明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



清方の圓朝像は当時の高座を再現した作品だと思い込んでいたがそうではなかった。 新聞に掲載される圓朝の速記は、新聞社の主だった数人、挿絵担当の芳年などが静かな座敷に集まり、休憩をはさみたっぷり2席を聴く。それが木挽町の清方宅だった場合もあったそうで、それを懐かしく思い出しながら昭和5年に描いたのがあの作品で、描かれた調度品はすべて清方の私物だそうである。 木挽町の清方宅といえば、挿絵を依頼しに来た泉鏡花と座敷で自身が対面しているところを描いた、あの家だろう。最初に入手した菊型の燭台は、あれに似た物が清方の私物で寄席の雰囲気を出すために圓朝の両脇に配したとなれば、清方作品のオマージュを制作する場合に使用し、寄席の再現には、別に入手した黒い漆塗りの簡素な燭台を使用するほうが良いかもしれない。 一人何をブツブツいっている。また個人タクシーのMさんにつまらねえ、といわれそうだが、これが当ブログなのであって、近所の酔っぱらいの話しを書いて、極近所の人にウケたところでしかたがないのである。

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圓朝には障子に写った横顔をトレースしたような影絵が二種類残されている。江戸時代から役者の影絵が残されているが、これはどうやって作成したのか知らないが、普通の役者絵と違ってリアルである。二つのうち一つは、正面の写真だけで作った私の圓朝の横顔とほぼ合っていたが、もうは一つは圓朝でないか、いい加減に描かれたものである。 それにしても、悩みの種だったのは鏑木清方の描く圓朝の表情であった。伝記や写真に残されている圓朝とイメージが違うからである。しかし身近に圓朝を見ている、なんといっても鏑木清方である。写真に騙されてはならぬ、と常に疑いの目を向けているので気になってしょうがない。しかし清方が証言を残しているわけでもなく、確信が持てないのに清方といっても他人の創作物を当てにする気にはならない。写真だけを参考に、と方針を切り替えたが、出来てみたら顔形こそ清方と違うがあんな表情になっているではないか。これは正面だけを参考に作ったら、自動的に正しい横顔ができあがっていたように、紆余曲折しながら真面目に作っていたら、自動的に清方の見た圓朝が現出した。としかいいようがない。つまり顔形は写真に、表情は清方調、とわだかまっていたものが解消した私の圓朝ができあがった。こうなると、有名な肖像画の傑作に対するオマージュとして、湯飲みこそ持ってはいないが、1カット、清方作と同じような構図で写真化するのも面白いような気がしてきた。

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圓朝は寄席引退直前、一部の弟子を連れて大阪に口演に出かける。圓朝はじっくりと語るタイプなのだが広い寄席の後ろにまで聴こえるので弟子達も舌を巻いたらしい。それに引き換え六代目の菊五郎は聴こえず、坪内逍遥はその点、シャリアピンは小さな声でも会場の後ろにまで届いた、といっている。 どうしてこういうことが起きるのか私にはわからない。ついでにいえば『巨人の星』の主人公、星飛雄馬は身体が小さく、その豪速球の球質が軽いのが致命的で、その後、変化球の大リーグボールを開発していくわけだが、放たれたボールに体重が乗る、ということが私には理解ができない。さらについでにいえば、鮫は何キロ先からも血の匂いを嗅ぎ付ける、というが、数キロ先まで血液が拡散するには時間がかかるだろう。嗅ぎ付けるには、なんらかの血の成分が、鮫の鼻先まで到達していなければならないはずではないか、と思うのだが。圓朝ついでに小学校生時代からの解けない疑問二題。
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午前中、撮影に使える物を探しに富岡八幡の骨董市へ出かける。まずは未開封の夏目漱石も吸っていた煙草「朝日」。フイルター部分ががらんどうの筒で、これをぶっちがいに十文字に潰して吸う。学生の頃安いのでたまに吸っていたが、76年に1台残る製造機が廃棄処分になるというニュースに1カートン買った覚えがある。記念に取っておくつもりがすぐ吸ってしまった。物色中の客が黒い円筒状の物を持ち「これなに?」骨董屋「双眼鏡」。客「?水筒じゃねえか」。に笑う。“双眼”ですらなく、火事場から直行してきたのか?  生け花などを床の間に飾ったであろう趣のある花台があった。横50センチ程で、側面に波に千鳥。これに圓朝を座らせ展示の際の高座に見立てることにした。欅の使い込まれた風合いが圓朝を座らせるに充分である。入手済みの高さ50センチ幅1メートル強の金屏風を背後に配したら映えるだろう。9千円の所、千円まけてもらう。これで準備は万端。だったら早く色を塗り始めろ、という話である。 作り終え撮影してしまうと、あれほど愛情を持って接していたのに、くるりと背を向け煙草を吸ってしまう。そんな自分を判っているので、今のうちに逢瀬を長引かせ楽しんでおきたい。そんなところであろう。
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先日フェイスブックに載せた圓朝のある部分にデイテール不足を感じたので追加。そしてこれ以降、その部分はそうしなければいられなくなる。こんなことを毎日繰り返し変化してきた。のろい歩みではあるけれども。それにしてもまず被写体をつくらなければならない。我ながら面倒なことを、と思うが、そうでなければ写真をやろうとは思わなかっただろう。DMの写真くらい自分で撮れれば、という程度であったから。 なんていってないで、早く圓朝に色を塗れ、という話しであるが、私の扱い方はよく心得ている。焦らすことにより、より多くの制作の快感を得ようということで、これが弓の引き絞り効果となり集中力も高まる。今回、首をゆるめに作り可動範囲が広いので色々な表情を醸せるだろう。それは判ったから早く色を塗れ。
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一日  


撮影を終えた帰りの電車内。Mさんからお誘いの電話があり、なんとか間に合う。聞くと本日は奥さんが娘夫婦の所にでかけており独身だ、という。私はというと、明日母がショートステイから帰って来る。そんなタイミングであった。席の向こうには、健康診断で再検査、というだけで「もう終わりだ」とそこら中でいい回っているカワウソ状のオヤジ。いつも肺に陰があるといわれるのだが、去年から咳が止まらない。人間に影がないんだから肺に影があるくらいで丁度良いと思うのだが。先日は「死にたくない」と泣いたそうである。再検査というだけでこれだけ過剰反応する人も珍しい。 Mさんからは泥酔して帰って来て料理を始め、もうもうと煙を出したまま床で大の字になって寝ていて、もう少しでかみさんに水をぶっかけられるところだった人の話しを聞く。翌朝本人は覚えておらず全否定だそうで、そういう人物には、料理中の動画を撮影して本人に突きつけるしかない。それにしてもお互い気をつけましょうとMさんと語り合う。カウンターで飲んでいた「相棒」の“ヒロコママ”こと深沢敦さんに薦められた門前仲町の店に移動し話しは多義に渡る。Mさんはまだ独身を満喫したそうであったが、足取りも怪しくなり解散。個人タクシーのMさんにさきほど「最近ブログが作る事ばかりで面白くねえよ」。といわれたのだが、おかげでこんな有様ではないか。
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明日、自分の作品ではなく撮影の仕事があるので、修理に出していたミラーレスカメラを受け取りにいった。数カ所イカレていてもう少し出せば新品でも買えそうな見積もりであった。 レンズとの電子接点が腐食している、といわれた。実はそれは腐食ではなく、私がやらかしたことが原因である。どんなヘマをやらかしたかは当ブログのポリシーなので書かない。一応付属のレンズキットも買ったが、一度も使わず覗いたこともない。アダプターを介し、古いアナログレンズしか使わないので、つまり接点になにも接する事がないので、SDカードが読めなくなっている部分だけを直してくれるように頼んだ。その部分も私がしでかしたことが原因である。水分の侵入により、ということであったが、実はコンビニで買ったボデイシャンプーで、何故そんなことになったか、はやはり書かないでおく。よって修理代は二万円ちょっとで済んだ。
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最初の1カットは圓朝の斜めからのバストアップ。目前にヒトダマが浮ぶ予定である。顔にどうやって光を当てどんな表情にするかはその場で案配することにする。圓朝は彫が深いとはいわないが比較的凹凸があるほうなので光の当て方で様々な表情を出せそうである。下からの照明をあからさまに使えるのは怪談の圓朝ならではだが、かなり怖い。1作目は高座上の姿だが、暗い座敷に座らせ、うつむき気味なので目の前の行灯の灯りを見つめる圓朝を正面から撮っても良さそうである。その周辺に飛び交うヒトダマ。なにしろヒトダマを飛ばそうというのだから遠慮はいらない。写真という言葉を蛇蝎の如く嫌い、真など写してたまるか、とフレームの中からできるだけ排除したい私としては格好の題材である。もっとも、何度もアップしたので止めておくが、フレームの中に、白く飛び交う物が写ったことあるけど。 筆で描く予定のヒトダマは、今の所あまり上手く描けないでいる。
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圓朝は千両は稼いだそうだが、寄席はともかく呼ばれた座敷が良い稼ぎだったようである。小島正二郎の『円朝 下』では西南戦争も終わって景気が良くなって来た頃、毎晩のように座敷に呼ばれたようだが、弟子から鳴りもの、義太夫の太夫から何から引き連れ、おかげで出て行く物も多かった。客というのがそうそうたるもので、いわゆる貴顥紳士を並べてみると井上肇、伊藤博文、澁澤栄一、安田善次郎、松本順、五代目菊五郎、九代目團十郎等々。しかもこの連中が圓朝に対し、贔屓の芸人としてではなく、皆友人として圓朝を遇しているところが凄い。それが明治天皇の前で『塩原多助』を口演することに繋がって行く。 歌舞伎の場合は圓朝の数年前の天覧歌舞伎により地位が上がった、と12代目團十郎がテレビでいっていたが、落語の場合もそういう現象はあったのだろうか? 舞台に限らず工芸その他、各分野で先達は地位向上に苦闘したものであろう。しかし地位向上の陰で失われて行く物も間違いなくあったはずで、天覧歌舞伎がなかったなら、歌舞伎の形も随分違っていただろう。 九代目團十郎と園朝が座敷にて対面し、という画も考えないではないが、やはり舞台で圓朝作品を数多く演じ、“怪談”といえば五代目菊五郎ということになる。却下。昨年の深川江戸資料館の個展で場所柄是非出品を、といわれていて果たせず、首だけが残る徳川慶喜に粋なエピソードでもあって、客の中に名を連ねていれば即作るのだが。近いのはお互いの谷中の墓だけ。
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圓朝の写真作品は、掛け軸のバランスで全生庵の圓朝の幽霊画コレクションの如くにやってみたい。昔、泉鏡花でやってみたかったが、現在の、和紙も使えるインクジェットプリントの方が実現しやすいだろう。日本画の場合、月や行灯が描かれていなければ昼夜判らない。まったく陰影のない撮影方法で日本画調にならないだろうか、とも思うのだが、印影を消したからといって、それで単純に日本画調になるものだろうか。 日本画といえば、鏑木清方の描いた圓朝の表情が、何か企んでいるような目つきで、撮られた、あるいは書かれた圓朝像とはイメージが違う。親しい清方だから知る圓朝の一面を描いているのか、と考えたが、そのことに対する清方の知られざる圓朝像の証言でもあれば別だが、確信のないまま、清方に影響されるのは危険だ、と写真のみを参考にした。しかし本日、仮に黒目を入れ、さてどこからどう撮ろうと観察していると、角度によって、私が意図せず、作ったつもりのない、何事か企んでいるような圓朝の表情があった。立体ならではである。
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三遊亭円朝は羽織の紐、湯飲み、扇子を残し、あとは着彩のみとなった。猫背気味でいくらか首を前に突き出している圓朝は膝に手をつきうなだれているように見える。怖い話しをしている、といえばそう見えるかもしれない。この状態だけで2、3、写真作品にする予定である。 まだ完成していないが、お盆の頃に展示したい、という申し出がある。圓朝だけは外光が入らない、暗めの照明にしたいがそれは可能だという。だったら幕末、明治の頃の高座を再現してみたい。背後に金屏風、下に緋毛氈を敷いて火鉢に鉄瓶。両脇に燭台。光量は不十分だろうが、LEDを点灯してみたい。できれば客席の目線の高さに展示してみたいが、こればかりは難しいだろう。 私は立っている人物の場合は見上げながら作る。意識してそうなったわけではないが、始めは正座で作っていたことにもよる。これは対象の人物を、尊敬の念を持って制作するには都合が良いのである。 まだ写真を始めていない頃、仕事でスタジオ撮影してもらうと、相手はプロだし、制作意図もあるだろうから何もいわなかったが、物ではなく、人間のつもりで撮ってくれ、といつも思っていた。
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全生庵の圓朝旧蔵の幽霊画の中にもコレクションされている伊藤晴雨はあらゆる風俗を描き残し、それは時代考証的にも貴重であるが、それよりやはり責め絵師としての方が知られている。226事件当日、青年将校が国家を憂いて決起した同じその日に奥さんを雪積もる中縛って撮影させている。 2001年、まだブログなどない頃に身辺雑記を初めて5日目に書いた物がネット上に残っていた。私もなにも5日目に書かずとも、という内容なのだが、今の常識では考えられない話しなので転載してみる。
『7・某日5 機関車縛りの手法  画報風俗奇譚・昭和三十五年四月臨時増刊号
伊藤晴雨追悼特集 伊藤晴雨の奇人ぶりを語る(古今亭今輔他三人による座談)など面白い記事がある。野村佳秀の「責め絵の道一すじに生きた鬼才」のなかの機関車縛りの手法という記事が面白い。ある朝いつになく興奮した晴雨が「田端の駅長とは話しがつきました。」というところから始まる。前日、晴雨は、責めの新しい手法を考えついたのだが、それは、機関車の大車輪に、女を大の字にしばり、機関車を動かし、レールにはカンシャク玉をを置き、そばで花火の火花をパチパチ散らすというトンでもないものである。その撮影の相談を受けた野村が先生のイメージだと無理だと答えると「田端の駅長はOKだし、貨物列車のあき線を使ってやればと駅長もいっていたし・・・。」その後こんな場面をイメージしているという晴雨の熱い話しが続く。結局この撮影は実現しなかったのだが、最後まで執着していたようである。許可した田端の駅長が凄い。』晴雨も晴雨だが機関車の車輪に女を大の字に縛り、カンシャク玉パンパン、花火パチパチを貨物列車の空き線でやれば?といった田端駅駅長。おおらかな良い時代だった、という話なのだろうか?
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まったく知らなかったが今は落語ブームなんだそうである。残念ながら、私の古今亭志ん生や三遊亭圓朝は、相撲でいえば谷風や常陸山、あるいは双葉山を作っているようなもので、ブームとはあまり関係がない。 圓朝は猫背気味だったそうだが、首はあまりきっちり胴体にはまるようにせず、左前方に浮ぶヒトダマを伺うように多少かしげられる余裕を持たせてある。こんなシーンもパッと浮んでしまったら構図は金輪際変更が効かない。もう少しああだこうだしたい気がするのだが、浮んでしまったら終わりである。何故だか判らないが昔からそうである。 圓朝の顔に関して人が見て変化が判るかどうか、どこかわだかまっていた物が本日解消した。圓朝が完成に近いつもりでいたのに、それを置いて團十郎を作っていたのは納得していなかったのであろう。解消して初めて気付いた。 座布団を新たに作り直し、座布団にかかる羽織の裾も作りなおし完成に近づく。
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一日  


朝目が覚めパソコンの前に座ったら、身に覚えがないオニギリの食べかけが床に落ちていた。何をやっている。 三重県で陶芸をやっている友人が不整脈で手術をすると聞いていたので、そろそろ退院だろうとメールしたら、退院は明日だったが無事に終わったらしい。身近で同じような手術をしてケロッとしている人がいるので心配はしていなかったが。たまたまメールをして手術をすることを知ったのだが、ちょうどその時、私もロレツについて不安があり、MRIを受けようか、という時だったので向こうも心配していたらしい。お互いもう少し生きよう」。返事しておく。 何が嫌だ、といって、私のことだから死ぬ時は“あれを作りたかった、これも作っておけばよかった”と、ぐずぐず諦めが悪いことは間違いがない。しかし作りたい作家ががそろそろ居なくなってきており、逆にいえばそこまで作って来てその先をイメージしているわけではないので、今だったら、そうぐずぐずいうことはないかもしれない。 これは近所の方の思いつきで私のアイデアではないのだが、オイルプリントをスキャンして拡大する。というのは見てみたい気がしてきた。あの絵の具の粒子がどうなるだろう。
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