橋下大阪市長の桜宮高体育科入学試験中止は行き過ぎた市権力による教育への不当介入

2013-01-16 11:24:28 | Weblog

 コロコロと言うことが違ってくるご都合主義者橋下徹大阪市長が1月15日記者会見で、部活顧問から体罰受けて自殺した高2男子通学の大阪市立桜宮高の体育科とスポーツ健康科学科の入試を中止するよう、市教委に要請したことを明らかにしたという。

 《大阪・高2自殺:桜宮高体育科入試の中止を要請…橋下市長》毎日jp/2013年01月16日 00時04分)

 〈同校のホームページによると、募集人数は体育科が80人、スポーツ健康科学科が40人を予定。来月13、14日に出願を受け付け、学力検査や運動能力検査などを20、21日に実施。26日に合格発表する予定〉――

 橋下市長(保護者や生徒を含めて体罰を容認する風潮があったと指摘)「一旦流れを断ち切るべきだ。

 学校全体がクラブで勝つことを第一にして、多くの保護者も容認してきた。クラブ活動の在り方を変えるなら保護者や生徒の意識も変わってもらわないといけない。このまま入試をすれば、同じ意識で生徒が入ってくる」――

 そして、「混乱を最小限に抑えるため」として、3月に実施する普通科の入試で募集人数を増やし、体育科などの希望者120人を一旦普通科で受け入れる方針を示したという。

 橋下市長「こんなところでそのまま入試をやったら大阪の恥。入試をやめて、生徒、保護者で考えないと学校なんて良くならない。

 (体罰)禁止と言ってもなくならない。スローガンを唱えるだけでは亡くなった生徒に申し訳ない。(一旦普通科入学の新入生は)普通科から体育科への編入を検討するので我慢してほしい」

 最悪の場合には廃校や体育科の廃止も含めて検討する考えを示したと言う。

 何とまあ、過激な。

 だが、言っていることがデタラメもいいとこである。

 「学校全体がクラブで勝つことを第一にして、多くの保護者も容認してきた。クラブ活動の在り方を変えるなら保護者や生徒の意識も変わってもらわないといけない。このまま入試をすれば、同じ意識で生徒が入ってくる」と言っているが、戦前の日本は国民の中に最初に軍国主義があったのか。国民が突き上げて、国家を軍国主義に走らせたのか。

 そうではあるまい。大日本帝国と称した国家が最初に軍国主義という体制を国民支配の装置とした。国民はその装置に徐々に取り込まれて、自らも軍国主義を体現することになった。「天皇陛下のために、お国のために」と。

 いわば戦前の日本に於いては国民は国家に対して常に従の関係にあった。

 「学校全体がクラブで勝つことを第一」とした勝利至上主義は保護者・生徒が最初に求めたものなのか。

 そうではあるまい。学校が体育科とスポーツ健康科学科を設けた当初から、強豪校となれたわけはなく、運動関係の科を設けたことと様々な運動部を作った手前、生徒獲得の必要上、勝利至上主義へと一歩ずつ踏み出していったのではなかったのか。

 学校は勝利至上主義を満たす手っ取り早い方法として体罰を手段とした。

 結果として保護者・生徒の方から勝利至上主義を学校に求めるようになったとしても、学校自体の勝利至上主義を素地とした相乗作用からの「容認」であって、学校にないものとして勝利至上主義を求めたわけではないはずだ。

 まさか学校が勝利至上主義を否定していたにも関わらず、保護者・生徒の方から体罰を使ってでも部員を強くして試合に勝つようにしてくださいと学校を突き上げ、勝利至上主義に巻き込んでいったということではあるまい。

 戦前の日本国家が軍国主義を素地として国民を軍国主義に巻き込んでいったのに対して日本国民も進んで国家の軍国主義に自らを染めていった構造と同じく、学校と保護者・生徒は学校の勝利至上主義を主とし、保護者・生徒の勝利至上主義を従とする相互対応の構造にあったはずだ。

 保護者・生徒が学校に対してあくまでも従の関係にある以上、体罰教師を処分し、今後の勝利至上主義を否定、部活指導に於ける体罰を厳禁すれば済むことである。何も入試を中止することはない。

 そうすることによって、「クラブ活動の在り方」も変わるし、「保護者や生徒の意識」も否応もなしに変わってくる。

 こういったことで解決できることを入試中止まで打ち出す。市権力による教育への不当介入以外の何ものでもない。

 「入試をやめて、生徒、保護者で考えないと学校なんて良くならない」などと言っているが、新入生を迎えて、新入生の保護者を交え、在校生とその保護者と共に「クラブ活動の在り方」を議論しても、何の障害もないばかりか、より多くの視点からの議論を得ることができるメリットが期待できる。

 入試を中止した場合、新入生とその保護者が存在しない議論は、新入生が中学時代に体罰を受けていたとしたなら尚更、逆に体罰経験者としての彼らの視点を欠いた議論となる損失の危険性が生じる。

 但し桜宮高体育科とスポーツ健康科学科入学希望者の希望を断たないために「普通科から体育科への編入を検討」の措置を取るということであって、そうすることによって新入生とその保護者の視点を欠いた「クラブ活動の在り方」の議論となる損失の危険性をもクリアするということなのだろうが、大体が体育科とスポーツ健康科学科入学希望者が普通科入学試験を行い、合格者は一旦普通科に入学させてから、体育科方面に編入では厳密には入試中止ではない。

 また、編入の手間を掛けるなら、最初から直接入学であってもいいはずだ。直接入学であっても、「クラブ活動の在り方」の議論ができないわけではない。

 全く以って言っていることがデタラメである。「(体罰)禁止と言ってもなくならない」は最たるデタラメ発言であろう。

 自身は散々に体罰容認発言をしてきたのである。体罰を指導の手段としていた部活顧問や教師の中には橋下体罰容認発言を聞いて、「そうだ、俺のやっていることに間違いはない、橋下徹が言っているのだから」とばかりに自身の体罰正当性の再確認を行い、体罰に自信を深めたとしても不思議はない。

 だが、高2男子の体罰自殺によって一人の若者が命を失ってから、体罰容認から体罰否認に転向した。

 「こんなところでそのまま入試をやったら大阪の恥」も意味不明なデタラメ発言である。

 逆に「大阪の恥」になったとしても、試験勉強を一生懸命にやってきた受験生の希望に応えてやろうとするのが首長であるはずだが、正反対の逆を行っている。

 この程度の認識力の持ち主が日本大堺維新の会などといった国政政党の代表代行を務めている。

 橋下市長の入試中止要請に対する教育長の反応。

 長谷川恵一教育委員長「自殺者が出た事実は重いが、(入試まで)ぎりぎりになって子供たちに混乱を生じさせて本当によいのか。しっかり議論する時間がほしい」

 永井哲郎教育長「入試が直前に迫っており、中学3年生は殆ど進路を決めている。影響が大きい」

 橋下徹は自身のその時々の思いで発言するから、入試中止と言いながら、編入だなどと、入試中止にならないことを言って、結果として受験生を不安な思いに駆らせることになった。彼らは答が出るまで、結果を見つめなければならない。

 高校入試という、当事者にとっては人生の試練の途上にある生徒の重大な思いになど、実際は深くは認識していないのだろう。

 市教委は受験生の混乱に懸念を示しながら、1月21日に結論を出すそうだ。橋下徹の言いなりになったなら、橋下徹が組織として「ダメだ」と盛んに攻撃している教育委員会は実際にダメになってしまう。ダメな組織ではないことを示すためにも橋下の要請を撥ねつけるべきだろう。

 「学校全体がクラブで勝つことを第一」としている学校の勝利至上主義の姿勢について、「NHK NEWS WEB」記事では実際に「勝利至上主義」という言葉を直接使って、学校を批判している。
 
 橋下市長「(現在の運動部の活動は)勝利至上主義になってはいないか。スポーツの指導で、手をあげることは非効率で、不合理だ」

 過去の体罰容認発言は忘却の彼方。

 橋下氏は府知事だった当時、大阪府の全国学力テストの成績が全国平均点以下、小・中学校とも1都1道2府43県、47自治体のうち34~45位に低迷。猛り狂って大阪府教育委員会を詰(なじ)った。

 橋下市長「教育委員会には最悪だと言いたい。さんざん『大阪の教育は違う』と言っておきながら、このざまは何なんだ。抜本的に今までのやり方を改めてもらわないと困る」(毎日jp

 府知事就任時から大阪府の「教育日本一」を目指す姿勢を示していたが、「教育日本一」になお拍車をかけることになった。

 学校の勉強だけが唯一の可能性ではない。学校の勉強ができなくても、お笑いタレントとなって、成功した者もたくさんいる。生徒の多様な可能性に応えるのも学校教育であるはずである。

 にも関わらず、学校の成績のみを生徒の可能性と限定して、「教育日本一」を目指す姿勢は学校成績至上主義そのものであって、これを部活の成績に譬えると、勝利至上主義となる。

 両者は同義語の関係にある。自身が成績至上主義を体現して散々に教育委員会の尻を叩きながら、今更ながらに部活の勝利至上主義を批判する。

 これも橋下徹の最たるデタラメの一つであろう。

 入試中止は、例え編入という体裁を取るにしても、高校授業料無償化で北朝鮮に対する懲罰を朝鮮高校生に身代わりに課して無償化対象としなかったように部活顧問の体罰に対する懲罰を新入生にも課すのに似ている。

 橋下徹のここに来ての体罰容認から体罰否認への転向は高2男子体罰自殺をキッカケとして自身の過去の体罰容認発言を消去する目的にも使っているいるように見える。体罰を悪と強調する姿勢を見せることによって転向を確かなものとすることができ、過去の体罰容認発言に免罪符を与えることができる。

 悪とする強調の行き過ぎが受験生のことを考えない入試中止にまで突っ走ってしまったのではないのか。

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする