安倍晋三のあまりにも単細胞・カラッポ頭の学制改革

2013-01-10 11:56:45 | Weblog

 文部科学省が1月8日(2013年)、小中高校、大学を「6・3・3・4」で区切る現行の学制改革に向け、児童生徒や保護者を対象にした全国アンケートを実施することを決めたという記事がある。《6・3・3改革で意識調査 「教育再生」たたき台に 文科省、来年度実施》MSN産経/2013.1.9 08:12)

 平成25年度予算の概算要求に必要経費を盛り込み、同年度内に実施すると書いている。 

 要するに児童生徒や保護者対象の全国アンケートを実施して、現在の「6・3・3・4」学区制の理想的改革の姿を模索しようということなのだろう。

 予定質問項目は――

 1.小1(6歳)から始まる義務教育の前倒し
 2.小中高校の区切りの変更
 3.早期卒業や飛び入学の是非

 ――などだそうだ。

 調査は外部委託。項目の設定や対象人数などの具体的な調査方法は今後検討。予算規模は数千万円。

 記事解説。〈自民党は衆院選の公約に学制改革を掲げており、政府が月内に設置する「教育再生実行会議」も議題に取り上げる見込み。アンケートの結果は議論のたたき台にする方針だ。〉――

 アンケートの結果を議論の叩き台とするということは、公約に掲げた学制改革は中身は決まっていなかったことになる。

 いわば中身を決めないままに、これから決める学制改革を、『63 激動の時代に対応する、新たな教育改革(平成の学制大改革)』と大々的に銘打って『J-ファイル2012 自民党総合政策集』に掲げた。
   
 安倍晋三はなかなかの“心臓”だ。

 但し『政策集』には学制改革については次のように断りを入れている。〈現行の6・3・3・4 制の是非について検討し、子どもの成長に応じた柔軟な教育システムとするため、新時代に対応した「平成の学制大改革」を行います。〉云々と。

 『政策集』でも是非の検討を書いているのだから、何の齟齬もないが、是非の検討の前の段階にあるのだから、いわば是か非か不明の段階にあるのだから、「平成の学制大改革」と銘打つのは時期尚早であるはずだ。

 その根拠の一つが、学校教育を暗記教育で放置したままでは、学制をいじっても大して意味はないからである。

 MITメディアラボの石井裕氏が日経新聞のインタビューに答えて、「同質性が知の創造を阻む」と発言している。《日本の若者たちよ、慣れ親しんだ環境から世界へ出よう》日経電子版/2013/1/9 6:30)

 「同質性」とは暗記教育の成果であるはずだ。文部省の学習指導要領に忠実に従うことから、日本全国ほぼ同じ内容、同じ体裁を取った教科書を使い、教師が伝える教科書からの知識・情報を児童・生徒がほぼそのままに頭に暗記させていくのだから、否応もなしに頭から足の先まで同質性にどっぷりと浸ることになる。

 同質性は教師が伝える知識・情報を児童・生徒が自ら考えて、自分自身の考えへと発展させる独自性とは正反対の極にある。

 いわば独自性を排除することによって、同質性は成り立つ。

 確かに日本の技術は凄い。だが、優れた技術を生み出す頭脳は日本の同質性教育からはみ出した頭脳であるはずである。独自性を排除し、同質性にまみれている頭脳からは新しい技術は生まれない。

 問題は新興国の安価な人件費に対抗して人件費が高騰した成熟した経済社会・民主主義社会が経済の競争力をつけるにはホワイトカラーをも含めた一般労働者の生産性を上げることが重要なポイントとなると言われているが、暗記教育が成果とする同質性教育からでは目に見える生産性の向上は期待できない。

 同質性教育に慣らされた同質的な集団形成は労働の現場で上の指示を一人ひとりが学校の教室でも同じ状況にあるのと同じで、その延長として、皆が皆、指示されたとおりに従って指示された通りの動きをすることには役立っても、そこには指示に従いつつ、それぞれが独自に考えて動き、それぞれの独自性の総合を集団的調和とする選択肢は存在しない。

 同質性はあくまでも内側に向かう力の方向を取るが、独自性は良くても悪くても外に向かう力の方向を取る。外に向かう力の集団的調和こそがエネルギーが爆発する方向性を取り、生産性の向上を招き寄せるはずだ。

 暗記教育=同質性教育に安住したままでは、児童・生徒それぞれの独自性を内包した教育の発展も知識の発展も望むことはできない。

 当然、どのような学制改革であっても、「平成の学制大改革」と銘打とうが打たまいが、是非の検討を行おうが、行わまいが、学制をいじっただけで終わるに違いない。

 安倍教育観でもう一つ問題なのは相変わらず国家主義の体裁を帯びていることである。
 
 〈『J-ファイル2012 自民党総合政策集』

 大学の9月入学を促進し、高校卒業から入学までのギャップターム(半年間)などを活用した大学生の体験活動(国とふるさと、環境を守る仕事、例えば、海外NGO、農業・福祉体験、自衛隊・消防団体験等)の必修化や、学生の体験活動の評価・単位化を行い、企業の採用プロセスに活用します。〉――

 安倍晋三は2006年自由民主党総裁選挙で総裁に選ばれ、首相となったが、官房長官の時から大学9月入学、高校卒業後の4月から大学入学の9月までの5ヶ月間を「例えばボランティア活動やってもらうことも考えていい」と、奉仕活動の義務化を自身の教育政策の一つにしていた。

 だが、国が上から押し付けることの反対意見が強く、また9月入学が決まっていなかったために立ち消えとなった。

 それを再び持ち出して、体験活動の必修化の企みに変えた。

 体験活動のする・しないはあくまでも個人の自由選択に任せるべき事柄であるはずである。それを国の制度で必修化という上からの強制的選択として、評価・単位化する。国家主義そのものの強制であろう。

 暗記教育を栄養分として育った無考えの同質的行動を国家が制度で支配した場合、義務としやすく、「評価・単位化」がなおさらに義務化を促進することになるはずだ。

 評価・単位を得るための義務として行なう体験活動化への道を進むだろうということである。

 自らが考えて自らの自由選択で行なう、国の強制ではない主体的体験活動こそが外に向かう力の方向を取って、独自性ある創造性を広げていき、「知の創造」を育む一助ともなり得る。

 日本の教育を暗記教育で放置しておくことも問題だが、安倍晋三のように国家主義の衣服を纏わせて上からの強制で教育を支配しようとする先走った衝動も、あまりにも単細胞・カラッポ頭としか評価しようがない。

 第一次安倍内閣の教育政策と今回提示の教育政策が殆ど変わっていないことの参考までに――

 2006年12月2日当ブログ記事――《教育再生会議/何が問題となっているのか(1) - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》  
   
 《教育再生会議/何が問題となっているのか(2) - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》

コメント (1)
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