橋下徹は独り善がりの大バカ者だ/素晴らしくも何ともない桜宮高体育科入試中止決定

2013-01-22 12:14:41 | Weblog



 ――桜宮高体罰自殺問題からの入試中止に代わる問題解決策――

 橋下徹大阪市長の独裁・ゴリ押しが通った。大阪市教育委員会は昨日1月21日、橋下市長が要求したとおりに桜宮高体育科系2科入試の中止を決定した。

 昨日1月21日夜9時からのNHK「ニュースウオッチ」がこの問題のコーナーで、最初に入試中止に対する橋下市長の発言と大阪市教委委員長の発言を伝えてから、バスケットボール部主将をしていた桜宮高2男子が部活顧問から体罰を受けて昨年12月23日に自殺していたことが判明した1月8日の橋下市長発言の発端からを順を追って伝えていた。

 1月21日、入試中止決定後の橋下市長記者会見発言。

 橋下市長「素晴らしい決定をやってくださったと思いますね。これで桜宮高校体育科のあり方も含めて、本気でね、トコトン、再生に向けて改革が始まると思いますね。先ず、第一歩、スタートが切れたと思います」

 長谷川大阪市教委委員長「少し、これは変則的な内容になっていますし、一夜漬けな形になっていますので、私としてはちょっと不本意な感は否めません」

 長谷川氏を含めて教育委員5人の採決で、ただ一人入試中止に反対した。

 高2男子の自殺が判明した1月8日記者会見。

 橋下市長「クラブ活動で、そうやって手を上げるってこともですね、あり得るんです、これは。

 こんだけね、注意をしようが、どんだけ意識をしようが、気をつけようが、手を出してしまうってこともあり得るんですよ。だから、あり得ることを前提にね、対処方法ってものを考えなきゃいけないんですよ」

 1月12日、遺族と面会後の記者会見。

 橋下市長「ちょっと、僕も、ああー、やっぱ自分の考え方は間違っていたかなあっと――」

 1月15日記者会見。

 橋下市長「スポーツ指導の場に於いて、えー、手を上げるということは、これはもう絶対禁止にしようと――」

 体罰容認から体罰否認へと改心の瞬間である。自身の改心だけで終わればいいものを、桜宮高体育科系2科の入試中止を言い出した。

 橋下市長「体育科は生徒を受け入れる態勢になってない。体育科については、あー、入試は、今年度はやめるべきだと――

 体育科を受験をー、しようと思っている、うー、生徒諸君、えー、今回こういう事態になったので、一回、体育科ってところは一回我慢してください。一回、ちょっと僕に預かってください」

 1月16日、市立中学校校長会会長インタビュー。

 市立中学校校長会会長「これから入試に臨む生徒を預ってるね、学校の校長としましては、困惑している」

 1月17日橋下市長記者会見。校長会会長の発言を受けて。

 橋下市長「事の重大さを分かっていない。もう、そういう校長は、もう要りません。大阪市にはね」

 暴君そのものである。

 インターネットの入試中止批判の書き込みを紹介する。(略)

 1月17日(午後?)記者会見。

 橋下市長「生きてたら、チャンスはありますよ、いくらでも。そんなのは。生命があれば。

 一度高校の受験の、ここで、あのー、うまく行かなかったからと言って、人生終わりなのですか」

 これは人生の成功者が言うことのできる言葉である。あとで振り返って、高校受験の失敗が人生のつまずきのスタートだったといったことはザラにあるはずだ。私の場合は生まれた時が人生のつまずきのスタートだったような気がする。

 体罰行使教師だけではなく、運動部顧問全員の異動の必要性を主張。

 橋下市長「(全員異動が)おかしいというということであれば、僕を選挙で落とす、そういう権限を、有権者は持っているわけですから」

 選挙で落としてくれは橋下徹の十八番だが、自分がどれ程乱暴な発言をしているか気づかない。間違っているなら選挙で落とせと言うなら、入試前に入試中止の決定が正しいか否かを争点とした市長選を自分で用意する責任があるはずだ。

 政令指定都市の市長選挙は告示期間が14日間だと言うから、急いで辞任して、再出馬という形式を取れば、間に合う。大阪市民の民意を問う機会を自ら設けないまま、受験生は入試を来月2月に控えていながら、その正誤を問い質してくれと自分から言っている次の市長選挙が2年と11カ月も先だというのでは不公平であるばかりか、論理的にも辻褄が合わない。

 今日1月21日記者会見。

 橋下市長「ボーリョクが恒常的に行われている現場で教員も、生徒も、保護者も、それをよしとしているような状況、これは絶対に教育の現場ではない。(桜宮高で生徒と対話)今日の生徒の声を聞いても、やっぱり僕の方針はカエルに、えー、至りませんでした。僕は入試はやめさせます」

 「入試はやめさせます」の言葉は市教委の判断を入試中止に持っていかせることを意味する。橋下徹の独裁意志が現れた場面であろう。

 民主的ルールに則るとしたら、「私自身の方針はあくまでも入試中止です。後は市教委がどう判断するかです」等の発言が妥当ということになる。

 この後、教育委員会との意見交換会に臨む。

 橋下市長(離れた場所から話している橋下を捉えたといった写りになっていて、低い声でしか聞こえない)「間違っていることは間違っているという精神・・・・」
 
 だが、この言葉は入試敢行は間違っていることで、間違っていることは間違っていると認めなければいけない、そういう精神が必要だと言っているのと同じで、心理的な強要となる。

 橋下市長「後は教育委員会のご決定にお任せする、ま、それしかありませんので、よろしくお願いします」

 椅子から立ち上がって、一礼して、部屋から立ち去る。

 「間違っていることは間違っているという精神・・・・」が功を奏したのか、挙手採決の結果、入試中止反対1、賛成4で決定する。

 入試要項の変更なし――

 ●当初予定の募集人員・通学区域
 ●スポーツ技能重視の教科、配点

 市教委決定後の同日記者会見。

 橋下市長「単なる看板の掛け替えじゃないですよ。体育科として募集しないんですから。

 ですから、受験生には、それぞれの桜宮の体育科として受験されては困ります。これは決定的な違いです。体育科の入試中止というところまで踏み込んで、こういうふうに決定したわけですから。

 それから教育委員会もしっかりと考えてくれると思いますよ」

 入試要項に於ける「スポーツ技能重視の教科、配点」とは、受験生に配慮して、これまでの体育系2科と同じ運動実技も加えた、普通科とは異なる受験科目だとマスコミは伝えている。

 要するにこれまでは体育科として受験してきたことを普通科と名前を替えて受験するだけのことで、体育科入試中止決定という形式が間に介在したのみの違いしかない。

 橋下市長はこの介在を重要視して、「単なる看板の掛け替えじゃないですよ」と表現したのだろう。

 だが、これは橋下市長の側からの見方に過ぎない。受験生の側からしたら、煩わしさの衣を一枚羽織って同じ着地点を遠回りして辿り着く違いしかないはずだ。

 それを看板を掛け替えてやらせようとしている。

 教育委員会が出したメッセージ

 「普通科に変更し、府内全域から募集することにします。普通科ではありますが、豊かな教養と幅広い人間性、他者を慈しむ心を最重視し、その基盤の上に真のスポーツマインドを持った人材を育成するスポーツに特色あるカリキュラムを組みます」――

 能書きだけは素晴らしい。自分たちに育成する能力がないことに気づかない。個人それぞれが本人の自覚に基づいて育成していく能力だからだ。

 このことに気づけば、体罰といった育成に関わる過干渉はなくなる。本人の自主性に任せることになる。

 要は日本の教育自体が暗記教育でコマ切れの知識を詰め込む上からの強要を離れて、児童・生徒の自主性に任せる教育へと変更し得たとき、「豊かな教養と幅広い人間性」にしても、「他者を慈しむ心」にしても、「真のスポーツマインドを持った人材」にしても、自分たちには育成する力はなく、生徒自身が学び取っていく能力だと、自分たちは手助けしかできないということを学ぶことになるだろう。

 上記番組では取り上げていなかったが、入試中止決定を受けた記者会見で、試験合格新入生の教育内容についても発言している。《橋下市長“すばらしい決定”》NHK NEWS WEB/2013年1月21日 22時49分)

 橋下市長「今のカリキュラムの中身を総点検して、新しい理論とか、スポーツマンシップを盛り込んだものを作ってもらいたい。具体的な教育内容は、教育委員会が作るのを待ちたい」

 記者「市長が求めていた高校の教師の総入れ替えはどう考えているのか」

 橋下市長「教育委員会がしっかり考えてくれると思う」――

 丸投げとは無責任な。

 「カリキュラムの中身を総点検」して、「新しい理論とか、スポーツマンシップを盛り込んだもの」に変えるということだけなら、入試中止をしなくてもできることである。中止の理由とはならない。

 それとも入試を中止しなければできないカリキュラムの中身の総点検であり、新しい理論の構築であり、スポーツマンシップ育成の新たな理論構築だというのだろうか。

 矛盾そのものである。そもそも受験生は桜宮高の体罰に関係していないし、男子の自殺に直接的に関わっていたわけではない。

 橋下市長が体罰死を受けて市教委に入試中止を要請するために持ち出した理由は、桜宮高に蔓延(はびこ)ることになっていた、教師のみならず生徒や保護者を含めて感化を受けていたとしている体罰容認の風潮を入試中止によって一旦断ち切ることで、クラブ活動の在り方と保護者や生徒の意識を変える狙いからだとしていた。

 体罰容認の風潮が事実として蔓延しているとしても、断ち切るという点では新入生には関係しないことである。彼らは一旦断ち切るも断ち切らないもない場所に位置している。蔓延が事実なら、断ち切る必要があるのは在校生と教師たちの方であろう。

 とすると、入試中止は「素晴らしい決定」でも何でもない。解決を急がなければならないのは在校生と教師たちに蔓延している、あくまでも事実とするならの話だが、体罰容認の風潮としなければならないはずだ。

 在校生と教師たちに蔓延している体罰容認の風潮を一旦断ち切るにしても、カリキュラムの中身の総点検や、新しい理論の構築、スポーツマンシップ育成の新たな理論構築を行なうことによって可能となる絶縁であって、あるいは可能としなければならない絶縁であって、後は教師たちや生徒の自主性に任せて、絶縁できない教師は辞職、生徒は退部、あるいは退学という手で排除していくしか方法はないはずだ。

 益々入試中止の決定が怪しくなる。独り善がりの大バカ者の決定にしか見えない。

 普通科入学から体育科への編入は裏口入学して表口から卒業するようなものではないだろうか。中には立派な学力をつけて表口から堂々と卒業していく者もいるかもしれない。

 どうも過去の体罰容認から一転して体罰否認はホンモノだと見せかけようとムキになっているようにしか見えない。

 橋下市長は1月15日の記者会見で持ち出した「大阪の恥」を昨日1月21日、在校生に入試中止を説得するために訪れた桜宮高で再び持ち出している。

 1月15日記者会見

 橋下市長「こんなところでそのまま入試をやったら大阪の恥。入試をやめて、生徒、保護者で考えないと学校なんて良くならない」(毎日jp

 1月21日桜宮高で。

 橋下市長「(学校のあるべき方向性が決まる前に)入試を継続するのは大阪の恥」(MSN産経

 (学校のあるべき方向性が決まる前に)は記事自体の注釈であるが、そのまま使うと、(学校のあるべき方向性が決まる前に)、いわば橋下徹が言っているように体罰容認の風潮が蔓延している中で在校生を教育し続ける矛盾はどうするのだろうか。

 とすると、やはり急ぐべきは入試中止ではなく、新しいカリキュラムや新しい理論の構築、スポーツマンシップ育成の新たな理論の構築ということになる。

 実際には新しいカリキュラムや新しい理論だとか、スポーツマンシップ育成の新たな理論だとかは必要ない。体罰を直し、適正な指導へと持って行くには、もっと簡単な方法がある。

 入試を行い、新入生を迎えた時点で、改めて部活顧問に体罰禁止・体罰を用いない指導を誓約させ、部活顧問と部員生徒を役目上は上下関係にあるが、意見を言い合うという点で、いわば人権上、対等な関係にあると規定する。

 部の運営はお互いに知恵を出し合って、それを意見の形に変え、各部員の基礎体力向上、技術面の向上、各練習の時間配分等、強いチームとするための提案を行なう。

 部活顧問が提案して一方的に従わせるのではなく、顧問の提案に対して各部員が意見を言い合い、部員の意見も顧問を交えて議論し、最終的に多数の同意を以って決める。「じゃあ、そうしようか」と。

 練習後、練習試合後、本試合後のミーティングに於いても、部活顧問が一方的に指示を出して従わせるのではなく、部員生徒と対等の立場で意見を言い合い、最終決定する。

 こういった部運営が実行されているかどうか、学校は時折り検証する。実行され、それが継続性を保つことができたとき、練習に向けた生徒の主体性は確立する。

 但し、チーム自体の成績は落ちるかもしれない。だが、主体性を確立した生徒程、持って生まれた運動能力次第で才能は伸びていくはずだ。

 例え持って生まれた運動能力に恵まれていたとしても、主体的に自分から動くのではない、体罰等、他からの強制を動機づけとする行動にスポーツであれ、学校の勉強であれ、優れた才能への向上は望めないはずだ。

 当然、体罰によって勢いをつけたチームは、生徒それぞれが自分の意志・判断によって自ら責任を持って行動する態度(=主体性)に恃(たの)んだ自力によって成績を成り立たせるわけではないから、全体の力で一時的には好成績を上げるだろうが、勢いがある間は良しとしても、一進一退の状況となって、その状況を打開するために生徒それぞれが考えてプレーしなければならなくなったとき、自分から考えて主体的にプレーする習慣を持たない場合、力は長続きしないことになる。

 いわば体罰を介在させて能力・技術を伸ばそうとする指導は部員それぞれが主体的に伸ばす力を逆に抑えることになる。

 その場その場の成績だけに拘ると、生徒の主体性に任せるより、自分の指導を押し付ける方法が手っ取り早くなって、それが思うように行かないと、体罰や罵声に頼ることになる。

 結果として体罰や罵声が延々と続くことになるのは現実が教えている。

 以上言ったことは、部活動は勝利を目的とするのではなく、人間形成・社会性形成の教育の一環へと目的を変え、勝利はあくまで結果と見做すということである。

コメント (2)
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