パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

自由からの逃走

2012年11月17日 16時22分15秒 | 

結構時間がかかってしまったが「自由からの逃走」
一応読み終えた


時間がかかるのはある程度しかたない
一気に読み飛ばせる内容ではないし
最近はこの手の本に慣れていないから
それに行替えも少なく1ページに活字がびっしり詰まって
数ページ読むと想像力も無くなって
ただ文字を追っている状態が続くので
意識的にペースダウンしてこの素晴らしい本に対峙した

この本のジャンルは何になるのだろう
心理学・社会学・哲学・評論
特に区別する必要はないけれども
上記の部分が幾重にも交錯して
ページが進んでいく

面白かったと言っても
結局覚えているのは
「面白かった」と言う事実と
個々のもしかしたら本質には関係のない記述かも知れない

自由と言う名のかけがえの無いものを手にした
現代人は孤独に立ち向かわなけれなばらない
その孤独はある人間にとって耐えがたいものであり
そんな事になるのなら命令に従うほうが生きやすい
と考える人物も出てくる
とか
自分で考えたと思っていても実は外的要因の要求するものに
応えようとしている心理
とか
もっと色々なエピソードが興味深い

フロイト・マルクス・ウェーバーの三者に対する
考え方の仕切り直しがこの本の趣旨でもあるけれど
正直なところ読み返さないと分かったまでは言い辛い

たがこの本が書かれた時代よりも社会環境は随分変化している
変わらないものがあるのは事実
しかし、社会の影響を受けて心理面が変わるの
この本には書かれている
その点ではコンピュータが仕事という分野を平滑化して
働く人々のやり甲斐、時間消費の仕方まで替えてしまった現代を
フロムが生きていたらさてどのように解釈したのだろうか?
そして何をすべきと提案したのだろうか

ピントが外れた感想になったが
少なくとも面白かったと言う事実には変わりない
多くの人が読むべき一冊と思われる

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ゲルギエフとマリインスキー歌劇場管弦楽団(その2)

2012年11月15日 19時10分54秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)

11月13日の急に思い立って求めたチケットは
名古屋芸術劇場大ホールの2階P席

P席は指揮者の背中を見る、つまりオーケストラを前にして
聴く席ではなくて、識者の顔を見ることになる席
指揮ぶりを見るのは興味深いけれど
普段聴いている右側に低弦が並ぶ配置だと
音の出処が反対になるので少しストレスが溜まる

この指揮者を見る席は昔チェリビダッケの時がそうだった
のっしのっしと歩くチェリビダッケはその姿だけで充分音楽的で
何故だか演奏自体よりも覚えている
(確かプログラムはハイドンのシンフォニーとチャイコフスキーの悲愴)
その時何か落ち着かなかったのはオケの音の出口が反対だったせいで
できる事ならこちら側の席は避けようと思ったのだったが、、、
お金のこともあり、今回はまあ仕方ないかな!
と思うことにした

演奏が始まると予想に反して案外違和感がない
そこでオーケストラの配置を見ると
指揮者から向かって左側に低弦
と言うことは結果的に普段自分が聴く時と同じ配置
それでストレスなく聴けたのか?

このオーケストラはロシア風の金管の生々しいフォルテが
特徴の音と言うよりは、もう少し上質なバランスのいい音
しかもさすが歌劇場のオーケストラだけあって
感情的な旋律線への共感はしなやかに素早い(様に思われた)

プログラムの最初のリャードフ キキモラは初めて聴く曲
ゲルギエフの腕が柔らかに動き始めると静かな柔らかい音が
これはいけるかも!
この手の響きは好きなタイプ
そう思って集中、途中チャイコフスキーの1番のロシア民謡風な
メロディーついでヤナーチェクの音形みたいなもの
それから禿山の一夜みたいな音が続いて
どうなるのか?と言う展開よりは響きに身を委ねて
まずはイントロは上々

ついでシベリウスのヴァイオリン協奏曲
寒々とした始まりは北欧風
ヴァイオリンの音も曲にマッチした音色
長髪のキリスト顔の奏者の奏でる音は
奏者の個性が表に出ると言うよりは
ひたすら純粋な音の感じだった
相変わらず感情的な旋律線への反応はいいみたい
3楽章は盛り上がった

ところでゲルギエフは指揮棒を持たずにと思ったが
爪楊枝位なものを用いて指揮していた
それが見えたり見えなかったり
一体どうやって持っているのか?
少し気になったのは事実

アンコールのバッハは良かった
お酒を飲んで出来上がったような聴衆も
曲が終わってから直ぐに拍手することもなく
余韻を味わってから拍手し始めて
それがとても自然で何故かホッとした

さてメインのショスタコーヴィッチ
つかつかと出てきて一礼すると反転
直ぐにあの出だし
その一連の流れはそうあるべき姿の様に感じられた
途中、雪が深々と積もるような、行進のようなところは
案外こうしたイメージを喚起させる文学的表現と言うよりは
伴奏音形として交響的に処理
妙な感傷性はなかった

この曲は1から4楽章まで出来不出来がない
どの楽章も結構楽しめる
2楽章の打楽器も好きだな

3楽章は自分的にはマーラーの5番のアダージェットを彷彿とさせるようで
もしかしたらこちらのほうが好きかも
フルート独奏の時の静けさ、闇、そしてそれらを支える弦のトレモロ
聞き手の集中力も身を乗り出して参加するかのよう
それまでロシアのオーケストラと言うよりは上品な西欧風の音楽だったのが
4楽章が始まるやいなや、その本性を発揮し始めた
フォルテの開放感、高揚感そしいてショスタコーヴィッチ独特のリズム
それでいて金管は生々し過ぎない
いやはや、これは良かった
終わった時にゲルギエフがまた来たら聞きに行こうかな
と思ったのだから、満足ということ

しかし、自分は結果的に普段と同じ位置関係の配置で聞けたのだけれど
普通の席で聞いた人は一体どんな響きがしたのだろうか?
そんなに差はないのか?
それとも個性的な響きになっていたのだろうか?
たしかに実際の演奏では音程・音色・音量だけでなく
その音の出処も大事なポイントかもしれない
聞き慣れた音楽が配置を変えただけで新鮮に聞こえたり
(聞こえなかったり?)

料金の高い安いで物事を決めたくはないけれど
最近支払ったオーケストラの中では高い部類
しかし、この上質な響きは、
上質なお酒を飲んだ時の「やすい酒とは違う!」
といった印象に通じるものがあった

ということで、後々印象として数年後まで
残っているかどうかはわからないけれど
まずまずのコンサート体験ということかな

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岡崎のメンタリティ

2012年11月14日 22時52分45秒 | サッカー

日本2-1オマーン
試合内容は暑さと選手のコンディションが(特に海外勢)優れないためイマイチだったが、結果オーライ、よく勝った。ここでの勝ち点3は大きい。
決勝点となった岡崎のゴールはらしいゴール。その前の遠藤も素晴らしかった。
いつも思うのだけれど岡崎は自分から腐ったりしない。ゴールを外しても何度でも挑戦する!みたいな雰囲気が感じられる。
普通の選手は今日は駄目かなと見当がつくが岡崎はいい意味で期待を裏切る。鈍感なのか精神的にタフなのか。
ただフォワードというポジションはこういう性格の方が良さそうだ。
香川がいなかったが、ビッグチームに居るという事実を除外して判断するなら、これからも今日のメンバーでもいいかもしれない。香川は岡崎と反対で自分から腐ってしまいそう。ファーストタッチ、ファーストプレーが良いと期待できるけどミスったりうまく行かないと表情まで萎みがちになる。
本田は何時ものプレーが出来ていなかった、多分吉田も。リーグ戦直後の試合はきつかったろうな。
次で決めて早くメンバーの若返りを模索しなくては!
それにしても、岡崎、今日はご苦労様。

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素晴らしかったゲルギエフとマリインスキー歌劇場管弦楽団

2012年11月13日 22時09分58秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)

リャードフ:キキモラ
シベリウス:ヴァイオリン協奏曲ニ短調 作品47(ソリスト:レオニダス・カヴァコス)
ショスタコーヴィチ:交響曲第5番

これが久しぶりのコンサートのプログラム。指揮はゲルギエフ。オケはマリインスキー歌劇場管弦楽団

席がいつもと反対側、指揮者の顔が見える側だったので、響きに慣れる事が出来るか心配だったが、オケの配置が低弦が左側で結果的にいつもと同じ様に聞こえた。

弱音からスタートした最初の曲、ゲルギエフの指揮にピッタリ沿って反応が練習の成果と言うより歌劇場のノリの良さを感じさせる。途中チャイコフスキーの1番みたいだったりヤナーチェク風だったり禿山の一夜風だったり、結構楽しい曲だった。

シベリウスの協奏曲はソリストの音の綺麗な事。神経質にならず、ジョンレノン風の容貌がアーチストぽい。
この曲も歌劇場のノリの良さが効果的に思われた。しかしこのオケの音はロシアの大音量の荒っぽい感じではなくて、抑制されたバランスの良い音響。
三楽章は良かった。
アンコールのバッハの無伴奏バイオリンソナタも出来上がった聴衆には最高のブレゼントだった。

休憩を挟んでショスタコーヴィチ。
これはシンフォニックな演奏。ロシアと言うよりドイツ風?
しかし最後の楽章は一気にロシアのパワー全開と言ったところ。
ゲルギエフはアーチストと言うより職人風で妙な気取りも無く好ましく感じられた。

忘れないうちに、帰りの電車の中で投稿。

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明日はコンサート、楽しみ!!

2012年11月12日 21時12分26秒 | 音楽

名古屋の芸術劇場大ホール
ゲルギエフ指揮のマリインスキー歌劇場管弦楽団で
シベリウスのヴァイオリン協奏曲と
ショスタコーヴィッチの5番の交響曲

オーケストラを聴くのは久しぶりだ
最近は宗次ホールで篠原悠那とアリーナ・イブラギモヴァの
ヴァイオリンを聴いただけ

室内楽もいいけど、たまには大音量のオケも気持ちがスカッとしそう
ここ数年はラ・フォル・ジュルネにも行っていないし
なにか聴かないパターンに入ってしまったけど
ようやくの触手が動いたプログラム

ショスタコーヴィッチは一度やはり名古屋で聴いたことがある(はず)
ただ気をつけないと、どんちゃん騒ぎしただけで終わってしまいそう
10番はロストロポーヴィチの指揮で聴いたが
何も残らなくても刹那的に楽しかったと言う思いだけは残っている

シベリウスはラ・フォル・ジュルネで聴いた
最初の出だしの寒々とした音色を今も思い出しそう

ゲルギエフは好みのタイプじゃないせいで
CDの枚数は一向に増えない
ただライブは違うんだろうな
と期待したい

ホント、久しぶり楽しみ

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ブルックナーの5番が聴きたくなって、、、

2012年11月10日 19時21分58秒 | 音楽

休日の午後、最近の室内楽曲の鑑賞ではなく
久しぶりにバッハのロ短調ミサを聴いていたら、急に
「今ならブルックナーの5番の最終楽章を楽しめるかもしれない」
と思い立った

そこで取り出したのはレコードの

バレンボイムがシカゴ交響楽団を指揮したもの

バレンボイムは当たり外れがあるけれど、ツボにハマると結構好きなタイプ
昔聴いた実演でアンコールの精霊の踊りは、ホント素晴らしかった
またレコードではベルリオーズのロメオとジュリエットもロマンティックでいける
ヴォルフのフィッシャー・ディースカウと組んだシリーズも愛聴している

ところでブルックナーの5番
聴きやすい第2楽章はしばしば聴こうという気になるけれど
第4楽章となるとチョット尻込みしてしまう
何か金管が鳴りっぱなしで、どっちに行くのかわからないみたいな、、
8番の終楽章が慣れないと何が何だか分からないのと同じような印象を
この楽章にも持っていたが、突然「今日は楽しめるかもしれない!」との啓示
流れには乗ってみようとしたわけだ

で、どうだったか
前聴いた時よりは抵抗感はなかった
それよりは、これを実演で聴いたら凄いだろうな
と想像してしまった
なんというか、演奏効果が半端じゃないに違いない
8番の終楽章にも匹敵するに違いない

しかし、実演ではなかなかとりあげられない
4・7・8・9番は時々あっても
渋すぎる5番は聴衆が集まらないのかも

この5番の終楽章はベートーヴェンの9番みたいに
第1楽章・第2楽章のテーマの回想がある
それが全体としての意味付けにどう繋がっているのか
分からないけど、素朴な真面目な真似みたいで
悪い気はしない

フーガの部分も実演では
楽器の位置の関係もあって
立体的で複雑で面白いだろうな
と思うことしきり!

話は変わるけどベートーヴェンの13番の弦楽四重奏曲「大フーガ」も
この5番の音楽に通じる渋さがある(様に思える)
これも人が集まるタイプの曲じゃないから
演奏会があったら機会を逃さないようにしなければ

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京都(御所とその周辺めぐり)

2012年11月09日 20時07分45秒 | 旅・旅行

文化の日に京都に出かけた
今年は正月・GW・お盆に続く4回目
今回の目的は秋の一般公開されている御所の見学

予想通り大変な人出、紫宸殿を間近に見るには一回りしなくては、、

絶好の撮影スポットは見つけられない
どこに行っても人が入ってしまう

ちょっと反省したのは、御所には一般公開の日ではなくて
きちんと予約して見学したほうが良かったかもしれない
ということ
なにかザワザワして落ち着かず堪能できなかった
というのが正直なところ

それでも2.3は気になるところが
左近の桜、右近の橘
こんな風に木を植えるのはなかなか趣味が良い
等と偉そうに思ってしまった
清涼殿は木ではなく、呉竹・唐竹の竹が植えられている
シンプルな植栽は真似できるかも、、

屋根の檜皮葺はきれいだ
雨の音は吸収されて静かだし
色合いも瓦より品がある感じ
真行草の真は檜皮葺と言われるのは
何となく納得できる

ところで、さすがに御所の近くには
いろんな歴史上の何かがある

御所の北には冷泉家住宅

西側には和気清麻呂を祭った神社
またすぐ近くには菅原道真が産湯を使ったところ
当たり前のように、そんな場所が存在する
確かにその人たちが実在したと言う感覚は
学んで知ったものよりはずっと大きい

人間はどんな時も花より団子かも知れない
今回の京都訪問のもう一つの目的は
虎屋一条店

羊羹じゃなくて最中を食べようと思ったけれど
店頭に展示された季節のお菓子と抹茶のセットに変更

さすが京都、餡(?)にニッキが入っていた

それにしても、京都は深いな!
飽きることがない、知れば知るほど
興味は尽きない
今月は末に紅葉狩りに出かける予定
さて何処にしようか

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京の女性がきれいに思えるのは、、、

2012年11月05日 21時01分11秒 | あれこれ考えること

整形している言われるが、韓国の女性はきれい
と思うのは自分が男だからというわけでもあるまい
女だけじゃなく、男もいわゆる端正な顔立ちだ

京都に行くと、自分はいつもバスや電車に乗っている人の
顔を知らず知らず眺めてしまう
それは瞼が一重か二重か確認するためなのだけれど
歴史絡みの本を読んでいると、日本には百済とか新羅の人が
それこそ多く渡ってきてそれなりの勢力を保持していたが
その人たちの瞼は一重じゃないか?
と勝手に思っているからだ

現代の韓国の人たちの瞼を見る時
彼らの瞼は明らかに日本人よりは一重が多いのではないか?

もっとも確認をしたわけではないので
正確なことはわからないけれど

現代の韓国の人たちの美男美女ぶり
その人たちは一重まぶたが多い
京都にも一重の人が多い(他の地区に比べ)
歴史上にも朝鮮半島の人が渡来してきている
よって、京都の一重の綺麗な人の元を辿れば
百済・新羅関係の方々ではないのか
そんなどうでもいいような連想を一人で楽しんでいるわけだ

東男に京女
勇ましい武士の雰囲気を漂わせる男に
はんなりと綺麗な女がお似合いとされるが
この美女は、京都だから洗練されて綺麗と言うよりは
元々きれい(百済・新羅?)の血筋を引いているから
と思えて仕方ない

ま、これもどうでもいいことかもしれないけれど
しかし、想像以上に日本は昔から外国の影響を
受けてきたのかもしれないと最近思うようになった

遣隋使、遣唐使の困難な船旅や苦労
鎖国時代の長崎出島だけの海外との交流
そんなもので知らず知らず海外との接点は
少ないものと思っていたが
どうしてどうして、不思議なくらい交流があったのかもしれない
と思うこの頃だ

 

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夢見る世代

2012年11月02日 21時49分25秒 | Weblog

十二支のうち今年の干支の辰だけが架空の生き物
そのせいではないだろうけれど
今年還暦を迎えた自分らの世代は
どうも現実的な競争社会の戦士と言うよりは
なにか形のないものに憧れたり
何かを求めている連中が多い
少なくとも自分の周りには
そういう人が少なからず見られる

これが2つばかり上の人達(寅年)は
やたらと闘争心があって
戦い自体を楽しんでいるかのよう

まさか全部が全部干支のとおり性格なんて
ことは無いだろうけれども
それでも、何となく世代間の相違というものは
確かにあるようだ

夢見る世代
今年還暦の連中は、時代背景もあるけれど
理想・あるべき姿・秩序など見えないものを
知らず知らず求めてしまう世代だ

もう一回り下、同じ辰年でももう少し現実的
はたしてどちらが良いのやら

 

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