パンセ(みたいなものを目指して)

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二度目に挑戦「責任と判断」ハンナ・アーレント

2018年04月03日 08時15分05秒 | 

最近の関心事は、相変わらず答のないような官僚さんの思考と生き方とかについて
その立場であったなら誰もが同じようなことをしてしまうかもしれない佐川さんのこと
彼にはあれしか方法はなかったのか、それが法的・システム的にはどうだったのかは
マックス・ウェーバーの「権力と支配」で、それとなくわかったような気にさせられたが
どうにも理解し難いのは、個人としての感情をもった彼の選択

ということで、以前読んだはずの本、ハンナ・アーレントの「責任と判断」を引っ張り出して
二度目の読書に挑戦することにした(また読みかけの本が増えてしまった)

最初読んだ時は、何か重要なことが記されている実感はあったが、それだけの印象だった
その後「全体主義の起源」(2)(3)、「イスラエルのアイヒマン」をとりあえず最後のページまで
たどり着いた経験をしたあとで、これを読み直すと、一貫したハンナ・アーレントの思考が
すんなりと頭に入っていく感じがする

前回は付箋もつけず通して読んだだけだったが、今度はしっかり付箋をつけることにしよう
今回最初に付箋を付けた部分は

わたしたちはソクラテスと同じように、自分が悪を為すよりも、悪を為される方がましであると考えていますし、
それはごく自明なことだと考えていました。しかしそれは自明などではないことが明らかになったのです。
いままでは多くの人々が、どんな種類の誘惑にも抵抗できないし、結局のところ人間は誰も信頼できず、信頼に値しないものであり
誘惑されることと強制されることはほとんど同じことだと考えるようになっているのです。
この考え方の間違いを指摘したメアリー・マッカーシーの言葉を紹介しましょう。
「誰かがあなたに銃を向けて〈お前の友人を殺せ、さもなくばお前を殺すぞ〉と言ったとすると、その人はあなたを誘っているのです。それだけです。」
もしも自分の命が危うい状態では、法的にはこの誘惑は犯罪を犯したことの言い訳にはなりますが、道徳的に正当化する理由にはなりません。
そしてきわめて驚くべきことですが、最後にかならず判決が下される裁判であったのに、判決を下すことそのものが間違いだと主張されたのです。
その場にいなかった者には判決を下すことはできないからだというのです。
ちなみにアイヒマンがエルサレム裁判の判決に意義を申し立てる際に利用したのは、この論拠でした。ほかにもやり方はあったはずだし
殺人を犯す義務から逃れる義務から逃れることもできたはずだと指摘されると、アイヒマンはこれは戦後になって考えだした〈後知恵〉に過ぎず
実際に起きたことを忘れたか、知らない人々だけが信じているのだと主張したのです。

この文は、「裁く権利」へと続く
この部分だけでも、佐川さんのことを考えながら読んでいくと、いくつのも考えどころが発見できるような気がする
結局のところ西欧では「個人」としての判断というのが、「個の確立」を前提に問い詰められる
「そうなるとわかっていたのに、何故、個人としてそうしたのか、、、」
これらは一歩間違うと堂々巡りしそうな内容なのは事実
しかし、だからといってこういう答のないような思考を一度も経ずに、結論だけを性急に求めたがる傾向のある我が国の姿勢は
正直なところ少し不安

ということで、今のタイミングで重要そうな記述の多そうなこの本
しっかり読み返してみよう
そして付箋もしっかりつけておこう、、


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