本題に入る前に二つのことを取り上げたいと思う。一つは橋下大阪市長の新たな独裁行為。もう一つは外国の体罰の扱いと比較した日本の体罰の問題点を話題とした、1月16日(2013年)フジテレビ放送「知りたがり!」。
《校長会と橋下市長 入試巡り意見対立》(NHK NEWS WEB/2013年1月17日 18時44分)
大阪市立中学校校長会が1月17日、「受験生の動揺が広がっている」として入試を予定通り行うよう教育委員会に申し入れた。
窪田透大阪市立中学校校長会会長「中学3年生の進路の選択に影響を及ぼすことは認められない」
橋下市長「一番、重要なのは亡くなった生徒のことで、どちらが重要なのか分かっていない。そういう校長は大阪市には要らない。公募でどんどん替えていく。
来年度、桜宮高校の体育教師が残るなら体育教師の人件費の予算は執行しない。
大阪市が高校を抱えるのは危機管理対応能力がなく、もう無理だ。松井知事と市立高校の府への移管を早急に進めていくことで合意した」――
その上で今年4月の人事異動で桜宮高校の体育系クラブの顧問を全員異動させるべきだという考えを示したという。
「そういう校長は大阪市には要らない」という発言にしても、「来年度、桜宮高校の体育教師が残るなら体育教師の人件費の予算は執行しない」という人件費予算を人質に取った体育教師全員退去命令発言にしても、大阪市立高の大阪府移管発言にしても、話し合うということは一切せずに殆ど一人で決めていく自己絶対化からの独裁意志が益々露骨になっている。
何よりも直接的な責任はバスケットボール部顧問が部員に対して体罰を行なっているという情報が2011年9月に学校に寄せられながら、学校側の聞き取り調査に対して部活顧問が否定すると鵜呑みにして、部員なり生徒なりに聞き取り調査を一切行わず、結果として体罰の横行をそのまま許すことになり、防ぐことができた可能性の高い自殺を防ぐことをできなくさせた学校の最終責任者たる校長とバスケットボール部顧問の教師にある。
「一番、重要なのは亡くなった生徒」であるのは当然のことだとしても、だからと言って、受験生はより重要ではないと見做して体育科系入試中止、普通科入試、合格者は後に体育科系に編入では、試験内容も異なるだろうし、受験生にまで責任を拡大する不当な処罰としか言いようがない。
また、市長が市立学校の教師人件費の予算執行権限を握っているとしても、校長会や教育委員会と議論を詰めもせずに自身の一存を押し通そうとするのは、それが正しい考えであったとしても、やはり独裁意志からの強制に他ならないはずだ。
次に1月16日(2013年)フジテレビ放送「知りたがり!」。主なところだけを拾ってみる。
テーマ「なぜ体罰はなくならないのか」
伊藤利尋アナ「世界の目線でみてみると、日本人特有の意識が浮かび上がってきた」
昭和22年施行「学校教育法」第11条の紹介。
「校長及び教員は、教育上必要があると認めるときは、監督庁の定めるところにより、学生、生徒及び児童に懲戒を加えることができる。ただし、体罰を加えることはできない」
法律上は戦後の早い段階から体罰を禁止していながら、体罰が横行している実態を説明。その結果――
伊藤利尋アナ「2007年に具体的に殴る・蹴るはダメですよというガイドラインを文部科学省が示している。だが、禁じているはずの体罰が減っていない」
街の声――
若者「少しはあった方がいい。ただ口で言っているだけでは伝わらない。愛情として、やられる方も受け取るべきだと思います」
30代(?)男性「多少なりとも、そういう教育は必要だと思う。暴力という感じではなくて、昔よく竹刀を持ってお尻を叩かれたりとかね。僕らはスクールウオーズの世代だから。エヘヘヘ・・・」
60代(?)女性「運動なんかやっていると特に。だけど、それがあったから、頑張れるし。ウン。でも、愛情はありました。感じました。歳を取ってみると、初めて、そういうふうな先生の方が凄く思い出も残ってるし――」
街頭アンケート
「賛成」――3
「時と場合による」――62
「反対」――35
「時と場合による」とした街の声をボードで紹介。
67歳男性「水を飲んじゃいけないし、ビンタ、正座、ウサギ跳び・・・・当たり前と思っていた」
37歳女性「『ちょっと来い』と殴られるが、その先生が殴るのは余っ程絶対的な信頼があった」
30代男性「バレーボール時代、殴られたり、竹刀で“ケツバット”。でも、愛情があればいいんじゃないですか」
「反対」の街の声をボードで紹介。
20代女性「殴られた男の子が鼻血を出して、この先生、何をやっているのという。絶対尊敬できないと思った」
以上を「アンケートから見た日本人意識」として紹介。
伊藤利尋アナ「愛のムチだったら、いいんじゃないですかという趣旨の回答が多かった。自分の経験則からなのか」
アテネ五輪・アーチェリー銀メダリスト。
山本博(声の出演)「先生は成功体験から、同じ教育方法を引きずる。子ども、時代が変われば、その時々のいい教育方法を模索し、変わる貪欲さが必要」
ロンドンブーツ田村淳「(体罰の良し悪しは)ケースバイケース。殴られた先生としかメールの遣り取りをしていない。
一口では語れない。学校学校、部活部活であって、俺も殴られた先生と未だにメールで遣り取りするぐらい、その先生としかやり取りしていないから、ルール上、体罰はダメだって言っている以上、体罰はしちゃあいけないけど、やっぱり人間なんて、信頼関係どうやって築くかっていうのが一番大切なんだと――」
信頼関係を築くことができる体罰なら、オーケーということになる。だが、すべての体罰が信頼関係を築くことができるという保証はない。
外国人の街の声――
20代後半(?)ニュージーランド人男性「体罰、反対だね。どんな遣り方でも、許すべきではないよ」
街頭アンケート
「賛成」――7
「時と場合による」――17
「反対」――43
日本人の「時と場合による」――62に対して。
オーストラリア人女性(50代?)「文化の違いなのかしら?でも、私は理解できない」
イギリス人男性(30代後半?)「非常に間違っている。犬の訓練をするわけじゃないんだから」
――世界118カ国で体罰禁止――
体罰反対外国人――
アメリカ人男性(40代後半?)「州によって違います。アメリカの中心部は少し体罰があります。北部は厳しいのでありません」
解説「実はアメリカでは18の州で体罰を認めている。そこでは日本では考えられない厳格なルールがある」
テキサス州アナワック学区の体罰ガイドライン
●体罰を受ける理由を生徒に説明した上で行なうこと
●体罰は校長または校長から指名を受けた人物が行なうこと
●体罰は校長が許可した道具を使うこと
●体罰は他の学校職員が同席のもと、他の生徒の目に触れない場所で行うこと
説明はないが、要するに恣意的に行なうことの厳禁が規定されているということであろう。恣意的体罰の厳禁。
だが、日本では体罰の多くが、あるいは殆どが、試合中だろうが練習中だろうが、人目に触れようが触れまいが恣意的に行われている。
アメリカで一般的に体罰に使用される、“パドル”という、板一枚だけで作った、大きさも同程度の羽子板のような、頭は長方形、握り柄付きの板を紹介。
解説「必ず親の同意が必要になってくる」
体罰に同意しないときに署名して提出する用紙まで用意されているという。その用紙のサンプル。
「体罰に関する承諾書」
「あなたの子どもに体罰を与えたくない場合は、毎年通知が必要です」
2010年8月、アメリカ・テキサス州で行き過ぎた体罰が露見し、それを防ぐために様々なルールが設けられたという。
韓国の体罰規定
男子生徒は臀部
女子生徒は大腿部
1回10発以内
幅1.5センチ 長さ60センチ以内 直線系の木製
禁止事項 障害を負わせてはならない。
使用道具は60センチ長さの木製の線引きみたいな物なのだろうか。
ニュージランドの場合。
体罰を行った場合、教員免許取り消し、最長で5年の懲役。
伊藤利尋アナ「体罰の教育的意味を今考えなくてはならない」(以上、「知りたがり!」から)
番組の結論は、現在大人となっている自分たちも学校に通っていた頃体罰を経験してきて、人間形成に役立ったとして、時と場合に応じて体罰は許されると見ている日本人が大多数となっているが、時代が変わっている以上(少なくとも人権意識は強くなっている)、指導方法も変わらなければならないのではないのかという主張となっている。
この結論がそれ程外れていないとすると、番組も同じく把えていたように日本人の全体的な意識の問題ということなら、大阪市立桜宮高校という一学校の問題ではなく、橋下市長のように一学校の問題と把えて、やれ入試中止だ、途中編入だ、校長・教師総入れ替えだ、体育教師の人件費の予算執行はしないだ、精々大阪市の市立高校全体の問題だと把えて大阪市の市立高は府へ移管だと一人イキリ立っているのは、その一人相撲が蝸牛角上の争いの譬えに似て、滑稽に見えてくる。
では、なぜ殴ったり叩いたり、暴力に近い身体的強制力を用いた体罰を部活指導や授業中の生徒指導に用いるのだろうか。
1月13日(2013年)当ブログ記事――《大阪市立桜宮高校2年生体罰自殺死に見る暗記教育と運動部顧問体罰指導との関係 - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》で、上に位置する教師・部活顧問が体罰を手段として下に位置する生徒・部員に考えさせないで自らの意志・考えを一方的に押し付ける知識・情報の伝達構造が暗記教育の構造と同質だということを書いた。
今回は言語力という点から暗記教育との関連性を考えてみたいと思う。
体罰正当化理由に、「言葉で言って分からない場合は体罰も止むを得ない」、あるいは「言葉が通じない場合は体罰も仕方がない」と主張する者が多い。
言葉で言って分からない・言葉が通じないのではなく、教師や部活顧問が児童・生徒に対して通じさせる言葉・分からせる言葉を持っていないからではないのだろうか。
叱る言葉や注意する言葉は何不自由なく持っている。但し紋切り型の定番の言葉となっている。
教師が児童・生徒に対して、親が子どもに対して、それが男親であっても、女親であっても、叱ったり注意したりする場合、最初に、「バカッ」とか、「何やってるんだ」、「何やってるのよ」といった言葉を浴びせる。そして、「こうするんだろう」とか、「こうしなくちゃ、ダメでしょ」と叱りながら、いきなりそうすべき行為を指示・強制して、子どもが指示・強制どおりに従うと、それで良しとする。
いわば指導は完結する。
そのような指導がなかなかうまく行かないと、言葉が通じないからと、あるいは言葉で言っても分からないからと体罰を用いることになる。
理非を説いて、それがしてはいけない行為だということの説明を児童・生徒に対して、子どもに対して通じる言葉で、分からせることの出来る言葉で行なう習慣を一般的として来たのだろうか。
例えば野球の練習で、キャッチャーが二塁ベースに送球すべきを三塁ベースに送球した場合、監督やコーチは、「バカヤロッー、なぜ二塁に送球しなかったんだ。二塁だったろ、バカヤロー」と怒鳴ることはあっても、二塁に送球した場合と三塁に送球した場合の相手チームに有利な状況を招くことになるフォーメーションに於けるプラスマイナスを説いて、いくら一瞬の判断を要求されるプレーであっても、判断を間違えないようにと注意する例がどれ程あるのだろうか。
暗記教育というのは自分で自分の言葉をつくり出さない教育である。何度でも書いているように教師が教科書に載っている知識・情報をほぼ載っているままに児童・生徒に伝え、児童・生徒も教師が伝えるままに頭に暗記していく教育形式となっている。
児童・生徒の質問にしても、なぜそうなるのですか、よく分からないから、もう少し説明してください程度で、教師から教えられた知識・情報について議論し合うことは皆無に近いはずだ。
議論することで、知識・情報を発展させて、あるいは連鎖的に拡大させて、自分の言葉(=自分の考え)として身につけていくといったことはほぼ経験していないはずだ。
だから、総合学習の時間を設けて、「自ら課題(問題点)を見つけ、自ら考え、主体的に判断して、よりよく問題を解決する資質や能力を育てること」といった主体的学習姿勢を要求しなければならなかった。
総合学習のテーマ達成こそが、自分で自分の言葉をつくり出す契機となる。
自分の言葉は考えることによってつくり出され、そのまま自分自身の言語力として反映されていく。
部活部員にしても、「自ら課題(問題点)を見つけ、自ら考え、主体的に判断して、よりよく問題を解決する資質や能力を育てる」教育に保育園児・幼稚園児の頃から恵まれていたなら、部活顧問の体罰を待たなくても、「自ら課題(問題点)を見つけ、自ら考え、主体的に判断して、よりよく問題を解決する資質や能力」を発揮できていたろうし、部活顧問にしても、このような教育を行なうことを通して学ぶことになる自分の言葉で説明することによって部員の理解を得ることができていたはずだ。
スポーツで成功した選手の多くが、あるいは一つ物事で成功した人間の多くが人を説得させる素晴らしい自分の言葉をそれぞれに持っていることがこのことの証明となる。
彼らが他を指導する場合、体罰は必要だろうか。必要とするのは自分の言葉だけであるはずだ。
彼らは決して自分の言葉・言語力を学校教育で得たのではなく、スポーツ選手として成長していく過程で、あるいは一つ物事を成し遂げていく過程で獲得していったはずだ。
自分の言葉・言語力を身につける絶好の機会となる総合学習は学校・教師に教えるだけの能力がなく、テストの成績低下・学力低下の前に呆気なく敗退して、暗記教育のより強化へと回帰することになった。
体罰自殺のほとぼりが冷め、忘れ去られた頃、自分の言葉を持たない、言語力貧弱な部活顧問や教師は自分の言葉を持たないがゆえに言葉よりも先に手や罵声を出すことになって、再び体罰を手っ取り早い指導の手段として登場させるのではないだろうか。
せめて部活顧問の体罰を根絶させるためには、既に誰かが提唱しているかもしれないが、体罰ではない、言葉を使った徹底的な指導方法の何年の研修、国家試験合格者といった手順の認可制とする方法を考えることができる。
最後に余談になるが、「知りたがり!」は3月で打ち切られるとか、インターネット上で伝えられているが、放送のある日は毎日見ている。年老いたミーハーとしては、なかなか面白い番組だと思うが。