明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



三島由紀夫の撮影の準備。深川江戸資料館に長辺170センチのプリントで展示した作品を改良する予定。背中で唐獅子牡丹が泣いている三島由起夫の背景に『昭和残侠伝』の池辺良ならぬ番傘に着流しの男4人。もちろん、かつての4人に見立てているわけだが、実はこのモチーフは交通局発行のフリーペーパーでどさくさに紛れて敢行した。中央公論というところがミソでもあった。 『唐獅子牡丹』は東映のヤクザ映画のポスターが頭にあった。三島には陰影も艶もある。しかし題名や出演者が書かれているから映画のポスターは成り立つわけで、それがなければ平面の背景に陰影がある主人公では、一歩間違えばスーパーのチラシである。この時はせっかく自分で作った立体作品から、肝腎な陰影を自ら排除するなどという“暴挙”に出るとは思いもよらずに満足していたが、ここに至ってはせめて主役から陰影を取り除き完成させたい。そして協力していただいた背景の方々にも報いたい。撮影時は、自分の背中の彫物も撮ってくれ、と片肌脱ぎ出すのを止めるのに往生した。また私物の“道具”を持って行く、というのもなんとか止めてもらった。というのは真っ赤なウソであるけれども。


銀座青木画廊「ピクトリアリズム展Ⅲ』5月12日(土)〜5月25日(金)20日(日休)

2016年『深川の人形作家 石塚公昭の世界』 youtubeより

『タウン誌深川』“明日できること今日はせず”連載7回「“画狂老人葛飾北斎”」

HP

コメント ( 1 ) | Trackback ( 0 )




CNNニュースでシリアで救出される少女が毎回同じだ、という。助け出してる大人がなかなかの役者である。特殊メイクで傷口まで作っている。伝えるためにはどんな卑怯な手でも使うぜ。それではまるで私と同じである。 私はついこの間まで、まことを写すという意味である写真という言葉を嫌いつづけてきた。制作上ではホントのことなどどうだって良い、と思っていたし、まことなどとはかかわりあいたくなく、画面上からできるだけ排除したいと思って来た。写真がなんの証拠にもならなくなってしまえ、と。ところがいざ使っている画材はなんですか?と訊かれるような作品を作るようになり、自分で見ても絵にしか見えない。となると今度は、いえこれ写真なんですよ。と写真だ写真だいい出すという。大谷に対する米国マスコミなみの掌返しである。つまり私がいいたいのは、これは撮影時に陰影が出ないように撮影して、ただ配しただけであり、ことさら“絵画に見せるための”加工はしていない、ということである。むしろ光と影でごまかすことができず、造形の段階で勝負は決まってしまう。 初めて一年のことで私の写真に対する変節ぶりがあからさまで、赤面する準備もできていないくらいである。 私はフィギュア制作の方々とは作り方が違っていて、頭部に90パーセント以上重きを置いていて、その後の身体の造形さらには写真制作も、頭部を生かすためにやっており、私の求めているリアル感さえでていれば良く、むしろ必要以上に出してはいけないと思っており、よって身体は粘土感丸出しである。肝心なところにピントがあっていれば以外をぼかして肝心な部分を強調したい。しかし実はこのあたりの嘘丸出しのところが絵画的に見えることに拍車をかけている。これは結果に対してそうなんだな、と思ったのでまったく想定外のことであった。自分が考え出したことは企まずとも、自分に都合が良くなっている、というのが面白くはある。

銀座青木画廊「ピクトリアリズム展Ⅲ』5月12日(土)〜5月25日(金)20日(日休)

2016年『深川の人形作家 石塚公昭の世界』 youtubeより

『タウン誌深川』“明日できること今日はせず”連載7回「“画狂老人葛飾北斎”」

HP

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )