明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



圓朝の伝記、物語の類いは、すべて圓朝の成長物語である。小島政二郎は『円朝』の中で、圓朝に自問自答させている。“「自分を離れて、芸なんてあるものじゃない」圓朝の芸は、圓朝の生活の中にしかない。「お前は、(かさね)を作り出したと思っているが、あれはお前が作ったのでもなんでもない」あれは、お前の空想から生まれたものだ。空想は、お前の生活の上に成り立っているのではないか。それが証拠には、お前の生活が豊富になるにつれて、「かさね」の内容も、登場人物も、複雑になり、豊富になってきたではないか。将来もっと複雑になり豊富になりしつつ、お前の生活と共に変化して行くに違いない。今日のお前の高座は、今日只今高座へ上がるまでのお前の生活の総決算にほかならない。どんなにお前がジタバタしても、お前はお前の生活した以外のものを表現する事は出来ないのだ。そこが芸の恐ろしいところなのだ。芸が絶対だというのは、そこのところを意味しているのだ。” 長々と引用したが、前作の九代目市川團十郎と圓朝の間は、わずかな期間ではあるが何かが変わった、と感じていた。その間に私事で、私にとってかなり重圧を受けることをせざるを得なかったのだが、その制作とまったく関係のない重圧事が、間接的に作用しているような気がしていた。團十郎はあの時の総決算であって、今の総決算で私の人生上の突端にあるのは圓朝ということになる。

HP

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