おっさんは(おじいさんは?)若い人の使う言葉がわからない
だが、最近、それを使ってみた
「あたおか」がそれだ
ツイッターで若い女性がとんでもないツイートをしていた
その女性(橋本琴絵氏)は
「第一次世界大戦は日本は勝った、第二次世界大戦は日本は負けた
第三次世界大戦は日本は勝つ」
とツイートしていた
あまりにもひどい内容で、こんな馬鹿なツイートがあると
教えてもらったのだが、その時に「あたおか」を使って彼女を批判した
「あたおか」は「頭、おかしい」の意味だ
これなどはいろんな考えがあるというレベルを超えている
そもそも、なんでこんなことを言うのかその人間性が理解できない
これに「良いね」をする人の気持もわからない
日本は壊れてしまっているのだろうか
話は変わって「タイパとは何か?」
とあるテレビ番組で話題になった
すぐに「コスパ」と縮小される前の「コストパフォーマンス」
に似た言葉だろうと連想した
多分、タイムパフォーマンスと思ったが、嬉しいことに当たってた
でもファスト某でドラマとか映画を倍速で見る気持ちは、、、
どうもわからない
とは言うものの、大谷のホームランシーンのYoutubeでは
ピッチャーとの一球一珠の駆け引きは面倒くさいので
それを飛ばして見ようとする
なんか、自分も余裕がなくなってきているのだろうか
ちょっと反省!
2020年はベートーヴェンの生誕250年で、コロナ騒動がなかったら
きっと彼に関するコンサートなどが多く開催されただろう
それが無くなったのは残念だった
2024年はマニアしかウケない(?)ブルックナーの生誕200年だ
やはりいろんな企画が計画されていて
その中には2024年までに交響曲全曲をオルガンで演奏する試みがあり
その一部がCD化されている
ブルックナーはずっと長い間、教会のオルガニストを勤めており
音楽の発想自体がオルガン的ともいわれているから
実際にどんな響きになるのか興味深い
そこで手始めに大好きな2番の交響曲のオルガン演奏のCDを手に入れた
交響曲とは別の曲も入っており、6つのトラックに分かれていたが
まず聴き始めたのは8番のアダージョと同じくらい好きな第2楽章
この楽章は田舎の風景を思わせる柔らかな音楽で
オルガンでもその雰囲気は再現されている
というよりオーケストラよりもっと柔らかい音色で
オルガンのストップの選択が曲とマッチして、オーケストラよりもいい感じ
オルガンのことはよく分からないが、ストップの選択と言うよりは
オルガン自体の音色だったかもしれない
とにかく柔らかな音色で、バッハのトッカータとフーガニ短調で
イメージされる音とはぜんぜん違う
この楽章は気に入ったが他の楽章はイマイチの印象だった
それはオルガン音楽の録音の難しさにあるかもしれない
オルガンのフォルテは凄まじい音量なので
それを基準に録音レベルを決めると、ピアノの部分は極めてか細い音になる
つまりは大音量と小音量の振れ幅が大きすぎるので
丁度いいレベルの録音ができなかったのではないか、、と思ってしまった
それ思うと、オルガンの音楽は現場で聴くしかないのかもしれない
オルガン演奏で聴きたい彼の交響曲は5番、7番、8番、9番だ
4番も6番も面白いかもしれない
名古屋栄の芸術劇場コンサートホールにはオルガンがあるので
この企画をやってほしいと思うが、、、聴衆の数を想像すると無理かな
ワールドカップを目前に控えて、NHKでは過去のワールドの熱戦を伝えている
アメリカ大会のブラジル対イタリア、南アフリカ大会のスペイン対オランダなど
決勝戦だけでなく、日本の試合も放送している
その中に日韓大会の日本対ベルギーの試合があった
もう20年も前のことで懐かしい選手がでているし、トルシエ監督も若い
キーパーは楢崎、DFは松田、森岡、中田、ボランチが戸田と稲本
両サイドMFが市川と小野、真ん中が中田英、FWが鈴木隆と柳沢がスタメンだ
引き分けだった結果は知っているので、ハラハラしてみることはない
ワールドカップの対戦国は不思議と被る
ベルギーはあの終了間近のカウンターでやられたのとで2回対戦している
コロンビアとも2回対戦している
今回はドイツとスペインが入っているE組で、今まで当たっていないが
世界の強豪国と真剣勝負が出来ることを楽しみにするしか無い
ところで日韓大会で初めて勝点1を手にしたベルギーとの戦いだが
テレビ画面からでも観客の熱気がすごいのがわかる
試合が始まっても落ちつず両チームとも初戦の緊張感に満ちているようだ
(もっと興奮していたのはラジオ中継していたアナウンサーで
絶叫して伝えていたので最後のほうは声がかすれていた
自分はそのラジオ放送を聴きながら家路に向かった)
不意に、この日本のチーム、あまり強くないなあ、、と感じた
ボールを前に運べていないし、パスも不正確だし、バタバタしている
少し不思議だったのは身長の高いベルギーに対して
ロングボールでDFの背後を狙うようなボールが多かったことだ
体格からすればあまり良い戦術ではないと思ったが
トルシエ監督は途中でボールを奪われる危険のない手段を
採用したのかもしれない
体格差の問題はあったが、鈴木隆行の得点は小野からのロングボールを
走り込んでつま先に当てたものだったので
この作戦が一方的に非現実的ではなかったようだ
時間をおいて見ているので、どうしても今の日本のチームと比較してしまう
すると今の日本はあれから強くなっていると感じる
まだ世界と比べると貧弱だが個人の力もアップしている
日韓の時は中田・小野・稲本が海外組で、他の選手は国内リーグの選手だった
ところが今は代表となる選手は殆どが海外(ヨーロッパ)で
それなりの経験を積んでいる
高いレベルでのスピードとか身体の強さの経験というのは
頭で対応するのではなく身体で対応しているうちに
慣れとなって身体が順応していく
しかし、残念なことに(?)日本が進化している以上に世界も進化している
個人のスキルも戦術も進んで、なかなか先頭集団の背中に追いつけないのが現実だ
日本国内では戦いの前はどうしても楽観的な
というより希望的な予想が多いが
それが出来るのも試合前だけの楽しみなのかもしれない
ところで、今回のワールドカップはまたもやイタリアが参加していない
それを思うと、大の大人が必死になって戦う中で勝ち残るのは
難しいことだと実感する
日本にはドイツにもスペインにも負けない試合ではなく
勇気を持って勝つ可能性のある戦いをしてほしいものだ
10年ほど前の1月、函館にいく途中、雪の青森駅で列車を乗り換えた
条件反射のように思い出したのが「津軽海峡・冬景色」の歌詞で
ついスマホで青森の字が入った看板と雪景色の写真を撮った
音楽は不必要ににジャンル分けされている
自分はクラシック音楽が好きだが、高尚だからと思ったことはない
単純に楽しめるからで、サッカーが好きな感覚と大差ない
昔、オールスターかくし芸大会という番組が正月にあった
そこで森進一が歌うプッチーニの「ある晴れた日に」を耳にした時
ベルカントで歌われる本格的な歌よりも心情的にフィットして
こういうもの良いな、、と感じたものだった
クラシック音楽をポピュラーの歌手が歌って楽しめるのは
フィリッパ・ジョルダーノの歌うトスカの中の「愛に生き歌に生き」で
これもマリア・カラスの凄まじい歌唱とは別の良さがあった
ところで、はYoutubeでは「津軽海峡・冬景色」をいろんな人が歌っている
興味を引いたのがクラシックのソプラノ歌手が歌うこれ
プロのソプラノ歌手が歌う「津軽海峡・冬景色」歌 野々村彩乃/pf 乾将万
少し慣れないと違和感を感じるかもしれないが、その世界を受け入れると
そういう表現もあるのか、、と驚きを感じる
この「津軽海峡・冬景色」は、ポピュラーの歌い手さんも歌っていて
なかなか良いのがアンジェラ・アキさんの歌うこれ
アンジェラ・アキ 『津軽海峡・冬景色』
車の中でiPodに入れたこの音楽を流すと、母は「変な歌い方!」と口にする
音楽は本当に多様な表現があるものだと思う
自分の音楽の好みは雑食系だが、それでも年齢のせいかメロディに変化のなく(?)
繰り返しの多いラップがどうも苦手だ
それ以外にも、みんなで同じメロディを歌う大勢の女の子の集まりの音楽も苦手だ
なんだか、ちょっとバカにされてる気がしてしまうのは偏屈すぎるか
ブルックナーの音楽にはパターン化した旋律がある
タンタン・タタタというでリズムで4番も8番もそれを聴くことが出来る
それは「またやってる!」とも思う
ショスタコーヴィチの知らない曲を途中から聴いていても
5番の第4楽章のあの特徴あるリズムらしきものが現れると
彼の作品だとわかる
チャイコフスキーも、5番でも6番でも似通った部分を聴くたびに
「またやってる!」といつも思う
それらは個性なのか、ワンパターンなのか
これは音楽の話で、作曲家はまるっきり固定化したアイデアとか
思いつきから離れるのは難しいと思われる
モーツァルトでさえケッヘル番号が近い作品は似たフレーズがある
こんなことを改めて感じたのは、音楽とは違う分野だが
辻邦生の「ある生涯の7つの場所」でエピソードのパターン化を感じたからだ
長編小説の作家、辻邦生が短編の集合体としての「ある生涯の7つの場所」は
物語作家としての創作意欲の旺盛さを感じる作品だが
まとめて読んでみると「またやってる!」(死についてのエピソードが)
と実感としてしまった部分が少なくなかった
だが、これらのことは少し安心感を覚えたのは事実だ
「人はとんでもなくいろんなパターンのアイデアを思いつくことはできない」
という現実を思い知らされたからだ
つまりどんな著名な創作家でも、駄作は時に存在するということで
その不完全さは、(自分にとって)ちょいと安心につながったということだ
人はその人の重要な固定観念から抜け出すことは難しいと思う
そして作曲家や小説家に要求される能力は、作り続けるという力だと思われるが
その作り続けることは、ワンパターン化しがちで
深化はその範囲内で行われるようだ
それにしても、こんな風に思うこと自体がワンパターン化しているのだろうか
音楽を聞いて涙を涙したことのある人は、少なくないと思われる
不意に辛かった過去を思い出させられたり
憧ればかりが胸に溢れていた時代を懐かしんだり
理由もなくただただ熱いものが流れるとか
音楽の感情に訴える力というものは不思議だ
レコード音楽を聴いて涙したことのある曲は3曲ある
その一つが、猛烈な感動を覚えて、その感動が一時の単なる錯覚だったと
感じてしまう怖さ故に聴き直すことができない曲で
ベートーヴェンのミサ・ソレムニスのアニュス・デイだ
暗い曲なのか、深い音楽なのか、ベートーヴェンの得意ではない声楽曲だが
「神よ、憐れみ給え」と繰り返す歌詞も相まって、彼の晩年の心情を思うと
人の達する境地の高さに驚く
以下の動画では欠けてしまっているが、次の部分に移る経過の部分の
ヴァイオリンパートは本当に泣けてきた
(そのヴァイオリンパートはトリスタンとイゾルデの
二幕のブランゲーネの警告のそれと同様自分が好きな部分だ)
L. V. Beethoven ~ Agnus Dei
アニュス・デイはバッハのロ短調ミサでも印象に残る音楽で
アルトの深々とした声と、伴奏のヴァイオリンパートが
ここでも声以上に活躍する
バーバーの弦楽のためのアダージョはアニュス・デイの歌詞をつけて
歌われることもあるようで、共通して深い祈りの音楽となっている
冒頭を聴いた瞬間にいきなりノックアウトパンチを食らって
涙したのはバッハのロ短調ミサのキリエだった
現代の演奏では割とあっさり歌われることが多いようだが
自分が聴いたリヒターの演奏の熱量とか濃厚さは
まだ感性豊かで、だが分析的でない頃の自分の心の奥に響いた
J.S. Bach: Mass In B Minor, BWV 232 / Kyrie - Kyrie eleison (I)
そしてもう一つの曲はフォーレのレクイエムの「楽園にて」だ
この曲は猛烈に感動したと言うより、気がついたら熱いものが
頬に流れていた
Faure Requiem/7 - In Paradisum (楽園にて)
音楽は現在進行系で時を楽しむ芸術だが
記憶を楽しむ芸術でもあるような気がする
以上の三曲は涙した時の思い出が失せないどころか
ますます、その記憶は美化されつつある
NHKは偏っているとの批判も多いが、時にとても興味深い放送もある
「欲望の資本主義」とか大河ドラマなどは良質の番組だと思うが
ふと目にしたNHKスペシャル「超進化論」もすごく刺激的で面白かった
数年前「樹木たちの知られざる生活・森林管理官が聴いた森の声」では
植物が枝が伸びてそれぞれがじゃまになった時、何らかのコミュニケーションを
図っているみたいなことが書かれていたが、この番組でもそのことが紹介されていた
何も感じない植物と思われがちだが、樹木が葉っぱを虫に食われている時
樹木はその状態を樹木全体に伝達して、遠くの場所では虫に食われないように
毒物を作り始めているというのだ
森の中で樹木が一本虫に食われたとしても、その周りの樹木が被害に襲われないのは
食われている樹木が化学物質を放出して、その危機を伝えて毒物の生成に役立っているかららしい
この番組は根っこに住みつく菌と根っことの共生も紹介されていて
進化論は生き残るための競争ではなくて、生き残りのためには共に生きたほうが
生き残る可能性が高い、、との新しい進化論の考え方を示している
生き延びる可能性が高い方法は、「ゲームの理論の囚人のジレンマ」と似ているかもしれない
自分だけが得するのではなく、お互いが得する方が生き延びる可能性は高い
(囚人は全体最適の方が刑は少なくて済む)
ここでは倫理的な価値観云々と言うよりは、可能性の問題としてお互いが助け合うほうが
良い結果を導き出すとしている
人間社会もお互いが助け合ってるほうが生き延びるチャンスは多いと思うが
なかなかそうはならないようだ
番組の最初の方で紹介されたが、地球上のすべての生き物の重さを計算すると
動物とか菌類など生き物のの重さは約5%で
残り95%程は植物が占めており、この数字からすると地球の最強の生き物は
植物なのだそうだ
だから植物から学ぼう、、と言うことなのだが、こうした新しい知識は
相対性理論的なインパクトがあると思ったりするが、さて
「神は妄想である」とタイトルされた本に、祈りは現実的に何も効果は無い!
と断言した進化生物学者のドーキンスならば
自分の行った行為は批判の対象になったかもしれない
(確かにその時は自分も多少の違和感を持ったのは事実だが)
昔、仕事で癌封じで有名なお寺さんを訪れた時、一人の女性が声をかけてきた
普通の中年の女性だと思ったが、彼女は日本語が得意でない韓国の女性だった
「癌封じのお祈りはいくらなのですか?
安いのと高いのがあるのなら高いのはいくらで、どう違うのですか?
今、夫が癌を患っていて、なんとしても生きていてもらいたいのです」
彼女はこのようなことを見ず知らずの自分に話しかけてきた
その切実さ、真剣さ、勢いに負けて自分はその寺の人に尋ねた
今は忘れてしまったが、確か祈祷には何種類かあって
安いものと高いものは数倍の金額の違いがあったと思う
そしてその違いは、その人のために安いものはその日だけ祈り
高い方は毎日(毎月?)祈りをするというのもだった
女性にその内容を話すと、彼女は何の迷いもなく高い方の祈祷を選択し
自分の財布には入っていることのない金額を支払った
正直なところ、違いがそんなところだったり、祈祷が効果あるかは当てにならない
と思っていたので、無茶な選択はやめたほうが良い、、と言いたくなってしまった
だが、結局自分は彼女に何も言わなかった
言える雰囲気ではなかった
今でも覚えているのは、この時の自分は正しかったのだろうか?
とずっと気にかかっていたからだ
客観的にみればドーキンスの怒りが正しいと思える
しかし、切羽詰まって、残されたことは祈りしかなかったならば
自分たちはそれを他人事の様に批判することが出来るだろうか
科学の進んでいない源氏物語や枕草子の時代
病からの平癒は祈祷に望みをかけた
今から見れば馬鹿げたものに見えても、その時代の人々の切実さは疑う余地はない
祈り、それは単に祈る人の自己満足に過ぎないのかもしれない
でも、あの時と違い年齢を重ねた今は、そうした切実な思いからでた(祈祷という)行為は
無駄であったとしても、その人のために良いのではないか、、と思えるようになった
気になった高すぎる祈祷料についてだが
そのお寺さんは癌撲滅のための活動をしている団体等に毎年寄付をしている
つまりは、お金は今の感覚でも無駄になっていないということだ
しかし、今問題となっているあの宗教団体(というより金儲け集団)のことを思うと
またもや祈りに頼ることは良いのだろうか、、とも考えてしまう
人の世は難しい!
やはり昨日の天体ショー(皆既月食)はYoutubeのライブ中継があった
地元の天気は晴れなので直に見ることができたが
iPhoneで撮影しようとしたところ、SEなので望遠レンズはなく
拡大するとざらついた写真にしかならなかった
月は徐々に左下から欠けていき、全体が地球の影に入ると赤っぽくなった
写真という記録に残したものよりも、自分の目で直に見る月のきれいさは
生き物に備わっている能力の凄さを実感した
Youtubeはいろんなところがライブ中継をやっていて、そこで懐かしい名前を見つけた
「ビクセン」がそれで、昔雑誌の天文ガイドを定期購入していた時に頻繁に目にした
望遠鏡のメーカーだ
その頃自分は屈折式の望遠鏡を持っていて、同級生の友達は反射式の赤道儀だった(と思う)
時間に伴う星の動きに赤道儀ではない望遠鏡はついていけないので
覗いている時間は短いものになった
それでも木星の模様とか衛星は見えたし、土星の環も認識できた
時々画像がユラユラするのは地球上の空気の動きのせいだった
今でも覚えている印象的なことは、プレアデス星団(日本名は昴)を見ていた時のことで
屈折式の望遠鏡は視野が広く、目が慣れてくると星がウジャウジャと増えてきて、
それを見ている自分はその空間に吸い込まれそうな気持ちになった
そして耳に聞こえたのは「シーン」という音だった
「チコちゃんに叱られる」では、静かな時なぜ「シーン」というのか?
との問があったが、実際に耳にはシーンと聞こえていたからとの解説があったが
それは自分の実感でも納得できたのだった
ビクセンはその頃欲しかった赤道儀の望遠鏡を広告に掲載していて
今で言えば「欲しい物リスト」の筆頭となる商品のメーカーだった
星は夏より冬のほうがきれいに見える
天文ガイドは望遠鏡(赤道儀)にカメラを設置して
上手く撮影する方法を解説していた
長時間露光テクニックとかフィルムの種類とか(トライX)
自分には手に入らないものだったが、そこにでてくる言葉は自然と覚えた
それにしても、月食を計算によって予想できていることは
一体どういう計算をすれば出来るのか、、と驚きと同時に疑問も浮かぶ
いつだったか忘れたが「日食(月食)の計算式」というのをネットで
ダウンロードしたことがあった
しかしダウンロードした記憶はあるが計算式等を見た覚えはない
このあたりは手に入れたら興味は半減するの典型で、情けないところだ
現代なら複雑な計算もコンピューターで出来るが
ガリレオ等の活躍した時代は筆算でするしかなかっただろうから
ものすごく大変だたろうなと想像する
そう言えば近くの東栄町には、比較的口径の大きい望遠鏡を備えている天文台
があるから、昨日は人でいっぱいだったのだろうか
京都の日帰り旅の申込みをしただけでどこかウキウキしている
精神衛生には適度な外出は必要なのだと実感する
京都の旅の予習ではないがこの本を引っ張り出してきた
渡来の人々、京都太秦にも関係する秦氏に関する専門書だ
蚕ノ社の3柱鳥居も、松尾大社も、伏見稲荷との関係もこの本で知った
覚えていることのおさらいのつもりで読み始めたが
本当にこれを読み終えた事があったのか?
と頭を抱えてしまった
記憶力が無くなっているのは年齢的に仕方ないことだが
その現実に直面すると流石にちょっとショックを覚える
そこで自分自身に言い訳を考える
この本は素人が読む本ではなくて専門家用の本なのだ!と
実際のところ引用とか参考文献は読んだことの無いものばかりで
それを知ってる前提で進められる解説は、頭に入らないのは仕方ない
(だから覚えていられない)
何かを理解するには同じテーマの本を3冊読まないとダメだと言われる
わからないことも、数回繰り返して目にするとなんとなくわかってくる
「読書百遍意自ずから通ず」
ってのは本当だな、、と思ったりもする
日帰り旅を予定している11月22日は、太秦の広隆寺の聖徳太子御火焚祭
普段は公開されていない聖徳太子像が、時の天皇の着用した黄櫨染御袍を
着てる姿が見ることが出来る(2019年に訪れた)
広隆寺には有名な弥勒菩薩像があるが、この時は弥勒菩薩より秦河勝の像が
印象に残った
渡来の民を仕切った覇気のようなものがにじみ出てるようで、、
この本を読んでいくと、最後の方では秦氏も少し運がない集団だった
ような面がある印象を持つ
運のない人々、、(大津皇子、村山たか、土方歳三、小栗忠順など)
なぜ自分はそういう人々が気になって仕方ないのだろう
ということで旅までは少し時間があるので、この本を拾い読みして
少しは頭が良くなった実感を味わうことにしよう