大阪市立桜宮高バスケボール部顧問は日常的に体罰を行なっていた。
バスケボール部顧問「強い部にするには体罰は必要。叩くことで良い方向に向かう生徒もいる(asahi.com)
いわばバスケットボール部の成績を上げるために体罰を常用していた。
あなたの言っていることは素晴らしい。
だが、体罰を常用しなければ良い成績を上げることができない、強いチームになれないという状況は部活顧問によるチーム采配が当たり前の指導では正常に機能しなかったということであろう。薬物を常用しなければ、ハイになれない状況に等しい。
お笑い芸人のさんまは薬物を常用しなくても、常にハイな状況にある。
部活顧問は口頭による、あるいは身体の動きを用いた技術指導では思い通りの成績を上げることができなかった。
何のことはない、部活顧問の指導能力の問題であり、指導の質の問題であるはずだ。
そこで体罰を常用して、成績を上げる。
だが、体罰を常用されて伸びる部員の能力とは何を意味するのだろうか。殴られなければ、ピリッとできない、あるいは発奮できない、あるいはモチベーションを高めることができない、あるいは技術的正確さを発揮できない。
部員の側にとっても、少なくとも体罰の効用を認めている部員にとっては体罰は自分たちをハイにする薬物同然の効能があると見ていることになる。
そこに理性や合理性の存在を認めることができるだろうか。
部活顧問は部員それぞれの主体性に期待せずに体罰に期待していたことになる。主体性だけでは良い成績を上げることはできないからと。
部員側からしたら、自らの主体性に恃(たの)むことができずに体罰に恃(たの)んでいたことになる。
中には体罰の効用を頭から信じて、主体性を抜きに体罰に恃み切っていた部員も存在したはずだ。部活顧問は極めて内発的な主体性を体罰という外発的な身体的強制力に置き換えて部員の行動力とし、部員は自らの行動力としていた。
両者のこのような精神構造のどこに正当性を置いたならいいのだろうか。
「叩くことで良い方向に向かう生徒もいる」と言っているが、口頭によるアドバイスや注意の類によってではなく、叩かれて「良い方向に向かう」主体性とは、事実良い方向に向かったとしても、従属であったことから免れることはできない。
当然、それが従属的主体性であって、能動的でない以上、良い方向に向かったとしても、限定的な成果しか期待できないはずだ。
とう見ても、体罰正当化の口実、虚構の効用に過ぎない疑いが濃い。
人間をハイにする薬物は一過性の効果しかない。持続性を持たないから、再びハイな高揚感を手に入れるためには、醒めるたびに服用を繰返さなければならなくなる。結果、常用することになり、常習者という有難い名称を頂くことになる。
体罰にしても常用していた以上、一過性の効果しかなかったことを物語っている。体罰を与えたときだけ、よりよく力を発揮した。それが過ぎると、力を発揮しなくなり、再び体罰を用いる。このようなことを以って、体罰の常用と言うはずだ。
一過性とは、体罰が部員の肉となり、血となることはなかったことを意味する。
体罰を繰返し常用することによって、一過性を補い、持続性の代用としていた。
その成果が複数回のインターハイ出場獲得、全国バスケットボール選抜優勝大会ウインターカップ出場獲得ということになる。
果たして名誉な成果と言えるのだろうか。体罰の常用を介在させなければ獲得できなかった成果である。
かつて体罰を介在させて志気を高めていた組織が存在していた。正確には志気ではなく、戦意である。旧日本軍のことであるが、新たな装いとして組織された現在の軍隊、自衛隊でも時折体罰やイジメが露見する。
大日本帝国軍隊は天皇の軍隊であった。天皇の軍隊であったことから、軍という組織単位に於いて天皇の絶対的権威を体現していた。個人的行動に於いても、上官になる程、天皇の絶対的権威を色濃く体現していた。
上官が天皇の絶対的権威を表現せずして、軍隊そのものが天皇の絶対的権威を体現しようがない。国も組織も人によって成り立つ。
上官が天皇の絶対的権威をより色濃く体現していることから、上官の命令は絶対という服従のルールが存在することになる。絶対服従が崩れた場合、上官が体現している天皇の絶対的権威そのものが崩れることになる。
上官の命令は絶対という服従のルールが存在しながら、旧軍隊では海軍に於いても陸軍に於いても下級兵士に対する体罰が日常的に横行していた。
上官の絶対的命令は下級兵士に対して体罰の常用を併用しなければ機能しなかったということである。
体罰常用の併用なくして機能しない上官の絶対的命令とは口頭ではその絶対性を表現できないことを意味する。体罰によって初めて絶対性を機能させることができた。
だが、その体罰の効用は一時的であるために体罰は日常化し、常態化した。あるいは恒常化した。体罰の常用である。
旧日本軍の体罰のように激しくはなかったとしても、大阪市立桜宮高校バスケットボール部部活顧問の体罰の常用は基本的には同じ構造を取っている。
旧日本軍兵士にしても、桜宮バスケットボール部員にしても、体罰を抜きにした場合、両者の力そのもの、能力そのものが一過性であった、あるいは一時的発揮にとどまったことを物語ることになる。
確かに旧日本軍は戦闘に於いて勇猛果敢であった。だが、それは上官の日常的な体罰によって上官の命令は絶対であることを叩き込まれたり、あるべき兵士の姿を戦陣訓の「生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」等の外発的な精神的強圧によって叩き込まれたりして生じることとなったそれら外発性が強力に働いている磁場では、あるいはそのような外発性の目が届いている場では勢いよく戦うしか選択肢がなかったことからの戦闘能力であって、それが戦闘期間中持続したものの実際は一過性であったことは「生きて虜囚の辱を受けず」に反して捕虜となったとき、いわば体罰や精神的強圧の磁場から解き放たれたとき、アメリカ軍の尋問に対してルース・ベネディクトはその著『菊と刀』で、「西洋の兵士たちと異なり、日本の俘虜たちは、捕らえられた場合にどういうことを言うべきか、また、どういうことについて沈黙を守るべきか、ということを教えられていなかった。それで色々な問題に関する彼らの返答は著しく統制を欠いたものであった」と書いているが、例え身動きできない程に重症を負っていて捕らえられた意図しない捕虜の身であったとしても、尋問を受ける程に回復していた以上、「生きて虜囚の辱を受けず」の教えは機能させていいはずだが、多くが機能させていなかったのは体罰や「生きて虜囚の辱を受けず」等々の精神的強圧の磁場の外に自身を置いていたからで、「著しく統制を欠いた」証言を行った、何でもかんでも思いついたことを喋ったということなのだろう。
要するに体罰によって叩き込まれたり、外発的な精神的強圧によって刷り込まれた教えを有効としなければならない磁場の内側に位置するときは、兵士たちの行動性は軍隊が望んでいたとおりの反応を示したが、その磁場から解き放たれて外に位置した途端、軍隊が望んでいたとおりの秩序立った反応を示すことができなかった。
そこでは体罰も戦陣訓も有効性を失っていたということである。両者共に一過性であったことの証明であろう。自分で判断して行動しなければならない肝心なときに兵士たちの血や肉となって根付いていなかったために秩序を失った。
特に体罰は常用化することによって日常的な軍隊訓練でも一過性の効用しかなかった。
体罰を常用した教えは決して血や肉となって根付かないこと、長続きしないことをそろそろ知るべき時が来ているはずだ。
確かアメリカ人女性スポーツ選手だったと思うが、「日本のスポーツ選手は練習がハード過ぎて、選手生命を自分から短くしている」といったことを話していた。
欧米のスポーツ選手は自身の練習スケジュールをコーチと相談して決める。だが、日本人スポーツ選手は、特にアマの選手のうち、無名の間はコーチが決めたハードなスケジュールに従ってハードなトレーニングを自らに課し、例え世界的大会で優秀な成績を収めたとしても、その多くが短い選手生命を代償とする。
短い選手生命を結果とするハードなスケジュールに基づいた過ぎたるハードなトレーニングも選手生命の長期化を阻害するという意味に於いて一種の体罰と言えるはずだ。そのトレーニンが選手の血となり肉となって心身に着実に根付いていったなら、逆に選手生命を長くしていっていいはずだからだ。
部員の主体性に恃んだ指導こそ、その指導が一過性に終わらずに血や肉として根付き、主体性に期待することによって、例えチームの成績が上がらなくても、部員たちの人間形成に役立つのだということを学ぶべきである。