次の衆議院選挙で政権党を決めることとして、それまで国の政治を不安定とする衆参ねじれは阻止されるべき
マスコミもその他関係者も「5月決着」は難しいと見ているが・・・
鳩山首相が7日午後、米軍普天間飛行場の一部移設先と検討している鹿児島県徳之島の伊仙、天城、徳之島の3町長と首相官邸で初めて移転正式要請の会談を行った。会談に先立って行われた7日午前の記者会見では、「誠心誠意、臨みたい」と心境を語っていたのをNHKのテレビでやっていた。
会談が始まってからは、3日前の沖縄訪問と同様に、「特に徳之島のことに関しまして、大変、島民の皆さん方にご迷惑をおかけいたしましたことを、まず冒頭、おわび申し上げたいと思います」(《普天間問題で徳之島3町長が移設要請拒否 野党から首相退陣を求める厳しい声も》FNN/10/05/08 01:02)と謝罪から入ったというが、この謝罪から入るスタイルは麻生太郎自民党末期首相が支持率の低下から自民党議員懇談会や両院議員総会で所属議員に対して、さらに昨年の総選挙遊説では有権者に対して、「私の言動とリーダーシップのなさが自民党の混乱や政治不信を招いた」と謝罪から入ったスタイルを連想させないでもない。
謝罪の次に控えていたのが首相退陣だったのだから、両者の「言動とリーダーシップのなさ」の重なりようから見て、退陣前症状のスタイルに見えないわけではない。
会談に応じた徳之島3町長は、要するに鳩山首相の謝罪にまるきり乗らなかったということなのだろう。日本人は甘いところがあるから、謝罪されるとついついその気になって相手の要求を呑んでしまいがちになるが、3町長は違った。
鳩山首相「徳之島の島民の皆さま方に、どこまでご協力をいただけるか、大変厳しい状況であることは十分に理解をいたしておるところでございますが、普天間の機能の一部をお引き受けいただければ、大変ありがたい」
3町長の最初の意思表示が島民およそ2万人の移設反対の署名を鳩山首相に手渡すことだった。
天城町・大久幸助町長「島民の民意を尊重し、断固これについては反対でございます」
伊仙町・大久保 明町長「鳩山総理のお気持ちは大変だと察しますけれども、いかなる施設もつくらせないという、私たちの民意は絶対変わることはないということを、ご理解していただいて、徳之島はぜひ断念していただきたいと思います」――
謝罪が何の効用も成さなかったという次第である。記事は、〈八方ふさがりの鳩山首相。〉と首相が置かれている状況を情け容赦もなく表現している。しかも「八方ふさがり」に手を貸している身内の言葉まで添えて。
国民新党代表・亀井金融相「辺野古の海から逃げてね、辺野古の海に帰ってくるというようなことはね、あり得ないと思いますよ」
菅副総理「わたし自身は、この問題にほとんど内閣の中でもかかわりを持っておりません」
岡田外相「県外というのはあり得ないと思うということを申し上げた。そこにこうにじみ出ているのは、(首相は)お感じいただいていることだと思います」――
離婚したばかりの女房みたいなことを言う。
民主党・渡部前最高顧問「『一生懸命頑張りましたけれども、代替地、見つかりませんでした』、『もうしばし沖縄の皆さん、辛抱してください』、それ以外にない」――
辞任を伴わなければ、言えない結論であろう。
記事は最後に会談後の鳩山首相の発言を伝えている。
鳩山首相「誠心誠意、真心を込めて尽くすということしかないと思っておりまして、私はこれからも、意見の交換をいたしていきたいと、そのように思っています」
会談前も、「誠心誠意、臨みたい」と、「誠心誠意」という言葉を使っていた。
だが、「誠心誠意」とか、「真心を込めて」とかは言葉で表して相手を納得させ得る心構えではなく、言葉に行動がついていって初めて相手の納得を得ることができる心掛けのはずである。
鳩山首相は5月4日に沖縄を訪問、仲井真知事や稲嶺名護市長と会談して「すべて県外へということは現実問題として難しい」と一部県内移設を打ち出して、それを正当化させるために「国外、最低でも県外」と言ったのは党の公約ではなく、党の代表としての発言だ、自分自身の発言に過ぎないとしたとき、鳩山首相の口からついて出る「誠心誠意」も「真心を込めて」も既に通用しない言葉となっていたのではないだろうか。
党の公約ではないことが事実であったとしても、党代表としての国民に対する約束事であり、その約束事は国民に対して自ら破棄を申し出ていなかったのだから、総理大臣になってからも引き継いでいた約束事だったはずである。
当然その約束事を破るについては、自身の実現能力の至らなさ、指導力のなさを正直に告白して謝罪すべきを、党の公約ではないことを理由とする。約束事であることを無視して、単なる個人的な発言だと逃げた。その卑劣さと「誠心誠意」、あるいは「真心を込めて」は相容れない価値観であろう。
いわば鳩山首相にとって、「誠心誠意」、あるいは「真心を込めて」なる言葉は既に“オオカミ少年”の言葉となっていたのだが、気づくだけの自省心もなく、効用もないままに使い続けている。
「辺野古の海を埋め立てることは、自然への冒涜(ぼうとく)だと強く感じている。あそこに立ったら、埋め立てられたらたまったもんじゃないと誰もが思う。現行案を受け入れるような話になってはならない」と、自分では「誠心誠意」を演じたつもりだろうが、埋め立て方式を単に杭打ち方式に変えるだけの修正案を立てていて、それを隠した発言でしかなかったのだから、「誠心誠意」とは無縁の、自分を偉そうに見せただけの自己偉大癖の言葉と化す。
記者から、「辺野古の海を埋め立てることは、自然への冒涜」の発言に絡めて、杭打ち案を含めて辺野古周辺への移設をすべて否定するのかと問われると、「政府案はまだ決めていない段階だ、決めていない段階でコメントはできない」として、直接イエス・ノーと答えることを避けている。
「辺野古の海を埋め立てることは、自然への冒涜」、「現行案を受け入れるような話になってはならない」と言った以上、イエスと答えるべきであり、ノーなら、そういったことは言うべきではなかったはずだ。ましてや「国外、最低でも県外」と、それが党の公約ではなく、党代表としての発言であったとしても、約束事であることに変わりはないのだかから、そう言っている以上、イエス・ノーを明確に意思表示すべきが「誠心誠意」ある態度だったろう。
それが4月26日。4月28日の記事で、沖縄県を訪問し、仲井真沖縄県知事と会談することを決めている。当然どういう政府案なのか、説明の用意はしてあるはずであるが、26日の記者会見では「政府案はまだ決めていない段階だ」とかわしている。
これが鳩山首相の口では言っている「誠心誠意、真心を込めて」の態度というわけである。
鳩山首相は徳之島3町長に基地受入れ拒否を受け、さらに〈15日の沖縄再訪問も地元の反発が強く、先送りとなった〉と7日付「日本経済新聞電子版」が書いていて、ますます先行き不透明になっているにも関わらず、4月6日夜、首相官邸で5月決着の意志を変えないことを表明している。
「5月末までに決めますと申し上げているんですから、それを変えるつもりはまったくありません」 (asahi.com)
ところがこの「5月末決着」、政府案自体が「正式な提案というより、まだアイデアの段階」の不完全なものだとアメリカ側から有難い評価を受けることとなった。
《首相の県内具体案 まだアイデア段階 米高官が見解》(東京新聞/2010年5月7日 夕刊)
米国防総省のモレル報道官が6日の記者会見で述べた発言だそうだ。「5月末決着」と期限を区切っている以上、この時期にきての「まだアイデアの段階」に過ぎない未完状態なのは首相の指導力の進捗状況がどの程度か示していると言える。
沖縄の反対も徳之島の反対も分かっていたことなのだから、スケジュールの組立てがなっていなかったということだろう。
同じ内容を扱った、《日本政府、アイデア段階=普天間移設問題で-米国防総省》(時事ドットコム/2010/05/07-11:58)は、鳩山首相の沖縄県外への全面移設は困難だと表明したことについてのモレル報道官の次のような発言も伝えている。
モレル報道官「問題解決に向けた日本政府内の日々の取り組みに立ち入らない。・・・・日本政府はまだこの問題を検証しており、今月末までその作業が必要であると伝えてきた」
「基地を抱える地域への影響を最小限にするよう、日本と緊密に連携している」――
いわば、「まだアイデアの段階」に過ぎない政府案を「正式な提案」とするための検証作業を終えるには5月末までかかると日本政府から連絡があった。
ということは、鳩山首相がなお拘る「5月末決着」とは、日本政府側の作業の決着――移転先地元の同意と連立政府内の合意の取付けが正体であって、日米の間で移設問題が決着することではないと言うことになる。
だが、マスコミにしても国民にしても上記文脈で首相の言う「5月末までに決めますと申し上げているんですから、それを変えるつもりはまったくありません」を把えていただろうか。
昨日のブログで、〈果して「5月末決着」は「党の公約」なのか、党代表としての発言なのか、首相としての発言なのか。国民の分からないところでそれらを使い分けているとなると、どちらなのか聞いておかなければならない。あとで、「5月末決着」は「党の公約」ではないから、首相としての個人的な発言だったとしても違約とはならないとされたら、たまったものではない。〉と書いたが、「5月末決着」が事実日本側のみの“片肺決着”で終わった場合、鳩山首相が自らの姿勢としている「誠心誠意」、「真心を込めて」なるアピールと同様に「5月末決着」にしても“オオカミ少年”の言葉であることを暴露することになる。
必要なのは言葉の丁寧さではない。言葉の丁寧さで問題解決能力を補うことはできない。