安倍晋三の政治の責任を国民に転嫁した合理的判断能力なき所信表明「終わりに」

2013-01-30 09:19:37 | Weblog

 「お知らせ」

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 昨日のブログでは1月28日の安倍首相の所信表明演説の中から拉致発言を取り上げて、安倍晋三なる政治家が如何に合理的判断能力を欠如させているかを書いた。

 今日は所信表明の最後の発言、「終わりに」を取り上げて、政治の責任を国民に転嫁している判断能力の狂いを指摘してみたいと思う。

 「経済再生」や「震災復興」等々の項目では、あれをやります、これをやりますと勇ましく様々に約束しているが、「終わりに」の責任転嫁はそういった約束を反故にするとまではないかなくても、所信の最後の最後になって自身の約束の覚悟を弱める意思表示となっているはずだ。

 弱めることになっている原因は自身が担う政治に対する自覚が不足しているからで、このような自覚不足も、やはり合理的判断能力を欠如させていることが背景にあるからであろう。

 (おわりに)

 安倍首相「我が国が直面する最大の危機は、日本人が自信を失ってしまったことにあります。確かに、日本経済の状況は深刻であり、今日明日で解決できるような簡単な問題ではありません。

 しかし、『自らの力で成長していこう』という気概を失ってしまっては、個人も、国家も、明るい将来を切り拓くことはできません。芦田元総理は、戦後の焼け野原の中で、『将来はどうなるだろうか』と思い悩む若者たちを諭して、こう言いました。『「どうなるだろうか」と他人に問いかけるのではなく、「我々自身の手によって運命を開拓するほかに道はない」』、と。

 この演説をお聴きの国民一人ひとりへ訴えます。何よりも、自らへの誇りと自信を取り戻そうではありませんか。私たちも、そして日本も、日々、自らの中に眠っている新しい力を見出して、これからも成長していくことができるはずです。今ここにある危機を突破し、未来を切り拓いていく覚悟を共に分かち合おうではありませんか。

 『強い日本』を創るのは、他の誰でもありません。私たち自身です。

 御清聴ありがとうございました」――

 安倍首相は個人の力と政治の力を混同している。「戦後の焼け野原の中で、『将来はどうなるだろうか』と思い悩む若者たち」に向けた芦田元総理の過去の発言「『どうなるだろうか』と他人に問いかけるのではなく、『我々自身の手によって運命を開拓するほかに道はない』」を譬えにして、個々人の「運命を開拓する」自発性、あるいは自力性を「『強い日本』を創る」原動力と見做しているが、芦田発言は個人個人の運命の開拓について言っているに過ぎないのであって、混同も甚だしい。

 もし芦田元総理が、若者たちが国の「将来はどうなるだろうか」と思い悩んでいたことに対してこのようなアドバイスをしたとしたら、安倍晋三と同程度の合理的判断能力の持ち主と言わざるを得ない。

 個人の力の及ぶ範囲と政治の力の及ぶ範囲は自ずと違う。例えばこの不況下でも非常に業績が好調な企業が複数存在する。企業「自身の手によって運命を開拓」した結果の好調な業績だろう。

 だからと言って、日本の経済全体に好調の影響を与えているわけではないのは現実の不況が証明している。「『強い日本』を創る」原動力とまでなっていない。個々の企業の力の及ぶ範囲が限定されるていることの証明でもある。

 低所得の非正規社員やニートが結婚に困難な状況に立たされていながら、「自身の手によって運命を開拓するほかに道はない」と結婚を果たすべくより高収入の正規社員採用を目指しても、正社員の中途求職自体が門戸を閉ざしている現実があり、結果として個人の力ではどうすることもできない変わらない低収入が障害となっている結婚できない現実にしても、同じく変わりがないままにどうしようもなく存在することになる。

 一旦非正規社員に陥ると、一部は正規社員に登用されることはあっても、その多くは正規社員の道が閉ざされている現実は自身の手によって開拓できない運命であって、政治の手による運命の開拓を待つしかないのが現状である。

 だが、非正規社員は年々増えるばかりで、平均所得も減って、政治は力となっていない。

 若い女性が結婚して一人子どもを設けたはいいが、退社を余儀なくされて、子育てが一段落したからと再就職しようとしてもパート程度の仕事しかないといった現実。収入が格段に下がり、子どもは二人ぐらい欲しいと思っていても、一人で諦めざるを得ず、夫の収入と併せて二人の子どもを持つよりも一人の子どもに教育費等の集中投資を行なう方が得策だと人生設計を思い定めたといった夫婦は世の中にゴマンと存在するはずだ。

 子どもを二人三人と産んでも育児の費用が十分に追いつき、子どもの将来に向けた投資も不安がない収入の保証は個人の力の及ばない企業全体の活性化と企業が稼ぎ出した富の所得に向けた再分配に期待するしかなく、その期待実現は政治の役目であって、政治の力を待つしかない。

 だが、第1次安倍内閣時代、小泉時代に引き続いて「戦後最長景気」下にありながら、大企業が軒並み戦後最高益を獲得したのに反してその富の再分配を満足に行わず、個人所得は伸び悩み、当然、個人消費も振るわず、逆に生活格差を拡大させた。

このような社会的不備・経済的不備の積み重ねが存在することとなって、「強い日本」とは程遠い強くない日本となっているはずだ。

 すべては政治の個人に向けた役割を満足に果たさなかった結果である。

 安倍「皆さん。今こそ、額に汗して働けば必ず報われ、未来に夢と希望を抱くことができる、真っ当な社会を築いていこうではありませんか。

 そのためには、日本の未来をおびやかしている数々の危機を何としても突破していかなければなりません」――

 掛け声だけで終わらせている政治の怠慢がつくり出した「真っ当」ではない、個人の力が及ばないこの社会であって、その責任意識もなく、個人の責任であるかのように呼びかけている。

 かくかように個人の役割と政治の役割は自ずと異なる。

 にも関わらず、「『強い日本』を創るのは、他の誰でもありません。私たち自身です」と臆面もなく言う。個人の役割と政治の役割を一緒くたに扱った発想以外の何ものでもなく、一緒くたに扱うこと自体が政治の責任を国民に転嫁する逃げの姿勢となる。

 個人の役割と政治の役割が一緒なら、政治は必要なくなる。当然、政治家も無用の長物と化す。

 個人の役割と政治の役割が違うからこそ、後者の役割の履行を期待して多くの国民は2009年8月の総選挙では民主党に政権と政治を託したのである。だが、期待が裏切られて、今回は自民党に政権と政治を託すことになった。

 だが、託した政党の親分が、個人の役割と政治の役割の違いを自覚もせずに、「『強い日本』を創るのは、他の誰でもありません。私たち自身です」などと言って、政治の責任については一言も触れていない。

 「終わりに」を述べる以上、この項目にこそ、最大限政治の責任に対する強い意志を示してもいいはずだが、示さないままに政治の責任を国民に転嫁する意思表明で終わらせている。

 この程度の合理性もない判断能力しか発揮できない一国のリーダーなら、政権と政治を託した意味を失いかねない。

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