明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



椿説弓張月の三島由紀夫、背景は最後に雪を降らせるだけになった。ようやく縄で縛られ、白縫姫の命を受けた腰元達に竹釘打たれて苦しみ呻く武藤太を作ることにする。試しに三島の表情に鉛筆で歌舞伎調化粧してみる。そして不動明王由来で月と日を表しているそうだが、片目が寄り目、片目が普通に真ん中の見得。三島は細江英公の薔薇刑の撮影時、いくらでも瞬きしないで耐えられる、という特技を発揮した。それは苦痛に耐えられる特技であって、これは訓練なしにはできないだろう。たった1カットのためであるし、これを展示する予定もないので、例によって写る所しか作らない。 都営地下鉄の表紙を担当していた時、私は九代目市川團十郎を提案した。歌舞伎座の改修が決まっていたし、当時インフルエンザが流行っていたことも理由の一つであった。江戸時代から團十郎に睨まれると、一年間風邪をひかないといわれている。当初の構想では怪獣のように巨大な暫の鎌倉権五郎が歌舞伎座の屋根の上から東京を睨み倒す、というものであった。しかし、写る所しか作らないとしても、あの歴史あるド派手な暫制作は時間的に無理だと思われたし、せっかく作った九代目の顔が隈取に埋没してしまうのが耐えられず、助六に変更した。

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