとより、メロディーや詩を創り出した作曲家、作詞家の功績が大きいと思うんです。古賀たちは「流行歌、歌謡曲とはこういうものだ」というパッケージを作りました。

 題名に惹かれて買ったが、昭和歌謡を学問的に究めたもので面白い。
 まだ序章と第一章の途中まで読んだくらいだが、面白かったのは、昭和歌謡の三大作曲家:古賀政男、古関裕而、服部良一のうち二人が、ウクライナ人からの音楽教育などにより、リムスキー・コルサコフの影響を受けているところである。

 「(服部良一は)大正4年(1925)、JOBK(大阪放送局)が結成した大阪フィルハーモニック・オーケストラに入団し、交響曲の演奏を経験した。交響楽団の指導者であるウクライナ人のエマヌエル・メッテルに目を掛けられ、服部は個人レッスンを受けるようになる。当時、別の日には、のちに大阪フィルハーモニー交響楽団の音楽総監督となる朝比奈隆もメッテルの元に通っていた。メッテルはロシア国民楽派のリムスキー・コルサコフの影響を受けていた。服部と古関とはロシア国民楽派の影響という点で共通した。二人は民謡をもとに芸術作品を生み出す点でも似ている。」(p14)

 つまり、昭和歌謡の親の親は、リムスキー・コルサコフかもしれないのである。
 そうすると、昭和歌謡はロシア民謡に近いと言えるかもしれない。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

体動モデラ―ト

2024年12月04日 06時30分00秒 | Weblog
J.S.バッハ:無伴奏チェロ組曲
 第1番 ト長調 BWV1007
 第3番 ハ長調 BWV1009
 第2番 ニ短調 BWV1008
 第6番 ニ長調 BWV1012 
<アンコール曲>
バッハ:無伴奏チェロ組曲第4番 変ホ長調より プレリュード
デュティユー :ザッハーの名による3つのストロフより 第1楽章

 ジャン=ギアン・ケラスによる無伴奏で、満席の大盛況。
 チェロのコンサートには余り行かない私も、「無伴奏にハズレなし」ということは知っているので、思わずチケットを買ったのである。
 この人は初見なのだが、響きが力強い上に、演奏スタイルを見ればすぐに只者でないことが分かる。
 全曲暗譜しているのはもちろんのこと、ほぼ手元を見ずに演奏している。
 要するに、「体が覚えている」のである。
 また、チェリストの中には、頻繁に左右に体を動かす人もいるが、この人はそうではなく、サラバンドやブーレだけ多少左右に揺れるものの、足を踏み込むような動作が入る程度で、「体動モデラート」な印象を受ける。
 アンコールは、バッハとアンリ・デュティユーという対照的な組み合わせ。
 無伴奏4番のプレリュードを聴くと、これが1番のプレリュードの変形であることがすぐ分かる(「使いまわし」と言ったら怒られるだろう)。
 ディティユーは初めて聴くが、不気味な響きの連続で、いかにも現代音楽という感じの曲である。
 会場ではCDが売られていて、最後まで迷ったのだが、結局買わないことにした。
 先日のアレクサンドル・カントロフの例もあるし、無伴奏は生で聴くのがベストだと思うからである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鼻歌モデラート

2024年12月03日 06時30分00秒 | Weblog
ブラームス:ラプソディ ロ短調 op.79-1
リスト:超絶技巧練習曲集S.139から 第12番「雪あらし」
リスト:巡礼の年第1年「スイス」S.160から「オーベルマンの谷」
バルトーク:ラプソディ op.1 Sz.26
ラフマニノフ:ピアノ・ソナタ第1番 ニ短調 op.28
J.S.バッハ(ブラームス編):シャコンヌ BWV1004
<アンコール曲>
リスト:ワーグナー「イゾルデの愛の死」
リスト:シューベルト「宗教的歌曲」S.562から 連祷

 「ピアノを猛獣に変身させる」ことにかけてはおそらく世界一と思われるピアニストの日本公演。
 私は、2022年から毎年聴きに行っている(2022年:自演自賛(曲目は、Musik Travelers さんの「アレクサンドル・カントロフ ピアノリサイタル(2022年6月30日)東京オペラシティ」))、(2023年:サウスポー)。
 彼は絶対に生演奏を聴かなければならない。
 というのも、昨年「火の鳥」のフィナーレを聴いて魂が揺さぶられるほどの感動を覚えてCDを買って聴いたものの、生演奏の10分の1くらいしか感動を与えてくれなかったからである。
 ところが、当日は「ウィリアム・テル」が主催者発表より15分ほどオーバーする進行であったこともあり、会場に着いたときは演奏開始から5分ほど経過していた。
 サントリー・ホールは、開演中は、曲の終了後であっても原則として入場を認めず、例外的に2階席・階段までの入場を許可する運用のようである。
 「雪あらし」終了後、私もそこに案内され、バルトークまでを立ったまま聴いた。
 既に2曲目からピアノは「猛獣」と化していたので、これは非常に勿体ないことである。
 後半は、ラフマニノフのソナタ1番と、昨年は前半で演奏された左手版の「シャコンヌ」。
 ラフマニノフのソナタは、2番もそうだが、半分くらいが「ピーク」の連続で、ピアニストの消耗度は間違いなく高いはずである。
 私も、これほどまでに激しい表現に対しては、ちょっと引いてしまうところがある。
 芸術家の内面の暴力性を感じるのである。
 この曲を、カントロフは、ペダルを踏み壊すのではないかと思われるほど強く踏み込みながら演奏した。
 足が山下洋輔氏のひじと化したかのようだ。
 演奏終了後、さぞや疲れていることだろうと思っていたら、彼は涼しい顔で「シャコンヌ」を弾き始め、鼻歌まで歌い出した。
 そう、彼はもともと「鼻歌派」に属しているのである。
 今回のリサイタルの曲目は、「シャコンヌ」以外は鼻歌向きでなかったので、このことに気付かなかっただけなのだ。
 もっとも、今回は鼻歌も途切れがちなので、「鼻歌モデラート」という表現が合っていそうである。
 いつもどおりの魂のこもった演奏で、終演後、彼はガックリと頭を垂れ、しばらく動かないままだった。
 彼が立ち上がると、当然のことながら、私も思わずスタンディング・オベーションをしてしまう。
 アンコールはワーグナーとシューベルトで、「イゾルデ愛の死」(暗譜が間に合わなかったようで、タブレットを持って登場)は意外にも抑制された演奏で、緩急の使い分けが上手い。
 ラストの「連祷」は”浄福”という言葉がピッタリで、この曲で穏やかに締めくくってくれたのは有難いことであった。 
 さて、来年は1回だけでなく、2回以上聴きに行くこととしたい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「ヒト」と「カネ」?、あるいは「テーマ」?

2024年12月02日 06時30分00秒 | Weblog
 「『ウィリアム・テル』の原語による舞台上演は日本初。ロッシーニの新たな扉を開く『ウィリアム・テル』新国立劇場初上演にご期待ください。

 今や知らない人はいないといっても過言ではない「ウィリアム・テル序曲」。
 だが、その原語(フランス語)による舞台上演は日本初である。
 これには驚く人も多いだろう。
 過去、訳詞上演、ハイライト上演、演奏会形式での上演はあったが、なぜかフランス語による全幕上演はなされなかったのである。
 公演パンフレットを読んでも、その理由は十分明らかにならない。
 そこで、他の「上演頻度の低いオペラ」を手掛かりにして、「ウィリアム・テル」のフランス語による全幕上演が出来なかった理由を考えてみた。
 真っ先に手がかりになるのは、やはり「ニュルンベルクのマイスタージンガー」である。
 演奏時間:4時間半、歌手・コーラス:100名以上を要するこの楽劇は、おそらく「最もお金のかかるオペラ」の一つであるため、上演機会が非常に少ない(マイスターじゃないジンガー)。
 また、514ページもある台本をマスターするのには軽く1年以上を要するらしいので(カンペの場所)、技術的な問題も大きい。
 つまり、最大の問題は「ヒト」と「カネ」だった。
 ということは、同じことが、演奏時間:約3時間35分、歌手・多数のコーラスに加え相当数のバレエ・ダンサーを要する「ウィリアム・テル」にも言えるのではないだろうか?
 だが、それだけではなく、このオペラの「テーマ」にも、上演頻度が極めて低い理由の一つがあるように思われる。

<第4幕のあらすじ>
 「アルノルドは亡き父を思い、仲間たちと立ち上がる。母の待つ家に帰ったジェミは父の指示に従い、抵抗の合図に自分の家に火を放つ。テルは船で追放されるが、嵐に襲われ湖岸に乗り上げた機に上陸。息子から受け取った矢でジェスレルを倒す。そこへ町を制圧した抵抗軍が到着し、アルノルドもマティルドと再会を果たす。人々はスイスの自由を祝い、感謝する。

 テルは、悪代官:ジェスレルを弓で射て殺害し、これを見た人々は歓声をあげる。
 ここでは、悪者をやっつけるカタルシスを味わう人もいるだろうが、観る人によっては何とも後味の悪いシーンである。
 つまり、「「自由」を獲得するためには殺人も許される」というこのオペラの「テーマ」自体に、上演を阻む大きな原因があるのではないかと思うのである。
 ・・・それにしても、「セビリアの理髪師」をつくったロッシーニが、もっとハッピーな結末に改変しなかったのはなぜだろう?
 これはずいぶんもったいないことである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする