橋下徹大阪市長の独裁意志も露わな入試中止、校長・教師総入れ替えは論理矛盾

2013-01-17 11:15:35 | Weblog

 橋下大阪市長が1月15日記者会見で明らかにした大阪市立桜宮高校体育科系の突然の入試中止要請にしても、一方的過ぎるところに既に独裁意志が現れているところに持ってきて、その翌日の1月16日に市教委に対して普通科入試実施の最低条件に校長・教員の総入れ替えを一方的に求める独裁意志を露わにした。

 独裁は常に自己を絶対とするところから始まる。自己の絶対性を他に強制したとき、独裁が現れる。自己絶対の他に対する強制が存在しないところに独裁は生じない。

 自己絶対化の強制による独裁は相手の納得と承諾というプロセスを経ない、あるいは例えプロセスを経たとしても、そういったプロセスを強圧によって無力化するゆえに納得と承諾は形骸化、あるいは儀式化した意味のない議論と化す。

 もし大阪市教育委員会が橋下徹の要請を言いなりに受け入れたとき、橋下徹の独裁意志が完成することになる。

 かつて橋下徹は体罰容認論者として自己を絶対化していた。体罰容認の立場から様々に情報発信してきたことが自己絶対化を証明している。

 だが、橋下徹は独裁によってではなく、条例によって体罰行使を「有形力行使」という形で正当化すべく図った。大阪維新の会が2011年9月に大阪府議会に提出した「大阪府教育基本条例案」は、「児童生徒に対する懲戒」を次のように定めていた。

 「第47条 校長、副校長及び教員は、教育上必要があるときは、必要最小限の有形力を行使して、児童生徒に学校教育法第11条に定める懲戒を加えることができる。但し、体罰を加えることはできない。

 2 府教育委員会は、前項の運用上の基準を定めなければならない」――

 体罰を禁止し、有形力行使の運用基準を定めるとしているが、維新の会の親分自体が体罰容認衝動を抱えていた関係からして、有形力行使にもその衝動を潜ませていたはずだ。

 ただ、あからさまに体罰容認を求めたら、社会の反発が強いことが分かっていたから、一歩下がって「有形力」とした。 

 実際にも「有形力行使」であっても反対意見が多く、採決に至らなかった。府議会に於ける納得と承諾のプロセスで撥ねられたということである。

 強制的にそこを無力化する独裁は民主主義国日本に於いて許されていない。

 そして桜宮高2男子体罰自殺事件を受けて、体罰容認から体罰否認へと転向した。体罰容認の自己絶対化を自ら崩した。

 体罰容認の自己絶対化が絶対でなかったことを証明していながら、懲りもせずに今度は体罰否認を自己絶対化し、市教育委員会に対して自己絶対化の強制を謀ろうとしている。

 独裁意志の現れである。

 だが、そこに論理矛盾が存在する。

 前日のブログに用いたが、1月15日記者会見。

 橋下市長「学校全体がクラブで勝つことを第一にして、多くの保護者も容認してきた。クラブ活動の在り方を変えるなら保護者や生徒の意識も変わってもらわないといけない。このまま入試をすれば、同じ意識で生徒が入ってくる」――

 市教委に対して桜宮高体育科とスポーツ健康科学科の入試中止を要請、最悪の場合には廃校や体育科の廃止も含めて検討する考えを示した。

 「学校全体がクラブで勝つことを第一にして、多くの保護者も容認してきた」と言うことは、「生徒や保護者の意識の積み重ねでできた伝統を断ち切るために入試を中止すべきだ」(MSN産経)とも発言していることから、体罰を用いた勝利至上主義は学校全体の体質であって、そうである以上、学校共々保護者や生徒が加担してつくり上げた同罪の体質だと把えている発言となる。

 いわば橋下徹の体罰否認姿勢からの体罰に対する攻撃は体罰の行使者そのものに向かうことを超えて、保護者や生徒をも巻き込み、学校全体に向けている。

 同罪だとしていることと最悪の場合は廃校や体育科の廃止という考えは、同罪だからこそ在校生とその保護者に対する懲罰とすることができるという点で整合性を得るが、入試中止は在校生とその保護者に関係なく、受験生とその保護者に関係することであって、どこにも整合性を見つけることができない。

 まさに論理矛盾である。

 そして1月16日、市教委に対して普通科入試実施の最低条件として校長・教員の総入れ替えをメールで求めた。《橋下市長“全教員の異動を”》NHK NEWS WEB/2013年1月16日 17時47分)

 橋下市長「お茶を濁すような人事は、だめだと思う。校長や教員の総入れ替えは最低条件で、人事権を適切に行使してほしい」

 大阪市教育委員会(NHKの取材に対し)「現実的にその対応は非常に厳しい。教育委員会として何らかの答えを出さなければならず、対応を検討したい」――

 《【桜宮高2自殺】橋下市長、普通科入試も「校長や教員の総入れ替え」が条件 市教委に要請》MSN産経/2013.1.16 21:28)

 橋下市長「桜宮高校普通科の入試を継続するにしても、校長や教員の総入れ替えは最低条件だと思います。そこまでの人事をやって、やっと普通科入試はギリギリOK。

 適切な人事権の行使をやってください。茶を濁すような人事はダメ」

 市教委幹部「生徒指導の継続性の点から、総入れ替えは支障が大きい」――

 同1月16日記者会見。《【桜宮高2自殺】「完全に違う桜宮高校として再生したとき、生徒を迎えるべき」橋下市長、入試中止の姿勢崩さず》MSN産経/2013.1.16 23:17)

 橋下市長「生徒が死んだ。越えてはいけない一線を越えたから、高校の伝統を断ち切る。

 (受験生への影響を懸念する声に対して)同校は生徒を預かる場所ではない。僕は受験生のことを考えて判断した。

 同じ校名でも、完全に違う桜宮高校として再生したとき、生徒を新しく迎えるべきだ」

 校長・教員の総入れ替えにしても、桜宮高校再生論にしても、自身の一存を強制しようとする独裁意志を露わにしている。 

 高2男子自殺までは体罰容認論者でありながら、自殺を境にして、生徒や保護者、体罰行使の部活顧問を除いた他の教師といった周囲が容認した体罰体質・勝利至上主義体質だからといって、こうまでも学校全体に攻撃を加えてまで体罰否認の姿勢を見せるのはなぜなのだろう。

 だが、在校生とその保護者も同罪とする以上、校長・教師総入れ替えのみで在校生の総入れ替えを加えない桜宮高校再生は論理矛盾を来すことになる。

 在校生のみを残したなら、同罪だとしている以上、在校生にしても体罰指導と体罰指導による勝利至上主義を体質として身に沁みつかせているはずだから、普通科入学を経て体育科系への編入を果たした新入生に対して在校上級生が体質としている体罰指導と体罰指導による勝利至上主義を伝統と文化として植えつけない保証はない。

 在校生の総入れ替えまでまでやってこそ、あるいは在校生総入れ替えの懲罰をその保護者にも味わわせてこそ、同罪だとしていることに反する論理矛盾を避けることができるばかりか、学校が伝統し、文化とするに至っている体罰指導と体罰指導による勝利至上主義に対する否認の姿勢・断罪は徹底できるはずだが、中後半端にも、そうはなっていない。

 過去の体罰容認発言に反省を見せてはいるが、人間は往々にして過去の過ちを消去したいがために現在の自分に於いて過剰に正義を演じて過去と現在を差し引きゼロか、ゼロを超えて現在を余りあるプラスにしたい欲求に駆られるものだが、そのような欲求から出た体罰否認の強気の態度としか見えない。

 だが、自分の一存にのみ立った強気一点張りの要請は、要請の形を取っているものの、自己絶対化による強制以外の何ものでもなく、そこに露わな独裁意志を嗅ぎ取ったとしても、不思議はあるまい。

 元々人間的に独裁意志の強い政治家である。

コメント (1)
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