橋下徹大阪市長が1月12日(2013年)午後、大阪市立桜宮高校中2体罰自殺の遺族宅を訪れ、「命を奪ってしまったことに釈明の余地はなく、すべて行政側の責任です」と謝罪した上、自身の過去の体罰容認発言の認識の甘さを反省したそうだ。
《橋下市長が遺族に謝罪“行政の責任”》(NHK NEWS WEB/2013年1月12日 19時19分)
遺族宅訪問後、記者団に経緯を報告。
遺族「今回のことをきっかけに、学校現場や保護者が『スポーツの指導ではある程度の体罰は必要だ』という意識を改めてほしい」
橋下市長(男子生徒の遺書を遺族から見せて貰ったことを明らかにして)「生徒は相当追い込まれていて辛かっただろう。最後の言葉をつづっている姿を想像するだけでも耐えられない。
私自身もスポーツの指導で手をあげることはあり得るという認識があったが甘かった。『スポーツの指導で手をあげることは全く意味がない』という専門家の意見に触れて、正していくべきではないかと感じている」――
要するに過去に於いては体罰を容認する考えであったが、今回の事件を受けたスポーツ指導者の意見に触れて考えを改めた。
と言うことは、自身の内面から発した体罰否認ではなく、他者意見に影響された体罰否認ということになる。
安倍政権が長期化して、その自信から独裁的になり、教育に於ける生徒指導に“強制”は必要であると正当化したとき、安倍晋三を尊敬している橋下徹にしても、再び体罰容認派へと変心する危険性が懸念される。
次の記事も橋下市長の体罰に関わる認識の甘さ発言を取り上げている。《橋下市長、遺族に謝罪 高2自殺、体罰「認識甘すぎた」》(asahi.com/2013年1月13日2時5分)
記事――〈橋下市長は「口で言って聞かなければ手を出すときもある」などと発言してきたが、両親と兄との2時間以上の面会後、「自分の認識は甘すぎた」と述べた。 〉云々――
橋下市長「顧問と生徒は絶対的な上下関係。そういう状況の中で厳しい指導を認めると、こういうことになってしまう。むしろ厳格に暴力は排除しなければ」――
橋下徹は「顧問と生徒は絶対的な上下関係」であること自体が間違いであることに気づいていない。「絶対的な上下関係」となっていること自体が上に位置する教師のすべてを絶対正義・絶対善とする上下の権威主義的な力関係を築くことになる。
役目上は上下の位置関係にあるが、意見を言い合うという点に於いて、いわば相互の主体性に関して、対等な関係でなければならない。忌憚なく意見を言い合う。
忌憚なく意見を言い合うことによって顧問も部員の生徒から学び、部員の生徒も顧問から多くを学ぶ。
ただ単に殴る体罰から、何を学ぶと言うのだろうか。
部員にしても人格を有した一個の人間であるのだから。その人格を尊重しなければならない。「絶対的な上下関係」は下からの意見を抑圧する。この抑圧は下の人格を認めないことによって可能となる。
下に置かれ、抑圧された主体性が、あるいは抑圧された人格が真の十全な力を発揮するだろうか。自らの人格を許された主体性に恃まなければ、十全な力の発揮は望むことはできないはずだ。
教師対生徒の「絶対的な上下関係」は教師の人格のみ、あるいは教師の主体性を絶対として、生徒の人格、あるいは生徒の主体性の否定以外の何ものでもない。
体罰をなくすためには先ずは顧問対部員の、あるいは教師対生徒の「絶対的な上下関係」の抹消から始めなければならないという認識がなければ、体罰はなかなかなくならない。
単に禁止されているから、体罰はできないといった規則の問題で終わることになって、部員、あるいは生徒の人間形成の面からの体罰の是非に進むことはない。
元巨人の桑田真澄が少年野球時代から自身の周囲でも横行していた体罰に否定的意見を述べているが、その意見を読むと、体罰を反面教師として野球人生を歩んできたことが分かる。
彼は常に自らの主体性を維持してきた。主体性を維持することによって、人間である以上、そのすべてを絶対とすることはできないが、兎に角も自らの人格を形成していった。
主体性を抜きにして、人間形成は不可能である。
【主体性】「自分の意志・判断によって、みずから責任をもって行動する態度のあること」(『大辞林』三省堂)
要するに自分の判断で動け、他人の判断で動くなということである。そうすることによって主体性が確保でき、自らの人格を守ることができる。他者に許されるのは精々アドバイスまでだろう。アドバイスを受けてもなお、満足な動きをすることができなかったなら、本人の主体性か能力の問題となる。
本人の主体性か能力といった自発的問題を上の人間が他発的に殴って思い通りにしようするのは、それが能力の問題であるなら論外であって、主体性の問題であるなら、逆にそれを抑圧することになる。
もし殴って言いなりになるとしたら、体罰そのものが相手の主体性の否定を力学としているのだから、極めて未熟な主体性と言わざるを得ない。年齢相応に育っていない未熟な主体性に対して体罰が一時的に効果があっても、体罰が動かした従属性でしかなく、当然、長期的な持続性は望むべくもない。
殴られて育つ主体性は逆説そのものである。
橋下徹はテレビの番組に出演して以来、彼の発する発言は大きな影響力を持つようになった。多くの人間を動かす強力な情報発信力を得た。
その発信力が2008年大阪府知事選で新人候補ながら対立候補に80万票の大差をつけた初当選を保証したはずだ。
選挙戦中のテレビの露出の多さも他候補と比較して群を抜いていた。
発信力の絶大性の証明は大阪府知事選ばかりではなく、1944年4月14日発生の、いわゆる「光市母子殺害事件」の裁判中の弁護団に対する攻撃に於いても見ることができる。
1審、山口地方裁判所、無期懲役、2審、広島高等裁判所、検察控訴棄却。
検察、最高裁に上告。最高裁、高裁に差戻し。
高裁第2回公判で被告人、「赤ちゃんを抱くお母さんに甘えたいという衝動に駆られた。背後から抱きついたが、性的なものは期待していなかった」と当初の殺意と強姦目的を否認。
2008年4月22日高裁、死刑判決。
弁護側、最高裁に判決を不服として上告。最高裁は差戻し二審判決を支持して被告人の上告を棄却。2012年3月14日、死刑確定。
橋下徹は高裁第2回公判で被告人が、「赤ちゃんを抱くお母さんに甘えたいという衝動に駆られた。背後から抱きついたが、性的なものは期待していなかった」と当初の殺意と強姦目的を否認したのは弁護団の誘導によるヤラセだと憤激、2007年5月27日テレビ番組『たかじんのそこまで言って委員会』で、視聴者に対して弁護団懲戒の教唆呼びかけを行った。
橋下徹「あの弁護団に対してもし許せないと思うんだったら、一斉に弁護士会に対して懲戒請求をかけてもらいたいんですよ。
何万何十万という形で、あの21人の弁護士の懲戒請求を立てて貰いたいんですよ」(Wikipedia)
この呼びかけに応じたテレビ視聴者が、口コミによる情報共有者も存在したに違いない、インターネット等で、「懲戒請求書の記載の仕方」を情報取得し、2006年度中の全弁護士会に対する懲戒請求総数の6倍以上の懲戒請求書約7558通が光市母子殺害事件弁護団に届いたという。
裁判に直接関わった人間以外は一般的には一般人に馴染みが薄いはずの懲戒請求であるはずである。それが一つの弁護団に対して2006年度中の全弁護士会に対する懲戒請求総数の6倍以上の約7558通も届いた。
橋下徹の情報発信力がどれ程に強力であるかをこの一事が物の見事に物語っている。
だが、弁護団が弁護している被告人の利益のためだとの口実のもと、証言を事実に反してどう誘導しようとも、弁護人の誰もがやることだが、その妥当性・正否を最終的に判断するのは裁判官である。
弁護団が誘導した被告人の証言に添った判決を下したとしても、裁判官の問題である。橋下徹の弁護団糾弾はお門違いそのものである。
だとしても、2007年5月27日テレビ番組『たかじんのそこまで言って委員会』での彼の情報発信力の視聴者に対する絶大な影響力を考えた場合、過去の体罰容認発言が世の体罰教師たちに自らの体罰に対して正当性を与える影響力を発揮しなかったと断言できるだろうか。
2008年10月27日の堺市内での府民討論会「大阪の教育を考える」での発言。
このことは当ブログ記事――《橋本知事体罰容認発言/体罰は有効な教育足り得るのか - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》に書いた。
橋下大阪府知事「言っても聞かない子には手が出ても仕方がない。どこまで認めるかは地域や家庭とのコンセンサス(合意)次第だ」
「地域や家庭とのコンセンサス(合意)」を条件としているが、橋下徹自身は体罰容認を内面的衝動としていることに変りはない。
地域や家庭の合意と橋下自身の内面的な体罰容認の関係を、文科省も世間一般も(あくまでも世間一般であって、体罰を歓迎する親も一部存在する)体罰を否定していながら、その否定の傾向に反して一部で体罰が横行している状況から考えた場合、「地域や家庭とのコンセンサス(合意)」を条件としていること自体が体罰容認発言を批判されないための単なる口実でしかなく、あくまでも自らの体罰容認の衝動に陽の目を与えて、体罰を社会的に正当化したい発言と見るべきだろう。
このような体罰容認の衝動を抱えていた以上、他にも様々な機会を捉えて体罰容認の発言をしていたはずだが、このような体罰容認発言、体罰容認衝動がその強力な情報発信力を伴って世の体罰教師に体罰の正当性を与えていなかったとは決して言えまい。
いわば体罰を助長する情報発信となっていた疑いである。
桜宮高のバスケットボール部顧問自身は直接的にその情報発信の影響を受けていなかったとしても、体罰容認の勢力が有名人が所属する上層社会に存在していたこと自体が、情報発信力を有していることと相まって体罰否認の世の風潮に抵抗の棹(さお)を差すこととなって、桜宮高の部顧問たちの体罰に直接・間接に反動的な影響を与えていなかった保証はない。
このような見方からすると、当然、自殺自体にも何らかの関連を見ないわけにはいかない。
少なくともその情報発信力を考えた場合、過去に体罰容認発言があったが、「認識が甘かった」だけでは済む問題ではないことだけは確かだ。