明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



椿説弓張月の三島由紀夫、背景は最後に雪を降らせるだけになった。ようやく縄で縛られ、白縫姫の命を受けた腰元達に竹釘打たれて苦しみ呻く武藤太を作ることにする。試しに三島の表情に鉛筆で歌舞伎調化粧してみる。そして不動明王由来で月と日を表しているそうだが、片目が寄り目、片目が普通に真ん中の見得。三島は細江英公の薔薇刑の撮影時、いくらでも瞬きしないで耐えられる、という特技を発揮した。それは苦痛に耐えられる特技であって、これは訓練なしにはできないだろう。たった1カットのためであるし、これを展示する予定もないので、例によって写る所しか作らない。 都営地下鉄の表紙を担当していた時、私は九代目市川團十郎を提案した。歌舞伎座の改修が決まっていたし、当時インフルエンザが流行っていたことも理由の一つであった。江戸時代から團十郎に睨まれると、一年間風邪をひかないといわれている。当初の構想では怪獣のように巨大な暫の鎌倉権五郎が歌舞伎座の屋根の上から東京を睨み倒す、というものであった。しかし、写る所しか作らないとしても、あの歴史あるド派手な暫制作は時間的に無理だと思われたし、せっかく作った九代目の顔が隈取に埋没してしまうのが耐えられず、助六に変更した。

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月岡芳年作品を年代ごとに見てみると、思った通り、初期の人物が浮世絵浮世絵した時代は、かたわらに置かれた行灯も、逆遠近法、つまり遠ざかる程広がっていく日本的様式で描かれているが、人物がリアルに描かれると同時になりを潜め、正確な遠近法が用いられている。やはり私の作風では無理が生じるだろう。それに加えて、写真はそのままの形をとらえる物という先入観のおかげでよほど変形させないと効果が出ない。以前、試しに灯火器尽くしとでもいうように、行灯、平仄のみを画面に配して見たが、いくら陰影をなくそうとも効果が薄く面白みがなかった。 三島の椿説弓張月は、主役の三島以外は背景はおおよそ出来上がった。一見、浮世絵である。背後には松の木を配したが、もちろんカメラで撮影したものを使用している。 三島の四方から、木槌と竹釘をかまえた腰元の手が伸びている、なんていうのも考えている。馬琴の原作では、拷問のはてに、白縫姫が武藤太の首を自らはねる。三島演出ではそこまでしない。歌舞伎ならお得意の場面だが、三島は良く我慢したものである。歌舞伎の古典調にこだわった三島だが、私はそこまでこだわる必要はない。白縫が琴を爪弾くアップを薄っすらと背景に、なんてイメージが、今書いていて浮かんだ。 こうなってくると、加藤清正の虎退治も俵藤太の百足退治も可能である。虎はもちろん近所の猫を使うが。陰影の呪縛から解き放たれると、写真特有の空気感など失う物も確かにあるが、おかけでやりたい放題である。私はもちろんこちらを取る。

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三島でやり残していていた2点のうち1点、ラストを飾るにも程がある市ヶ谷東部方面総監室の窓に日輪。もう一つは三島が喜ぶだろうと、残バラ髪の追い詰められた武士。あなたに私がなりたい三島が自分の好みで選んだシチュエーションの薔薇十字社版男の死と違って、私の場合は、三島由来の何かがないのにかってに制作するわけにはいかない。それが昨年、飲み会で、椿説弓張月は面白いの一言を耳にし、すぐに武藤太の責め場が頭に浮かび、セバスチャンを見つけた!これは嬉しかった。白縫姫が探し続けた仇敵をようやく見つけたかの如し。しかもどうせなら三島が愛した芳年、国芳の血みどろ絵調に。陰影のない手法なら可能であろう。という訳で砂町銀座の途中の図書館に予約した芳年を借りに行く。こんなことで喜んでいてバチが当たらないだろうか?いや本日の雨混じりの雪のように日常的にバチは私に降り注いでいる気がしなくもないが、ネットて平気で事故物件に住み嬉しそうにしている連中を見ていると、私もはたから見ると、あのように見えているのではないか。 それはともかく。外側にレンズを向けず眉間にレンズをあてる私の念写もここへきてだいぶ精度を上げている。明るい真っ昼間に撮影し、床に反射した直射光を暖炉の灯りに見立てている。しかしエドガー・ポーの顔に下から光を当てるとお話しにならないので、別にランプの灯りということに。


エドガー・アラン・ポー
The RAVEN


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5月の個展の頃は世間がどうなっているか判らないが、テレビを観ないので、制作に集中出来ている。5月までは交通事故にも気を付けたい。将来の目標など何もないので、目の前のことをこなして、次があるならその時考えれば良い。つまり今日が人生上の最先端、突端である。イメージが頭にあるのにやり尽くしていなかった三島の男の死をまさか最後までやれるとは思わず、聞き間違いではないか、とふげん社に確かめに行ってしまった。 また写真はともかく、人形としては完成していなかった太宰治も乾燥中である。これも何よりである。そして今日、やり残した物に着手した。 エドガー・アラン・ポーは、世界初の推理小説を書いたといわれている。モルグ街の殺人だが、犯人はオランウータンである。しかし私が知らないだけだとは思うが、映画、イラスト、挿絵の類でオランウータンが描かれているのを見たことがない。多摩動物園のオランウータンにカミソリ持たせて裸の女に振りかぶらせた。しかし未だポーファンと出逢ったことも人と話したこともない。悪夢がかってはいるものの夢を観させられるという意味では東の鏡花、西のポーといいたいのだが。やり残したのは鴉The Ravenである。背景は上手くいったがポーの顔に暖炉の灯りを想定して、下から照明を当てたのが間違いであった。目の下に影があり、陰鬱な表情であってこそポーである。下から光が当たったポーなど誰も見たことないだろうが、普通お化けたぞう、と怖くなるはずが、気弱そうなタダの白人のオジサンになってしまった。シチュエーション他、背景は顔のために用意してきたのに、リアルにこだわったせいである。そこで新たに背景を用意した。私のポーの決定版としたい。

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翌日  


昨日は東京大空襲の日であったが、聖路加病院生まれの母に良く聞かされたが、聖路加病院は爆撃しないと米軍がビラを撒き、実際町内に不発弾が一個投下されただけだったそうで、おかげで祖母のぬか床が無事で、千葉に住む従姉妹が受け継いでいる。戦前どころかいつ由来の物か判らない。以前分けてもらって随分続けたが、個展をきっかけに乾燥した土くれにしてしまった。だがしかし、案外規則正しい今なら大丈夫だろうと、再びお願いした。 人物像を作っていてもっとも盛り上がるのは、時間ばかりかかり、辛いだけの頭部が完成し、身体部分を作り乾燥に持っていくまでである。ここはもたもたせず一気に行く。頭部と同じ調子ではやらない。ここにいる、というニュアンスはここで決まる。造形上の醍醐味を一番感じる時である。昔は集中し挑んだが、ここまで来ると、むしろ集中し過ぎないように気をつけているが、結局、太宰はマフラーをなびかせることをすっかり忘れた。まあ、後からでも遅くはない。昨日は犯罪現場を犯人が公開しながら連続殺人をする、というのを観たせいで、フェイスブックで画像をアップしながら作ったが、何をしていても完成に向かってしまう訳で、楽しいことはすぐに終わってしまう。後は乾燥させ、仕上げ、着彩となる。しかし人形だけ作っていた昔と違い、今は写真という、さらなる醍醐味が待っている。首の付け根部分は多少遊びがあり、ちょっとした角度の変化で表情のニュアンスが変わる。太宰には随分大変な目にあった。まだまだ面白くしてくれるまで許す訳にはいかないのである。 近所の居酒屋に出掛けたが、満員であった。しかし私を含めてマスクをしてる人が一人もいなかった。

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まだ一度もマスクをして外出していない。たんに忘れてしまうだけだが、それほど近所にしか出かけないからでもある。 昨晩太宰治はとりあえず芯材をろくろ台に立たせて昨晩は寝た。朝ゴミを出さなければならない。ゴミを出し、朝食を済ませ、太宰に取り掛かろうとしながら取りかかれない。例のヘキが出る。わざわざ作り惜しみをして自分を焦らしてしまう。考えてみれば太宰とは色々あった。元々嫌いな作家であったが、フリーペーパーの表紙の依頼で制作した。同じく小津安二郎も、高校生の時、今は亡き銀座並木座で東京物語を観て、耐えられずに途中で出てきた。それが仕事の資料として、仕方なく一通り小津映画を観て、挙げ句に大好物に転じてしまった。共演を機に恋愛関係にまで発展する俳優の如しである。太宰は心中の生き残りのイメージが大いに邪魔をしたが、作品としては面白く、読まず嫌いであったことを認めない訳にはいかなかった。 前作は、横に本物の女性を立たせたせいで、粘土製の髪に違和感があり私の髪を合成した。そんな事情もあり、直しているうち収拾がつかなくなった。引っ越しの後、ようやく新たに制作することになった。苦労した分、楽しませてもらわないとならない。そして作り惜しみをしてグズグズしていたのだが、こんなことが弓の引絞り効果となり、作業が進んでしまうのは判っていた。たまたま始める前に昼食を食べながら観た、犯人が犯罪現場を公開して喜ぶ映画を観て、フェイスブックにスマホ画像を載せなが制作していたが、残念ながら作業が進み、このブログをアップした後、最後の1カットをアップし、明日は早くも乾燥に入ることになりそうである。楽しいことはすぐに終わることになっている。

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一日  


太宰ともなれば当然どこかに銅像の類いがあるだろう。検索すると2体出てきた。いつものことだが、私が知っている太宰とは違った。 今日はDM用の作品を考えていた。ハラキリ三島の完成を急ごうかと思ったが、人形で作ったオマージュ展とはいえ、テーマがテーマなので、誤解も招きやすい。ハラキリは避け、唐獅子牡丹にしよう、と今日のところは。制作から数年経っているが、これなら私なりのユーモアも漂い、ホントとウソのブレンドもちょうど良い。 結局太宰はとりあえず芯になるスタイロフォームを削ってロクロの上に立たせて終了。後は寝るまで三島の仕上げをする。

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ハラキリ三島の仕上げ。来週中に着彩から撮影に入りたい。太宰は明日より立像の制作に入る。前作は上半身の写る所しか作らず、展示できないので身体の部分は捨ててしまった。今回もトンビを着せるつもりでいる。太宰愛用の実物もどこかで見た記憶がある。着流しも考えたがトレードマークでもあるし、青空をバックに、スックと立つ太宰。まとったマフラーをいくらかなびかせたい。 今回出品作を考えていると、陰影のない石塚式ピクトリアリズム作品は、初めて3、4年程だから、思いの外作品数が少ない。よって陰影、有る無し混在することにしたが、手法は違えど、所詮モチーフは私が作った人物である。 エドガー・ポーや太宰の眉間の下に陰影を出さずにいるのは難しい。私は作ることに関してだけ、なぜだかけじめを着けたがるが、ジャズでも、モダンだったりブルースがかったり、やりたければ我慢することはない。巨人の星を観ながら、一人に打たれたからといって相手によって大リーグボールを投げ分ければ良いのに、と小学生の私は思っていたではないか。北斎や芭蕉はなんといっても陰影のない大リーグボール3号だろう。そう思うと、青空を背景にしたい太宰は、久しぶりに外へ出て私の大リーグボール1号である、片手に人形を捧げ持ち、片手にカメラの名月赤城山撮法を行なっても良いだろう。この欠点は人に見られると恥ずかしいことである。歩きながらシャッター切ってはさっさと移動する。昔は暇な友人に付き合ってもらい、私は彼のせいでこんなことを心ならずもやっているのだ、という演技プランを胸に撮影したものである。

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割腹中の三島は来週中に着彩、撮影を終えるだろう。展示は唐獅子牡丹を背負った三島にするつもりであったのだが、16年に一度展示している。今思うと深川江戸資料館という公の場所で展示出来たのが不思議である。なので今回は初披露となるハラキリバージョンを出品することにしようと考えている。 三島は切腹愛好会的な集いに参加していたようで、密かに撮った写真も残されている。同性愛の同好誌アドニスに下手くそに書いて、筆跡でバレないよう人に筆写させ発表した愛の処刑も、原稿だか制作ノートが残っていたせいで新潮社の全集に収まっている。残してならない物は、目の前で息子の嫁に焼かせた江戸川乱歩のように焼却処分すべきであったろう。 愛の処刑では、毛深い体育教師が、美少年の前で割腹をする。少年には先生素敵、僕はその顔が見たかったんだ。といわせている。手元に、そんな場面に相応しい三島があるのだから、愛の処刑を手掛けることも考えないではなく、以前近所に住む美少年に打診したことがあったが、私が作家シリーズでやっていることはたんに、挿絵を制作することではない。作者自身を作中に登場させることである。つまり体育教師を三島に扮してもらうためには、か弱い美少年ではなく、理知に犯されぬ肉体の所有者でないとならない。私の周囲には理知に犯されぬ肉体の所有者はいくらでもいるが、ついでに理知的でないのは肉体だけではないので使い物にはならない。ではその青年を私が作るとしたら肉付きの良い、まさにギリシャ彫刻のアンティノウスが如き若者でなければならないだろう。

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一日  


粘土は潤沢に用意し、完成すべき作品はいくつもある。天気は日本晴れ。私は気分が天候に左右されるタイプである。好きなご馳走をどれを食べても良いよ、と私がご馳走にくらいつくのを世界が待っている。かまいたちなら、お前クスリやってんのか?というところであろう。 昨年、引っ越しに備え、粘土があると、そちらに逃げてしまうので入手せず我慢した辛い日々を思い出す。部屋の片付けしかやるべきことがない、なんて最悪な状況である。だったら早く済ませて作れば良いではないか、という話であるが、それができるようなら違う渡世で生きられたろう。 とにかく本日は世界が私が作るのを待っている。という気分で一日過ごす。今月中に成すべきこと。太宰の立ち姿を制作しながら、三島を一体仕上げ、ハラキリシーンを撮影する。太宰と芭蕉と北斎も完成させる。できることなら撮影まで持っていく。 話題になった映画、カメラを止めるな!を今頃ネットで見た。これのどこか面白いのかさっぱり判らず。


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ゲンセンカン主人で失敗に終わった逆遠近法を北斎で再びチャレンジしてみるつもりでいる。ただ成功率は低いと考えており、背景の撮影は2パターンで行う。陰影はともかく、遠くに行くにつれむしろ広がる逆遠近法は、例えば鈴木春信のように、デフォルメされている作風だから可能な手法であろう。よってある程度のリアルな被写体は、矛盾、違和感のみが残ることになるだろう。でも試さずにはいられない。市川崑の東京オリンピックや、オリンピック特集号のグラフ誌により望遠レンズの効果で、なんで後ろの選手が大きく見えるのか不思議でしょうがなかったが。あれとは話が少々違うけれど。 三島は自身も扮した聖セバスチャンの殉教図は、腕をバンザイして腋窩を露わにしている。そこも三島にとってはポイントだったろう。何故かは仮面の告白参照のことであるが、セバスチャンに見立てた弓張月の武藤太は、後ろ手だが、後ろ手の三島はすでに作っているから、と思うし、武藤太がセバスチャンのオマージュとするにはバンザイの方がとも思うのだが、歌舞伎という見立てであるから、やはり後ろ手がいいだろう。そんなことで悩んでいるのだからお目出度いとしか言いようがないが、そんな渡世なのだから仕方がない。 ここへ来て、太宰か芭蕉に取り掛かろうかと考えている。

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葛飾北斎は身長が180センチあったらしい。江戸時代であれば大変な大男であろう。つまり、その姿をひと目見た人間は、まずデカイ。と思ったはずである。制作途中の北斎は、目の前1メーター数十センチ辺りの何物かを凝視して前のめりに座っている状態である。作業中なのでたすきがけをしている。太宰の首や三島が最後に目にした光景を制作している間、途中で放っておいたが、作りながら慣れてしまった目を、新たにするには放っておくに限る。180センチというには、その感じが薄い。改めて粘土を足してみている。 墨田区の北斎美術館には娘と北斎の実物大模型があるが、これが170センチにも届いているかどうかのただのリアルな老人である。せっかく展示しているのに、肝腎の顔が見えないくらい伏せているのも、顔を上げられない理由がありそうである。少なくとも何故だか大男では全くない。 私が参考にしたのは、北斎の杖をついた自画像である。小学3年から4年になる時、妊娠した教師の代わりに1年だけ受け持った田中先生が、私が図書室の人物伝の類いを片っ端から読んでいるので、学校を去る際に、ポケットマネーで内緒で買ってくれた世界偉人伝に載っていた北斎である。人物伝好きが高じてこんなことになってしまった。人間ほど面白い物はない。これが内容もさることながら、その形にも興味があったから、力道山時代から毎週様々な人種の裸を見続け、頭に入ってしまった。後に、学ぼうとして学んだことは、役に立たない、という自身の特徴にも早めに気付けて良かった。

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市ヶ谷駐屯地東部方面相関室左側の窓、窓外に広がる水平線に、^日輪は赫奕と昇った。^これにて画竜点睛。三島が最期に観た光景が完成した。椿説男の死の最後を飾るに相応しいカット。私の眉間にレンズを当てた念写により、ようやくこの場面は私の頭の中に間違いなく存在したことが証明された。かつて豊穣の海、奔馬を読んでイメージが浮かんだのはいつだったろうか。 まさか三島へのオマージュをまたやれるとは思わなかった。有り難いことである。おかげでやり尽くしていない感を払拭することかできる。 私のようにけじめを付けることなく、行き当たりばったり続けている無計画な人間は、あれができなかった、やっておくべきだった、と嘆きながら死んでいくのは仕方がない、と思っていたが、引っ越しを期に断捨離を決行でき、いや少々捨て過ぎ忘れて来た物が多々あるが、残された時間を考え、やり残したことを端から潰していく時間はまだあるうちで良かった。そういう意味では、太宰治も撮影用ではなく、完成させることができそうなことか何よりである。あんたとは色々あったな。と感慨深い。正直にいうと、引っ越し前、太宰をなんとかしたいとやっていて破綻していたのである。よっぽど捨ててしまおうかと思ったが、引っ越し荷物に放り込んで来たおかげで、ようやく頭部が完成した。おかげで敗北の記憶にならずに済んで良かった。20代はそんな記憶だらけであるが、作り潰した累々とした死体を踏ん潰してきて今に至っている。

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適当な私の作った三島画像の背景に馬琴の文章、松の木など配してみている。北斎が挿絵を描いた椿説弓張月よりも時代はずっと新しいが、私の思惑からすると、三島や乱歩が愛した月岡芳年の無残絵のスタイルで、それも色々やるうちに、上半身を大きめに、背景は単純にした魁題百撰相調にイメージが固まって来たが、だいたい背景は暗く、それは良いのだが、そうすると文字が読めなくなり、別に文字のスペースを作ることになる。文字は背景に配したいし、ならば明るい背景にするか悩む。 武藤太は、忽地椽の柱に縛り付けられる。ところがこの忽地椽がなんだか判らない。北斎の挿絵ではそれらしい物は描かれておらず、芳年も適当な杭のような物に縛られている。検索しても弓張月が出るばかりである。ホントのことなどどうでも良い、といいながら、作者がそう書いている以上、できるだけ勝手なことをしてはならないという、妙に律儀な所がある。馬琴が面白いことを考えたおかげで面白いことをさせてもらえるわけで、馬琴にも失礼があってはならない。そこで平岩弓枝の現代語訳を見てみようと思えば、図書館はしばらく休み。帰りに砂町銀座で大根の葉付きが買えないので、からし菜の大きな束を120円で。冷蔵庫には小松菜、菜の花などであふれる。しばらく食べなかったから不足しているのかもしれない。

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コロナといえば、市ヶ谷に向かう三島等4人は中古のコロナ車中で、ヤクザ映画なら唐獅子牡丹が流れるところだ、と全員で歌った。高倉健と池部良の討ち入り、道行きに自分達を見立てた訳である。そこで唐獅子牡丹を背負った三島と他の4人。背後には白いコロナ、という絵が浮かび。中古車を捜し出し撮影した。しかし肝腎の唐獅子牡丹の彫物をどうするか、絵を描いて貼り付けるか、と悩んでいるうちにタイムリミットが来て断念した。三島は薔薇十字社の写真集男の死のためだと思うが、彫師2人に連絡を取っている。しかし本気で入れる気であった可能性も捨てきれない。あれはいっぺんに入れるものではなく、腫れが治まるのを待って彫り進める。彫っている最中を見学したことがあるが、痛さのあまり途中で用事を思い出す人が少なからずいるそうである。三島には時間がない。入れたかったのは間違いなく、澁澤龍彦は学習院の父兄が入れるわけにはいかないでしょうと、いうのを聞いている。以前ブログに三島と彫師について書いたところ、高取英さんが三島は薔薇の彫り物を入れたかった、と教えていただいた。 当時、決起についての打ち合わせを六本木のサウナでよく行っていたが、そこで何も入っていない背中を見せておきながら、当日入っていて隊員ビックリ、世間はそれ以上にビックリ。三島はそのぐらいのことをやりかねない。もっとも介錯の森田の手元余計に狂い、さらに悲惨なことになっていたりして。 私の方はその数年後、女彫師と知り合い、人形に直接描いてもらい事なきを得た。

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