宮沢賢治が残したすばらしい詩がある。
〔わたくしどもは〕 一九二七、六、一、
わたくしどもは
ちゃうど一年いっしょに暮しました
その女はやさしく蒼白く
その眼はいつでも何かわたくしのわからない夢を見てゐるやうでした
いっしょになったその夏のある朝
わたくしは町はづれの橋で
村の娘が持って来た花があまり美しかったので
二十戔だけ買ってうちに帰りましたら
妻は空いてゐた金魚の壼にさして
店へ並べて居りました
夕方帰って来ましたら
妻はわたくしの顔を見てふしぎな笑ひやうをしました
見ると食卓にはいろいろな菓物や
白い洋皿などまで並べてありますので
どうしたのかとたづねましたら
あの花が今日ひるの間にちゃうど二円に売れたといふのです
……その青い夜の風や星、
すだれや魂を送る火や……
そしてその冬
妻は何の苦しみといふのでもなく
萎れるやうに崩れるやうに一日病んで没くなりました
最後の部分、
そしてその冬
妻は何の苦しみといふのでもなく
萎れるやうに崩れるやうに一日病んで没くなりました
はこう訳したらどうだろうか?
Then that winter
Without the slightest suffering
My wife fell ill for one day, wilted, crumbled, and passed away
宮沢賢治の特徴に「音を感じさせる」文体がある。
「萎れるやうに崩れるやうに」は「やうに」が耳に残るので、英語でwilted, crumbledと韻を踏んで訳すのがいいと思う。
こちらの全訳は『英語で読み解く賢治の世界』(岩波ジュニア新書)
に収録してありますので、ご覧いただけますとうれしいです。
植物の種は小さいが、人間の目で確認できる。だが、フランシスコ・エギュイアという人物とともに持ち込まれたものはそうはいかなかった。彼が持ち込んだのは微生物であり、細菌だった。このエギュイアはコンキスタドールに連れられてきたアフリカ人であること以外、詳しいことは何も知られていない。そして言うまでもなく、当時の人々はこの目に見えずに病害を広げる細菌のことは何も知らなかった。中央アメリカに到着すると、エギュイアは体調を崩し、咳がとまらなくなり、高熱にうなされた。体中に膿疱が広がり、スペイン人はこれをヴィオエラと呼んだ。天然痘によるもので、ヨーロッパ人は数世紀に渡ってこの病気に苦しめられてきた。だが、1520年までにほとんどのヨーロッパ人はこの病原体にすでに何年も体を接触させてきたことで、ある程度の抵抗力は備わっていた。免疫ができていたのだ。
だが、インディアンは天然痘をまったく経験したことがなく、何の免疫もなかった。それに罹患した者は「顔に、頭に、胸に」発疹が広がった、とアステカ人のひとりは思い出す。感染した者は「まったく動けなくなり、起き上がることも、寝返りを打つこともできない……動かそうとすると、大声を上げた」。父も母も姉妹も兄弟も、苦しみ、並んで横たわったまま死んでいった。テノチティトランで多くの人が亡くなり、彼らが住んでいた家は死体もろとも取り壊され、墓と化した。そして罹患者は体がひどく衰弱し、食べ物を探すことも、「泉に行って瓢箪に飲み水を満たすこともできず」、数千人を超える人たちが餓死することになった。
この天然痘のおかげで、エルナン・コルテスは10万人を超える都市の征服を実現できたと言える。事実、アステカ王国は大砲も闘犬も後ろ脚で立つ気性の荒い馬も備えていたが、そうしたものを使用することはついになかった。コルテス軍は武器も動物もごく限られていたが、目に見えない、インディアンには未知の病原体を味方につけたのだ。勝利を確信したスペイン人がテノチティトランに入ると、「通りも広場も家々も中庭も死体で埋め尽くされていて、通り抜けることすらできなかった。コルテス自身も腐敗する死体のすさまじい悪臭に体調を崩してしまった」と言う。悲しいことに、天然痘は単なるはじまりにすぎなかった。1600年までに14の病原体が中央アメリカに、少なくとも17の病原体が南米に広がった。歴史家や考古学者はごく大まかな死亡者数しか割り出せない。だが、ヨーロッパからもたらされた麻疹、腸チフス、インフルエンザ、ジフテリア、おたふくかぜといった疫病に、コンキスタドールによる暴行も加わり、中央アメリカと南米でおそらく5000万人から9000万人もの命が奪われたと見られる。たった1世紀のあいだにおもに病気でこれほど多くの人の命が奪われたのは、歴史においてこの先にも後にもない。
『若い読者のためのアメリカ史』(すばる舎)49-51ページ