パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

イメージは史実より小説に左右される

2020年11月17日 08時29分28秒 | あれこれ考えること

わかりやすいが本当のことではない(かもしれない)説はいろいろある
坂本龍馬は司馬遼太郎の残したあのような人物だったのか?
(自分は司馬遼太郎とは相性が悪くて途中で読むのをやめてしまったが)
現実の世界では、彼の作品の影響が圧倒的すぎて、なかば事実のように
捉えられているのではないか

史実より作話(物語)のほうが人には伝わりやすいようで、従軍慰安婦の話も
史実よりは韓国のある人が書いた小説が影響力を持っているらしい

新約聖書はマタイ、ヨハネ、マルコ、ルカと4つもあるのだが
なぜ同じ物語を4人の人がそれぞれ残したのか、、を考えてみると
その4人には内的な必然性があったと思われる
自分の理解の範囲で、どうしても書きたいというような

ある人の物語をいろんな人が自己の解釈、人生観、価値観に従って書き残す
というのは、割合あることで、それは自分の解釈で独自の表現をする演奏家と同じかもしれない

前置きが長くなったが、ひところ夢中になった人物に土方歳三がいる
きっかけは驚くほどミーハーなもので、彼の写真を見た時に(多分壬生寺?)
なんとまあハンサムな男だろう(この写真は修正されてるらしい)
この男は何を考えて、何をしようとしたのか、、彼のしたことは間違っていたのか
などと興味を持ったのだ

それでまずしたことは司馬陽太郎の「燃えよ剣」を読んだ
相性が良くないが、これは最後まで読んだ
彼の人生の大枠は把握できたが、なんとなく「違う」という違和感は拭い去ることはできなかった
自分の理解する土方歳三は「最後の武士」と言われるような、ステレオタイプの人物ではないと思われたのだ

彼の残したものには豊玉発句集があるが、その俳句はとてものんびりしたものが多い
●おもしろき夜着の列や今朝の雪
●朝茶呑てそちこちすれば霞けり
●春の夜はむつかしからぬ噺かな
●来た人にもらひあくひや春の雨
●うくひすやはたきの音もつひやめる
このような俳句をつくる人間は本質的には田舎の素朴な人間に違いない
と思われて仕方なかったのだ

それで自分自身の想像する土方像を探すために、彼のファンがするように自分も彼に関する
いろんな資料(エピソード)を当たることになった

彼の特徴を示すエピソードは(自分好みの)
家業の石田散薬の材料を収穫する時、歳三の采配で作業を行った時には通常よりも短時間で終えることができた
新選組の見回りの列の順番は、日毎に入れ替わるようにしていた(先頭は死の確率が高いので公平にするために)
西本願寺に新選組が駐屯していた時、幕府の医師の松本良順に隊員に余りにも不健康なもの多いことを指摘され
それに対して、あっという間に風呂とかの健康に良い体制を作り上げた
どこかの戦いで、戦いに恐れをなした若い人間が前線から逃げ出そうとした
それを見た歳三は仲間が怯むのを恐れて彼を斬り殺した
その鬼のような姿を見た戦う人々は、戦いに集中(せざるをえなくて)して勝ちをおさめた
この話はこれで終わらず、その後日歳三は斬り殺された家族のもとに
「事情が事情とは言え悪いことをした」と見舞金を送った(と何かで読んだ気がする)
函館の最後の方の戦いで、夜になって疲れた戦士(殆どが素人)に一人ひとり酒をついで回って
「プロの相手によく戦った、礼を言う、本当はもっと飲んでもらいたいが、明日もあるので我慢してくれ」
と言ったような話がある(島田魁日記)

彼の考え方の変遷を見ていくと、当初、彼は合理的な考え方で物事はうまくいくと考えていたようだ
(ウェーバーの言うような法的な支配?)
誰もが理性で感じられるものを信じてそれに従えばうまくいく、、
そこにはある時は非常なものがあっても仕方ない(局中法度)
ところが、年齢を重ねるに従って人は理性のみでは動かない、、、と感じるようになる
その時に蘇ったのは日野にいた頃に培われたものものの性格(俳句で見られるような)
晩年になるとこうしたもともとの性格が表に出るようになった
つまりは「優しい人間」としての側面が見えるようになった
島田魁日記には彼は「兄のように優しい存在」といったようなことが残されている

こうした自分の中の歳三のイメージは、世の中に出回っている土方歳三のイメージ
そして今年コロナのせいで上映ができなくなっている岡田准一主演の「燃えよ剣」
でイメージされる歳三像とは、、明らかに違う
この自分の思い浮かべるイメージと、他の人が思い浮かべる(大勢を占める)イメージとの違い
それに対する解消法は、、自らの解釈を表現するしかない
ということで、新約聖書の何人かは自分の内的な声に従って、同じ物語を別角度から取り上げたのだと思う

でも、大半の人とか、世間はこうした考え方をしない
というかそんなことに関心も持たないだろう
それは仕方ないことか、それとも、、、あまり良くない傾向か、

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共産主義も新自由主義も、頭でっかち(と思う)

2020年11月17日 08時29分28秒 | あれこれ考えること

アメリカの若者はサンダーズ氏を始めとする左派、社会主義的な傾向のある政治家を
推しているとの解説を目にしたことがある
若い時期の正義感とか、自分たちが現実に味わっている社会的な現実に対する不満
経済格差とか人種間の不公平感を正そうとする純な気持ちは理解できる

ところが、日本では左派ではなく反対の右翼的な若者が多いようだ
右翼と言われるのに抵抗はあるのなら保守と読んでほしいらしいが
この場合保守の定義通りの分類かといえば、そうではなくて
単に自民党が保守との分類に入っているとの解釈でそれを支持じているように思えてしまう

トランプさんは左派とか社会主義者というだけで、全否定をしているようだし
彼に従う人たちもそう思い込んでいる
(日本の若者もそう信じているような気もする)
しかし、社会主義はそんなに全否定されるほど悪いものか?

と言っても、「歴史の終わり」にあったように制度としての社会主義・共産主義は現実的に崩壊した
昔、自分がドイツで出会ったホーランド人は「共産主義ノー、ノー」と言って
その当時のソ連がリードする社会を批難していた
そこには自由がない、、との不満が大きかったと思われた

共産主義が自滅の道をたどることになったのは、自分の拙い理解からすると
競争のない計画経済のせいで生産性が悪く、物不足とか製品の進歩がなくて
その結果として経済が破綻したもの大きいとされている

計画経済は、一部の頭の良いとされる人が「良かれ」と信じたことを実践したのだと思う
みんなが公平な「良かれ」と思うことは、当時は切実感はあり
それはそれなりの説得感を持ったかもしれない
ところが、問題は人の世は頭で考えたとおりにはいかないという現実で
思いは真っ当でも、実践するのは間違いや欲望を内在する人なので
頭でっかちに人を理想化した考えでは世界の実態の把握は不正確になる
結局はこの人という存在が官僚制度の膠着した状況を作り、
考えたとおりには上手くいかなかったのではないのか、、と思う

フロリダ州のキューバからの移民は、共産主義の欠点を自ら実感しているので
社会主義的な方向性には賛意を示すことができないのは分かる

ところが、現在の一般的に資本主義と民主主義とされる国が、上手く行ってるか
と考えると、どうもそうではないように思えてしまう
現実に経済格差は拡大し、社会の安定は脅かされている
資本主義の説明でいつも出てくるアダム・スミスの「神の見えざる手」の理屈とか
個人個人が自分の利益を求めて活動すれば、それが結果的の社会の利益につながるとする理解は
実は共産主義者の犯した間違いと同じように、人間に対する頭でっかちの抽象化した理解ではないのか

残念ながら人はそんなふうに、いい人ばかりの反応とか行動はしない
「歴史の終わり」にあったように人には「承認欲求」はあると同時に「優越欲求」がある
(自慢したいとか、自分たちの宗教のほうが優れているとか、、、)
またそうした内的な傾向だけでなく、心理学的にも「手にしたものは離したくない」とする
心理学的な傾向も、間違いなく存在する(トリクルダウンは結局夢のまた夢のように思える)

つまりは社会主義(共産主義)も資本主義(新自由主義)も、人に対する理解が
あまりにも頭でっかちで、単純化、理想化しているために誤差として現れるのが
現在の矛盾点のように思われる

ということで、思うに左派(社会主義)というだけで一方的に否定するのは良くないということ
また結果平等が確保される社会主義も不完全に違いないだろうということ
要は、いつの時代もそうであったように試行錯誤でより良い社会とかシステムを
当事者のその人間が見つけていくしか手はないと思う

こうなると、試行錯誤を前線に立って進めていく人の判断力の優劣が大事となってくるが
このバランスをとる人格というものが必要になってくると思われる
上に立つ人には、専門分野の深い知識や技術と全人格的な判断力をつい求めてしまうが
こうなるとまた、理想化した人間の存在を求めている、、との間違いをしてしまいそう

それにしても、今の日本の若い人には報道されていることをステレオタイプに信じ込むのではなく
まずはその前提から疑うかのような態度をとってほしいと思う
ついつい、今の若いもんは、、と言いたくなるが、自分たちのためには自分たちで解決するしか
手はないのだから、、

ところで最近は全く旗色が悪いマルクスだが、価格には労働という行為が反映されている
とする考え方は、なるほどそういう捉え方もあるのか、、と思ったりした
ここまでは抵抗感はないが、その先は、、、かな
(もっともよく理解していないので印象だけの話だが)

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「知ってる人」の言い分は、上から目線か?

2020年11月15日 08時58分27秒 | あれこれ考えること

例えば加藤陽子氏の「戦争まで」「それでも日本人は戦争を選んだ」「戦争の論理」
山崎雅弘氏の「天皇機関説事件」、清水潔氏の「南京事件を調査せよ」
パク・ユハ氏の「帝国の慰安婦」、前坂俊之氏の「太平洋戦争と新聞」、
鈴木健二氏の「戦争と新聞」を読んだことのある人と
読んだことのない人との間には考え方に違いが出てくるのは充分考えられる

自分は読んだ方に属するが、それはよくわからない不安にかられて
これらの本を読まねば!と使命感のようなものを感じて手にしたのだった

読んでいない人は何も知らない!と上から目線で批判する気はない
またこれらの本の主張と異なる考えも存在することは理解もできる
ただ、それでも上記の方々が心血を注いで書き残している本の内容を
我がことのように体験するというのは、頭で想像する以上に効果があったり
大事なことと思われる

何かを判断する場合、判断の前提となる知識に大きな開きがある場合が多い
現在問題となっている日本学術会議の任命拒否についても
問題の争点を詳しく理解している人と、そうでない人たちが存在する
詳しく知っている人は、その説明がどうしても長くなる
そうなると知識の不足している人たちはその説明を面倒だと感じる
あるいは上から目線での考えのように感じることがあるかもしれない
自分が理解するには単純化され、わかりやすい方が良い
あるいは自分が信頼を寄せている人の考えを受け入れるほうが良い
と考える人が出てくるのは、無理からぬ事かもしれない

先日読んだ本に「事実はなぜ人の意見を変えられないのか」(ターリ・シャーロット)
があるが、事実に基づく正論がなかなか人に伝わらない実態を報告している
つまりは、どの地域でもどの時代でも多少はこうした傾向はあるのだろう

上から目線でうざったく感じられようが、知ってしまった人たちは(その人達の理解の仕方で)
どうしても「こんなふうになっているから、今手を打たないと、、、」と声高に訴える
このイライラ感はよく分かる
大きな政治的な問題によらずとも、自分たち市政についても、その税金の使い方を
ちょいと詳しく知ってしまうと、それは黙っていられなくなってしまう

とりあえず分業としての議決権をもった議員さんが、市民から期待されるような活躍(行政のチェック)を
していただければ良いのだが、現実は我が市だけでなく、どこもそうは上手くいっていないようだ
システムはできていても、現実はそれに携わる人間の不完全さがどうしてもついてまわる
この人間的な不完全さをなくすためには、システムとして今度は議員さんをチェックする行為が必要となる
だが、これが面相臭い
一応議員さんをチェックするシステムとしては定期的な選挙があるが、これが本当に機能しているのか
と言えば、普段の議員さんの判断や行動を知らない人が、地元だからとか知っている人だから、、との
シンプルな理由で選んでしまう
つまりは、システムとしての民主主義はアメリカの例をあげるまでもなく、案外不完全だということ

と大げさなことを言い始めたが、とにかく感じるのは「知っている人と知らない人」では
判断に関して大きな違いが出てきそうだから、なるべく多くのことを知った上で
庶民でも判断をするようにしたほうが危険からは逃れらそうな気がする
(となると次の問題は、情報提供者としてのメディアの問題になりそうだ)

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批判と否定(先日の中日新聞から)

2020年11月13日 08時56分03秒 | あれこれ考えること

せっかくいい記事なのに夕刊で読む人が多くないように思われるので
ここで紹介(11月9日中日新聞夕刊)

最近では政府に批判的な立場を取ることが(野党は当然そのような立場をとる)
一部メディアでは「反政府」なる言葉を使い、あたかも不穏な行動のような
イメージづくりのがなされている

政府への批判は「反政府行動」ではないのだが
日本のようにお上に従いやすい傾向のあるところでは(これはどうやら世界でもそう見られているようだ)
このようなある種の戦略によって、空気としての世論(批判イコール否定、反動的)が作られてしまう

まずは、当日の記事(以下に紹介)
本当にスッキリとまとめられている
わかりやすいし、その理屈も違和感がない

今日は、この記事を多くの人に知ってもらいたいので取り上げた
(この主張に賛同する自分は反動的な存在ではないと思うけどな、、、)

ここしばらくはメディアの表現とか方向性もチェックしないとアカンかも
(最近は開き直ってフェイクニュース絡みの情報を流すテレビ局があるので)


 

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カルチャーショックから立ち直る方法(かつてのそれはそれは正しかったか?)

2020年11月12日 08時57分44秒 | あれこれ考えること

例えば異文化に初めて触れた時、あるいは知らない地で自分たちとは明らかに異なる
容貌をした人に出会った時、人はどのような反応とか示すだろうか
最近は地球が狭くなっていると言われるが、それでも直にそうした経験をすると
(海外旅行などで)楽観的な印象ばかりが記憶に残るわけでななさそう

かつて西洋人がアフリカとかの彼らの価値判断からすると未開の地についた時
彼らの多くは自分たちと色の違う肌をして、自分たちと明らかに異なる生活を
している人たちに対してどうのように感じたか
話が通じるのだろうか、、話が対等にできるのだろうか、、
この人たちは遅れている、、自分たちが教育(支配)していかなければ、、
そんな思いに溢れただろうことは、その後の歴史から想像できる

でも中には、原住民たちの文化や社会の秩序の意味を知ろうとして
その中には西欧的な発想だけでは善悪の判断ができないこともあると
認識したした人たちもいたようだ

これは遠い西欧人に限らず日本人も経験したことと思われる
鎖国から開国となって実感したのは、明らかに武器の性能が劣ること
そして政治制度も見習うべきものが多いということ

そこでどの国も行うように先進国への視察を行うようになる
だがこの先進国の視察で洗礼を受けた人は、みんながみんな同じように
自分たちの国は遅れているので必死で追いかけねばならない、、
と思うようになるかといえば、どうもそうではなかったようだ

その中には圧倒的な西欧の文化や技術に触れて、自信喪失をしてしまい
自らの文化(国)の存在価値すら疑問を持つようになった人も現れた
だがその人たちが立ち直る方法があった
それは「自分たちの社会や文化は類まれなもので世界に誇るべきもの」
と思い込むことだった
それが相対的なもの(どの国にもいいものはあるといった)であれば良いのだが
何故か唯一の価値あるものとして信じたいという心理が強く働いた
(この心理的な閉塞感が天皇機関説事件につながったらしい)


最近の「日本(文化・人柄)は凄い」という楽観的な(見るには心地よい)テレビ番組は
こうした傾向を表していないか
隣の国よりも優れているところを探し、それで安心し、同盟国の価値観と同じというだけで
自分たちも同盟国と同じ立場にいると勘違いし、どの地域にも誇るべき歴史があるにも関わらず
自分たちの文化だけが突出していると考えたいとする傾向

結局はこの人たちは自信喪失をしている(と自分は考える)
外国を旅する人の中には(外国に行くと知らず知らず日本のことを考えるようになる)
「結局みんな人間は同じだ。嬉しいことも悲しいと感じることも!
 社会には時間をかけて作られた秩序がある
 それは自分たちと違っていても、それなりに意味あるもの」
と感じる人と
「この人たちの文化より、自分たちのほうが優れている。我々は凄いんだ」
と感じる人がいると思われるが、徐々に後者の割合が(無意識的に)増えているような気がする

今の若者の外国への憧れ、シュトルム・ウント・ドランクのような内的衝動に導かれる無鉄砲な行動
そうしたことが見られないように思えてしまうのは、この国が唯一の存在である、、
と信じたがっているからではないか、、、とおっさんは心配してしまう
若い人には(消化不良になったとしても)想像以上の世界やら経験があることを実感してもらいたいと思う

上手くまとまらなかったが、最近の右傾化に対してちょっと考えたこと

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少し知ってると全面的には信じないかも

2020年11月11日 08時33分21秒 | あれこれ考えること

知らないことは、知っていると思われる人に聞くしかない
ただ誰に聞くかは問題で、人は聞く相手の正しい選択ができるのだろうか

今年はベートーヴェン生誕250年で、昨日テレビ番組でクイズを混じえて
彼の音楽の話をしていた
よく知られた誰でも知っているエピソードはさておき、知らないと思われる
少しばかり専門的な事柄は、素人は専門家の説明を一方的に信じるしかない
だが、少しばかり彼の音楽に馴染みのある自分としてはちょいと頷けないところもあった

確かに概ねそういうことだな!と思われる説明はしていた
楽器に対するベートーヴェンの関与とか、メトロノームの使用とか、
依頼された仕事として作曲をしたのではなく、自発的な(内的な)衝動に導かれた
「芸術家」としての存在を確立したとかはそのとおりだ

しかしもう少し本質的なところは、(ベートーヴェンが達した音楽的な境地は)
その説明とは違う気がした(個人個人の音楽的嗜好が違うからかもしれないが)
解説者はその説明をするために誰でも知っている曲を取り上げた
だがへそ曲がりな自分は、その取り上げられた曲が本当にベートーヴェンの本質に
迫っているものかと疑問を持った

彼の場合、なんと言っても後期の音楽の内向的、幻想的な部分を取り上げないと
人としてのベートーヴェンの達した境地は説明できないのではないか
と思ってしまう
それは第九の「みんなが兄弟になる」といったシラー歌詞を音楽に取り上げて
人類愛に満ちた音楽を作曲したとする説明では物足りないのだ(自分にとっては)

ベートーヴェンの凄さは、絶えざる進化のような気がする
わかりやすい人類愛云々よりも、自分が一生を捧げた音楽の表現方法の追求と
その内容こそが心を打つ(自分にとっては)

個人的な思い込みがあるとしても、多少なりともベートーヴェンの音楽に親しんでいるものは
誰にでも分かるような説明には少し違和感をおぼえることがあるということ

だがこうしたことは、このようなベートヴェンに関することに限らず
多くの場所で起きているのではないか
最近ではアメリカの大統領選挙の解説、日本学術会議の解説については
良く知らない一般人はテレビの解説者(有名なわかりやすい説明をする人)の
解説を無条件に信じている
この方も概ね妥当なことを解説されるが、時々首をかしげる時もあった(自分の得ている情報と比べると)
要は、多少なりとも知っている事柄については無条件に信じることはなく批判的な見方ができ
自分の考えとの比較ができるということ

この意味で本当は自分で独自に情報を仕入れて自分の考え方を持つのが良いと思われるが
その情報の仕入先も現実には何らかの編集をされたなかから選ばざるを得ない
(ネットでニュースとして取り上げられた時点である種の選択・編集が起きている)
だからこそ敢えて相反する立場の意見を収集することが必要と思われるが
これが面倒で、結局は関心のない人はわかりやすい単純化された理解で満足してしまう

多くの意見とか空気とかに左右されやすいのが日本人の特質か
それともオルテガの言う大衆の傾向か
それはわからないが、できれば個人個人が自分の判断とか意見をもち
それを言葉にする癖(習慣)ができればいいと思ったりする

ということで、独断と偏見に満ちた思い込み

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分断(あるいは、ある人々たち)

2020年11月10日 08時50分31秒 | あれこれ考えること

歳を重ねると発想が固定化しやすい
今はそれをつくづく実感している
現在まるでベルリオーズの幻想交響曲のイデーフィクスのように
消えては浮かぶ気になることが「社会の分断」ということ

アメリカの大統領選は世界に影響をもたらすから
日本でも過度に報道されるのは仕方ない
しかし選挙権もない日本人(一部だが)が
「今回の選挙は不正があるからあるからやり直しをしよう」
と署名活動を起こそうとしているのにはびっくりした

世界に影響することだから遠い国でも無関心ではいられない
とするのは、分かるとしても「今回の選挙は不正」と言い切るところは
不正とするには根拠がないとする報道を認めようとしないグループそのもので
熱狂的な信者の姿勢だ

この不正があるとする情報に飛びつき賛同する日本人のグループは
現在問題となっている日本学術会議の問題では、圧倒的に政府よりの考えに理解を示し
野党の意見は無意味なものだと切り捨てる(または、話を争点を変えようとする)

これらは人にはいろんな考え方があるとするレベルを超えた
ある種の憎しみを込めた感情の争いまでになっている(それが分断)

「類は友を呼ぶ」という諺がある
これは嫌というほど実感することで、「友達を見ればその人物が分かる」
という身につけた知恵に繋がる

不正が行われたとトランプさんの意見に賛同する人たちの多くは
先程挙げた日本学術会議の問題の他にも、特徴的な行動を起こしている(ようだ)
それは自分が住む愛知県の大村知事に対するリコールの賛成の人たちで
この方々も頭ごなしに「なになにが悪い」と決めつけて、それ以外の話を聞こうとしない
リコール署名運動の最中には「車の車輪のボルトが緩められた」とか
「盗聴器が仕掛けられた」とか「署名者の個人情報が見られる」とかの妨害工作があった
とツイートがあったが、それらは具体的な証拠はないし、署名者の氏名は制度上の
「署名の縦覧期間」で見られてしまう可能性があることは最初から分かっている
つまりは、自分たちが信じたいように信じているだけに過ぎないのだが
問題は、日本でもアメリカでもこの傾向は馬鹿にできないくらい大きなものになっている点だ

分断は何故起きたのか?
果たして現実的に分断は解消されうるのか?
こんな大きな問題は田舎のおっさんがあれこれ言ったところでどうなるものでもないが
それでも、なんとかしないといかん(自分のできる範囲で)と焦りを覚えている
ただ、理詰めの上から目線の説得(物言い)では、人は動かないだろうと
経験上実感しているので、それを踏まえてどうしたら良いか、、考えねば

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異様に太った人が多いのは何故か?

2020年11月09日 10時17分28秒 | あれこれ考えること

もしかしたら日本の選挙よりもアメリカのそれのほうが詳しく知っている人が
多いかもしれないと思われる大統領選挙
確かにアメリカの選挙は結果的に世界に影響するから、そうなるのはある程度仕方ない

ニュースでは分断の現実と、その背景が報道されて、なかなか根は深いようだ
ニュースを見ていて、アメリカの闇とまではいかないが、遠いアジア人として
問題点として感じたことがあった

それは画像に写る人の中に異様に太っている人が多いこと
その太り方はどう見ても普通じゃない(お腹のあたりが膨らんでいる)
数年前ドイツを旅した時、そこでも太った人を見かけた
でもそれは基本的な体格の違い(寒い国の人は自然とふくよかになる?)
みたいな理解ができた

ところがアメリカの太っている人は違う
単にデブとしか見えない
そしてその姿は決して健康的には見えない

この異様に太い人たちが何故こんなに多いのか?
それは究極のところ食生活に繋がると考えられる
彼らの食生活はどんなものか
何故、そのような食生活を続けているのか
これを考えると、もしかしたら分断の原因となるものが明らかにされるかもしれない
(詳しく確かめないとだめだが、なんとなくトランプさん陣営のほうがこうした
 異様に太った人が多いように見えた)

アメリカのエリートには太った人がいない
太った人は出世できない、、とまで言われたことがあったと記憶している

エリートは意志の力だけでなく、太らないような食生活が確保されていて
太ってしまう人は、そうした環境下にないと考える事ができるかもしれない
それは結局のところ収入格差に繋がるのかもしれない

格差は分断を生む
格差は収入だけでなく、知識の格差、健康の格差まで生んでしまうのかもしれない
格差の問題を、それぞれの個人の責任(努力不足など)としてしまうのは
少々乱暴な気がする

そしてこのアメリカの問題が、実は日本でも起きているような気がするのは考えすぎか?

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カマラ・ハリス氏の演説から思い出したこと

2020年11月08日 15時37分14秒 | あれこれ考えること

今日はいくら遠い国のことだとしても、アメリカ大統領選のことを
記録しなければならないだろう

今朝、バイデン氏がペンシルベニア州で勝ちを納め過半数の270を超えることとなった
それで終わるかと言えば、まだまだ問題は多くて、すんなりとはいかないらしい
ただ現実的には世界各国の首脳もバイデン氏に祝福のメッセージを送って
世界はバイデン氏を次期大統領として認めようとしている

午前10時から副大統領候補のカマラ・ハリスとバイデン氏の演説が流された
カマラ・ハリス氏の演説の中に、ジョン・ルイス議員の言葉を引用した部分があった
「民主主義は国家ではありません。それは行為です。」 彼が意味したのは、
アメリカの民主主義は保証されていないということでした。
それ(行為)は私たちがそれのために戦う意欲と同じくらい強いだけです—

国の上に立つ人間がこのようなメッセージを伝えられるのは、
それが全くと言っていいほど欠けているこの国の人間としては羨ましい

ところで、このメッセージを聞いていて思い出したのが団藤重光氏の「法学の基礎」
で「努力」という言葉が使われている憲法に関する説明の章
その内容は以下の通り

この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の普段の努力によって、
これ保持しなければならない【憲法12上前段】
この憲法が日本国民に保証する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得
の努力の成果であって、これらの権利は、過去幾多の試練に堪え、現在及び
将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである
【憲法97条】
団籐氏は「努力」という言葉が二度も使われていることに注目し
基本的人権は、「与えられたもの」ではなく、われわれ人類が動力によって
作り出したものであり、今後はさらに努力を重ねることによって、さらに発展させて
いかねばならない  と説明している


同じこと言ってる!(と思い浮かべたのだ)

結局のところ、真面目に考えた人がたどり着く結論というのはそんなに違いはないもの
と思うわけだが、こうした思いっきり大上段に構えた正論を口にして
それを愚直に実行していくことが必要なんだと思う(それが如何に難しいとしても)

 

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新型コロナウィルスのせいで、、、

2020年11月07日 08時46分04秒 | 子どもたちのこと

先日、ある人を介して自分たちのボランティア活動に
資金の提供を申し出てくれた方がいた

その方(女性)は、たまたま自分のブログで外国人をルーツに持つ子どもたちの
勉強の手伝いのことを知ったらしい
そして、今流行りの映画「鬼滅の刃」なら子どもにも楽しんで見てられるし
それが日本語の勉強の助けになるのではないか、、と考えて
いくらかの金額を映画鑑賞料として提供を申し出てくれたのだ

自分はその方を知らない
その方も自分のことは知らない(名前とか住んでるところとか)
その話を紹介してくれた知人は、その方も自分のことも知っている
「どうする、会ってみる?」
と聞かれて、その方が望むなら会ってみたい、、と伝えたが
後日、その人は「陰から応援しているだけで良い」
とおっしゃったそうだ
更に「困ったことがあったら(金銭的に?)協力するから」
とも言われたそうだ

正直、とても嬉しかった
金銭的な提供が嬉しいのではなく、世の中にはこのような方がいることが
それを実感できたことが嬉しかった
そして少しだけ自分の拙い投稿を読んでいてくれたことも

後日、少なくない金額が知人から渡された
早速、映画を見に行く段取り等をスタッフとか子どもたちと検討し始めた

ところが、この計画に思い切りブレーキをかける事態が発生した
新型コロナウィルスの陽性者の増加だ
しばらくの間音無しの構えだった我が市も7人から10人に増えた
映画館のある豊橋市も豊川市も増加傾向だ
こうなると、どうしても気になってしまう
マスク、消毒、ソーシャルディスタンスを確保しておけば大丈夫!
と思いつつも、ついつい最悪のことが起きたらと考えてしまう

そしてスタッフと相談して、今のところは一旦計画を中止にすることにした
映画を見るのは日本語の勉強だけでなく、彼らにお楽しみの時間を
与えたい気持ちもあった
でも、それが、できなくなった

クソ!コロナウィルスめ!

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