テレビで放送していた小学生の工場見学に疑問を感じたこと

2010-05-16 06:46:52 | Weblog

 次の衆議院選挙で政権党を決めることとして、それまで国の政治を不安定とする衆参ねじれは阻止されるべき

 1週間ぐらい前だったか、NHKテレビだと思うが、小学生がゴミ焼却場と川でゴミ回収船がゴミを回収する現場を見学する場面を放送していた。船首に大きな口を開けたような開口部があって、川に浮かぶゴミを船に乗った作業員が二人程して舳先から長い竿でかき寄せて、その中に誘導していく。船の進む方向に口を開けているから、船が自分から吸い込む形となる上に竿でかき寄せるから、順調に吸い込まれていく。

 小学生はそれを確か岸から見学していた。あるいは橋の上からだったかもしれない。

 これから耳の記憶、目の記憶について書くつもりでいるのに自身の目の記憶、耳の記憶が至って怪しいときているから、書く資格はないのだが、そこを無責任にも無視して、今後の小学校教育のために、参考になるかどうかも分からないが、書いてみることにした。

 生徒はゴミ焼却場では担当者の説明を揃って床に膝を立てて座り、立てた膝頭でノートを支えて、説明を聞きながら説明したことをノートに書き記していた。座って書くか、立ったまま書くかは違いがあっても、説明を懸命にノートに書き取る光景は工場見学等では定番となっている見学シーンであろう。

 教室に戻って先生にゴミ焼却やゴミ回収船がどんな仕組み、どんな方法で行われていたかを聞かれたとき、あるいは感想文を書くよう指示されたときの参考にするためか、あとで復習して覚えるための参考に説明の要所要所を書き留めておくのだろう。

 これを一切禁止する。ノートの持ち込みを禁止し、手ぶらで見学することとする。

 説明を聞くだけとする。目と耳のみで見学したことを把握させ、記憶させる方法を採る。

 当然、ノートに書き止めることができなければ、否応もなしに耳を鋭くし、あるいは耳を研ぎ澄まして説明担当者が口にする言葉を一言も聞き漏らすまいと耳を傾けることになる。あるいは説明している人間の口の動きや手の動き、説明対象の機械やその仕組みを自分の目でしっかりと把えようと目を集中させる姿勢を取ることになる。

 結果的に徐々にではあっても、耳の集中力、目の集中力が自然と養われるていくはずである。目と耳の集中によって、目の記憶力、耳の記憶力が高まっていく。人間は言葉で記憶していなくても、目が記憶しているということが多々ある。何十年も前の目が記憶していたシーンを突然思い出すことがある。先ずシーンが思い浮かんで、それを言葉で補強していくといったことが。

 ノートを取ることを禁止されたなら、見学した工場に於ける説明を耳でしっかりと記憶する必要が求められるだけではなく、説明を受けた機械の仕組み、仕事の仕組み、あるいゴミが固まって川に浮かんでいる光景、竿で掻き集めて、船首の開口部に押し込んでいく光景を目でしっかりと記憶する必要が求められることになる。

 必要は発明の母であるばかりではない。必要は必要とする能力の養いの母でもある。必要に迫られると、否応もなしに応えざるを得なくなる。どのくらい応えるかは、人それぞれの姿勢にかかっているが。

 逆に筆記の習慣を継続させた場合、説明したことをそのまま書くか、あるいは簡略化させて書くにしても、説明をなぞる行為であって、説明を受けたことを自身の説明に変えるとき、そこに自身の考えが加わることがあったとしても、説明をなぞったメモを基本にして説明することになり、全体としては二重のなぞりを行いがちとなる。

 特に暗記教育に慣らされていた場合、なぞりの傾向は一層強まる。

 だが、筆記が禁止となった場合、教師がどんな見学だったのか感想文を書かせるにしても、生徒を名指しして説明させるにしても、自身の説明は見学時の説明の一言一句を、あるいは説明を受けた光景の一コマ一コマを正確に記憶しているはずはない目の記憶と耳の記憶を頼りに行わなければならないために、見学した内容の再構築には言葉をつなぎ、説明を組み立てる考えることをしなければならない。思考の取り入れである。否応もなしに思考のプロセスを踏むことになる。

 だが、教室に戻ってからの感想文にしても、再説明にしても、自身の耳の記憶力と目の記憶力だけで中には完璧かもしくは完璧に近い内容で仕上げる優秀な生徒も存在するだろうが、説明の一言一句を、あるいは説明を受けた光景の一コマ一コマを正確に記憶していることが難しいゆえに、いわばすべてを目と耳で把え切れないために、多くの生徒は感想文にしても、再説明にしても、頼りとしてきたノートのメモがないゆえにより簡略化したものにならざるを得ないのではないだろうか。

 また再説明の場合、この点が面白かった、こんなふうに社会に役に立っていることが分かって参考になった、とか、見学の全体を効果的に集約した感想、意見ではなく、断片的な部分を把えた断片的な感想、意見に陥りがちとなる。

 教室に戻ったなら、感想文を書くことや生徒一人ひとりに再説明を求めるよりも、見学した工場、見学した仕事はどういったことをしていたのか、どのような印象を受けたかと言ったことを生徒それぞれが耳の記憶と目の記憶を頼りにクラス全体で説明し合い、そのような説明のし合いを通して、見学した内容の全体をそれぞれの生徒の印象や感想を含めて再構築させることにしたらどうだろうか。

 それぞれの生徒が自分たちが耳で記憶した内容、目で記憶した内容を基に何々をしていた、川に浮かべたゴミ収集船で1日に多いときで何トンぐらい、平均で何トン集めると言っていた、ゴミの多さに驚いた、いや、1日で最も多いときは何トンだったよ、と誰かが訂正する。そうだ、そうだったよ、と同調する生徒が多ければ、それが正しく記憶していたトン数となる。正しい目の記憶、耳の記憶となる。

 当然、そこでは説明の一言一句、目にした光景の一コマ一コマを完全に記憶しているわけではないから、誰もが思考を働かせなければならない。全員して思考のプロセスを共有し合うことになる。一人の思考が他者の思考を刺激し、それが相互に影響しあって、それぞれの思考を高めていくというメカニズムを取るはずである。

 間違えた生徒は次の見学では間違えないように目の記憶、耳の記憶をしっかりさせようとするに違いない。

 このような目の記憶力と耳の記憶力を基本に組み立てる思考のプロセスは一般の授業でも役に立つはずである。教師の説明をノートに一生懸命筆記する今までのやり方では筆記することにエネルギーをより費やすために勢い目の記憶、耳の記憶が削がれることとなって、考える思考の力を妨げることとなる。

 どうしても筆記した内容に頼ることになるからだ。 

 見学でノートの持込を禁止し、記憶をノートのメモに頼るのではなく、目の記憶、耳の記憶に頼るよう仕向けることによって、その習慣がつけば、教室でもそのことが生きてきて、目の記憶、耳の記憶の活用に時間の多くを割くこととなり、当然、筆記する時間も量も減っていく。

 目の記憶力、耳の記憶力を高め、そのような記憶を基本とした思考のプロセスを取るようになれば、考えながら耳で把えて耳に記憶し、考えながら目で把えて目に記憶していく、常に思考を兼ねた目と耳の記憶の、より一段と高いプロセスへと進む。さらに考える習慣の備わりによって、記憶した情報の再構築に於いても、そこに自分なりの思考を付け加える作業=情報の再処理を伴わせるプロセスを踏むことになる。

 このように小学校教育に於いてノートに筆記するエネルギーを最小限に抑えることで、生徒の考える力を高める契機とならないだろうか。

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