大阪市立桜宮高校2年生体罰自殺死に見る暗記教育と運動部顧問体罰指導との関係

2013-01-09 11:07:19 | Weblog

 部活でバスケットボール部に所属していた大阪市立桜宮高校2年生が先月、12月23日、自宅で首を吊って自殺した。《高校生自殺 警察が教師から事情聞く》NHK NEWS WEB/2013年1月8日 17時26分)

 生徒の部屋には家族への感謝の思いなどを綴っった「遺書」と、自殺数日前に書いた顧問教師(47歳)宛ての手紙が残されていたという。

 手紙には、「キャプテンとして、叩かれるのはつらい、嫌だ」とか、「顧問の教師からいろいろ厳しく指導を受けていた」、「キャプテンという立場が負担になっていた」、「ほかの部員は怒られないが、自分はキャプテンなので怒られる」、「自分はキャプテンを代わるべきなのか」といった内容となっていたという。

 自殺前日の他校との練習試合中に顧問から体罰を受けていて、自宅に戻ってから、「今日もかなり殴られた」と家族に打ち明けたと記事は書いている。

 部活顧問に激しく抗議したい思いは少なくとも持っていたに違いない。だが、その思いが抗議したい激しい憤りにまで高めることはなかったから、顧問教師宛の手紙は投函しなかった。そして数日間悩んだ末に投函することよりも自殺を選択したということなのだろうか。

 だとしたら、生徒は最後の最後に顧問教師に対して何も期待できなかったことになる。教師からは絶望だけしか感じ取ることができなかった。期待できるものが何もなかったから、絶望行為としての自殺を選んだということになる。

 例え一人の生徒からでも、学校教師が期待の対象ではなく、絶望の対象となる教育的意味は悲劇そのもの、逆説そのものである。

 この顧問を巡って一昨年9月、市役所に「体罰を行っている」という情報が寄せられ、学校側が調査したが、顧問は否定したと記事は紹介している。

 要するに部活顧問に対してのみ聞き取りを行い、部員には聞き取りを行わなかったということなのだろう。

 このことは「MSN産経」記事が「生徒聴取せず」と、生徒からの聞き取りを行なっていなかったことを書いている。

 2011年10月の大津中2年イジメ自殺事件でも、自殺後の学校調査でイジメ加害者の生徒からは聞き取りを行なっていない。

 市教委「事実確認は可能な範囲でしたつもりだが、いじめた側にも人権があり、教育的配慮が必要と考えた。『自殺の練習』を問い質せば、当事者の生徒や保護者に『いじめを疑っているのか』と不信感を抱かれるかもしれない、との判断もあった」(YOMIURI ONLINE

 イジメの調査はイジメという事実の存在のみの究明が目的ではなく、イジメに対して学校の危機管理が機能したのか、その態様の究明と同じことを繰返さないための学習方法の究明をも学校の責任上の目的としているのだから、人権配慮や教育的配慮を行った上で、すべての究明にエネルギーを注ぐべきだが、そういった強い姿勢とはなっていないのは責任意識が希薄だからだろう。

 責任意識が希薄だから、当事者の一方しか聞き取りを行わず、その当事者が否定したなら、否定をあっさりと鵜呑みにして、なかったことにする。なかったコトにすることによって責任的立場にある自分たちを安全無事な場所に置くことができる。

 部活顧問のみの聞き取りで、バスケットボール部員に聞き取りをしなかったことについて教育委員会が1月8日の記者会見で弁解している。

 教育委員会は「今回のことを考えれば、当時の学校の調査は不十分だったと言える」

 「不十分だった」ことが一人の若者を死に至らしめることになった。その責任を痛感しているのだろうか。十分であったなら、死なせずに済んだ生命(いのち)であった可能性は捨て切れない。

 警察が生徒の自殺直後に部活顧問から事情を聞いている。

 部活顧問「男子生徒はキャプテンだったので、私が直接指導する機会が多かった。厳しい指導はしていた」

 部活顧問が言う「厳しい指導」とは、自殺した生徒が言う「叩かれる」という行為――体罰なのは断るまでもない。

 部活顧問が「男子生徒はキャプテンだったので、私が直接指導する機会が多かった。厳しい指導はしていた」のに対して自殺生徒は、「キャプテンとして、叩かれるのはつらい、嫌だ」、「ほかの部員は怒られないが、自分はキャプテンなので怒られる」と手紙に書いていることから窺うことができる両者の関係は部活顧問が男子生徒がキャプテンだからという理由でチームの全体責任を取らせていたということであろう。

 逆に男子生徒はチームの全体責任を取らされていた関係にあった。

 当然、彼に体罰は集中することになる。

 部活顧問は教育委員会の調査に対しては複数の部員に対する複数回の体罰を認めたという。

 部活顧問「実力があるのに、試合で力が発揮できないとき、生徒の気持ちを発奮させるために、体罰的な指導をしてしまった」

 ところがこの部活顧問はコーチとして優秀な指導者だったと記事は書いている。

 〈バスケットボール部の顧問として、平成15年に全国高校総体初出場に導いたのを始め、これまでに合わせて8回の全国大会に出場する強豪校に育て上げました。〉――

 〈顧問はこれまでの実績が認められ、16歳以下の日本代表のアシスタントコーチに去年初めて選ばれました。〉――

 〈顧問は、年末から今月8日までドイツへの強化合宿に参加する予定でしたが、参加を辞退していたということです。〉――

 厳しく指導して成績を上げた結果だそうだが、部活顧問が「実力があるのに、試合で力が発揮できないとき、生徒の気持ちを発奮させるために、体罰的な指導をしてしまった」と言っているように部員がボールを奪われたり、シュートに失敗したり、相手のシュートを簡単に許したりして試合でチームが負けたりしたら体罰を加える指導で成績を上げていったということなのだろうが、そうであるにも関わらず、生徒思いという評価も受けていたという。

 要するに体罰を用いた指導であっても、優秀な成績を上げて強豪校として全国的に名を馳せ、優秀な指導者としての地位を獲得、生徒思いという評価も受けていたという事実からして、少なくとも部活周囲では体罰が許されていた構図となっていたことになる。

 当然、体罰指導は慣習化していた。体罰は体罰として存在していたのではなく、熱血指導とでも翻訳されて慣習化していた。

 但しこのような慣習化は部員の誰かが重大な怪我をしたり、死亡事故、あるいは今回のような体罰を苦とした自殺が起きて初めて、問題視され、熱血指導という仮面が剥がされ、体罰として浮上することになる。

 何も起こらなければ、問題視されないで、熱血指導とでも翻訳された体罰ではない体罰の慣習は続いたはずだ。

 記事も指導と体罰の線引の難しさを書いている。以下参考までに。

 “指導と体罰”難しい線引き

教師が児童・生徒を指導する際に殴る、蹴るなど肉体的な苦痛を与える「体罰」を行うことは、学校教育法で禁止されています。

しかし、教育的な指導と体罰との間の線引きは難しく、教師への暴力が深刻化したり、いじめが背景にあるとみられる子どもの自殺などが相次いだりしたことから、文部科学省は平成19年、教師が子どもの問題行動にきぜんとした指導ができるよう、体罰に関する考え方を初めて示しました。

それによりますと、問題を起こす子どもに対し、殴る、蹴る、長時間正座をさせるといった肉体的な苦痛を与える行為は体罰だとして、これまでどおり禁止とする一方、子ども一人一人の心身の発達状況に十分配慮をしたうえであれば、物理的な力を伴う指導が認められることもあるとしています。

さらに、放課後教室に残すことや、授業中に教室内に立たせること、掃除当番を多くさせるなどの物理的な力を含まない指導は、体罰に当たらないとしています。

文部科学省は、大阪市の教育委員会から情報収集を行い、学校の対応に問題がなかったか調べることにしています。 

 だが、何よりも問題なのは熱血指導と名付けようが名付けまいが、犬を棒で叩いて飼い主の思い通りの訓練を施すように、例え未成年であっても一個の人格を有した、部活顧問とは別人格の個人に対して相手を叩く身体的強制力で以って学校教師が生徒の意思を自身の思い通りに忠実に従わせようとする権威性である。

 生徒の人格を乗っ取って、そこに部活顧問自身の人格を刷り込もうとする行為である。

 当然、生徒の主体性は存在させないことになる。生徒の主体性を認めないことによって成り立つ権威性である。生徒の主体性を殺すことによって、人格の抹殺も可能となる。

 生徒の主体性を殺して部活顧問の意思を強制的に刷り込むことで、顧問の意思の忠実な操り人形とすることができる。

 部員たちが部活顧問の思い通りの忠実な操り人形となって試合で高成績を収めたとき、顧問は満足する。満足したとき、きっと最大限の生徒思いの感情を発揮するのだろう。

 こういった部活顧問対部員の関係は暗記教育の構造とも重なる。生徒は教師が教科書に則って伝える知識・情報をそのままの形で受け止め、頭に暗記する。

 そこには生徒自らが考え、判断して教師が伝える知識・情報を取捨選択し、自身の知識・情報も加えて自身の世界を広げるという生徒自身の主体性は存在しない。存在しないことによって可能となる暗記教育である。

 もし保育園・幼稚園の時代からそれぞれの主体性を重んじる教育がなされていたなら、口頭による技術的な指導は受けることはあっても、身体的強制力を用いた生徒の主体性を認めない体罰指導は、特に高校生にまで成長し、その成長に応じた主体性を育てているはずの生徒に行なうことは許されないはずだ。

 主体性そのものが反発するだろうからである。

 主体性には人格がかかっている。傷つけられた人格は黙ってはいまい。

 だが、幼い頃からの暗記教育によって、多くの生徒が主体性を未熟な状態にしたままでいる。当然、人格も未熟な状態にある。体罰はそこに突け込む。

 我慢できない生徒が自殺に追い込まれたり、逆に教師に暴力を振るったりする。

 要は件の部活顧問は例え試合に負けても、成績が悪くても、生徒それぞれの主体性を尊重し、生徒にすべてを任せる指導ができる程に成長した人間ではなったということであろう。

 生徒の主体性に任せることによって、生徒は人間として、あるいはスポーツマンとして成長していく。

 対して身体的強制力を用いた体罰指導は主体性を欠いた従属的人間を育てるだけである。

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