明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



圓朝は千両は稼いだそうだが、寄席はともかく呼ばれた座敷が良い稼ぎだったようである。小島正二郎の『円朝 下』では西南戦争も終わって景気が良くなって来た頃、毎晩のように座敷に呼ばれたようだが、弟子から鳴りもの、義太夫の太夫から何から引き連れ、おかげで出て行く物も多かった。客というのがそうそうたるもので、いわゆる貴顥紳士を並べてみると井上肇、伊藤博文、澁澤栄一、安田善次郎、松本順、五代目菊五郎、九代目團十郎等々。しかもこの連中が圓朝に対し、贔屓の芸人としてではなく、皆友人として圓朝を遇しているところが凄い。それが明治天皇の前で『塩原多助』を口演することに繋がって行く。 歌舞伎の場合は圓朝の数年前の天覧歌舞伎により地位が上がった、と12代目團十郎がテレビでいっていたが、落語の場合もそういう現象はあったのだろうか? 舞台に限らず工芸その他、各分野で先達は地位向上に苦闘したものであろう。しかし地位向上の陰で失われて行く物も間違いなくあったはずで、天覧歌舞伎がなかったなら、歌舞伎の形も随分違っていただろう。 九代目團十郎と園朝が座敷にて対面し、という画も考えないではないが、やはり舞台で圓朝作品を数多く演じ、“怪談”といえば五代目菊五郎ということになる。却下。昨年の深川江戸資料館の個展で場所柄是非出品を、といわれていて果たせず、首だけが残る徳川慶喜に粋なエピソードでもあって、客の中に名を連ねていれば即作るのだが。近いのはお互いの谷中の墓だけ。
HP

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )